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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

誇る者は主を誇れ

コリント人への手紙シリーズ4

コリント人への第一の手紙1章22節〜2章5節

(2025年11月9日)

コリント教会にあった分派分裂の問題に対する指導の中で、パウロは謙遜であることを勧めました。そして、すべての目的が神の栄光にあることを示します。

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

何のために行動するかという目的が決まっていないと、何をすればいいかもわからず、行動に一貫性がなくなります。結果として、何も手に入らず時間と労力だけを無駄にしてしまうでしょう。

今回の箇所を通して、私たちは自分が生きる意味、自分の行動の目的を明らかにしていただきましょう。その結果、毎日の生活に張りが出て、一本筋の通ったものになります。

1.神の力、神の知恵であるキリスト

パウロの伝道方針

ユダヤ人とギリシア人が求めるもの
(1:22)ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。

前回のメッセージで、コリント教会にあった分派分裂の問題を取り上げました。そして、分派分裂の根本原因が傲慢だということを見ました。パウロは、コリント教会の人たちに傲慢になって他の人たちを見下し、攻撃するのではなく、謙遜になって互いに尊重し合うことを求めているのです。
そして、今回の箇所でパウロはさらに謙遜であるべきことを訴えようとしています。まずパウロは、ユダヤ人とギリシア人が求めているものを明らかにしました。
  • ユダヤ人はしるしを求めます。超自然的な奇跡を見せてもらえれば信じるという態度です。
  • ギリシア人は知恵を追求します。理性で納得ができれば信じるという態度です。
するとどうなるでしょうか。
拒否される十字架のキリスト
(1:23)しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、

奇跡や理性的な納得を求める人たちに対して、パウロたち伝道者はそれらを提供しませんでした。伝道者たちは、十字架につけられたキリストについてのメッセージを宣べ伝えたのです。

ところが、ユダヤ人が信じている聖書の申命記21:23には、「木にかけられた者は神にのろわれた者」と書かれています。ですから、十字架につけられて殺されたナザレのイエスが、神から遣わされた救い主だとはとても思えません。

ギリシア人は、神なら死ぬはずがないと考えます。そして、当時最も屈辱的な死刑の方法である十字架で死ぬことが、世界全人類の罪を取り除くというすばらしい結果をもたらすなどという発想は、理解を超えています。

そこで、十字架につけられたキリストについて語るメッセージは、一般的なユダヤ人もギリシア人も受け入れられません。
神の力、神の知恵であるキリスト
(1:24)ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。

しかし、クリスチャンはそんな理解不能な十字架のメッセージを信じました。その人たちは神さまに召された人たちです。すなわち、神さまに選ばれ、神さまによって救いに導かれました。

そんな救われた人たちにとって、十字架のメッセージはつまずきでも愚かでもなく、神さまの力、神さまの知恵を表すものです。
神の愚かさと弱さ
(1:25)神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

もちろん、全知全能である聖書の神さまは、愚かではないし弱くもありません。パウロはここで、逆説的な言い方をしています。しかし、ユダヤ人が弱いと切り捨て、ギリシア人が愚かだと馬鹿にする十字架のメッセージには、人を救いに導くために発揮された神さまの知恵と力が満ち満ちています。

人ではなく神に栄光を

救われた人々の特徴
(1:26)兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

パウロは、コリント教会に集うクリスチャンたちの特徴を見るように促します。「人間的に見れば」、すなわちこの世の価値観で判断すれば、哲学者や権力者、身分の高い人は多くないだろうと言います。

パウロがこのような話をするのは、救いが人間の知恵や力によって勝ち取られたものではないということを理解させるためです。その点について、パウロはこれ以降の節で話を進めます。
神が愚かで弱い者を選んだ理由
(1:27-28)しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。

神さまが救いに導かれたのは、この世の価値観から見ると、愚かな者・弱い者・取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者たちでした。

それは、「有るものを無いものとするため」だとパウロは言います。有るものとは、知恵ある者・強い者です。彼らを恥じ入らせるために、神さまはあえてこの世から愚かだとか弱いとか思われている人を選んだと、パウロは言います。

といっても、人間が勉強して知恵をつけたり、努力してさまざまな力を付けたりすることを神さまが嫌っているという意味ではありません。ではどういうことでしょうか?
誰も誇らせないため
(1:29)肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。

「肉なる者」とは人間のことです。人間が神さまの前で誇らないために、神さまはあえて人間の知恵や力では救いが得られないようにされました。

罪ある人間はどれほど知恵を付けても、善行を積んでも、権力を握っても、神さまに受け入れられることはありません。神さまから一方的に愛され、罪を赦していただいて初めて、私たち人間は神さまと仲直りし、神さまからの祝福を味わうことができます。

イエス・キリストが十字架にかかることによって私たちの罪が赦され、死んで葬られたキリストが3日目に復活したことによって私たちは神の子として生まれ変わったという恵みの福音は、神さまのおかげで私たちが救われたことを表しています。

これがパウロが24節で語っている、キリストこそ神の力、神の知恵だという意味です。

私たちは誰も、自分の知恵や力や正しさによって救われたと誇ることはできません。ほめたたえられるのは私たちではなく、愛と恵みに満ちた神さまです。
キリストのうちにある
(1:30前半)しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。

私たちは、私たち自身の知恵や力のおかげではなく、神さまのおかげでイエスさまのうちにあります。「キリストの内にある」とは、「be in Christ」です。

ウォッチマン・ニーという伝道者が、この「キリストにある」という言葉を解説してくれています。

紙切れを本に挟み込みます。この紙切れは「本にある紙切れ」です。すると、紙切れは本と同じ経験をすることになります。本を本棚に入れれば、紙切れも本棚に入ります。本を焼き捨てれば紙切れも焼けます。
もし私たちが「イエス・キリストにある」なら、イエスさまの経験は、私たちの経験となります。イエスさまが十字架につけられて死なれたので、私たちも罪の償いのために死にました。それにより罪の罰が終わったので、私たちはもう罪を赦されています。これ以上、罰を受けることがありません。

また、イエスさまが復活したので、神さまは私たちが神さまの子どもとして新しく生まれました。神さまの敵である罪人が、神さまに愛され、永遠に祝福される存在になったのです。

義認と聖化と栄化をもたらすキリスト
(1:30後半)キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。

十字架にかかり復活したイエスさまが「義と聖と贖いになられた」というのは、私たちに与えられている救いの全体像を表しています。

「義」とは、「義認」のことです。私たちはすべての罪を赦され、神さまの目に罪のない者とされました。もはや私たちは罪の罰を受けて永遠の苦しみを受けることはなくなりました。

「聖」とは、「聖化」のことです。イエスさまを救い主と信じたとき、聖霊なる神さまが私たちの内に住んでくださるようになりました。聖霊さまは、ただの「赦された罪人」に過ぎなかった私たちを内側から造り変え、日々イエスさまに似た者に成長させてくださっています。

「贖い」とは、「栄化」のことです。世の終わりに、私たちの救いが完成します。私たちは、この罪の性質を宿した不完全な体から解放されて、天のパラダイス、そして地上の千年王国、さらに新しい天と新しい地で、考えられないような祝福を永遠に味わうようになります。

クリスチャンが信じ、そして宣べ伝えている十字架のメッセージには、そのような希望が含まれています。
主を誇れ
(1:31)「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

この箇所は、エレミヤ9:23-24の要約的な引用です。

──【主】はこう言われる──知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。
誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは【主】であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。──【主】のことば。』」


聖書全体の最も中心的なテーマは、「神の栄光」です。聖書にはさまざまな歴史的な記録があり、文学があり、教えがあります。そのすべては、神さまのすばらしさを明らかにし、ほめたたえています。

私たち人間の救いも、神さまの栄光、神さまのすばらしさを明らかにしています。私が自分の知恵や力によって救われたのなら、ほめたたえられるのは私です。しかし、救いに必要な条件はすべて神さまが用意してくださいました。私は、神さまが差し出してくださった救いというプレゼントを、「ありがとうございます」と受け取っただけです。

ですから、私は自分を誇ることはできません。誇るとしたら、私を選び、愛し、救い、そのために必要なものを全部用意してくださった父なる神さま、イエスさま、聖霊さまです。

コリントでのパウロの伝道と神の栄光

コリントでのパウロの伝道方法
(2:1)兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。

ほめたたえられるべきは人間ではなく神さまだということをさらに説明するため、パウロは自分自身の伝道スタイルについて語り始めます。パウロは、あえて奇跡的な力や哲学的な知恵を用いなかったと述べています。

それはなぜでしょうか。
パウロの決心
(2:2)なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。

パウロが心がけたのは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えることによって、人を救いに導くことでした。それ以外のもの、すなわち人間的な知恵や力に関することはあえて語りませんでした。
コリントに着いた頃のパウロの精神状態
(2:3)あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。

パウロは、自分がコリントの町に到着した頃の姿を思い出すように促します。その時のパウロは、力強く堂々とした雰囲気ではありませんでした。むしろ、恐れおののいている弱々しい態度だったのです。

これは、直前に行っていたアテネでの伝道が思わしい結果を残さなかったことと関係しているかもしれません。さらに、その前に訪れたマケドニア地方(ギリシア北部)では、反対するユダヤ人たちから激しい迫害を受けていました。

また迫害を受けるのではないか、そして、それほどの危険を冒して伝道してもまったく人が救われないのではないかといった、否定的な思いが渦巻いて、パウロを弱々しく見せていたのでしょう。
パウロのコリント伝道が成功した理由
(2:4)そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。

パウロは見た目が弱々しく、人を引きつける様子がなかっただけではありません。これまで述べたように、パウロが語った十字架のメッセージは力や知恵を示す内容ではありませんでした。パウロは人間的な知恵で人を説得しようとしなかったのです。

パウロが期待したのは、神さまが聖霊さまのお働きによって力を示してくださり、人を救いに導いてくださることです。
まとめ
(2:5)それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。

パウロが、どれほどユダヤ人やギリシア人から馬鹿にされても十字架のメッセージを語り続けたのは、人間が自分の力で救われたと言わせないためです。代わりに、神さまが一方的に選び、救いに導いてくださったのだということが明らかになり、人々が神さまをほめたたえるようになるためです。

それではここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.神の栄光を人生の目的にしよう

神の栄光がすべての目的だと知る

神さまの目的は、ご自身の栄光、神さまのすばらしさが明らかになることです。そのためにこの宇宙のさまざまな被造物が創造されました。

(イザヤ43:7)わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。これを形造り、また、これを造った。

人間の救いも、神の栄光のためです。神さまを捨てて罪を犯した人間を神さまが一方的に愛し、赦したことによって、そして赦しをもたらすために御子イエスさまが十字架にかけられたことによって、神さまの愛、神さまの恵みというすばらしいご性質が明らかになりました。

聖書の中に記されているさまざまな恐ろしいさばきも、神さまのきよさや神さまの力強さというすばらしさを明らかにしています。

神の栄光が我々の喜びだと知る

私がいい気持ちになることが最終目的だと考えると、なかなか思い通りに人生が進まなかったり、逆に嫌な思いになったりするとふてくされたような気持ちになり、神さまから心が離れてしまうかもしれません。

しかし、神さまと共にいて神さまのすばらしさに触れることは、この世が決して与えることができない感動と喜びを私たちにもたらします。

(詩篇16:11)あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。

(第1ペテロ1:8-9)あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

その喜びを知っていたからこそ、過去の信仰の先輩たちは迫害の末に殺されても、喜びに満たされていました。たとえば、ステパノはユダヤ人たちから殺されようとするとき、次のように言いました。

(使徒7:55-56)しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。

そして、自分を殺すために石を投げつける人々の赦しを祈り求めながら、穏やかに息を引き取りました。

私たちも、もちろん自分の苦しみが取り除かれること、この世で幸せになることを求めてもかまいません。しかし、それ以上に神さまのすばらしさが明らかになることを求めましょう。そして、神さまのすばらしさを私たちがもっともっと知ることができるように祈りましょう。

神の栄光を現すべきだと知る

パウロは、神さまの栄光こそすべての目的だと知っていました。そして、神さまの栄光がさらに明らかになるような伝道スタイルを貫きました。

私たちも、自分の人生を通して神さまの栄光を現しましょう。先ほど紹介したイザヤの預言が語っているとおり、私たち人間は神さまの栄光を現すために作られました。

私がどのように行動し、何を語れば、今よりもっと神さまのすばらしさが明らかになるだろうか。いつもそのように考えて行動を選びましょう。たとえば、
  • 誰かに親切な行動をすること。
  • 悪事に荷担せず、きよい生き方を続けること。
  • 他の人を見下したり、自分のことを自慢したりするような傲慢な態度を取らず、人に対してへりくだった態度を取ること。
そして、そういった行動の原動力が神さまのおかげだということを明らかにすることによって、人々は私たちではなく神さまのすばらしさに目を留めるようになります。

さらに、あらゆることを神さまに感謝し、いつも神さまをほめたたえ礼拝することによって神さまの栄光が明らかになります。

また、言葉で神さまがしてくださった良いことを他の人に伝えることによって、特に福音を語ることによって、神さまのすばらしさが伝わります。

私たちが、私たち自身の利益を求める代わりに神さまの栄光を求めることが、本当の意味で私たちを幸せへと導きます。

私たちの一挙手一投足が、父なる神さま、イエスさま、聖霊さまのすばらしさを明らかにしますように。そして、神さまのすばらしさを私たち自身ももっともっと知ることができ、それによって毎日が感動と喜びに満たされますように。

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