(2026年2月15日)
知識・愛・福音宣教に続く第4の行動基準。偶像礼拝の背後にある悪霊の働きを見抜き、イエスに従う道を選ぶための実践的な指針を解説します。
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
8章から、パウロは「偶像にささげた肉」についての話をしながら、私たちが与えられている自由の中でどんな行動を選べばよいか、その基準を教えています。ここまでで登場した行動基準は以下の3つです。
- 知識……聖書がそれについて何を教えているか。はっきり命ぜられたり禁じられたりしていなければ、自由に選んでよい。
- 他の人への愛……自分の言動によって他人を傷つけたり、信仰的につまずかせたりする恐れがあるなら、その人へのために、自分の権利や自由を自ら制限すべきである。むしろ、他の人を幸福にし、信仰が成長するような行動を選ぶ。
- 福音宣教……イエス・キリストによる救いが、今よりもっと世の人たちに伝わるような行動を選ぶ。
今回は、4番目の行動基準を教わりましょう。
1.異教の宴会への参加の是非について
前置き
偶像礼拝を避けよ
(14節)ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。
「ですから」は、前の話を受けている言葉です。1-13節で、パウロはイスラエルの先祖たちが犯した偶像礼拝や不品行、神さまに対する不平不満などの罪について語りました。そして、神さまは私たちが罪に対する誘惑に打ち勝つ力や手段を与えてくださると約束しています。
(13節)あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
だからこそ、私たちは偶像礼拝の誘惑を警戒しなければなりません。前回の箇所で、パウロは
「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(12節)と警告しています。「自分だけは大丈夫だ」と高をくくっていると、イスラエルの先祖たちのように足下をすくわれてしまうかもしれません。
私たちは、偶像礼拝などさまざまな罪の誘惑にさらされていることを知って、意識してこれを避けなければなりません。
14節で「避けなさい」と訳されている言葉は、「逃げ続けなさい」と訳すことができます。
以前、「イッテQ!」というテレビ番組で、タレントのイモトさんがコモドドラゴンから必死に逃げるシーンが放送されましたが、私たちもあんなふうに一生懸命偶像礼拝の罪を避けなければなりません。
賢い人たちに話すように
(15節)私は賢い人たちに話すように話します。私の言うことを判断してください。
コリント教会の人たちは、自分たちには知恵があると自負していました。そんな彼らにパウロは、これから自分は知恵ある人に語るような話し方をすると言っています。
ただし、これは皮肉ではありません。コリント教会の人たちが本当に霊的な事柄に対する理解力があることを信じて語ろうとしているのです。
そして、自分でこれから語ることを判断し、実践してほしいと願いを伝えています。
食事と交わりの関係
聖餐の杯とパンの効果
(16節)私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
まずパウロは、クリスチャンが行っている聖餐式についての話をします。16節に出てくる「賛美の杯」は、ユダヤの祭りである過越の儀式的食事会で飲まれるぶどう酒のことです。過越の食事では、4回杯が飲まれますが、「賛美の杯」は3回目の杯です。
イエスさまは十字架にかかられる前の夜、弟子たちと一緒に過越の食事をとられました。いわゆる最後の晩餐です。その際、この3回目の杯について、イエスさまは
「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です」(ルカ22:20)とおっしゃいました。
また、過越の食事で食べられるパンについて、イエスさまは
「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい」(ルカ22:19)とおっしゃいました。
今私たちが定期的に行っている聖餐式は、これらのイエスさまの言葉を元にしています。そして、1世紀の教会は、過越の食事会の中で聖餐をしていたと考えられています。
- 1世紀のユダヤで行なわれていた過越の食事の様子、また過越の食事と聖餐式の関係については、こちらの記事をお読みください。
聖餐式でぶどう酒やパンを食べるとき、私たちはイエスさまの血や体にあずかるとパウロは言います。「あずかる」と訳されている言葉は、ギリシア語の「コイノニア」で、深い交わり・関係があることを指します。
ぶどう酒やパンが単にイエスさまの死を象徴しているというだけでなく、聖餐を行うとき、私たちは十字架にかかって死なれたイエスさまと一つになるのです。ゆえに、罪人としての私たちは死んで罪の償いが完了したとみなされています。決して、罪のゆえに神さまのさばきを受け、滅ぼされることがないのです。
ここでパウロは、「食事が交わりを引き起こす」という点に、コリント教会の読者の注目を集めようとしています。私たちも、この点を意識しながらこの後の話の展開を追っていきましょう。
一つのパン
(17節)パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。
聖餐式で食べる「一つのパン」は物理的な一つのパンであると同時に、キリストの一つの体を象徴しています。教会に集う私たちはたくさんいても、キリストの体である教会は一つです。
ですから、聖書の神さま以外の神々と交わりを持つ偶像礼拝は、単に個人が罪を犯したというだけでなく、教会の一致を破壊する行為でもあります。
イスラエルのささげものと交わり
(18節)肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。ささげ物を食する者は、祭壇の交わりにあずかることになるのではありませんか。
パウロは、イスラエルの人たちがモーセの律法に従ってささげていたささげものについての例を挙げます。動物犠牲をささげると、脂肪などは祭壇の上で焼いて神さまにささげましたが、肉の一部はささげた人と祭司が食べました(レビ記7章)。
このささげものを食べる行為は単なる食事ではなく、神さまとの親しい交わりを表しています。ここでもパウロは、食事と交わりの関係に注目させています。
異教の食事会への警戒
パウロが言おうとしていないこと
(19節)私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。
これからパウロは、偶像にささげた肉を食べたり、異教の神殿での食事会に参加したりする件に話を戻そうとしています。その前に、改めて「知識」の側面を思い出させます。
偶像の神々など本当には存在しません。ですから、たとえ一度偶像にささげられて、その後市場に売られた肉であっても、あるいは異教の神殿で催される宴会で出される食事であっても、それ自体に人を汚す力はありません。
ですから、食べたければ食べればいいし、食べたくなければ食べなければよいのです。これがすでにパウロが8章で述べた知識の側面です。
パウロは、これから話す内容は、この知識の側面を否定するものではないと語っています。
偶像ではなく悪霊にささげられている肉
(20節)むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
パウロは、ここで新たな視点を提供しています。偶像の神々は存在しませんが、サタン(悪魔)やその配下である悪霊は確かに存在しています。そして、さまざまな方法で人間を惑わして、神さまから引き離そうとします。その手段の一つが、異教の祭りや儀式です。
私たちクリスチャンにとって、偶像など存在せず、偶像礼拝のための儀式や宴会に何の意味もありません。しかし、偶像を拝んでいる人たちにとっては意味があります。彼らは偶像の神々がいると信じており、本当に存在すると信じている神々にいけにえをささげます。
悪霊たちは、このまことの神さまに逆らう異教的な場で力を得て、強く働きます。そして、その場にいる人たちに強く働きかけて惑わすのです。
また、先ほど16節の解説で述べたように、食事は交わりと深い関係があります。
ですから、 「偶像の神なんか存在しないのだから」と言いながら、悪霊の働きをまったく警戒しないで異教的な儀式や宴会に参加してしまうと、いつの間にか悪霊と深く交わることになり、その影響を受けてしまうとパウロは警告します。
主の食卓と悪霊の食卓
(21節)あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。
私たちクリスチャンは、悪霊ではなく主イエス・キリストと深く交わるべき者です。何を飲み、何を食べるかという点においても、私たちはイエスさまに従うことを最優先しなければなりません。
主のねたみ
(22節)それとも、私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのですか。私たちは主よりも強い者なのですか。
「ねたみの神」という表現は、旧約聖書で偶像礼拝禁止の命令と一緒に語られています。配偶者が浮気したときに、裏切られた夫や妻は嫉妬心を抱きます。それと同じように、本来自分だけを信じ愛すべき人間が、他の神々を信じて仕える姿を見たなら、神さまは深く悲しみ苦しまれます。
ですから、私たちは偶像礼拝をしてはなりません。もちろん偶像の神々など存在しませんが、偶像礼拝の場には悪霊たちが強く働いていますから、いつの間にか悪霊たちの影響を受けないよう注意を払う必要があります。
偶像にささげた肉を食べたり、異教の神殿で催される宴会で飲み食いしたりすることについて、これは罪だと考える人たちに対して、パウロは「そうではない」と言いました。
一方で、何も考えずに飲み食いする人たちに対して、パウロは「他の人への愛を実現するかどうか」と「福音宣教に役立つかどうか」という2つの判断基準を示しました。そして今回、「いつの間にか悪霊と深く交わり、神さまへの信仰を奪い取られてはいないか」という視点を提供しています。
私たちは、私たちと神さまの仲を裂こうと狙っている悪霊の悪巧みを警戒し、むしろ神さまとの関係が深まるような行動を選ぶ必要があります。そして、イエスさまを愛し、イエスさまに従うという、より積極的で重要なポイントを忘れないようにしましょう。
さて、日本に住んでいると、仏式の葬儀や神道式の結婚式、あるいは地域の祭りなど、異教的な物事に触れる機会がたくさんあります。また、雑誌やテレビでは、占いなどオカルト的な話題がたくさん提供されています。
では、私たちクリスチャンは、このような異教的な物事や文化、風習に対して、どのように接すればいいのでしょうか。
2.異教的なものへの接し方
必要がなければ距離を取る
特に必要が無いなら、わざわざ異教の祭りや儀式に関わることは避けた方がいいでしょう。
赤ちゃんは、免疫力がついて、ばい菌などから身を守ることができるようになるまで、お母さんのおなかの中で育ち、この世から隔離されています。そして、成長して免疫力が高まっても、特に必要も無いのにインフルエンザの患者さんたちがたくさんいる場所に出かけるような真似はしませんね。
これは、異教の祭りや儀式に限ったことではありません。誘惑を与えるものがあるのなら、必要も無いのにわざわざそこに近づいてはいけません。
以前、ポルノビデオをつい観てしまうという青年と話をしたことがあります。もう絶対に観ないぞと心に決めても、ビデオ店の前を通るとふらふらと入ってしまうというのです。ですから申し上げました。「その道を通るのをやめなさい」と。
占いなども注意が必要です。特に日本では、遊び感覚で占いとかお守りとかまじないとかが用いられています。血液型性格分類も占いの一種ですが、非常にはやっていますね。
しかし、人はレッテルを貼られると、そのレッテルに縛られ、レッテル通りに生きようとする性質を持っています。悪霊はそういうものを使って、人の心を縛り、自由を奪っていくのです。遊びだからと油断して手を出したりしてはいけません。
祈ってから出かける
しかし、葬儀など、どうしても出席しなければならないような場合もあるでしょう。そんなときは、よくよく祈ってから出かけることです。
私たちが、悪霊の悪巧みを賢く見抜き、正しく対処することができるよう、神さまが守り、導いてくださるように。
神さまの助けにより、イエスさまのすばらしさを証しする機会が与えられて、かえって悪霊たちに勝利することができるように。
悪霊は私たちよりも賢く強いですが、聖霊さまの方がはるかに強く賢くていらっしゃるのですから。
他のクリスチャンが一緒に参加することが分かっていれば、共に祈り、それぞれどのように振る舞うかを話し合っておくというのは有効です。相手につまずきを与える恐れをなくす効果もあります。
イエスに従うことを第一とする
昔、東京に住んでいた頃、やたらに悪霊の話ばかりするクリスチャンの知人がいました。悪霊による誘惑を警戒し、祈りによって悪霊と戦うことをいつも語っていたのです。あるとき、ついその人に申し上げてしまいました。
「確かに悪霊の誘惑と戦うことは大切です。でも、もっと大切なことは、どのように行動すればイエスさまに喜んでいただけるか考えて実践することではないでしょうか」
クリスチャンの神学者であり作家でもあるC.S.ルイスは、ある本の中で次のように語っています。
人類が悪魔について陥りやすい、二つの、しかも正反対の誤りがある。 一つは、悪魔の存在を信じないことである。 他の一つは、彼らを信じ、かつ彼らに対して、不健全で過度の関心を持つことである。
悪魔自身は、この二つの誤りを同じように喜び、唯物論者も魔術師も、同じような熱狂をもって歓迎するのである。
(C.S.ルイス「悪魔の手紙」序文より)
私たちはサタンや悪霊の存在を無視してはなりません。常に警戒が必要です。その一方で、イエスさまに従うという、より重要なポイントを忘れてはならないのです。
異教的な物事に触れる際、あるいはそれ以外の場面で、どのように行動することがイエスさまへの愛、イエスさまへの忠誠を現すことになるか考え実践しましょう。