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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

芳しいキリストの香り

コリント人への手紙シリーズ31

コリント人への第二の手紙2章12節~17節

(2026年5月31日)

パウロは、私たちは「キリストの香り」であると言いました。この言葉は、イエス・キリストが圧倒的な勝利者であり、私たちはその勝利にあずかって、どんな状況でも揺るがない平安や希望を味わえることを教えています。

礼拝メッセージ音声

参考資料

続きを読む12節の「トロアス」は、小アジア(今のトルコ)の北西部、エーゲ海に面した港町です。トロイの木馬のエピソードで有名な「トロイア」の遺跡の南20キロほどの位置にありました。

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13節の「テトス」は、このときパウロに先行してコリント入りしていたギリシア人の伝道者(ガラテヤ2:3)です。パウロが書いた「涙の手紙」をコリント教会に届け、その後教会の問題について指導しました。そして、指導を終えたら、テトスはマケドニア経由でトロアスに渡り、そこでパウロと落ち合う予定でした。

イントロダクション

私の長女の名前は、今回の箇所を元に付けられました。

「キリストの香り」という言葉は、イエス・キリストがもたらす圧倒的な「勝利」のメッセージを私たちに伝えてくれます。今回は、この言葉から、どんな状況でも揺るがない本当の平安と希望を持って歩むヒントを受け取りましょう。

1.真の奉仕者の心

テトスとの再会

トロアスでの宣教
(12節)私がキリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いておられましたが、

3年に渡ってエペソで伝道をしてきたパウロは、そこを去ると北上して港町トロアスに向かいました。そこから船出して、ギリシア北部のマケドニアにある諸教会(ピリピ、テサロニケ、ベレアといった町の教会)を訪問する予定です。

しかし、パウロはトロアスにただ移動のために立ち寄ったのではなく、最初から伝道を行う目的がありました。「門が開かれる」という言葉は、伝道のチャンスが次々と訪れることを表していて、第1コリント16:9やコロサイ4:3でも使われています。

トロアスでの伝道は大変祝福され、パウロは多くの人に恵みの福音を宣べ伝えることができました。
テトスに会えない不安
(13節)私は、兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがありませんでした。それで人々に別れを告げて、マケドニアに向けて出発しました。

兄弟テトスは、ギリシア人の伝道者で(ガラテヤ2:3)、シリアのアンティオキア教会でパウロやバルナバと共に働き、エルサレム会議にも同行しました。第三回伝道旅行に、最初から同行したか、そうでなければエペソ滞在中にやってきてパウロの働きを助けていたのでしょう。

コリント教会の問題がエスカレートしたため、パウロは緊急でコリントを訪問しました。しかし、指導はうまく行かず、かえって激しい拒絶を味わってエペソに戻りました。

その後、パウロはコリント教会に宛てて涙ながらに手紙を書きます。その手紙をコリントに届けたのがテトスです。もちろんテトスはただの郵便配達人ではなく、その手紙を元にしてコリント教会の人たちを指導する役割も期待されていました。

果たしてコリント教会の人たちは、涙の手紙を読んでどんな反応をするだろうか。そして、テトスの指導に対してどんな応答をしたのだろうか。任務を終えたテトスは、トロアスでパウロと再会して、顛末を報告することになっていました。

ところが、なかなかテトスがトロアスにやってきません。パウロのやきもきした気持ちは募るばかりです。そこで、パウロはトロアスでの伝道を打ち切って、マケドニアに渡ることにしました。

キリストの香り

神への感謝
(14節)しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。

パウロは神さまに感謝をささげています。それは、トロアスで味わった不安を拭い去るほどの喜びを体験したからです。

マケドニアに到着した パウロは、間もなくテトスと再会することができました。テトスの報告は、パウロを大変喜ばせるものでした。コリント教会は、罪を犯して悔い改めない人への除名処分を断行したというのです。この点については、先週のメッセージで取り上げました。

パウロはその喜びを、凱旋パレードのたとえを用いて説明しています。
ローマ軍が戦いに勝利すると、首都ローマで凱旋式を開いてもらえました。凱旋の行列は、まず先頭に議員たち、次に戦利品と捕虜、それから軍団長と副官、その後ろに軍団の兵士たちが続きました。ローマの軍隊は1軍団6000人規模ですから、かなり壮大な行列です。

凱旋式を開いてもらえるのは、勝利者なら誰でもというわけではありません。以下の条件を満たす必要がありました。
  1. 軍団の最高司令官であること(司令官が戦死して、副官が代わりにというわけにはいきません)。
  2. 外敵を攻撃して完全平定すること(内乱鎮圧や対等の講和ではだめでです)。
  3. 戦いの結果、領土が拡がること(外敵に攻め込まれた結果の防衛戦ではだめです)。
  4. そして5000人以上の敵を殺すこと。
すなわち、「外敵に対する華々しい勝利」ということです。

この凱旋の行列の間を、ジュピター神殿の祭司たちが、香の壺を揺り動かしながら歩きました。凱旋式の香の香りは、ローマ軍の圧倒的な勝利を表すものでした。たとえ人垣のために、凱旋の行列自体は見えなくても、市民はその香りをかいで勝利を知り、勝利の美酒に酔ったのでした。

パウロはこの凱旋式のイメージを用いて、「私たちはキリストの香りなのだ」と言いました。すなわち、「私たちの存在は、軍団長であるイエス・キリストの大勝利を表すのだ」と語ろうとしています。

福音を宣べ伝えるパウロやテトスたちは、言葉を通して、行いを通して、存在を通して、聖書の神さまのすばらしさを証言しています。神さまはきよく、正しいお方です。同時に、愛と恵みに満ちたお方です。

テトスがもたらしてくれたコリント教会に関するうれしい知らせは、パウロに「ああ、やはりイエスさまは勝利者だ」という確信をより強くしました。そして、自分たちがその勝利に少しでも関与できたことを喜び、感謝をささげたのです。
救われる人と滅びる人の間に漂うキリストの香り
(15節-16節前半)私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。
凱旋式の香の香りは、ローマ市民や兵士たちにとっては勝利の喜びの象徴でした。しかし、戦いに敗れ、捕虜となって引かれていく敵にとっては敗北の悲しみの象徴です。

捕虜たちはこのあと、ある者は見せしめに殺され、そうでなくても奴隷身分に落とされてローマ人のために働かされることになります。どちらにしても、喜ばしい未来は待っていないわけです。神官たちが振りまく香りは、その絶望的な未来を捕虜たちに思い知らせます。

つまり、勝利者である軍団長の側に付いているか、それとも敵対しているかによって、同じ香りでもまったく違った印象を与えるのです。

クリスチャンたちが宣べ伝える恵みの福音は、まったく異なる2つの道を人間に与えます。福音を聞いて信じたならば、罪を赦され、神さまの子どもにされ、永遠に祝福され続ける道。しかし、死ぬまで拒否し続けるなら、将来は永遠の滅びを招くことになります。

「○○から○○へ」という言い回しは、ユダヤの文学的表現で、最も強い強調表現です。滅びる人の滅びがいかにひどく、救われる人に与えられる祝福がいかにすばらしいかを表しています。そして、滅びと救いという2つの運命が、いかに異なるかを強調しています。

感謝すべきことに、福音を信じた私たちは、イエスさまの凱旋パレードを誇らしさや喜びに満ちて迎えることができます。

伝道者としての心意気

キリストの香りにふさわしい人とは
(16節後半)このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。

伝道者の勤めは、人の永遠の運命を左右する働きです。そんな重大な任務を負うことができる人は誰なのかとパウロは問いかけます。
神のことばに混ぜ物をしない伝道者
(17節)私たちは、多くの人たちのように、神のことばに混ぜ物をして売ったりせず、誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。

永遠の運命を左右する重要な働きを担えるのは、4つの特徴を持った人だとパウロは語ります。
  1. 誠実であること。これについては後ほど解説します。
  2. 神さまによって選ばれて、働きを任された人であること。神さまと人とに仕える私たちの奉仕は、神さまにゆだねられた働きです。
  3. 神の御前で語る、すなわち語る相手は人間でも、全宇宙の支配者である神さまの前で語るという、良い意味での緊張感を持って任務に当たること。
  4. キリストにあって語る、すなわち自分のすばらしさをアピールするのではなく、イエスさまの代理人という立場で語ること。
1つ目の特徴である誠実さについて、パウロは混ぜ物の話をしています。「混ぜ物にして売る」という言葉は、お酒に水を混ぜてかさ増しして売ることを指します。転じて、「利益のために品質を落として売る」という意味を持ちます。
パウロがここで念頭に置いていたのは、11章で取り上げられる「偽使徒」と呼ばれる人たちです。彼らの問題行動について、パウロは皮肉な言い方で次のように語っています。

(11:20)実際あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、強奪されても、いばられても、顔をたたかれても、我慢しています。

偽使徒たちの目的は、お金を手に入れることであり、他の人を支配していい気持ちになることでした。そのためには、聖書が教えていないようなことを「これが神のみこころだ」と言って、教会の人々に教えていました。

今でもカルト化した教会や異端の教会が、聖書をねじ曲げて解釈したり、聖書とは別の経典を作ったりして、全財産を献金させたり、指導者への絶対服従を求めたりしています。あるいは、多くの信者を集めるために、聖書が教えていないような耳障りのいい話ばかりを繰り返します。

そういう人たちは、人間の永遠の運命を左右するような働きにふさわしくありません。一方、パウロたちは神のことばに混ぜ物をしないと宣言します。それをパウロは誠実さという言葉で表現しています。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.キリストの香りとして振る舞おう

キリストの大勝利を喜びつつ伝えよう

パウロは凱旋式のイメージを利用して、私たちはキリストの香りなのだと言いました。すなわち、私たちの存在が、軍団長であるイエス・キリストの大勝利を表すのだということです。

では、イエス・キリストは、どのような大勝利を収められたのでしょうか。
  • キリストは私たちの罪を赦してくださいました。そして、聖霊を送って、私たちの内側をきよめてくださいます。
  • 聖書には、すべてが神の手によって益となると書かれています。
  • 現代においても、キリストは2千年前に行われたような、驚くべき奇跡を見せてくださいます。
  • キリストは、私たちが幸せになるだけでなく、私たちを通して、周りの人々をも変えてくださいます。
征服者として知られるマケドニアのアレクサンドロス大王は、次のように語りました。「一頭の羊に率いられた百頭のライオンの群れよりも、一頭のライオンに率いられた百頭の羊の群れを私は恐れる」と。これは、戦いにおける指揮官の重要性を説いています。

私たちを導く軍団長は、誰よりも、何よりも賢く強いお方です。そういうお方が、「私はいつもあなたと共にいるよ」と約束してくださっています。そういうお方があなたの人生を導いてくださいます。この事実は、あなたの思いや生き方をどのように変えるでしょうか?
圧倒的な勝利者
(ローマ8:31-39)では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」
しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。


まず自分自身がイエスさまの勝利を十分に味わいましょう。そして、それを喜びましょう。それから、イエスさまが私たちの人生に勝利をもたらしてくださることを、喜びと共に他の人に伝えましょう。
自分が味わった勝利を伝える
何も難しい教えを説く必要はありません。自分がイエスさまを信じる前と後で、どんなふうに変えられたかを、飾ることなくストレートに伝えればよいのです。相手が興味を持ってくれれば、自分を変えるきっかけとなったイエスさまと、その恵みの福音について語ります。

キリストの大勝利を混ぜ物なしに伝えよう

「私たちは神のみことばに混ぜ物をしない」とパウロは宣言しました。私たちがイエスさまによる勝利を他の人に伝える時も、混ぜ物をしないよう気をつけなければなりません。

福音を信じてもらいやすくするために、あれこれ工夫すること自体は悪くありません。しかし、福音のメッセージがゆがんでしまうような配慮は、かえってイエスさまのみこころに反します。たとえば……
繁栄の神学と律法主義
20世紀半ば頃から、アメリカを中心に「繁栄の神学」というものが流行り始めました。これは、「神を正しく信じ、熱心に献金を行えば、富や健康、成功が必ず与えられる」と説く教えです。
がんばればがんばった分だけ報われるという教えは、ギブアンドテイクで成り立つこの世では理解しやすく、受け入れやすい教えです。また、経済的な豊かさを求める人たちに広く受け入れられ、勢力を伸ばしました。しかし、こういった考えは、神さまの恵みを台無しにする教えでもあります。

そして、確かに神さまは、物理的な祝福を与えてくださる場合がありますが、逆に神さまに忠実な生き方をしたために、迫害を経験し、経済的に厳しい暮らしを強いられるクリスチャンも世界にはたくさんいます。それでもその人たちは、イエスさまを愛し、喜びと感謝と共に生きています。繁栄の神学は、その事実に反しています。

さらに、こういう教えは、自分の利益のために神さまを利用しようという自己中心的な考えに基づくものです。そして、神の命令を守れば救われるという、律法主義と同じ根っこを持っています。私たちが神さまを動かすことができるという傲慢さがあるのです。

そういうわけで、繁栄の神学は、律法主義と同様に、伝統的な信仰を守っている教会からは批判されています。

私たちは、イエスさまがくださる喜びを伝えます。しかし、人を救いに導きたいという良い動機で行うとしても、神さまの言葉が語っていないような嘘を交えたり、誇張しすぎたり、厳しい面を隠したりするような真似はしてはなりません。

キリストの大勝利を堂々と伝えよう

パウロは私たちに対して、「私たちはキリストの香りになろう」と命じたのではなく、「私たちは(すでに)キリストの香りです」と宣言しました。

パウロは、自分が自分の努力や才能によって伝道者になったとは思っていません。それは、神さまによって選ばれ遣わされ、神さまの御前でキリストにあって語る働きです。

パウロは自分が、かつてイエスさまが救い主だということを否定し、教会を迫害してきたために、本来なら使徒として教会を導けるような資格はないと語っています。しかし、神さまの恵みによって、使徒とされたのです(第1コリント15:9-10)。
皆さんも、クリスチャンとして生きているだけで、すでにキリストの香りです。そして、イエスさまが皆さんを通して、周りの人たちに影響を与え、「自分もイエスさまによって勝利に預かりたい」という思いをもたらします。

まして、少し勇気を出して言葉に出してイエスさまのくださる勝利の人生と、イエスさまがどのようにそれをしてくださったのか語るなら、多くの人がイエスさまを通して人生を変えられていくでしょう。

そして、私たち自身もますますイエスさまによる勝利を確信して、どんな状況でも必ず勝利できるという平安や希望を味わえるようになっていきます。

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