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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

御霊に仕える努め

コリント人への手紙シリーズ32

コリント人への第二の手紙3章1節~11節

(2026年6月7日)

今回の箇所は、律法に仕える勤め御霊に仕える勤めを対比しています。そして、私たち一人ひとりが成長の可能性を秘めた金のタマゴなのだということを教えてくれます。

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

今回の箇所は、律法に仕える勤めと御霊に仕える勤めを対比しています。ここから、私たちがイエスさまのような存在になりたいという意欲を与えられ、実際に成長していく力を受け取りましょう。

1.律法に仕える務めと御霊に仕える務めの対比

パウロの推薦状

自分たちに推薦状は必要ない
(1節)私たちは、またもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたに宛てた推薦状とか、あなたがたからの推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか。

前回の箇所で、パウロはコリント教会で幅を利かせていた偽教師たちを念頭に、次のように語りました。

(2:17)私たちは、多くの人たちのように、神のことばに混ぜ物をして売ったりせず、誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。
この言葉は、一部の人たちには、人気を失うことを恐れたパウロが必死で自分をアピールしていると誤解されるかもしれません。そこで、パウロはそうではないと言います。
ここで語られる推薦状とは、ある教会や名の知られた人物が巡回伝道者の身元を保証する手紙のことです。当時はお金目当ての偽教師もいて、たびたび問題になっていたので、推薦状があれば教会は安心して巡回伝道者を受け入れることができます。

しかし、自分には推薦状は必要ないとパウロは主張しています。これは、パウロが推薦状そのものを否定しての言葉ではありません。パウロ自身、フィベというケンクレア教会の執事がローマに赴く際、ローマ教会宛に推薦状を出しています。

(ローマ16:1-2)私たちの姉妹で、ケンクレアにある教会の奉仕者であるフィベを、あなたがたに推薦します。どうか、聖徒にふさわしく、主にあって彼女を歓迎し、あなたがたの助けが必要であれば、どんなことでも助けてあげてください。彼女は、多くの人々の支援者で、私自身の支援者でもあるのです。

パウロが語っているのは、「自分とコリント教会の間には推薦状は必要ないはずだ」ということです。それはなぜでしょうか。
コリント教会員が推薦状である
(2節)私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。

パウロは、コリント教会の一人ひとりがパウロの推薦状だと言います。コリント教会は、パウロ・シラス・テモテの働きによって誕生しました。パウロたちは、すでにできている教会を巡回訪問したのではなく、ゼロから教会を開拓したのです。

その働きの結果、コリント教会の一人ひとりがクリスチャンとなりました。だから、コリント教会員を見れば、パウロたちがまっとうな伝道者だということは分かるではないかとパウロは主張しています。
キリストの手紙
(3節)あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。

コリント教会員というパウロ推薦状は、パウロ自身が書いたものではなく、イエス・キリストによって書かれたものです。それだけ確かなものだというわけです。
そして、その手紙は聖霊なる神さまによって心の板に書き記されたものです。

この言葉は、モーセの律法を代表する十戒が石の板に刻まれたことと、あとで解説しますが律法が人の心に刻みつけられるという「新しい契約」を思い起こさせます。この2つのものの対比は、次の話題への導入になっています。

神からパウロに与えられた資格

確信の根拠
(4-5節)私たちはキリストによって、神の御前でこのような確信を抱いています。何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。

コリント教会との関係において、パウロの使徒としての資格は誰かの推薦状によって確かなものになるわけではありません。パウロがコリント教会を生み出したという事実が、パウロの推薦状です。

しかし、コリント教会の誕生は、それはパウロだけの功績ではありません。神さまのお働きによるものです。ですから、パウロの使徒としての資格は、神さまが与えてくださったものだとパウロは信じていました。
新しい契約に仕える資格
(6節)神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

「新しい契約」とは、モーセの律法が与えられて約千年後、預言者エレミヤを通して与えられた神さまとイスラエルとの間の契約です。「イスラエルがモーセの律法を守れば祝福、破り続ければ呪い」というシナイ契約とは別の契約だという意味で、新しい契約と呼ばれています。

(エレミヤ31:33-34)これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──【主】のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

また、預言者エゼキエルも同様のことを預言しています。

(エゼキエル36:26-27)あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。
新しい契約のポイントは3つです。
  • 律法が心に書かれる
  • 神さまとの直接的な関係
  • 罪の完全な赦し
シナイ契約で与えられたモーセの律法は、石と羊皮紙の上に文字として書き出されました。このことをパウロは「文字」(もんじ)と表現しています。一方、新しい契約では、神さまの律法は人の心に刻みつけられます。これをパウロは「御霊」と表現しています。

そして、パウロは「文字は殺し、御霊は生かす」と語ります。モーセの律法の働きは人を殺し、聖霊なる神さまのお働きは人を生かすというのです。

モーセの律法は、人がどのように生きればいいかは教えてくれますが、そのように生きる力を与えてはくれませんでした。そして、誰もモーセの律法を完璧に守ることができる人はいません(唯一の例外が人となって来られたイエスさまです)。

ですから、律法は常に人を罪ありと宣言し、人を罪の罰としての死に追いやります。この場合の「死」とは、神さまから永遠に切り離されることです。祝福の源である神さまから切り離されるのですから、それはどれほど恐ろしく、苦しい状態でしょうか。

しかし、人がイエスさまの恵みの福音を信じて救われた後に与えられる聖霊なる神さまは、人の心の内に律法を刻みつけます。それは、人がどう生きればいいかをただ知るだけでなく、生きる力も与えられて人生が変わることを表しています。これが「御霊は生かす」という意味です。

栄光を帯びたパウロの奉仕

御霊に仕える務めの栄光
(7-9節)石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。

モーセの律法は神さまがイスラエルにお与えになったものです。ですから、「文字は殺す」とパウロが表現したモーセの律法に仕える働きだって、決してつまらないものではありません。

そのことを、パウロは出エジプト記34章に出てくるエピソードを用いて語っています。

モーセは、律法を与えられるためにシナイ山に昇り、40日間神さまと共に過ごしました。そして、モーセが山を下りると、彼の顔が神さまの栄光の光を放って輝いていました。イスラエルの民が恐れたため、モーセは顔に覆いを掛けて過ごすことになったのでした。
しかし、人を死に追いやる結果になってしまった律法の務め、モーセの務めがそれほど栄光に輝くものなのであれば、義を与えて神さまとの関係を回復して生かす御霊の務めは、もっと栄光に輝くもののはずだとパウロは言います。
栄光を失った律法に仕える務め
(10節)実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。

古い時代においては、律法に仕える務めには確かに栄光がありました。

しかし、今や福音を信じて聖霊さまによって心に律法が刻みつけられるという新たな時代がやってきました。新たな時代の御霊に仕える務めがあまりにもすばらしいため、古い律法に仕える務めの栄光がかすんでしまいました。
永続する栄光
(11節)消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。

パウロは、律法に仕える務めを「消え去るべきもの」と表現しました。しかし、これはモーセの律法がつまらないものだとか、悪いものだとかいう意味ではありません。聖書の別の箇所で、パウロは律法について神さまがお与えになった良いものだと語っています。

(ローマ7:12)ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。

その上で、次のように語りました。

(ガラテヤ3:24-25)こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。

到底守り切れない律法のおかげで、私たちは自分の行いの正しさによっては救われないということ、だから神さまに一方的に赦していただかなければならないのだということ、そしてまさに、私たちの罪を赦すためにイエスさまが来られ、十字架にかかり、復活しなければならなかったのだということを知りました。

これが「消え去るべきもの」という意味です。

パウロは、そんな御霊の働きに参加する資格を、自分は神さまによって与えられたのだと言います。その働きの結果、かつては偶像礼拝者だったコリントの人たちが救われ、教会が誕生しました。

だから、救われて確かに人生が変えられたコリント教会員一人ひとりが、パウロの働きを保証する推薦状なのです。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.私たちは聖霊によって変えられつつある

新しい契約は私たちにも効力を持つ

モーセの律法に伴うシナイ契約が、神さまとイスラエルとの間の契約であるのと同じように、元々新しい契約も対象はイスラエルでした。エレミヤの預言でも「わたしがイスラエルの家と結ぶ契約」と語られています。

しかし、別の契約、神さまがイスラエルの先祖であるアブラハム・イサク・ヤコブと結ばれたアブラハム契約では、神さまはアブラハムとその子孫(すなわちイスラエル)を祝福するだけでなく、イスラエルを通じて異邦人のことも祝福してくださると約束しておられます。

(創世記12:3)わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。
この祝福の約束が発展したのが、新しい契約です。ですから、新しい契約は異邦人が多かったコリント教会の人たち、そしてこの私たちにも適用されます。

この点は、新約聖書の他の箇所でも語られています。たとえば、

(エペソ3:6)それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。

ですから、新しい契約の3つのポイント「心に刻まれる律法」「神との直接的な関係」「罪の完全な赦し」は、イエス・キリストの恵みの福音を信じた私たち一人ひとりにも適用されます。
  • 私たちはイエスさまのおかげで、罪を完全に赦されました。 罪のために神さまに捨てられ、さばかれ、滅ぼされることは決してありません。
  • 赦されたどころか、神さまの子どもにしていただきました。私たちは神さまと親子としての親しい交わりを持てるようになりました。どんなときも神さまは私たちと共にいて、守り、支え、本当の幸せへと導いてくださいます。
  • そして、私たちが神さまのみこころにかなうものになるよう、聖霊さまが内側から私たちを造り変え、成長させてくださいます。
そして、その成長のゴールは、イエスさまに似た者になることです。同じ3章の最後で、パウロは次のように語っています。

(18節)私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

私も皆さんも、今ちょうど、イエスさまのようになりつつある最中、成長している最中です。

契約だから絶対に実現する

なぜ「契約」などという堅い話を、今回ことさらに強調したのでしょうか。それは、契約というものは、感情抜きで確実に実現するものだからです。特に神さまは誠実なお方ですから、契約しておいてすっぽかすようなことはなさいません。神さまの約束は絶対に実現します。
コリント教会にはさまざまな問題がありました。パウロに反抗する人もいました。そういう現実を見ると、「本当にこの人たちは神さまの子どもなのだろうか」「本当に罪を赦されているんだろうか」「実は神さまに愛されているどころか、呪われているんじゃなかろうか」と思えるかもしれません。

私たちが自分自身を見るとき、感情的には「神さまに愛されているのは本当だろうか」「本当に救われているんだろうか」「本当に神さまの子どもとして、神さまは私を幸せに導いてくださるんだろうか」と不安になるかもしれません。

しかし、契約は感情とは関わりなく実現します。「心に刻まれる律法」「神との親しい親子関係」「罪の赦し」という新しい契約も、必ず実現しますし、今まさに実現しています。

そのことを信じましょう。

お互いに発展途上人

そういうわけで、私たち一人ひとりは、イエスさまに似た存在に、少しずつ造り変えられている最中です。

パウロは、さまざまな問題行動をしていたコリント教会の人たちを、罪人として切り捨てたりはしませんでした。

教師として、優しく、時に厳しく指導はしましたが、彼らの成長を期待し続けました。罪を悔い改めないために除名処分を求めたメンバーについても、そうすれば気づいて悔い改めてくれると信じていました。

私たちもまた、多くの欠けを持っています。しかし、だからダメだと神さまはおっしゃいません。私たちは、イエスさまのようになれる可能性を持つ、金のタマゴなのです。
エーコちゃんの新生活
この話をお読みください。
「信仰によって無条件で救われている」ということと、「日々きよめられ、成長していかなければならない」ということが、うまくつながらないという質問を受けました。こんなたとえ話でお答えしました。

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昔々、エーコちゃんというストリートチルドレンがいました。エーコちゃんは、それはそれは劣悪な生活をしておりました。

ある日、立派な身なりをした紳士がエーコちゃんの住む町にやってきました。そして、ゴミ箱をあさっているエーコちゃんを見ると、「私は遠い国の王さまだよ。私の娘になっておくれ」と言いました。

最初は、変なおっさんがやってきて、うまいことだまして人身売買でもする気だと思ったエーコちゃんは、このおっさんの言うことを聞こうとしませんでした。

ところが、このおっさんは毎日やって来て、「娘になっておくれ」と言い続けました。それだけでなく、昔はストリートチルドレンだったのに、このおっさんの養子になったという少年少女たちが、入れ替わり立ち替わりやってきました。そして、エーコちゃんに向かって、「あの王さまの子どもにしていただいて、すんごいハッピー!」なんて言うのです。

そこでエーコちゃんは、自分もあのおっさんの娘になれたらいいなあと思うようになりました。でも、自分はダンスも踊れないし、敬語だって使えないし、テーブルマナーだって知らないし、とてもとても王さまの娘になる資格はないと思って、ちょっと尻込みするような気持ちになっていました。

すると、王さまは言いました。「そんなの気にすることはないよ。私はあなたが気に入ったんだ。ダンスやテーブルマナーなんて、これから覚えればいい。とにかく、私はあなたに私の娘になって欲しいんだ。これからずっとあなたと一緒にいたいと思ったんだ。だから、『娘になる』と言っておくれ」。

エーコちゃんは、「こんな礼儀も何も知らない私のままでいいのなら」と、すでに王さまのサインがしてある養子縁組の書類にサインをしました。

さて、身分上は王女さまになったエーコちゃんですが、ついこの前までストリートチルドレンでしたから、ダンスも、テーブルマナーもできないし、言葉遣いも昔のままです。

王さまは、それでも「エーコは、私の大切な娘だよ」と言い続けます。そして、抱きしめてくれたり、おいしい料理をごちそうしてくれたり、いろんな場所に連れて行って、驚くような体験をさせてくれたりします。

エーコちゃんは、「お義父さんは、私が王女さまらしいから愛してくれているんじゃなくて、このままの私を愛してくれているんだな」と理解し始めました。

王さまは、あるがままのエーコちゃんを大切にしてくれましたが、同時に「王女教育」も施してくれました。エーコちゃんのペースに合わせて、ダンスの仕方とか、言葉遣いとか、テーブルマナーとかを教えてくれたのです。王さま自身が教えてくれることもあるし、家来たちが分担して教えてくれることもあります。

最初は、慣れないので、なかなかうまくいきませんでしたが、何年かたつうちに、だんだんと王女さまっぽくなっていきました。

それでも、時には昔の癖が出てしまって、手づかみで料理を食べたり、べらんめぇ調のしゃべり方になったりしますが、それでも王さまはニコニコ笑いながら、「私は、あなたが私の娘としてふさわしい生き方を身につけようと、努力してくれているのがうれしいよ。時間はたっぷりあるから、何度でもやり直していいんだよ」と言ってくれます。

エーコちゃんは、自分がどんな状態でも、このままで王さまの娘なんだということを、日々確信し、感謝しています。そして、「だからこそ」、王さまの娘としてふさわしい存在になりたいと願い、日々努力しているのです。


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王さまの娘という身分を獲得するのは無条件です。たとえ、どんなに王さまの娘としてふさわしくない態度をとっていたとしても、その身分は無条件に与えられます。これが、「行ないではなく、信仰によって救われる」ということです。

でも、今のままでは、王宮での生活を十分に楽しむことはできません。また、他の人を不愉快にさせて、いろいろとトラブルを起こしてしまうかもしれません。

だから、王女としてふさわしい立ち居振る舞いを身につけるため、いろんな努力や訓練を積み重ねなければなりません。それは、単なる苦しみではなく、王女の身分にふさわしい、ステキな人生を満喫するためです。

これが、きよめであり成長です。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
発展途上人
昔は、欧米諸国や日本などと比べて開発が遅れていたり、所得が低かったりする国のことを「発展途上国」などと呼びました(今は開発途上国とか、低・中所得国、あるいは新興国などと呼ぶようです)。

私も、あなたも、あの人も、みんな発展途上人です。発展途上人同士が、互いの欠けている部分を指摘し合い、責め合うような教会の交わりだと、私たちは成長したいという意欲をかえって削り取られてしまうかもしれません。
お互いに発展途上なのだということを確認しましょう。そして、イエスさまのように成長しようという意欲を高め合うために、お互いに欠けている部分を赦し合い、成長を期待し合い、互いの成長のために助け合いましょう。それが教会の交わりです。

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
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