本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

宝の入った土の器

コリント人への手紙シリーズ34

コリント人への第二の手紙4章7節~18節

(2026年6月21日)

苦しみや不安の中で希望を見つけるには?聖書の「土の器」のたとえから、私たちの弱さの中に働く神の力と、困難を乗り越えて平安を得るための3つの視点を解説します。

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

「もう限界だ」「先が見えない」と、困難な状況に心折れそうになることはありませんか? 聖書は「私たちは倒されても、滅びることはない」と力強く語ります。

今回は、コリント人への第二の手紙にある「土の器」のたとえを通して、私たちの弱さや苦しみの中でこそ働く「神の力」について分かりやすく解説します。そして、不安に押しつぶされそうな状況であっても、聖書の約束に基づく確かな平安を取り戻し、再び立ち上がる力を得るための「3つの視点」をご紹介します。

1.弱さや苦しみの中で働く神の力

土の器の中の宝

土の器
(7節)私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。

パウロは、自分たち伝道者のことを土の器にたとえています。土の器とは、当時一般に用いられていた安くて壊れやすい器です。パウロはさまざまな能力を持つ人でしたが、完璧な人間ではありません。欠点もあるし、弱さも抱えています。
実際、同じコリント人への第二の手紙には、次のようなことを言う人がコリント教会の中にいたことが記されています。

(第2コリント10:10)「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない」と言う人たちがいるからです。

しかし、そんな粗末な器の中には、すばらしい宝が入れられているとパウロは語ります。その宝が何かは、直前の6節に書かれています。

(6節)「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

土の器である伝道者の中にある宝は、「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」、すなわち福音に関する知識です。

福音とは、「この自分の罪を赦すために、イエス・キリストが十字架にかかられたこと、そして死んで葬られ、3日目に復活なさった」ということです。

この福音を真実だと受け取り、信じた人は、本当に罪を赦され、神さまの子どもとされ、神さまと親しく交わることができるようになります。ゆえに、福音は「神の栄光を知る知識」と呼ばれています。

そんなすばらしい福音を人々の元に届けるための粗末で壊れやすい器が、自分たち伝道者だとパウロは言うのです。

そして、福音を伝える使命はすべてのクリスチャンに与えられています。ですから、ここにいるお一人びとりも宝を内に秘めた土の器です。
四つの対比1~2
(8節)私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。

土の器である伝道者は、そしてすべてのクリスチャンは、壊れそうになるほどの苦しみを味わいます。その苦しみを、パウロは4つの対比によって表現しています。

第一に、「四方八方から苦しめられるが、窮することはない」。

パウロの伝道の働きは、決して順風満帆ではありませんでした。反対する不信者たちによる嘲笑や迫害、同じ主を信じているはずのクリスチャンたちからの誤解と攻撃、肉体的な疲労、旅行に伴う困難など、さまざまな苦労をパウロはしてきました。
しかし、窮することはないとパウロは言います。これは、問題がすべて消えてなくなるという意味ではありません。問題は相変わらず残ります。この第二の手紙を書いているそのさなかにも、パウロはコリント教会の中に残されているさまざまな問題に頭を悩まされています。

しかし、絶望のあまり押しつぶされることはありません。神さまの助けがあったし、これからもあると信じられるからです。

第二の対比は、「途方に暮れますが、行き詰まることはない」。

使徒であっても、あらゆる事を理解していたわけではありません。先が見えないで、一体どうしたらいいんだろうか迷うことだってあります。信仰があれば悩まず、途方に暮れたりしないということはないのです。

しかし、それでも神さまは自分のことを正しい方向へと導いてくださいます。パウロはそれを信じていたので、完全に行き詰まって人生をあきらめるようなことはしません。

前回の第二回伝道旅行のとき、第一回伝道旅行で誕生した小アジア中央部の諸教会を巡って励ましたパウロは、小アジア西部、すなわちエペソを中心とした地域で伝道したいと願っていました。しかし、その願いはかないませんでした。

それでは、北上して黒海南岸の地域で伝道しようとしますが、これまた道がふさがれました。それで、北西部のトロアスという港町まで流れていきます。神さまはどうして自分をここに導かれたのだろうかと思案していると、寝ているときに「渡ってきて私たちを助けて欲しい」と懇願するマケドニア人の幻を見せられます。

こうしてパウロはヨーロッパに渡り、その結果誕生したのがコリント教会です。
四つの対比3~4
(9節)迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
第三の対比は、「迫害されますが、見捨てられることはない」。

パウロはさまざまな迫害を経験しました。投獄されたり、石を投げつけられたり、ムチで打たれたりし、そのために死にかけたこともあります。

しかし、苦しみに遭うことは、神さまに見捨てられた証拠ではありません。むしろ、パウロたち伝道者が迫害に遭うのは、神さまに愛されている証拠です。
この世は神さまに逆らう方向に傾いています。また、神さまに逆らう悪魔や悪霊たちは、クリスチャンが神さまに忠実に従い、神さまと親しい交わりを体験するのを嫌がります。ですから、クリスチャンが神さまに喜ばれる行いをしようとすると、この世と悪魔から攻撃されるのです。

逆に、この世の人々とまったく同じ行き方をしていたら、つまり神さまなんかどうでもいい、自分は好き勝手に生きるという行き方をしていたら、迫害は起こりません。悪魔や悪霊たちも安心して放っておいてくれます。

つまり、迫害を経験するということは、私たちが神さまに忠実に生きようとしている証拠であり、ゆえに神さまに深く愛されている証拠なのです。

第四の対比は、「倒されるが、滅びない」。

この表現は、ボクシングや戦争のイメージから来ています。ある牧師は、この箇所を「ノックダウンされても、ノックアウトされない」と表現しました。

伝道者は、そしてクリスチャン一人ひとりは土の器であって、弱さを抱えています。失敗したり、病にかかったり、肉体的・精神的な疲れを覚えたり、迫害など様々な苦しみを味わったりして、膝を突き、倒れてしまうことがあります。涙を流しながら天を仰ぎ、預言者エリヤのように「もう十分です、命を取ってください」と祈ることだってあるでしょう。

それでも、最終的な滅びを体験することはありません。神さまに見捨てられて、永遠の苦しみという罰を受けることは決してありません。なぜなら、人が一度イエスさまの恵みの福音を信じたなら、その人の罪は赦され、神さまの子どもとされているからです。

ですから、パウロは倒れても立ち上がって、再び神さまに忠実な歩みを始めました。困難の中でも、神さまに喜ばれる行き方を選び続けようとしてきました。

神さまに用いられる人とは、倒れない人のことではありません。倒されても、神さまによって再び立ち上がる人のことです。

(箴言24:16)正しい人は七度倒れても、また起き上がり、悪しき者はわざわいでつまずくからだ。
イエスの死といのち
(10-11節)私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。

パウロは、様々な苦しみを味わいながらも伝道の働きを続けている自分たちについて、「イエスの死を身に帯びている」と表現しています。「身に帯びている」とは「携帯している」という意味です。
若者がスマホを肌身離さず携帯しているように、パウロたち伝道者は常に死と向かい合わせでした。パウロはイエスさまの十字架の死について語りましたが、パウロ自身も常に殉教の死の一歩手前の所にいたのです。

しかし、十字架につけられ、死んで葬られたイエスさまは、3日目に復活なさいました。それにより、私たちは単に罪を赦されただけでなく、神さまの子どもとしてまったく新しく生まれ変わりました。

ですから、先ほどパウロが語った4つの対比のように、私たちは苦しみの中でも絶望することなく立ち上がることができます。
いのちはあなたがたのうちに働く
(12節)こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。

しかも、パウロは伝道者が死を覚悟しなければならないような経験をしながら伝道の働きをするのは、他の人々に霊的ないのちをもたらすためだと言います。実際、迫害されても働きをやめなかったパウロのおかげで、コリントの町に福音が届けられ、多くの人が救われました。

神さまのご計画は、私たち個人が祝福され、繁栄することではありません。神の民全体が新しいいのちを体験し、成長することです。

信じているもの

信じるゆえに語る
(13節)「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。

ここで引用されているのは、詩篇116:10の言葉です。この詩篇116篇を書いた詩人は、反対者たちから中傷され、死の危険さえ味わっていました。しかし、神さまに助け出されたことを喜び、感謝し、賛美しています。

いや、この詩人は、まだ死が自分の周りを取り囲んでいるその時も、神さまの守りと助けがあることを信じていました。そして、「助けてください」という懇願の祈りをささげただけでなく、「神さまは助けてくださる」と宣言し、神さまを賛美し、先取りの感謝をしました。

それが「私は信じる。ゆえに語る」という言葉です。パウロもあの詩篇116篇を書いた詩人と同じ信仰を持っていました。
復活信仰
(14節)主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。

パウロを支えていたのは、復活信仰です。天の父なる神さまは、十字架にかけられて殺されたイエスさまをよみがえらせてくださいました。それと同じように、私たちが死んでも、神さまが定められた日に復活します。

イエスさまは弟子たちにおっしゃいました。

(マタイ10:28)からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。

私たちの人生は死んで終わりではありません。死んだ後の方がはるかに長いのです。何しろ永遠に続きますから。そして、先に行けば行くほど祝福が大きくなっていきます。その希望があるからこそ、パウロたちは迫害をものともせずに者ともせずに福音を宣べ伝え、永遠のいのちを人々に届け続けました。
すべてはあなたがたと神の栄光のため
(15節)すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。

パウロは、自己犠牲的にがんばっている自分をアピールして誇っているわけではありません。パウロの願いは、多くの人々がイエスさまの恵みの福音を信じて救われ、感謝に満ちあふれた毎日を送るようになることです。また、それによって神さまの栄光、神さまのすばらしさが明らかになっていきます。

パウロが求めたものは、最終的には神さまの栄光がますます明らかになることです。そして、神の栄光こそが、聖書の中心的なテーマでもあります。

神さまがこの世界をお造りになったのも、罪を犯した人間をただちに滅ぼさず、救いの計画をお立てになったのも、そのためにイエスさまを地上に送られたのも、十字架と復活が起こったのも、すべて神さまの栄光が明らかになるためです。

福音というすばらしい宝が、私たち人間という壊れやすい土の器に入れられたのも、人間のすばらしさよりも神さまのすばらしさを際立たせるためです。

ふたつのものの対比

外なる人と内なる人
(16節)ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

パウロは、世界に苦しみがあるという現実を否定しません。苦しみのために外なる人は衰えてしまうこともあります。

たとえ迫害を経験していなかったとしても、年を取ってくれば、体力は衰え、目はかすみ、耳は遠くなり、ほんのちょっとの段差でも躓き倒れるようになります。また、この世には災害や病気が存在し、時に私たちを苦しめます。

そればかりではありません。私たちの外なる人は、必ず死を経験します。どんなにこの世で栄華を極めても、健康に気を配っても、人によって長い短いの差はあれ、いずれはみんな死んでしまいます。

それでも私たちの内なる人、私たちの霊は、毎日毎日新たにされ、良い方向に変化・成長していきます。復活なさったイエスさまと一つにさたことで、永遠のいのちが与えられたからです。
軽い苦難と重い永遠の栄光
(17節)私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。

私たちが味わう苦しみはつらいものです。しかし、いつまでも続くものではありません。せいぜい100年です。しかし、イエスさまを信じた私たちに用意されている祝福は、その10倍の1000年どころか永遠に続きます。

その希望が、今の苦しみに耐える力、それどころか前に進む力を与えます。
見えるものと見えないもの
(18節)私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

ここを読んで、ヘブル人への手紙の一節を思い浮かべました。

(ヘブル11:1)さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

ヘブル書の「保証する」とは、土台として支えるという意味です。また「確信させる」は、裁判で証拠を立証するという意味を持ちます。つまり、信仰はクリスチャンが抱いている希望、まだ実際に実現しておらず目では確認できないものを、確かに存在する事実に変えるということです。
もちろんパウロは、「強く願えば必ず実現する」という引き寄せの法則や、「まあ、何とかなるでしょ」という楽観主義のようなことを語っているわけではありません。

パウロの将来の祝福に対する信仰は、聖書を通して示されている神さまの約束に基づいていました。全知全能の神さまの約束だから、必ず実現すると信じられるのです。

そして、私たちが聖書の約束に基づいて抱いている将来に対する希望も、単なる願望にとどまりません。必ず実現します。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.苦しみの中で何を見るか

苦しみの中で、だんだんと悪くなっていく下り坂の未来、絶望的な未来、破壊的な未来を思い描いてはいないでしょうか。苦しいときほど、私たちが意識してみなければならないものがあります。

(1) 福音のすばらしさ

パウロは、弱い自分を認めつつ、その中に宝があると言いました。私たちに救いをもたらし、神さまとの親しい関係を回復させてくれる恵みの福音です。

福音は私たちに何をもたらしてくれ、またこの先何をもたらしてくれるのでしょうか。
神との和解
福音は私たちを救いに導きます。聖書が教える救いとは、一言で言えば神さまとの和解、仲直りです。

生まれながら罪の性質を身に宿し、神さまを無視して自分勝手に生きてきた罪人の私たちは、本来なら神さまの敵であって、ただちに命を取られて、地獄の炎の中で永遠に苦しみ続ける罰を受けてもおかしくありませんでした。

しかし、そんな私たちと神さまは仲直りして、親しい交わりを持ちたいと願ってくださいました。そして、イエスさまが私たちの身代わりとして死に、罪の呪いを一身に背負ってくださいます。それを信じた私たちは、自分で償いをしなくても一方的に罪を赦していただけました。
罪の赦し以上の救い
しかも、救いとは、単に罪の罰を受けなくなったということだけではありません。もちろん、将来地獄で永遠に苦しみ続けることがなくなったというのは素晴らしいものです。しかし、救いはそれだけではないのです。
福音を信じた私たちは、全知全能の神さま、愛に満ちあふれていらっしゃる神さまの子どもにしていただきました。

私たちを子どもとして愛し、私たちの幸せを心から願っておられる神さまと、私たちは親しく交わることができます。いつでも祈り、自分の思いを聞いていただくことができます。それはどんなに大きな安心材料でしょうか。
綱渡りの名人と勇気のある少年
この話をお読みください。
アメリカに綱渡りの名人がいました。彼がナイヤガラの滝の上にロープを張り、その上を渡るというので、マスコミの人々、そしてたくさんの見物人が詰めかけました。すると、名人は苦もなく渡って見せたのでした。みんな彼をほめたたえました。

名人は言いました。「人を背負って渡ることができると思いますか?」 みんな口々に言いました。「もちろんさ!」「あんたなら絶対できるよ!」

すると名人は目の前にいた人に言いました。「じゃあ、あなた、私の背中に負ぶさってください」。「と、とんでもない!」「できると言ったでしょ?」「い、いや……」。名人は別の人に声をかけましたが、誰も背中に負ぶさって一緒に綱渡りをしようと言う人はいませんでした。

ところが、一人の少年が「僕やる!」と手を挙げました。そして、名人はこの少年を背負って、見事にナイヤガラを渡り切りました。

レポーターが早速少年にインタビューしました。「ねえ、ぼうや。怖くなかったのかい?」 すると少年、にっこりと笑って言いました。「うん。だってあの人は僕のお父さんだもの」。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
苦しみに遭うとき、将来に不安を抱くとき、絶望しかけたとき、自分に与えられている救いがいかにすばらしいか、そしてそれをもたらしてくれたイエスさまの恵みの福音がいかにすばらしいか、そこに目を留めましょう。そして、「だから絶対大丈夫」という希望をいただきましょう。

(2) 聖書の約束

「何があっても、何がなくても大丈夫。神さまが最も良いことをしてくださる」という、私たちの希望の土台は聖書です。

信仰は、私たちの願望を叶えるための便利な道具ではありません。聖書が私たちに何を約束しているか、それに目を留め、大切にしましょう。
増田牧師の証し
私が牧師として働いていることを、今では両親も応援してくれています。しかし、最初はそうではありませんでした。教師になると言って東京の私立大学に入った息子が、よりにもよって伝道者になるという。クリスチャンではない両親からは、当然大反対を受けました。

そして、頑として私が意志を曲げないため、兵糧攻めが始まります。一切の仕送りが止まったのです。毎日の生活費が重くのしかかることになりました。

また、福島に引っ越して開拓伝道を始めた頃、なかなか仕事が見つからなくて先々の生活が不安になりました。

そんなとき、私を支えてくれたのが聖書の言葉です。

(マタイ6:31-33)ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

苦しみが襲ってきたとき、将来に不安を覚えたとき、何をどうしていいか途方に暮れるとき、悪魔が私たちの心に滑り込ませてくる絶望的な未来ではなく、聖書の約束に目を留めましょう。

(3) 神の栄光

パウロは、自分自身の幸せのことだけ考えていたわけではありません。彼が求めていたのは、神さまの栄光、神さまのすばらしさが今よりもっと明らかにされることです。

パウロは苦しみに遭ったとき、もちろん素直にそれを取りのけてくださるよう祈りました。しかし同時に、苦しみは決して無駄なものではないことも知っていました。

私たちが祝福された快適な毎日を送ることを通してだけでなく、苦しみを通しても、神さまのすばらしさが明らかになります。
やすけさは川のごとく
聖歌476番「やすけさは川のごとく」という賛美の歌をご存じでしょうか。

(1番)
安けさは川のごとく 心ひたすとき
悲しみは波のごとく 我が胸満たすとき
全て 安し 御神共にませば
<日本福音連盟「聖歌」より>


この曲を作詞したホレイショ・G・スパフォードは、1871年のシカゴ大火で財産を失い、その前後に息子も亡くしています。さらに1873年、妻と四人の娘が乗った船が衝突事故で沈没し、娘たちが亡くなってしまいました。

スパフォードはただ一人生き残った妻のもとへ向かい、娘たちが犠牲になった海の上でこの歌詞を書いたと言われています。

この歌の英語のタイトルは「It Is Well」、すなわち「良い」「大丈夫」です。

多くのものを失い続けたスパフォードの痛み、悲しみは決して小さいものではありません。それでも、スパフォードは神さまは良いお方だと信じ続けました。だから、自分の人生は決して不幸ではないと信じ、魂、心の奥深いところに平安を味わいました。

神さまは、スパフォードを慰め、平安を与えてくださっただけではありません。この聖歌を通して、後の時代の多くのクリスチャンたちも慰め励まし続けてくださっています。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
私たちの周りでどんなことが起ころうとも、神さまが良いお方だということ、神さまが力と愛に満ちておられるということ、そのすばらしさは決して変わることがありません。
  • 全宇宙を支配するばかりか、この私たちのことも愛し導いてくださる天のお父さま。
  • 神の国の王であるにもかかわらず仕える者の姿を取り、私たちのためにいのちさえ投げ出してくださったイエスさま。
  • 私たちと常に共にいて、私たちを内側から造り変え、私たちのためにとりなしの祈りをささげてくださる聖霊さま。
苦しみに遭うとき、将来に不安を抱くとき、絶望しかけたとき、私たちの信じる神さまのすばらしさに目を留めましょう。そして、ますます神さまがすばらしさを自分にも、周りの人にも明らかにしてくださるよう願いましょう。

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com