(2026年11月8日)
神のみこころに従って生きるとは、具体的にどういうことでしょうか。ペテロの第一の手紙4章1~11節から、終末時代を生きるクリスチャンに大切な3つのことを挙げます。
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
私たちの地上での人生には、必ず終わりが訪れます。しかし、その日がいつ来るのかは誰にも分かりません。では、残された時間を、私たちはどのように使えばよいのでしょうか。
今回の箇所でペテロは、世の終わりが近いことを踏まえて、クリスチャンがどのように生きるべきかを教えています。そこから、日々の生活の中ですぐに実践できる、3つの大切なことを学びましょう。
1.終末時代を生きるクリスチャンへの勧め
罪との決別
キリストと同じ心構え
(1節)キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。
後半の「肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っている」というのは、苦しい思いをすれば罪の誘惑が無くなるという意味ではありません。神さまに従うためには苦しみを味わうことになってもいいと覚悟した人は、罪との関わりを断とうとするという意味です。
イエスさまは、天の父なる神さまのみこころに忠実に従われました。そのために、ユダヤの指導者たちの反発を招き、迫害の末に十字架の死を味わわれました。しかし、イエスさまには、たとえ苦しんだとしても神さまに従うことを優先するという覚悟がありました。
そんなイエスさまと同じ心構えを持つようにと、ペテロは読者に勧めています。しかも、その覚悟を「武装」という言葉で表現しています。
私たちの内にある罪の性質は、神さまに逆らわせようと私たちに働きかけます。それは、生やさしい働きかけではなく、まるで武装勢力が戦いを挑んでくるかのような激しさです。
ですから、こちらも戦いに赴く兵士のような覚悟で罪と戦い、神さまに従う生き方を選び続けなければなりません。
神のみこころに生きる
(2節)それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。
ペテロは、地上で残されている時間を、人間の欲望ではなく、神さまのみこころに従って生きるよう勧めています。
「地上で残されている時間」という言葉に注目しましょう。私たちは、永遠にこの地上で生き続けるわけではありません。死を迎えるか、あるいは携挙されて天に挙げられるか、いずれにしても地上生涯には限りがあります。
しかも、残された時間がどれくらいかは誰にも分かりません。私は150歳まで生きるつもりでいますが、今日天に召されてもおかしくありません。その限られた時間をどのように使うか、それが私たちに問われています。
ここでペテロが語っているのは、単に罪を犯さないという消極的な生き方ではありません。神さまのみこころに積極的に従う生き方が求められています。
古い生き方はもう十分
(3節)あなたがたは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけりましたが、それは過ぎ去った時で十分です。
小アジアの教会には、異邦人クリスチャンがたくさんいました。かつての彼らは、まだ救われていない異邦人たちと同じように、偶像礼拝と、それに伴う宴会や性的な遊びなどにふけっていました。
しかし、救われてクリスチャンとなり、イエスさまのしもべ、神さまの子どもとなった今は、もうそのような古い生き方に戻ってはなりません。
クリスチャンへの迫害・中傷
世の人々からの中傷
(4節)異邦人たちは、あなたがたが一緒に、度を越した同じ放蕩に走らないので不審に思い、中傷しますが、
異邦人社会において、偶像礼拝は単に心の世界の話ではありません。地域の共同体にとって大切な行事や活動の一部だったのです。日本でもそうですね。
ですから、クリスチャンになった人が偶像礼拝をやめて、それに伴う集まりや宴会などに参加しなくなると、世の人々は不思議に思い、クリスチャンたちを非難するようになるでしょう。
もちろん、クリスチャンが他の人たちのことを「私たちはきよいが、お前たちは邪悪である」などと言って傲慢な態度を取れば、当然反発を招くでしょう。私たちはいつも謙遜な態度を保ち続けなければなりません。
しかし、たとえこちらが積極的に相手を攻撃したり侮辱したりしなくても、ただ異質な存在だというだけで馬鹿にされたり中傷されたりすることがあるのです。
中傷する人の申し開きの場
(5節)彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。
ここまで見てきたように、私たちが神さまに忠実に生きようとすると、世の人々から反発を招くことがあります。その結果、迫害を受けたり中傷されたりして苦しい思いをすることもあるでしょう。
しかし、私たちがそのような人たちに復讐する必要はありません。神さまがその人をさばいてくださるからです。
霊において生きるため
(6節)このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。
ペテロは死後のさばきについて語りましたが、死後のさばきがあることは、信者たちの心を伝道に向かわせます。
自分のことを迫害したり中傷したりする人たちが、死んだ後にさばきを受けて、燃えるゲヘナで永遠の苦しみを受けるからざまあみろ……ではありません。
ステパノは、自分を殺そうとして石を投げつけてくる人たちについて、神さまに祈りました。
(使徒7:60)主よ、この罪を彼らに負わせないでください。
ステパノが語った「彼ら」の中に、青年サウロ、後の使徒パウロがいました。サウロは、教会を迫害することこそ神への奉仕であると信じ、多くのクリスチャンを捕らえたり、死刑にしたりしていました。しかし、後に彼は福音を信じて救われることになります。
パウロのように、かつてはクリスチャンを迫害したり中傷したりしていた人も、その人自身が救いを体験すれば、迫害をやめてくれるでしょう。それどころか、強力な味方になってくれます。
後半の「肉においては人間としてさばきを受ける」というのは、肉体的に死ぬことを指します。元々人間は死なない存在でしたが、アダムが罪を犯してから死ぬものになりました。
しかし、福音を信じた人は、たとえ肉体的に死んでも、その霊は生きます。すなわち、神さまとの親しい交わりを体験することになります。
終末にふさわしい生活
万物の終わりが近づいたから
(7節)万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
万物の終わりの時が、もうすぐそこまで来ています。では、今のこの時代に、私たちクリスチャンは何をすべきでしょうか。
まずペテロは祈りを挙げています。そして、祈りのために心を整え身を慎むよう勧めます。
「心を整える」とは、正しい判断力を保つという意味で、「身を慎む」とは、注意深くいるという意味です。それと真逆な態度を取る人たちが、コリント教会やテサロニケ教会の中にいました。
コリント人への手紙シリーズでも触れましたが、コリント教会の礼拝は興奮のあまり秩序が失われているような状態でした。また、テサロニケ教会の中には、世の終わりが近いからといって働かなくなった人たちがいたようです。
愛し合いなさい
(8節)何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
ペテロは、「祈りのために、心を整え身を慎め」と命じましたが、誰とも交流せず祈り続けるというのも問題です。ペテロは、教会員同士が愛し合うようにと命じました。しかも、「熱心に」です。この「熱心に」という言葉には、「持続的に」というニュアンスがあります。
したがって、ここで求められている愛は、一時的な情熱ではなく、困難があっても持続する愛です。
後半の「愛は多くの罪をおおう」とは、他の人の罪に対して見て見ぬ振りをしなさいということではありません。
他人の過ちを必要以上に暴き立てたり、恨みを持ち続けたりしないこと、そして自分が被害を被った場合には、相手を赦すことによって関係を回復することを指しています。
もてなす愛
(9節)不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。
「もてなす」と訳されている言葉は、「見知らぬ人、旅人、外国人、客」という意味の言葉と、「愛する」という言葉の合成語です。
当時の旅は危険でしたし、宿屋も決して快適な場所ではありませんでした。そこでクリスチャンたちは、旅をしてきた信者や巡回伝道者を自宅に招いて泊まらせ、食事や必要な品々を提供していました。
また、迫害が激しい地域の教会では、信者たちが貧しい生活を強いられていました。エルサレム教会がその典型例です。そこで、小アジア、シリア、ギリシアなどにある諸教会が義援金を集め、エルサレム教会の仲間たちを支援しました。
こういった支え合いの行動には、大きな犠牲が伴います。しかし、ペテロは「不平を言わないで」と注意しています。8節の「熱心な愛」、すなわち「困難があっても持続する愛」に通じます。
賜物を用いた支え合い
(10節)それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。
「賜物」とは、聖霊なる神さまが、クリスチャン一人ひとりに与えてくださる特別な奉仕の能力のことです。
- どのような賜物があるかについては、こちらの資料をご覧ください。
「賜物」と訳されているカリスマは、「恵み」(カリス)という言葉から来ています。賜物は、私たちが努力して手に入れたものではなく、神さまが一方的に恵みによって与えてくださったものです。ですから、私たちは自分の賜物を誇ることができません。
さらに、賜物が与えられている私たちのことを、ペテロは「神の恵みの管理者」だと言いました。私たちは、神さまの恵みを他の人に届けるために、自分の能力を使う必要があります。
大切なことは、自分に与えられている能力が何であれ、すべて他の人に仕えるために与えられているのだということです。
賜物を用いる目的
(11節)語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。
聖霊の賜物の中には、いやしや異言や預言、普通なら知り得ないことを知る力など、超自然的な能力もあります。しかし、それらの力は、自分自身が偉くなったかのように自慢したり、他の人を支配したりするためのものではありません。
私たちは神さまの恵みを他の人に届けるために、自分に与えられている賜物、すなわち奉仕の能力を用います。それにより、最終的に神さまがほめたたえられることになります。
手紙を通して神さまからのメッセージを語り続けてきたペテロも、ここで神さまを賛美します。ペテロの願いは、自分が教師として尊敬されることではなく、神さまがほめたたえられることだからです。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.世の終わりにふさわしい生活を送ろう
イエスさまは、世の人々から反発されて迫害され、苦しめられることを覚悟した上で、神さまに従い続けました。ペテロは、私たち読者に、同じ覚悟をするようにと命じます。それは、世の終わりが近いからです。
終末時代を生きる私たちに求められているのは、ただ単に罪を犯さないというだけでなく、積極的に神さまのみこころにかなう生き方をする覚悟です。
では、神さまのみこころにかなう生き方とは、いったいどのような生き方でしょうか。今回の箇所で、ペテロは3つのことを私たちに教えてくれています。
もう少しだけ祈ってみよう
7節でペテロは、「祈りのために、心を整え身を慎むように」と命じています。思いがけないことが起こると、あるいは起きそうになると、私たちは慌てふためいてしまいます。しかし、そのようなときにこそ心を静めて、神さまに祈る必要があります。
この話をお読みください。
ある農夫が畑仕事をしていると、突然、鍬の柄が折れてしまいました。農夫は困ったことになったと思いました。明日は種まきの予定なので、今日中に畑を耕しておかなければなりません。しかし、この鍬では耕すことができないではありませんか。
そこで、折れた柄を縄で縛ってみました。しかし、力を入れるとすぐに外れてしまいます。次に、木の枝を添えて補強してみましたが、やはりうまくいきません。何度も修理を試みているうちに、すっかり時間がたってしまいました。
やがて昼食を摂る時間になり、隣の農場で働いていた農夫仲間がやって来て言いました。「さっきから何をやってたんだい?」 農夫が事情を説明すると、仲間は言いました。「それなら鍛冶屋に行って、新しい柄を付けてもらえばいいじゃないか」。
農夫はため息をつきました。「そうか、その手があったか。何とか自分で直そうとして、半日無駄にしてしまったよ」。
さて、私たちも同じようなことをしていないでしょうか。 何か問題が起こると、まず自分の知恵や経験で解決しようとします。あれこれ考え、人に相談し、できる限りの手を尽くします。それでもうまくいかなくなって、ようやく神さまに祈るのです。
もちろん、自分で考えることも、人に相談することも大切です。しかし、祈りが最後の手段になってしまっているとしたら、もったいない話ですね。
(箴言3:5-6)心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。
「もう少しだけ祈ってみよう」と申し上げましたが、「もう少しだけ」には2つの意味があります。
一つは長さ。もう少しだけ長く祈ってみましょう。そして、もう一つは頻度。今よりも少しだけ祈る機会を増やしてみましょう。
愛を実践しよう
今回の箇所で、ペテロは何度も愛の実践について語っています。
- 迫害する人の救いのために福音を語り続けること
- 相手の間違いを言い立てず、かえって相手を赦して関係を回復すること
- 犠牲を厭わず他の人をもてなすこと
- 自分の能力を使って他の人に仕えること
などです。
誰に対して何を語り、何を実践することが愛なのか、考えながら生活しましょう。そして、実際にそれを行いましょう。
神の栄光を現そう
最後にペテロは、私たちが賜物を用いて仕え合う目的は、すべてにおいて神さまがほめたたえられることであると語っています。
私たちの語る言葉、行う行動によって、神さまのすばらしさが自分にも周りの人にも、今までよりも少しでも明らかになる。それが私たちの存在目的です。
16世紀末から17世紀初頭にかけて活躍した天文学者に、ヨハネス・ケプラーという人がいます。彼は元々牧師になることを目指して大学に入りましたが、そこでメストリンという教授から天文学を学んで興味を覚え、自らも天文学の道に進むことになります。
あるときケプラーは、惑星同士の距離が、数学的な美しい規則に則っていることを発見しました。そのことをメストリン教授に報告する手紙の中で、ケプラーは次のように語っています。
私はこれを発表しようと思います。自然という書物の中において認められることを望みたまう神の栄光のために。
私は神学者になるつもりでした。私の心は長い間落ち着きませんでした。しかし、今こそ天文学においても、神に栄光を帰することができたのです!
(渡辺正雄著「科学者とキリスト教」BLUE BACKSより)
ケプラーは、天体を観測することによって、宇宙を創造なさった神さまのすばらしさを明らかにしようとしました。
では、皆さんはいかがでしょうか。ケプラーのように、歴史に名が残るような功績を挙げることだけが、神さまの栄光を現すことではありません。
あるおばあさんは、何かあるたびに「ありがとう」「感謝します」「おかげさまで」と、人や神さまに感謝をささげていました。周りの人たちは、そんなおばあさんの言動を見て、すべてを支配して動かす力をお持ちである神さま、そして一人ひとりを個人的に覚えて守り導いてくださる神さまのすばらしさを知るのです。
神さまのすばらしさを明らかにするために、今できることは何でしょうか。それを考え、実践しましょう。