早期説と後期説
出エジプト(モーセに率いられてイスラエルがエジプトを脱出したこと)の時期については、考古学的に2つの説があります。紀元前15世紀とする早期説と、紀元前13世紀とする後期説です。
早期説
早期説の根拠は、
- 第1列王6:1からの計算(ソロモンの即位は前970頃で、出エジプトはその480年前。すなわち前1450年頃)。
- 前14世紀にハビルと呼ばれる人々がカナンの地を侵略しているという文書が残っていること(ヨシュア率いるイスラエルによるカナン侵攻?)。
- 当時いた王の娘ハトシェプストだったら、ユダヤ人の男子を殺せという父の命令に背いて、モーセをかくまいかねない。
などです。
後期説
一方、後期説の根拠は、
- 出エジプト1:11にラメセスという町が出てきますが、第19王朝のラメセス2世(在位前1290-1224年、または前1279-1212年)が「ペルラメセス」(ラメセスの家)という首都を建設したということ。
などです。
早期説と後期説のどちらが正しいかは、まだ決着がついていませんが、聖書の他の箇所と調和しやすいのは早期説です。ここでは、早期説に基づいて、古代エジプト史の中に当てはめていきます。
年表
エジプト王の即位年、死亡年は諸説あります。ここではWikipedhiaを参考にしましたが、一部整合しないものは統治期間を元に計算し直してあります。また、出エジプトの時期は紀元前1450年としました。
前1880年 |
ヤコブ一家のエジプト移住 |
前1710年 |
ヒクソスがナイル川下流地域を支配。 |
前1570年 |
イアフメス1世即位。 |
前1560年 |
イアフメス1世、ヒクソスを追い出してエジプトを統一する。 |
前1546年 |
イアフメス1世死亡。 |
前1551年 |
アメンホテプ1世即位(イアフメス1世の死後5年たっていますが、この間は、母が摂政として補佐?)。 |
前1524年 |
アメンホテプ1世死亡、トトメス1世即位。 |
前1530年 |
モーセ誕生。 |
前1518年 |
トトメス1世死亡、トトメス2世即位。 |
前1504年 |
トトメス2世死亡、トトメス3世とハトシェプスト即位(共同統治)。 |
前1490年 |
モーセ、ミデアンへ逃れる。 |
前1478年 |
ハトシェプスト退位。 |
前1453年 |
トトメス3世死亡、アメンホテプ2世即位。 |
前1450年 |
出エジプト。 |
前1419年 |
アメンホテプ2世死亡、トトメス4世即位。 |
前1410年 |
モーセ死亡。イスラエルのカナン侵攻開始。 |
前1386年 |
トトメス4世死亡。アメンホテプ3世即位。 |
エジプト王と聖書の記述
イアフメス1世
イアフメス1世は、ナイル川河口から800キロ上流にあったテーベを中心に治めた、第17王朝の出身です。当時は、ナイル川下流地域を、ヒクソスと呼ばれるカナンの地(シリア、パレスチナ)から来た民族が支配していましたが、イアフメス1世はこれを駆逐して全エジプトの統一に成功しました。
イアフメス1世から始まる統一王朝は、第18王朝と呼ばれていて、前1293年頃まで続きます。黄金のマスクで有名なツタンカーメン(在位前1342年-1324年)も、第18王朝に属します。
ヒクソスの王朝がナイル川下流に誕生したのは前1710年頃ですから、ヤコブ一家がエジプトに移住してきた頃(前1880年)より170年も後ですが、ヒクソスは同じくパレスチナから来たイスラエルに対しては寛容だった可能性があります。
逆に、ヒクソスを追い出したイアフメス1世は、ユダヤ人に対する恩義は感じていなかったでしょう。それが、後に起こるユダヤ人迫害の背景にあると考えられます。
トトメス1世
第18王朝三代目の王であり、モーセが誕生した頃の王です。ということは、彼が「ヨセフのことを知らない新しい王」(出エジプト1:8)であり、労役を課したり、生まれた男子を殺せと命じたりするなど、ユダヤ人に対する激しい迫害を始めた最初の王なのでしょう。
ハトシェプスト
ハトシェプストは、トトメス1世の第1王女です。そして、トトメス2世は異母姉であるハトシェプストと結婚することで四代目の王となりました(古代エジプト王宮では、きょうだいや親子間の結婚はよく行なわれていました)。
トトメス2世は、側室が生んだトトメス3世を後継者に指名しましたが、3世がまだ幼いうちに亡くなります。そこで、ハトシェプストが共同王として3世を支えましたが、実質的にはハトシェプストが権力を独占していました。公式の場では男装し、付けひげまでしていたようです。
ナイル川に流されたモーセを拾い、養子に迎えた王の娘は、ハトシェプストではないかという説があります。王は、ユダヤ人の男の子は殺すようにと全エジプトにお触れを出していましたから、それに逆らう行為をしたことになりますが、後に女王の座に上り詰めるハトシェプストなら、確かにやりかねません。
出エジプト記
2:5 すると、ファラオの娘が水浴びをしようとナイルに下りて来た。侍女たちはナイルの川辺を歩いていた。彼女は葦の茂みの中にそのかごがあるのを見つけ、召使いの女を遣わして取って来させた。
2:6 それを開けて、見ると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をかわいそうに思い、言った。「これはヘブル人の子どもです。」
2:7 その子の姉はファラオの娘に言った。「私が行って、あなた様にヘブル人の中から乳母を一人呼んで参りましょうか。あなた様に代わって、その子に乳を飲ませるために。」
2:8 ファラオの娘が「行って来ておくれ」と言ったので、少女は行き、その子の母を呼んで来た。
2:9 ファラオの娘は母親に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私が賃金を払いましょう。」それで彼女はその子を引き取って、乳を飲ませた。
2:10 その子が大きくなったとき、母はその子をファラオの娘のもとに連れて行き、その子は王女の息子になった。王女はその子をモーセと名づけた。彼女は「水の中から、私がこの子を引き出したから」と言った。
トトメス3世
モーセがミデアンの野に逃れ、チッポラと結婚して羊飼いとして暮らし始めてかなりの年月がたってから、エジプト王が死んだと聖書に書かれています。
「それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた」(出エジプト2:23)。
上記の年代表を見ると、確かに出エジプトの直前にトトメス3世が死んでいます。
アメンホテプ2世
外征でも内政でも優れた腕を発揮した王として知られています。
早期説が正しいなら、彼が出エジプトの時のファラオと考えられますが、歴史的な証拠はまだ見つかっていません。それは、父のトトメス3世が、共同統治者であったハトシェプストの死後、彼女の名前や肖像を徹底的に抹消したように、自分に都合の悪い歴史を記録しなかったからかも知れませんね。
アメンホテプ3世
カナンの地の領主がアメンホテプ3世に援軍を求める文書が残っています。その文書の中で、「ハビル」と呼ばれる人々が、カナンの地を侵略していると言われています。もしかしたら、モーセの後継者であるヨシュア率いるイスラエルが、次々とカナンの地を占領していったことを示しているのかもしれません。
「ヨシュアはすべて【主】がモーセに告げられたとおりに、その地をことごとく奪い取った。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族への割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに与えた。そして、その地に戦争はやんだ」(ヨシュア11:23)。