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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

謙遜と畏敬と恵み

イスラエルの王シリーズ1 「ソロモン」(統一王国)

第1列王記11章1節〜13節

(2021年1月10日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

2節の命令は、出エジプト23:31-33やヨシュア23:12-13に書かれています。

3節の「王妃」と「側女」の違いは、子どもが生まれた場合の地位の違いです。王妃の産んだ子には王位継承権が与えられましたが、側女の子には与えられませんでした。

7節の「高き所」は、元々は小高い丘や山の上のことです。ソロモンが神殿を建てるまで、イスラエルの人々は聖書の神ヤハウェに対するいけにえを、高き所に築いた祭壇でささげていました。後には、たとえ平地でも祭壇を築いたり礼拝をささげたりする場所を「高き所」と呼ぶようになりました。
ただし、カナン人たちも高き所で異教の神々にいけにえをささげていたため、出エジプト後にカナンに定住したイスラエル人にもその悪影響がもたらされました。その結果、「高き所」という言葉は、「異教礼拝・偶像礼拝を行なう場所」という意味で用いられることが多くなってしまいました。

ソロモンは、ダビデ王と部下ウリヤの妻であったバテ・シェバとの間に産まれた子どもです。姦淫の結果産まれた子どもはすぐに死んでしまい、その後ソロモンが生まれました。

イントロダクション

これからしばらく、イスラエルの王について学んでいきます。
彼らの生き方や彼らに関わられた神さまの言動を見ていくことで、現代の私たちへの教訓や励ましを受け取りたいと思います。

最初の王であるサウルや、次に王となったダビデについては2014年から2015年にかけて語ったサムエル記のメッセージで触れましたので、今回のシリーズではそれ以降の王について見ていきましょう。今回は、ダビデの跡を継いだソロモン王です。

まずは、私たちの良いモデルとしてのソロモンに注目してみましょう。

1.ソロモンの知恵と栄華

知恵

ソロモンは知恵者として有名です。あるとき、シェバの女王がソロモンの元を訪ねてきました。シェバはアラビア半島の南西端にあった国で、今のイエメンに当たります(エチオピアという説もあり)。表面上は通商条約を結ぶためでしょうが、女王はソロモンの知恵の噂を聞いて、本当かどうか試してやろうと思い、様々な難問を用意していました。すると、ソロモンは見事すべての難問に回答しました。

また、当時の王は、裁判官の役割も担っていました。あるとき、ソロモンは同居している2人の遊女の裁判を行ないました(3:16-28)。彼らが言うには、2人とも同じ時期に子どもを産んだのですが、そのうち1人の子どもが死んでしまいました。そして、2人の女性とも「生き残った子どもは自分が産んだ子だ」と主張して争っているというのです。

話を聞いたソロモンは剣を持ってこさせて言いました。「生き残った子どもをこの剣で半分に切り裂く。そして、2人に半分ずつ与えよう」。すると、1人は言いました。「とんでもない。どうか生きたままその子をあの女に与えてください」。ソロモンは、そう言った女性こそ生き残った子どもの本当の母親だと判決を下しました。もちろん、子どもは真っ二つにされませんでした。
文才
そして、ソロモンには文才もありました。聖書によると、ソロモンは3千の箴言を書き、1005首の詩を詠みました(4:32)。箴言とは教訓のための短い文章のことです。聖書には31の箴言が収められていますが、その多くはソロモンの手によるものと言われています。詩篇でも少なくとも2首(72篇と127篇)はソロモンの作であり、伝統的には伝道者の書や雅歌もソロモンが書いたと言われます。

栄華

また、ソロモンはその知恵を遺憾なく発揮して、戦争によらずに国を非常に富み栄えさせました。イエスさまの山上の説教にも「栄華を極めたソロモン」(マタイ6:29)というフレーズが出てきますね。

ソロモンは数々の公共事業を行ないました。まずは神殿です。本当はダビデが建てようと思い立ったのですが、彼は戦争で多くの血を流したのでふさわしくないと神さまに言われ、後継者であるソロモンが実行することになったのです。そして、金や青銅や杉材などをふんだんに使った非常に壮麗な神殿と、儀式で使われる様々な豪華な器具が完成します。 そればかりでなく、ソロモンは立派な王宮を建て、それ以外に「レバノンの森の宮殿」と呼ばれる豪奢な宮殿を建て、また国のあちこちに倉庫の町、戦車のための町、騎兵のための町を建設しました。

戦車や騎兵をあちこちに配置したのは、侵略戦争を起こすためではなく、通商路の安全を確保して経済を回すためだと言われています。実際、貿易によって多くの富がソロモンの元に集まり、高度経済成長期の日本のように、さらに多くの公共事業が展開されて、イスラエルの国は物質的に繁栄しました。

「ソロモン」という名前は「平和」という意味ですが、その名の通り、彼は一度も戦争をすることなく、イスラエルの領土を史上最も大きく広げました。この記録は今に至るまで破られていません。

神の賜物

栄華をもたらしたソロモンの知恵は、持って生まれたものではなく、神さまから与えられた賜物でした。

ソロモンが即位して間もなく、神さまが夢の中に現れて「何か欲しいものがあるか」とお尋ねになりました。するとソロモンは、自分自身のために長寿や繁栄や名誉を求めたのではなく、知恵が欲しいと言いました。その箇所を引用します。

「わが神、【主】よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。そのうえ、しもべは、あなたが選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか」(3:7-9)。

「聞き分ける心」とは、民を正しく治めるために必要な知恵のことです。神さまはそれを聞いて大変喜ばれ、願い通りソロモンに世界の誰よりも深い知恵を与えたばかりか、彼が願わなかった繁栄や名誉も与えると約束なさいました。

ここから、ソロモンの成功の秘訣は謙遜だったということだと分かります。

イエスさまの十字架と復活を信じて神さまの子どもにしていただいた私たちのことを、神さまは深く愛してくださっていて、必ず正しい方向に導いてくださいます。それを期待しましょう。自分の知恵や力だけで何でもできると思い上がらないで、いつも謙遜に神さまからの助けを期待しながら生きていきたいですね。
謙遜であることの難しさ
ところが、謙遜というのは獲得するのが非常に難しい性質です。若い頃、同じ教会の人が「自分は謙遜だから」と発言したのを聞いて、なんか変だなと思った記憶があります。自分は謙遜だと思ったら、すでに謙遜ではありません。しかし、その人のことを批判的に見た私もまた、謙遜にはほど遠い存在でしたし、今もきっとそうです。私たちはどこまで行っても不完全だということを忘れてはなりません。

特に、状況が順風満帆の時ほど注意しなければなりません。なんとなく神さま抜きでもやっていけるような気になってしまうものだからです。

自分が謙遜からほど遠い存在だということをどのようにして自覚できるでしょうか。私たちが誰かに対して腹を立てるとき、あるいはあきれるとき、多くの場合自分の方が相手よりも賢くて正しいと思っています。そうではありませんか? それは謙遜とは真逆の態度です。

あるいは、神さまの祝福の約束が信じられないとき。そんなとき、私たちは「神さまよりも自分の方が賢くて先を見通すことができる」とどこかで思っています。そうではありませんか? それは謙遜とは真逆の態度です。

もちろん、イエスさまは私たちの傲慢の罪も赦してくださいます。ですから、自分の傲慢に気づいたら、すぐに悔い改めて、神さまに謙遜さと知恵と導きを求めましょう。それを繰り返す一年でありますように。

次に、反面教師としてのソロモンに注目します。

2.ソロモンの堕落

圧政

謙遜によって始まったソロモンの治世ですが、自分の知恵によって国がどんどん豊かになり、豪華な建物が建ち並んで贅沢な暮らしができるようになると、彼は次第に謙遜さを失っていきます。

元々ソロモンが知恵を求めたのは、イスラエルの民を正しく統治するため、すなわち民の幸せのためでした。しかし、贅沢な暮らしを続けるうちに、彼はすっかり最初の目的を忘れてしまいます。そして、もっと豊かに、もっと贅沢にという思いに囚われ始めます。

建物を建て、町を整備するためには多くの人手が必要です。ソロモンは多くの国民に労役を課して働かせました。神殿を建てるのに7年かかりましたが、その間、国民は神さまのために、また若くて賢いソロモン王のために働けることがうれしくて、喜んで働いたことでしょう。しかし、ようやく神殿が建ったと思ったら、王宮、宮殿、町々の建設と、次々と公共事業が続きます。国民はいつ終わるとも知れない労役に苦しみ続けました。

また、公共事業には莫大なお金がかかります。あるいは王の贅沢な暮らしや千人もの女性を囲ったハーレムを支えるためにも大変なお金が必要です。そのため、ソロモンは国民に重い税金を課しました。ソロモンの治世は40年間ですが、その間ずっと人々は労役や税金に苦しめられたのです。

おまけに、ソロモンは自分の出身部族であるユダ族に対する負担は比較的軽くしてやったので、他の部族の人たちの不満はさらに増大しました。

偶像礼拝

そればかりではありません。ソロモンの神さまに対する信仰もだんだんおかしくなっていきました。

ソロモンが生まれたとき、預言者ナタンは「エディデヤ」(主に愛される者という意味)という称号を与えて祝福しました(第2サムエル12:25)。そして、若い頃のソロモンは、父ダビデの良い影響を受けて神さまを信頼して従っていました。しかし、やることなすこと成功し、また物質的に豊かな暮らしを続けていくうちに、次第に神さまへの純粋な信仰を失っていきます。

先ほども言いましたが、ソロモンには千人の妻がいました。その中には外国人の女性も多く含まれていました。正妻はエジプト王の娘です。これはエジプトと仲良くするための政略結婚でしょう。それ以外に、モアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヒッタイト人の妻がいたことが分かっています(1節)。

妻たちは自分たちの国の神々を礼拝しています。ソロモンはそれを許可していたようです。そればかりか、ソロモンが年を取ると、自分自身も妻たちと一緒に異教の神々を礼拝するようになりました。
神の怒り
この件について、神さまは2度に渡ってソロモンに現れて、異教礼拝、偶像礼拝を行なってはならないと戒めました。それでも行動を改めなかったソロモンに対して、神さまはついにこう宣告なさいます。

「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約と掟を守らなかったので、わたしは王国をあなたから引き裂いて、あなたの家来に与える。しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたが生きている間はそうしない。あなたの子の手から、それを引き裂く。ただし、王国のすべてを引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与える」(11:11-13)。

王国が分裂するというさばきは、ソロモンが死んで息子レハブアムが王位を継いですぐに実現します。12部族のうち10部族がレハブアムに反逆し、ソロモンの家来だったヤロブアムという人物を王に担ぎ上げて独立してしまいました。

主を恐れることは知識の初め

ソロモンの名前が付いている箴言1章にはこのような言葉があります。「【主】を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む」(箴言1:7)。

ソロモンに知恵と栄華をもたらしたのは、彼が神さまを正しく恐れたからです。この場合の恐れとは、罰を受けるのではないかとビクビクしながら暮らすことではありません。日本語で言う「畏敬の念」です。神さまを尊敬し、そのあまりの素晴らしさに感動しすぎて圧倒されることです。

若い頃のソロモンには、神さまに対してそのような畏敬の念がありました。私たちにとっても、畏敬の念を抱き続けることこそ、神さまに喜ばれる本当に良い人生を送る秘訣です。

逆に、神さまに対する正しい恐れ、畏敬の念を失ってしまうとどうなるでしょうか。

神さまは、「わたしはあなたを愛している。わたしはあなたのどんな罪も赦している。わたしはあなたを守り、必ず幸せにする」と約束してくださっています。ところが、その神さまについて、私自身や私の周りにいる人たちにちょっと毛が生えた程度の方だと思っていたとしたらどうでしょう。その程度の方が約束をしたとしても、どれだけその約束が確かなものだと思えるでしょうか。

また、どんなに神さまが「本当の成功をもたらす生き方、本当の自由や幸せを味わうために、こういう行動を取りなさい」とアドバイスしてくださったとしても、正しく主を恐れていなければ、そのアドバイスを真剣に受け止め、実行しようとはしないでしょう。

むしろ、「どうせ赦されるんだから、何をやってもかまいはしない」というふうに、クリスチャンではない人たちと全く変わらない生き方をすることになるでしょう。

聖書や祈りや教会の交わりを通して、神さまがいかに偉大で賢く力強いお方なのかをいつも学び、正しい恐れ、畏敬の念を育てていきましょう。

さて、これで話が終わったのでは悲しすぎます。最後に注目したいのは、それでも神さまの恵みがソロモンやイスラエルに注がれていたということです。

3.神の恵み

ソロモンに示された神の恵み

神さまから心が離れ、民を苦しめたり偶像礼拝を行なったりしたソロモンに、神さまはあんなに繁栄した国が分裂してしまうという刑罰を宣告なさいました。

しかし、そういう悲しくて恐ろしいさばきの中にも、神さまからの恵みが示されていることに注目しましょう。
(1) 悔い改めの機会が与えられた
まず、神さまはいきなりさばきを下されたのではなく、あらかじめソロモンの前に現れて、2度に渡って偶像礼拝の罪を悔い改めるよう警告なさいました。すなわち、さばきを逃れるチャンスを与えてくださったのです。

4節に「彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、【主】と一つにはなっていなかった」と書かれています。といっても、 もちろんダビデも罪人であって、数々の罪を犯しました。最も恐ろしいのは、ソロモンの母であるバテ・シェバとの姦通と、それを隠すために彼女の夫ウリヤを死に追いやってしまった殺人の罪です。しかし、ダビデはソロモンと違って、自分の罪が示されるたびに悔い改めて神さまの元に帰ってきました。

かつて神殿が完成したとき、感謝の式典でソロモンは祈りを捧げました(8章)。その祈りに応えて、神さまは2つのことをソロモンにおっしゃいました。
  1. イスラエルが神さまを捨てて偶像に走るなら、国は滅ぼされ、この壮麗な神殿も廃墟となるという警告(9:6-9)。
  2. ただし、ソロモンの祈りは確かにかなえられたということ(9:3)。その中には、イスラエルの民が罪を犯したとき、悔い改めて神殿で(あるいは神殿に向かって)祈るならば、神さまはその罪を必ず赦してくださるという約束も含みます。
ですから、老年になって偶像礼拝に走ったソロモンも、神さまの叱責の言葉を聞いて悔い改めていたならば、その罪は必ず赦されていたはずです。そして、国が分裂するという悲劇も避けられたはずです。

結局ソロモンは悔い改めませんでしたが、神さまの側からは赦しの道が提供されたのです。これは神さまの恵みです。
(2) さばきが先送りされた
そして、国が分裂するというさばきも、ソロモンが生きている間は実行しないと神さまは約束されました。その理由は、若い頃のソロモンが信仰的で立派だったからではなく、「あなたの父ダビデに免じて」(12節)です。

かつて神さまはダビデと契約を結んで、ダビデの後継者についてこんな約束を語っておられます。「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない」(第2サムエル7:14-15)。

ソロモン自身は悔い改めようとしませんでしたら、すぐに罰を受けても文句が言えません。しかし、ダビデのおかげでソロモン自身が直接罰を受けることを免れました。これもまた一方的に与えられた恵みです。
(3) すべてが奪われるわけではない
しかも、その刑罰自体にも恵みがあります。それは、イスラエル全部がダビデ王家から取り上げられて家来のものになるわけではない、ということです。

神さまはソロモンにこう約束なさいました。「ただし、王国のすべてを引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与える」(13節)。
  • 「一つの部族」と言われていますが、ダビデ王家が属するユダ族は当然従う前提で表現されています。 ダビデ王家に従うのは、ユダ族とベニヤミン族の2部族です。
(4) 苦しみは永遠には続かない
ソロモンが死んだ後、ダビデ王家に反逆した北の10部族をまとめたのが、ヤロブアムというソロモンの家来です。ソロモンがまだ生きているとき、神さまはヤロブアムの元に預言者アヒヤを遣わして、やがて彼が北王国の王となるという預言を与えます。その際、最後にこのようにおっしゃいました。「このために、わたしはダビデの子孫を苦しめる。しかし、それを永久に続けはしない」(11:39)。

この約束が完全な形で実現するのはまだずっと先のことです。聖書の預言を調べてみると、それが実現するのは世の終わりに千年王国ができてからだと分かります。しかし、それまでダビデ王家は、表面的にはイスラエル全土を治めていなかったとしても、滅びることなく連綿と存在し続け、やがてイスラエル全土を治めるようになると神さまは約束なさったのです。

そして、それもまた神さまとダビデの契約のためです。「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(第2サムエル7:16)。

恵みに満ちた一生

ソロモンの一生は、ソロモン自身の霊的な状態がどうであっても、神さまの恵みに満ちあふれていました。

晩年に偶像礼拝の罪を犯したときだけでなく、そもそも誕生からして恵みの結果です。もしも、父ダビデが姦淫と殺人の罪を問われて神さまに殺されていたら、その後ソロモンは誕生していません。

また、ソロモンに知恵が与えられたのも、ソロモンが何かすごいことをした褒美ではなく、神さまからの恵み、すなわち一方的なプレゼントです。

恵みに注目しよう

私たちにも神さまの恵みが注がれています。私たちもダビデやソロモンのように罪人です。それでも神さまは私たちを愛してくださっていると聖書は教えます。そして、私たちの罪を赦し、私たちが神さまの子どもとなって永遠に祝福を受けるために、イエスさまが身代わりとなって罪の罰を引き受けてくださいました。それを信じた私たちは、あらゆる罪が赦され、神さまの子どもとなりました。

いつも語っているフィリップ・ヤンシーの定義を思い出してください。
「神の恵みとは、私たちが神さまにもっと愛されるようになるために私たちにできることは何もないということであり、私たちが神さまにもっと愛されなくなるために私たちにできることも何もないということである」。
私たち自身が立派だから神さまに愛されているわけではありません。何かすごい行ないができたから、褒美として祝福されるわけではありません。もし信仰が出来高制になったとしたら、クリスチャン生活は途端にしんどいものになってしまいます。いつも神さまの恵みに注目し、感謝をささげましょう。

まとめ

私たちは、状況が良くても悪くてもいつも謙遜に神さまに助けを求め、正しい恐れ(畏敬の念)を抱き続け、恵みに感動しながらこの一年を、そして一生を過ごしましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 自分の謙遜さが不完全だということを、最近どのように自覚させられましたか?
  • 今より少しだけ謙遜になれたとしたら、私たちは神さまに何を求めますか?
  • 罰や呪いに対する恐れではなく、神さまへの正しい畏敬の念が今より少しだけ増し加わるとしたら、あなたの精神状態や生活がどのように変化すると思いますか?
  • 最近、「これは神さまの恵みだなあ」と感動した出来事がありましたか?
  • 感情的に感動を味わっていなくてもいいので、「これは神さまの恵みだ」と気づいたことを最低10個挙げてください。
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

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