(2021年3月27日)
礼拝メッセージ音声
参考資料
6節の「パン種」は、前の日に発酵した粉の一部を保存しておいたものです。翌日のパンをこねる際、新しい小麦粉にパン種を混ぜておくと、パン種に含まれているイースト菌の働きで粉全体が発酵して膨らみます。
イントロダクション
今週の金曜日は、イエスさまが十字架にかけられたことを記念する受難日です。また、受難日のある週を受難週と呼びます。そして、来週の日曜日が、イエスさまが復活なさった事を記念するイースターです。今週と来週は、いつもの王さまシリーズをお休みにして、それぞれイエスさまの十字架と復活について改めて考えてみましょう。
まずは、パウロがこの手紙を書いた事情について触れておきます。
1.コリント教会の問題
不品行を放置していた
5章の冒頭でパウロはこう切り出しています。
「現に聞くところによれば、あなたがたの間には淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いで、父の妻を妻にしている者がいるとのことです」(1節)。
「父の妻を妻にしている」というのは、実の母親と結婚したということではなく、以前父親が再婚し、父親が亡くなった後にその再婚相手、本人からすれば義理の母だった女性と結婚したということでしょう。
コリントという町は、ギリシア半島の交通の要所にあって、交易で非常に栄えていました。一方、道徳的には非常に堕落していて、当時のローマ帝国の中で「コリント人のように振る舞う」という言葉は、「不品行を行なう」という意味で用いられたほどでした。
そんなコリントの人たちもびっくりするようなスキャンダルが、教会のメンバーによって引き起こされたとパウロは言います。
しかし、パウロが問題にしたのはそこではありません。そういう問題が起こっているのに、教会が何も対処しなかったということです。それなのに、自分たちは知恵があって霊的に優れていると誇り高ぶっていました。この手紙の別の箇所には、コリント教会の人たちが様々な分派に別れて、自分たちの方が他のグループよりも優れていると主張して互いに対抗し合っている問題が指摘されています。
パウロはそんな彼らを痛烈に批判しました。
「それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか」(2節)。
取り除くとは
「取り除く」とは、その人を除名処分にして教会のメンバーから外し、その後はクリスチャン同士の交わりを絶つということです。
もちろん、罪を犯したらみんなそういう処分を受けるわけではありません。私たちは牧師も含めて全員罪人であって、罪を犯さない人は一人もいません。しかし、聖書は私たちが罪を認めてそれを神さまに告白するならば、神さまはそれを赦してきよめてくださると約束しています。
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(第1ヨハネ1:9)。
問題なのは、どれほど神さまに罪を示されても、悔い改めようとしない人です。イエスさまは、そういう人にどのように教会が対処したらいいか、手順を教えてくださっています。
「また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」(マタイ18:15-17)。
イエスさまの時代、異邦人(ユダヤ人ではない民族)や、ローマ帝国のために税を集め、しかも規定よりもたくさん集めて懐を暖めていた取税人とは、ユダヤ人は交流を持ちませんでした。異様人や取税人のように扱うとは、交わりを絶てということです。
そんなことをするのは悲しいことです。しかし、コリント教会の人たちは、そういう悲しみを負おうとしませんでした。そして、あの不品行の罪を犯している人がまったく悔い改めようとしないにもかかわらず、見て見ぬ振りをして放置していました。
それは、コリント教会の人たちが、自分に与えられる祝福には興味があっても、他の人の幸せについてはほとんど関心を示さなかったためでしょう。
この話をお読みください。
そんな話の流れの中で、パウロは「パン種」のたとえを持ち出しました。
パン種
参考資料にも書きましたが、パン種というのは、パンを焼くために前日の夜から発酵させておいた小麦粉の塊の中から、一部取り分けたものです。それをその日の夜、翌朝に焼くパンのための小麦粉に混ぜます。すると、パン種の中のイースト菌の作用で小麦粉全体が発酵し、翌朝おいしいパンが焼き上がるのです。
小さなパン種が、大量の小麦粉全体に作用して質を変化させます。この点にユダヤの教師たちは注目して、パン種を罪の象徴としてたとえ話によく用いました。たとえ小さく見えても、罪を放置しておくとその人のすべてが悪影響を受けてしまう、あるいは他の人にも悪影響を与えてグループ全体が霊的・道徳的にダウンしてしまうというようなたとえです。
パウロもこう語っています。
「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか」(6節)。
特にパウロは、
「ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか」(8節)と語っています。罪を象徴するパン種のたとえを、イスラエルの祭りとの関係で取り上げたのです。
次に、パウロが念頭に置いていたイスラエルの祭りとはどういうものかについて触れてみましょう。
2.イスラエルの祭りと罪の関係
種なしパンを用いる祭り
モーセの律法では、ユダヤ人が毎年行なう7つの祭りについて定めています。その7つとは、
- 過越の祭り
- 種なしパンの祭り(除酵祭)
- 初穂の祭り
- 七週の祭り(ペンテコステ)
- ラッパの祭り
- 贖罪の日(ヨム・キプル)
- 仮庵の祭り
このうち最初の「過越の祭り」は、だいたい今頃の時期に行なわれます(太陰暦で日が決まっているので、太陽暦だと毎年日が変わります。実は今年の過越は今日の日没後から始まります)。そして、過越の次の日から7日間続くのが種なしパンの祭りです。この2つの祭りは連続しているので、古くからまるで1つの祭りであるかのようにとらえられるようになって、2つまとめて「過越の祭り」あるいは「種なしパンの祭り」と呼ぶこともありました。
そして、これら2つの祭りが行なわれる8日間は、イスラエルでは家の中からも、国の中からもパン種をすべて取り除かなければなりません。ですから、食べるパンはマッツァーと呼ばれる発酵していないものです。
ですから、パウロがコリント教会の人たちに「誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか」と勧めているこの祭りとは、8日間続く過越と種なしパンの祭りのことだと分かります。
祭りとキリストによる救いのわざ
実は、イスラエルの7つの祭りは、キリストを通して私たちに与えられる救いを象徴しています。私たちの罪が赦され、きよめられ、そして世の終わりがやってきたときにキリストが再臨なさって、私たちは神の国に入れられます。そのことを象徴しているのです。今回は7つすべてを解説できませんが、今回の箇所でパウロが関連付けている最初の2つを取り上げます。
過越の祭り
過越の祭りについてはこれまで何度か解説してきました。イスラエルの民が神さまによってエジプトを脱出させていただいたことを記念しています。エジプトを脱出する前の日、神さまはイスラエルの人々に奇妙なことを命じました。それは、子羊を殺してその血液を家の入口の門柱と鴨居に塗ること。そして、その肉を焼いて家族で食べること。その際、種を入れないパンと苦菜(苦い野菜)を食べること。そして、旅装束で立ったまま食べることなどです。
その夜、イスラエルを苦しめて解放しようとしないエジプトに、神さまからのさばきが降りました。それは、エジプトに住む人間や家畜の初子(母親から最初に産まれた子ども。この場合には特に男子を指します)が死んでしまうというものです。しかし、入口に子羊の地が塗ってある家については、神さまはそこを通り過ぎて(過ぎ越して)、その家の子どもが死ぬことはありませんでした。
エジプト王の嫡男も死んでしまったので、ついに王はイスラエルが国を離れることを許可しました。
過越の祭りは、このことを毎年振り返るために祝われます。そして、過越の祭りでは、子羊を殺してその肉を焼き、家族全員がその肉を種なしパンと苦菜と一緒に食べました。長い間に過越の祭りは儀式化され、イエスさまの時代にはもっとたくさんの食材を長い時間かけて飲み食いするようになりました。今もそうです。
この過越の祭りは、イエスさまが十字架にかかって血を流し、死なれたことを象徴しています。バプテスマのヨハネは、イエスさまのことを
「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)と呼びました。この「神の子羊」とは、過越の祭りの翌朝、神殿でささげられた犠牲の子羊のことです。
パウロもこの箇所でこう語っています。
「新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです」(7節)。
出エジプトの際、本来ならエジプト中の初子が死ななければならなかったのに、過越の子羊が血を流して死ぬことによって、イスラエル人の子どもの命が救われました。
同じように、本来私や皆さんが自分の罪のゆえに神さまのさばきを受けなければならなかったのに、罪が無いイエスさまが十字架にかかり、私たちの身代わりとして神さまのさばきを受けてくださったおかげで、私たちはこのままの状態で一方的に罪を赦され、それどころか神さまの子どもにしていただける特権を手に入れました。
種なしパンの祭り
この祭りについては、レビ記23:6‐14、民数記28:17‐25、申命記16:1‐8などで触れられています。
この祭りの7日間、毎日特別なささげものがささげられました。特に初日と最終日は聖なる会合が開かれ、仕事を休むよう命ぜられています。そして、過越の祭りから数えると8日間、イスラエルでは発酵したパンを食べることはできません。ですから、この時期に聖地旅行に行くと、パン好きの方は大変切ない思いをすることになるようです。
過越の祭りや種なしパンの祭りで、どうして発酵していないパンを食べるのかというと、息子を失ったエジプト王によって追い立てられるようにして国を出たため、ゆっくりパンを発酵させる時間が無かったことを思い起こすためです。
「それといっしょに、パン種を入れたものを食べてはならない。七日間は、それといっしょに種を入れないパン、悩みのパンを食べなければならない。あなたが急いでエジプトの国を出たからである。それは、あなたがエジプトの国から出た日を、あなたの一生の間、覚えているためである」(申命記16:3)。
しかし、 先ほどイスラエルでは、パン種は罪の象徴と捉えられてきたと申し上げました。パウロもそのようなたとえとしてパン種を用いています。イエスさまも、神の国のたとえとしてパン種を用いている例外(マタイ13:33)はありますが、通常はパリサイ人たちの偽善的な教えや生き方を指していて(ルカ12:1など)、弟子たちや群衆がその悪影響を受けないよう警告するために用いています。
そして、この祭りもイエス・キリストを通して与えられた救いを象徴しています。罪の象徴であるパン種を完全に取り除く祭りは、イエスさまの罪のないきよい血が流されたことによって、私たちも罪の汚れからきよめられたことです。
イエスさまが血を流したことを十字架にかけられたことは斬っても切れない関係です。だから、過越の祭りと種なしパンの祭りは連続していて、まるで一つの祭りであるかのように見えるのです。
今回の箇所の7節と8節で、パウロはこう言っています。過越の子羊であるイエスさまはすでに十字架にかけられた。その結果、私たちの罪は赦され、きよめられた。にもかかわらず、続く種なしパンの祭りの時に、古いパン、すなわちパン種を取り除いていないパンを食べるなどということがあってはならない。クリスチャンは自分自身や教会の中のパン種、つまり罪を徹底して取り除く努力をしなければならない。
しかし、コリント教会にはパン種が残っていました。教会の人たちはそれを取り除こうと努力しませんでした。そうであってはいけないよと、パウロはコリント教会の人たちを諭しているのです。
では、ここから私たちはこの受難週に何を学ぶことができるでしょうか。
3.罪を小さいうちに徹底的に取り除く
割れ窓理論
パン種のたとえは、小さく見えても大きな影響力を持っていることをたとえています。罪はまさにそうです。最初から巨悪を行なえる人はそうそういません。小さな罪を「これくらい大したことでは無い」と放置して、だんだんと良心がマヒしていってエスカレートしていくのです。
皆さんは「割れ窓理論」と呼ばれているものをご存じでしょうか。割れ窓理論とは、「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、まもなく他の窓も全て壊される」という経験則です。
これを治安問題に応用するとこうなります。
- 落書き、ポイ捨て、未成年者の喫煙、ゴミの分別無視、軽微な交通違反など、一見それほど深刻に思えないような軽犯罪やルール違反を見逃したり、放置したりする。
- すると、人々は、「この地域では、これくらいなら許されるんだな」と思うようになる。
- そして、人々は、ルール違反や罪を犯すことに関して、次第に抵抗がなくなっていく。
- こうしてルール違反や犯罪が増えていくため、遵法精神に満ちた人たちは嫌がって地域を離れていき、ますます道徳的に麻痺した人たちの割合が増えていく。
- やがて、殺人などの凶悪な犯罪が当たり前のように発生する地域になる。
かつて、ニューヨークといえば犯罪都市として世界に知られていました。1994年にルドルフ・ジュリアーニ氏が市長になると、彼は割れ窓理論とは逆の循環を起こせば治安を回復できると考えました。すなわち、「一見それほど深刻に思えないような軽犯罪やルール違反をしっかり取り締まれば、やがて凶悪犯罪も減少する」と考えたのです。
具体的には、地下鉄の電車や駅の落書きの取り締まりと浄化。軽微な交通違反や軽犯罪の取り締まり強化などです。すると、まもなく治安が劇的に改善し、就任後の5年間で殺人が67.5%、強盗が54.2%、婦女暴行が27.4%も減少しました。
聖書のパン種のたとえも、私たちに「これくらい些細なことだというような小さな罪も、実は軽く考えてはいけないよ」という事を教えてくれています。
過越の後に種なしパンの祭りが来る
しかし、私たちが罪のパン種について考えるとき、種入れぬパンの祭りの前に過越の祭りが来るということを忘れてはなりません。イエスさまが私たちのために十字架にかかり、大変な苦しみを味わってくださったのは、私たちの罪がそのままで赦され、神さまの子どもとして祝福された人生を歩むことができるようになるためです。
過越の祭りも種なしパンの祭りも、出エジプトを記念する喜びの祭りです。クリスチャンにとっての受難週は、ユダヤの出エジプトと同じく喜びを再確認するための期間です。あなたは神さまに愛されています。どんなに不完全でも、過去どんな失敗をしてしまったとしても、それでもその罪や不完全さは神さまのあなたへの愛を取り消しにすることはできません。
先ほどイエスさまの言葉で、罪を犯している人をいろいろ手を尽くして説得しても頑なに悔い改めない場合、最終的には交わりを絶つようにと命じておられる箇所を引用しました。その直前にはどんな話をイエスさまはなさっているでしょうか。100匹の羊を飼っている人がいて、そのうちの1匹がいなくなってしまったら、99匹を残してでもその1匹の羊を探しに行くという話です。
そのたとえを語られた後、イエスさまはこんなふうにまとめておられます。
「このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません」(マタイ18:14)。
罪を犯し続けている人を悔い改めるよう熱心に勧めるのは、相手をやっつけるためではなく、神さまの祝福を失わないようにという愛の心からです。私たちは、神さまが私たち罪人を考えられないほどに愛してくださっていることを決して忘れてはなりません。
パウロも7節で語っています。過越の子羊であるイエスさまはすでにほふられた。救いは私たちに与えられた。神さまの愛は私たちに豊かに豊かに注がれている。だからこそ私たちはそれを喜び、その喜びを原動力として、罪を取り除いてきよい生き方を目指すのだと。
神さまの愛、イエスさまによる罪の赦しを抜きにして、自分の罪について考えてはいけません。そんなことをしたら、罪責感で耐えられなくなり、罪について考えること自体嫌になってしまうでしょう。
手段は告白
では、罪のパン種を取り除くというのは、具体的にどうしたらいいのでしょうか。先ほど紹介した、第1ヨハネ1:9をもう一度読みましょう。
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」。
パン種を取り除くには、
- 自分が行なったり考えたりしたことが、神さまのみこころにかなわない場合、それは罪だと素直に認めます。
- 神さまへの祈りの中で、「これは罪です」と告白し、謝罪します。もちろんこの告白の中には、「この罪から離れます。あなたのみこころにかなう生き方に戻ります」という決意も含まれています。
- そして、この罪の悪影響からきよめてくださるように、願います。きよめられたというのは、単に赦されたというだけでなく、みこころにかなう生き方ができるよう助けてくださるということも含みます。
- 最後に、神さまがあの罪を赦してくださったこと、罪の悪影響からきよめてくださったこと、そして神さまのみこころにかなう生き方ができるよう助けてくださることを信じて感謝します。
これから一生涯、喜びに満ちた悔い改めを積み重ねていきたいですね。
あなた自身への適用ガイド
- 罪のパン種ということばを聞いて、あなたは何を思い浮かべましたか?
- あなたはいつ、どのようにしてイエスさまによる罪の赦しを信じ、受け取りましたか?
- 決して神さまの愛が取り消しにならないことを改めて学んで、どんなことを感じましたか?
- 今取り除かなければならない「小さいパン種」は何ですか?
- 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?