(2021年6月6日)
礼拝メッセージ音声
参考資料
30節の「贖いの日」とは、救いのみわざが完成するときです。私たちクリスチャンはすでに救われており、罪の故に罰を受けることはなくなりました。しかし、まだ天のパラダイスや地上の千年王国や新天新地で与えられる祝福を体験しているわけではありません。それは将来必ず与えられます。聖霊さまは、それを保証する証印を私たちに押してくださっています(目には見えませんが)。
イントロダクション
現在、「御霊の実」に登場する9つの良い性質について、1つ1つ解説しています。今回は、5番目の「親切」についてです。
聖霊なる神さまが私たちに与えてくださる「親切」の性質とは、一体どのようなものでしょうか。
1.良いことを実行すること
クレーストテース
ガラテヤ書の御霊の実のリストで「親切」と訳されている言葉は、原語のギリシア語では「クレーストテース」という言葉です。この言葉には、「良い」とか「心地よい」とか「役に立つ」とかいう意味があります。
ですから親切とは、相手にとって良いこと、相手がハッピーだと思うようなこと、相手にとって役立つことを行なうことです。
たとえば、
- 道に迷っている人がいたときに、積極的に声をかけて道を教えてあげる。
- パーティで自分から他の人に声をかけられず、壁の花になっている人に こちらから声をかける。
- 仕事の同僚に、もっと効率的に作業をこなせる秘訣を教えてあげる。
などですね。
増田が学生時代に経験した親切
私も、たくさんの人たちからたくさんの親切を受けてきました。このメッセージを準備中にパッと思い出したのは、大学生の頃の話です。私は、大学2年生の時にイエスさまを信じました。私立の大学に通っていたので、仕送りはほとんど学費に消え、しかも教会生活やクラブ活動、そしてゼミの研究のために忙しく、アルバイトもあまり入れられずに、生活はカツカツでした。給料日まであと10日で、財布には50円。さてどんなふうに生活しようか……。
でも、当時の私は「ええかっこしい」だったので、教会の方々には生活が苦しいなどということはまったく伝えていませんでした。それなのに、日曜日の午後に、時々いろんな方々が「今日はうちでお昼を食べて行きなよ」と誘ってくださいました。
特に、大学4年生の冬に、すでに故郷愛媛県の教員採用試験に合格していたにもかかわらず、神さまからの召しを受けて牧師になることを決意したときは大変でした。当時はまったく理解のなかったノンクリスチャンの両親は大反対をし、それでも意志を曲げない私に対する兵糧攻めでしょうか、一切の仕送りがストップしました。
そんな経済的ピンチについても、私は教会の人たちに語っていなかったのですが……。それまで以上に豊かな食生活が待っていました。それまで時々だったお昼のお誘いが、ほぼ毎週になったのです。また、「なんか知らないけれど、祈っていたら、増田くんの顔とあれが一緒に浮かんだ」と言って、そっと1万円札を手渡してくださった方もいます。
もちろん、聖書が教える親切は、食事や金銭などを与えることだけではありません。相手を励ましたり慰めたり、迷いを断ち切るヒントになる言葉かも知れません。あるいは、一緒に泣くことかも知れません。とにかく、相手にとって良いことを行なうことです。
黄金律
さて、今回御霊の実の「親切」について考えたとき、真っ先に「黄金律」という言葉を思い出しました。
皆さんは、黄金律と呼ばれる命令について聞いたことがおありでしょう。いわゆる山上の説教でイエスさまが語られた、
「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」(マタイ7:12)という命令のことです。
実は、似たような教えは様々な国や宗教にあります。たとえば、
- 「己の欲せざる所は人に施すなかれ」(「論語」の孔子の言葉)。
- 「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな」(ユダヤ教のラビ、ヒルレルの言葉)。
- 「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない(ヒンドゥー教の聖典「マハーバーラタ」)。
- 「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである」(イスラム教の預言者ムハンマドの言葉)。
実行すること
ただ、上記の聖書以外の教えは、いずれも「〜するな」という否定的な表現を使っています。それに対して、聖書の黄金律では、より積極的に「〜しなさい」という表現をしていることに注目しましょう。
イエスさまの弟ヤコブはこう言いました。
「父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです」(ヤコブ
1:27 )。さらに、こんなことも言っています。
「行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます」(ヤコブ2:18)。
ヤコブは、人は行ないによって救われることはなく、神さまの恵みとそれを信じる人間の信仰によって救われるという「信仰義認」の教理を否定しているわけではありません。イエスさまが自分を救うために命をささげてくださったということ、それほどまでに自分が神さまに愛されているんだということを信じて救われたクリスチャンなら、当然神さまの命令を具体的に守ろうとするはずだろうと言っているのです。
私たちは、親切を「〜しない」という形ではなく、「〜する」という形で表現しましょう。
- 相手から自信やる気を削ぎ落とすような批判や悪口を言わないことはすばらしいことです。しかし、さらにすばらしいことは、相手が自信ややる気を持てるような言葉かけをすることです。
- 子どもが失敗したときに、怒鳴りつけたり叩いたりしないのはすばらしいことです。しかし、もっとすばらしいことは「大丈夫だよ」とか「大好きだよ」とか言って、ぎゅっと抱きしめることです。
親切を実現するとは、具体的にどういう行動を取ることかいつも考え、そして実行しましょう。
2.独りよがりにならないこと
黄金律への批判
先ほど、黄金律の話をしました。ところが、黄金律を真っ向から否定する人たちもいます。たとえば、戯曲家のジョージ・バーナード・ショーは、「黄金律なんかない。それが黄金律だ」と言いました。というのは、「人の好みはそれぞれなのだから、自分が望むことを相手が望むかどうか分からないじゃないか」というわけです。
確かにその通りですね。たとえば、自分が辛い食べ物がものすごく大好きだとして、辛い食べ物がものすごく苦手な人に激辛料理をごちそうしても、相手にとってはうれしくないはずです。
私はスクールソーシャルワーカーという、学校で働く援助職もやっています。あるとき、いじめに関する研修で、いくつかの事例が紹介されて、これはいじめかそうでないか判別する問題が出ました。たとえば、「Aさんが、休み時間に数学の問題集を解いていました。どうしてもある問題が解けずに悩んでいるのを見たBさんが、こうやって解くんだよと解き方を教えてあげました。自分で解きたいと思っていたAさんは、ちょっと残念な気持ちになりました」。さて、これはいじめでしょうか。
実は、今のいじめの定義だと、これはいじめです。学校はいじめだと認識した上でAさんやBさんに対応しなければなりません。もちろん、Bさんに「それはいじめだ」と言って指導するかどうかはまた別の話ですが、少なくともBさんの行動によってAさんが嫌な気持ちになったということは無視してはいけないのです。
「親切」と訳されているギリシア語の「クレーストテース」には、「良い」とか「心地よい」とか「役に立つ」とかいう意味があると申し上げました。それは、私が考える「良い」「心地よい」「役に立つ」ではなく、相手にとって「良い」「心地よい」「役に立つ」だということを忘れてはなりません。
そうでないと「小さな親切、大きなお世話」になってしまいます。
人のことを顧みる
ただ、ジョージ・バーナード・ショーは誤解していましたが、聖書が教える黄金律は、自分中心に親切の押し売りをすることを良しとしているわけではありません。
黄金律に限らず、聖書の教えはそこだけ抜き出して捉えるのではなく、聖書全体のメッセージに照らして解釈しなければなりません。
別の箇所にこのような言葉があります。
「それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい」(ピリピ2:4)。
ですから、自分がどうしたいかとか、自分が何を好むかだけでなく、相手はどうしたいのか、相手は何を好むのかということにも心を向けなければなりません。その上で、その人に対する本当に親切な行動とは何かということを考えなければならないのです。
皆さんは、親切の押し売りをされるのは嫌だと思います。こちらの願いや置かれている状況を知った上で親切な行ないをしてもらいたいと思っていることでしょう。であれば、自分がそうしてもらいたいように他の人にもしなさい、すなわち相手の願いや置かれている状況を知った上で親切な行ないをしましょうというのが、黄金律で教えられていることです。
人の心は分からない
すでに亡くなりましたが、河合隼雄というカウンセリング界の重鎮がいらっしゃいました。かつて文化庁の長官もお務めになりました。この河合先生がいつもご自分に言い聞かせていた言葉があります。それは、「人の心は分からない」というものです。もちろん、カウンセラーが人の心のことを理解できなければ商売になりません。河合先生は、分かったつもりになるなと自戒しておられたのです。
私たちも、「あの人のことはよく分かっている」などと早合点しないで、分かっていないかも知れないという前提で考えなければなりません。また、相手が何を好み、何を必要としているかを知るには、普段からその人のことをよく観察し、よくコミュニケーションを取らなければなりませんね。そして、時には「何かお手伝いできますか?」「何か必要なものがありますか?」と謙遜に尋ねる必要もあります。
3.神の視点で考えること
誰にとって「良い」か
「親切」と訳されているギリシア語の「クレーストテース」には、「良い」という意味があると申し上げました。私たちが考える良いことではなく、相手にとって良いことを考えましょうと、第2のポイントでお話ししました。しかし、最終的に善し悪しをお決めになるのは、神さまだということを私たちは忘れてはなりません。
場合によっては、神さまが良いと思っておられることが、相手にとっては嫌なことという場合もあります。それでも神さまが良いと思われることを相手に対して言ったり行なったりすることが、本当の意味で親切です。
増田の体験
先ほど、大学4年生の時に神さまから牧師になるよう命ぜられたという話をしました。すんなりそれを受け入れられたわけではありません。当然のことながら未信者だった家族を悲しませることになりましたし、すでに決まっていた就職をやめるということは大学にも迷惑をかけることになります。幼い頃からいい子で過ごしてきた私にとって、それはそれはつらくて苦しいことでした。さりとて神さまの命令に逆らうわけにはいきません。
神さまの命令を選ぶことも、親や大学の期待を選ぶこともできず、いっそ寝ていある間に心臓マヒで死んでしまえたら、どちらも選ばずに済むのにと本気で思いました。
そんなある日、外国のビジネスマン伝道を行なっている団体の集会に誘われました。メッセージは英語で通訳も無しでしたが、思い切って出席することにしました。その団体が聖霊派のグループだということが分かっていたので、もし講師に祈ってもらったら、聖霊さまに満たされて牧師になる決断ができると思ったのです。
集会が終わって講師の元にいき、たどたどしい英語で状況を説明して祈ってくれるようお願いしました。すると講師は言いました。「君はもう大人なんだから、自分で決めなさい」。そして、なんと祈ってくれなかったのです。
あまりのことに最初はショックでしたが、今ではあの対応を感謝しています。帰り道で私はこう思いました。みこころが分からないときにみこころを求めて祈ることは大切だけれど、私の場合にはすでにみこころが示されている。問われているのは、私がそれに従うか従わないか、その覚悟なんだと。そして、帰宅した私は、愛媛県の教育委員会に採用辞退の手紙を書きました。
あの講師の私に対する言動は、私が当初望んでいた者とはまったく違いました。しかし、今なら分かります。あれは私に対するすばらしく親切な言動でした。
私自身が神に従っているか
このように、真の親切は、神さまの考える良いことに基づいて他の人に接することです。ただ、私たち自身がその神さまの考える良さに従っているかどうか、いつもチェックする必要があります。もし私自身が神さまの正しさを無視して自分勝手に生きているのに、他の人には神さまの正しさを押しつけるなら、それは偽善になります。
イエスさまは、モーセの律法の研究や民衆への教育を行なっていた律法学者たちに向かってこうおっしゃいました。
「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない」(ルカ11:46)。
神さまのみこころを探り、その通りに生きることは、時に激しい心の葛藤を生みます。それでも私たちが最終的に神さまに従っていたとしたらどうでしょう。あるいは、葛藤に負けて神さまのみこころではない行動を取ってしまい、後で反省して神さまの前に悔い改め、赦しをいただいていたとしたらどうでしょう。
もし私自身が日々そのようにして神さまの正しさと向き合っていたとしたら、他の人に神さまの正しさに基づいて接するとき、上から見下ろすような批判的な視点にはならないはずです。また、相手が神さまの正しさを受け入れることができるまで、じっくりと待つこともできるはずです。
そして、今日の聖書箇所の、31-32節のように、怒りではなく赦しの態度で接することができるはずです。
神に近づこう
聖書が教える親切を実行できるクリスチャンとなるため、私たちはもっともっと神さまと近づき、神さまと交わり、神さまのことを知りましょう。そして、イエス・キリストを通して与えられた赦しの愛を、日々味わい、感謝し感動しましょう。
そして、そのために、神さまの言葉である聖書を読み、神さまとの対話である祈りを繰り返しましょう。そして、聖霊なる神さまが、父なる神さまやイエスさまのことをもっともっと明らかにしてくださるよう期待し、祈りましょう。
そうするならば、私たちは他の人に対して本当に親切な言動をすることができるようになります。
最後に、もう一度今回の箇所を読みましょう。
エペソ
4:28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。
4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
4:31 無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。
4:32 互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。
あなた自身への適用ガイド
- 皆さんが最近クリスチャンから受けた親切はどのようなものでしたか?
- 親切は思っているだけでなく実行しなければなりません。誰に対して具体的にどのような行動を取ろうと思いましたか?
- これまで、他の人の「小さな親切よけいなお世話」で嫌な思いをしたり、かえって困った事態に陥ったりした経験がありましたか?
- 当初は他の人から自分の願い通りの対応をしてもらえなかったけれど、後になって神さまのみこころにかなう親切な行動だったと気づいたことがありますか?
- あなたが神さまと今よりもっと近づくために、特にどんなことに気を配ろうと思いましたか?
- 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?