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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ベテスダの池でのいやし

イエス・キリストの生涯シリーズ18

ヨハネによる福音書5章1節〜11節

(2023年2月12日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

1節の「ユダヤ人の祭り」は、過越の祭りだと考えられています。すなわち、紀元28年の春のできごとです。

2節の「羊の門」は、エルサレムの北東にあった門。

2節の「ベテスダ」は、元々はヘロデ大王が巡礼者の沐浴のために設置した池です。しかし、次第にいやしの力がある池だと考えられるようになり、多くの病人や障がいのある人たちが集まるようになっていました。約50メートル四方の2つの池が南北にあって、周りに回廊が巡らされていました(四辺に1つずつと、2つの池の境に1つで、合計5つの回廊)。

Wikipediaより。イスラエル博物館にある模型)
いくつかの写本には、3節後半から4節に以下のような文が記されています。「彼らは水の動くのを待っていた。主の使いが時々この池に降りてきて、水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初にはいった者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである」。
これは、元々の原文には無かったけれど、病人たちが池に集まっていた理由が外国人には分かりにくいので、あとで解説のために加筆されたものだろうと考えられています。
池の水が動くというのは、もしかしたら間欠泉だったのかもしれませんし、地下水に含まれる空気の泡が、時々ぶくぶくと出てくるのかもしれません。

9節の「安息日」は、モーセの律法が定める特別な日。具体的には金曜日の日没から土曜日の日没までです。この間、ユダヤ人は奴隷や家畜に至るまで休みを取り、働くことを禁じられました。これは、かつてエジプトで奴隷状態にあり、休みなく働かされていたイスラエルが、神さまによって解放されて休息することができるようになったことを記念しています。

10節のユダヤ人(の指導者)たちの言葉は、パリサイ派の律法学者たちが作り上げた規則では、安息日に床を取り上げることが労働と見なされ、禁止されていたということです。モーセの律法そのものの教えではありません。

イントロダクション

イエスさまは、今も私たちの人生の中でいやしを必要としているところに働いてくださいます。病気だけでなく、性質や行動、人間関係、環境なども含めて、です。ベテスダの病人に対するイエスさまの3つの言葉に注目してみましょう。それはいやしを必要としている私たちへの語りかけでもあります。

1.良くなりたいか

失礼?

ベテスダの池には、たくさんの病気の人たちや障がいを抱える人たちがいました。その理由は、上の「参考資料」の所に書いたように、池の水が動いたとき最初に池に入った人がいやされると信じられていたからです。本当にベテスダの池にいやしの効果があったかどうか分かりませんが、とにかくいやしを求めてたくさんの人たちがベテスダの池に集まっていました。

イエスさまは、ベテスダの池の側にいた病人の一人に目をとめて、「良くなりたいか」と声をかけました。
それにしても、病気に苦しむ人に対して「良くなりたいか」とは、あまりにも無神経で失礼な言いぐさではないでしょうか。良くなりたいに決まっているではありませんか!

しかし、実はこの病人は、良くなりたいとは本気で思っていませんでした。いや、良くなりたいと思っているのは嘘ではないのですが、その一方で、良くなりたいという思いにブレーキをかける自分も存在していたのです。

長い挫折体験

それは過去の挫折体験のためです。38年という長きにわたって、彼は病気でした。私は今58歳ですから、38年間というと私が大学2年生の頃から今に至るまでです。それだけの時間、彼はずーっと病気で動けなかったのです。

その間、きっと様々な方法を試して、なんとかいやされようとしたことでしょう。しかしことごとく失敗し、最後の希望を抱いて、いやしの池にやってきました。ところが、彼は体が麻痺する病気でしたから、一人では動くことができません。そこで、水が動いて池に入ろうとしても、もう別の人が先に入ってしまいます。こうして、ベテスダの池でも挫折を体験しました。

人はあまり失敗と挫折が続くと、これ以上傷つきたくないので、もう期待すること自体をやめてしまいます。「良くなりたい」と願ったとしても、どうせまた期待はずれになって辛い思いをするだけ、だから彼は、最初から期待しないことにしたのです。

期待する力を取り戻そう

イエスさまは、池の周りにいた多くの病人の中で、おそらく最も長く苦しんでいたこの人を選んで、近づいてくださいました。

イエスさまは、あなたにも近づいてくださいます。イエスさまは、あなたが抱えてきた苦しみと、それを何とかしようと思ってがんばったけれど、うまくいかずに余計に惨めで辛い思いをしてきたことを分かってくださっています。

そして、その上で、あえておたずねになるのです。「良くなりたいか?」と。それは「過去はもう過ぎ去った。私がついているから、今もう一度信じる力、期待する力を引き出しなさい」ということなのです。

失敗や挫折のために無気力になって、うつむいていたその顔を上げて、イエスさまを見上げながら「はい、良くなりたいです!」と宣言しましょう。

2.起きて、歩け

何かのせいにする人生

「良くなりたいか」という質問に対しては、「はい」か「いいえ」で答えられるはずです。しかし、この病人は、「はい」とも「いいえ」とも答えていません。ただ、自分がどうしてよくなることができないのか、その理由を答えました。「誰も私のことを助けてくれません。だからいやされないのです」と。

第1のポイントで見たように、彼は期待する心を失っていました。どうせ自分はいやされるはずがないと決めてかかっていました。そして、それを正当化するために、どうしていやされないのかという理由を探しました。

そして、自分がいやされない理由は、周りの人たちが助けてくれないからだと言いました。
良くなれない理由探し
私たちも、自分の人生が思い通りに行かないことを、誰か他の人のせいにして、ただ不平不満を抱いているということはないでしょうか。他の人のせいにするだけではありません。私たちは、運命を呪ったり、ちゃんと助けてくれない神さまを恨んだり、社会のせいにしたりすることがあります。そして、だからうまくいかないんだと嘆くのです。

あるいは、自分の能力が足りないからダメなんだとか、性格が悪いからとか、自分がお金持ちでないからとか、生育歴が不幸だったからだとか、そんなふうに自分自身の足りないところをあげつらって、だからダメなんだと嘆くわけです。
私自身のことを告白すれば、私も何度も何度も神さまに対して怒りや恨みを感じてきました。物事がうまくいかないとき、教会が思うように成長しないとき、どうしようもない自分自身の姿を思い知らされたとき……。

しかし、このような、「これのせいでダメなんだ」と、ダメな理由を探して、そのせいにして、不満や恨みを募らせるという生き方は、前に進むためのやる気とか知恵とかをますます削いでいきます。その結果、本当にますますダメになっていくわけです。
良くなれる理由探し
しかし、「大丈夫。できる」と考える人は、どうしたらうまくいくかを考えるし、考えたことを実践します。たとえ失敗しても、必ずうまくいくと信じているので、あきらめずに別の方法を考えて挑戦します。だから、たとえ最初の目標通りにならなかったとしても、必ず何かをつかみます。

あなたは、できない理由探しをしてきませんでしたか? そして、運命や、神さまや、誰かを恨んできませんでしたか?

立ち上がる力

この病人は、助けてくれない周りの人々のせいにして、他の誰かに恨みを抱きながら生きてきました。もしかしたら、自分自身の不幸な運命を呪ったり、いやしてくれない神さまに対して怒りを感じたりしていたかもしれません。そう思うのもよく分かります。それだけ彼は長い間苦しんできたのですから。

しかし、それでもイエスさまは、こうおっしゃいました。「起きて、歩きなさい」。

イエスさまは、できないことをしろとおっしゃるようなむごい方ではありません。この時すでに、彼の内側に立ち上がる力が与えられていたからこそ、こんなことをおっしゃったのです。

まるでイエスさまは、この病人にこんなことをおっしゃっておられるようです。

「なるほど、今まであなたはどんなにかつらい思いをしてきたことだろうね。他の人のせいにしたり、運命のせいにしたりして、どうせ自分はいやされないとあきらめてしまう気持ちはよく分かる。でも、それはそれとして、あなたは今、何をするんだい? 私はあなたに立ち上がる力を与えた。それを信じて自分の足で立つのか。それとも今までと同じように、ダメだと決めてかかって、ダメな理由を探し歩いて、愚痴をこぼしながら生きていくのか。どっちだい?」

これは私たちへの語りかけでもあります。

今のあなたにできることは何?

この病人は、「助けてくれる人がいない」といいました。すなわち、「無いもの」に目をとめていたということです。しかし、イエスさまは彼の中にすでに「あるもの」に目をとめさせようとなさいました。「あなたの内側には、すでに立ち上がる力が与えられている。それを使いなさい」と。

私たちが不平不満にとらわれるのは、無いものに目をとめるからです。イエスさまは、おっしゃいます。「今置かれている状況は、あなたの望み通りではないかもしれない。でも、その中で、人のせい、周りのせい、病気のせい、学歴のせい、経済状態のせい、社会のせい、神さまのせいなどにするのはもうやめて、今のあなたが持っているものに目をとめて、それを使いなさい。今のあなたにできることをしなさい」と。

体育教師だった星野富弘さんは、器械体操の模範演技中に首の骨を折り、首から下が不随になってしまいました。初めは「首から下が動かない」というところにとらわれて、それを嘆き、お母さんに八つ当たりしたこともあったそうです。しかし、いつまでもそこに留まることはなさいませんでした。

やがてクリスチャンとなった星野さんは、無いものにではなく、あるものに目をとめることができるようになりました。「首から下は動かないけれど、首から上は動くじゃないか」というところに目をとめ、「さて、それではどんなふうに生きていこうか」と考え、それを実践なさいました。そして、ご存じの通り、口で筆を加えて草花の絵と詩をかき、その生み出した作品によってたくさんの人々を慰め、励ましています。

「良くなる」というのが、障がいや病気がいやされるとか、問題がまったく無くなるとか、自分の願い通りのことが起こるということなら、星野さんは未だに車いす生活ですから、良くなってはいません。しかし、星野さんの人生は確かに「良くなった」のです。
今のあなたの置かれている状況は、感謝と感動に満ちたものでしょうか。それとも、思わず運命や神さまを呪いたくなるようなひどい状況でしょうか。しかし、そのただ中で、今のあなたにできることは何でしょうか。「自分の足で立って歩く」とは、あなたにとって何をすることですか?

3.床を取り上げて

Uターン

この人が病気になった理由は、今回の後の部分に書かれています。「後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。『見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない』」(14節)。

もちろん、すべての病気や問題が、その人の特定の罪の罰として起こるわけではありません(そうでないケースの方がはるかに多いでしょう)。ただ彼の場合はそうだった、ということです。

信仰とは、神さまの言葉に信頼し、神さまの言葉に聞き従うことです。そして罪とは、神さまに従わないことです。この人は、神さまの言葉に逆らう生き方を続けて、その結果病気になりました。

しかし、この人はイエスさまが立ち上がる力をくださると信じ、そして「起きて、歩け」という言葉に従って立ち上がりました。神さまに従わない生き方から、従う生き方へとUターンして、新しい人生を歩み始めたのです。

従い続けること

そして、イエスさまは、それをこの時だけの決断にして欲しくありませんでした。

床を取り上げよとは、日本風に言えば「布団をたたんで、押入れにしまっちゃいなさい」ということです。いつでも布団に戻ることができるような万年床にするなということです。

要するに、「いったん従い始めたのだから、もう後戻りせずに、従い続けなさい」ということです。

失敗しても従い直し続けること

もちろん、従おうと思っても、ついつい失敗することもあるでしょう。いつの間にか、たたんだはずの布団を広げて、そこに逆戻りしていたなと気づくこともあるでしょう。それが人間というものかもしれません。

しかし、それでもイエスさまは赦してくださいます。感謝します!

そして、再びお命じになるのです。「さあ、また従っていらっしゃい」。だから、布団に逆戻りしていることに気づいたら、また従い始めましょう。何度失敗したとしても、すぐにUターンし直すのです。

先延ばしにしてはいけません。今すぐ神さまの言葉を信じ直しましょう。今すぐ従い直しましょう。

まとめ

イエスさまは、あなたの人生にもさまざまないやしを用意してくださっています。自分の願い通りの出来事が起こらなかったとしても、なおそこで神さまからのすばらしい人生を期待しましょう。そして、神さまに従う人生を選び取り、それを選び続けていきましょう。

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