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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

疑り深いトマス

2023年イースター礼拝

ヨハネによる福音書20章24節〜29節

(2023年4月9日)

疑り深いトマス」と呼ばれる弟子とイエス・キリストの復活に関する記事を取り上げます。イエスはトマスに与えたようなシャローム(平和・平安)を私たちにも与えてくださいます。

礼拝メッセージ音声

参考資料

24節の「デドモ」は双子という意味。双子のきょうだいがいたのかもしれません。

25節の「脇腹」は、イエスさまが亡くなったことを確認するために、ローマ兵が槍で突いた跡のこと。

26節の「八日後」は、この場合は次の週の日曜日。

イントロダクション

今日はイースター(復活祭)の日曜日です。イエスさまは、金曜日に十字架で亡くなりましたが、3日目の日曜日によみがえりました。そして、今も生きておられます。私たちが信じるイエスさまは、死んだ神ではなく、今も生きて私たちを救い、私たちを助け、導いてくださるお方です。

イエスさまが復活したとき、「平安があなたがたにあるように」と言って、弟子たちの隠れていた家に入ってこられました。これは「シャローム・アレィヘム」というユダヤの挨拶の言葉ですが、実際にイエスさまは彼らにシャローム(平和・平安)を携えてこられたのです。日本語で「平和」というと、「平穏無事」、すなわち何もないというようなニュアンスがあります。一方、ユダヤのシャロームは、もっと躍動的で、わくわくして、喜びに満ちたものです。

今も生きておられるイエスさまは、トマスや他の弟子たちの心にシャロームを与えてくださったように、私たちにもシャロームを与えてくださいます。今日は、シャロームからはほど遠い精神状態にあったトマスに対して、復活のイエスさまが何をしてくださったのかを見ていきましょう。

1.トマスへの顕現

復活の日の出来事

別行動していたトマス
「十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」(24節)。

これは、イエスさまが復活なさった日の夕方の出来事です。弟子たちは、自分たちもイエスさまと同じように逮捕されて殺されるのではないかと恐れて、隠れ家に閉じこもっていました。

それに先だって、女性の弟子たちが復活なさったイエスさまと出会っています。最初、男の弟子たちは彼女たちの証言を信じようとしませんでした。しかし、しばらくたつと、外出していたペテロやエマオに向かっていた2人の弟子たちも戻ってきて、それぞれイエスさまに会ったと話をしました(ルカ24:34-35)。

彼らがこれらの証言について話し合っていた時、ドアにはカギがけれられていましたが、イエスさまが中に入ってこられます。そして、弟子たちに向かって「平安があなた方にあるように」とおっしゃいました。弟子たちは、イエスさまがよみがえって姿を現されたことを大変喜びました。

(ハリー・アンダーソン作)
ところが、十二弟子の1人であったトマスは、その場所にいませんでした。理由は書いていないので分かりません。とにかく、トマスだけが復活のイエスさまに会うことができませんでした。
復活を信じないトマス
「そこで、ほかの弟子たちは彼に『私たちは主を見た』と言った。しかし、トマスは彼らに『私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません』と言った」(25節)。

トマスが隠れ家に戻ってくると、他の弟子たちが口々にイエスさまとの再会をトマスに伝えました。彼らの興奮とは対照的に、トマスの反応は冷淡でした。自分はイエスさまの手の釘の痕や脇腹の傷を見て、そこに指をぐりぐり入れてみなければ信じないと言い張ります。ずいぶんとひどい言い方ですね。

もちろん、これはトマスの本心ではありません。イエスさまが実際に現れたとき、トマスはイエスさまの傷に触りませんでした。すぐに「私の主、私の神よ」と言って礼拝しています。トマスは否定的な思いに毒されて、ついあんなことを口走ってしまったのでした。

この時のトマスは、シャロームからはほど遠い気分でした。彼の立場に立ってみると、当然かもしれません。他の弟子たちがみんなイエスさまに会って喜んでいるのに、自分1人だけ会えませんでした。残念な気持ちと他の弟子たちへの嫉妬心が入り交じった、ちょっとすねたような気分だったのかもしれません。

8日後の出来事

イエスの再登場
「八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、『平安があなたがたにあるように』と言われた」(26節)。

8日が経ちました。多くの聖書学者は、8日後というのは次の週の日曜日のことだと解釈しています。この日はトマスも他の弟子たちと一緒に隠れ家にいました。

復活の日の朝、女性たちの前に姿を現したイエスさまは、こうおっしゃいました。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます」(マタイ28:10)。しかし、弟子たちはその命令を無視して、1週間もエルサレムに留まり続けたということになります。これはおそらく、トマスが復活なんか信じないと言ってごねたためだと思われます。

そこで、イエスさまは再びエルサレムの隠れ家に現れました。そして、「シャローム・アレィヘム(平安があなた方にあるように)」と彼らを祝福なさいました。
トマスにかけた言葉
「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい』」(27節)。

イエスさまはトマスに個人的に語られました。まずおっしゃったのは、「私の傷を見て、そこに指をぐりぐりしなさい」でした。1週間前、トマスが語ったとおりにやってみなさいとおっしゃったのです。

トマスがあの発言をしたとき、イエスさまはすでに姿を消した後でした。しかし、そこにいないはずのイエスさまは、ちゃんとトマスが語った言葉を聞いておられました。

それからイエスさまは、「信じない者ではなく、信じる者になれ」とトマスに語りかけました。これは、トマスを責める言葉ではありません。「もしそうすることでお前がわたしの復活を信じてくれるんだったら、わたしは喜んで傷跡を見せるよ。そこに指を差し入れてもらってもかまわないよ。さあ、やってごらん」という、促しの言葉です。

この1週間、トマスは他の弟子たちの証言を信じなかったため、トマスの心は悲しみや嫉妬心で塞がれていました。シャロームとはほど遠い精神状態です。しかし、イエスさまは、トマスにもシャロームを与えたくて、与えたくてたまりませんでした。ですから、イエスさまはトマスに「指をぐりぐりしていいよ」とおっしゃって、だから信じてシャロームを受け取っておくれとおっしゃったのでした。

信仰告白

トマスの反応
「トマスはイエスに答えた。『私の主、私の神よ』」(28節)

トマスは指をぐりぐりなんかせず、すぐに言いました。「私の主、私の神よ」。この言葉は、トマスがイエスさまの復活を信じただけでなく、イエスさまが人となられた神であることを認めたことを表しています。

イエスさまは単に立派な人間などではなく、三位一体の神の第二位格、すなわち人となられた神、救い主です。トマスはそれを認め、そのように信じていますと信仰告白しました。そして、ひれ伏して礼拝しました。

(カール・ハインリッヒ・ブロッホ作「トマスの不信」)
使徒の働きで、バルナバとパウロがリステラという町で伝道していたとき、2人が行なった奇跡に驚いた町の人たちは、彼らのことを神々と呼び、いけにえをささげて礼拝しようとしました。すると彼らは着物を引き裂いて「私たちもあなたがたと同じ人間です」と叫んで、礼拝をやめさせました(使徒14:8-18)。

黙示録に、すばらしい幻を見せられたヨハネが、自分に語りかける天使の前でひれ伏し、礼拝しようとした記事が載っています。天使はヨハネを止めて言いました。「いけません。私はあなたや、イエスの証しを堅く保っている、あなたの兄弟たちと同じしもべです。神を礼拝しなさい」(黙示録19:10)。

ですから、もしもイエスさまが本当は単なる人間に過ぎないのだとしたら、トマスの礼拝を止めたはずです。しかし、イエスさまは礼拝を止めませんでした。むしろ、トマスの信仰告白を受け入れていらっしゃいます。それが次の節を見れば分かります。
イエスの返答
「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです』」(29節)。

イエスさまは、「あなたは信じた」とおっしゃいました。トマスがご自分のことを「我が主、我が神」と呼んで礼拝したことを、良しとなさったということです。

ただ、トマスはイエスさまを実際に目で見ることで、復活を信じることができました。これはトマスだけでなく、ペテロたち他の弟子たちも同じです。彼らは女性たちが証言したにもかかわらず、実際にイエスさまに会うまで復活を信じられませんでした。

そんなトマスや、横で聞いている弟子たちに向かって、イエスさまは「見ないで信じる人が幸いだ」とおっしゃいました。

ある人が「信仰の反対語は”見ること”だ」と言いました。実際に見たり触れたりして体験したら、もう信仰は必要ありません。今皆さんはイースター礼拝に出席するため、この会場にいらっしゃいましたね? それは「今日、労働福祉会館に行けば、礼拝式に参加できる」と信じた結果です。

もしかしたら、私がこちらに向かう途中で交通事故に遭うなどして、突然礼拝式が中止になる可能性もないわけではありません。それでも必ず礼拝式は実施されると信じたから、皆さんはここにいらっしゃるわけです。

しかし、礼拝式がすでに始まった今、その信仰は不要になりました。すでに体験していらっしゃるのですから。

聖書は、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」(ヘブル11:6)と教えています。逆に言うと、信仰がある人のことを、神さまは喜んでくださるということです。全知全能であり、愛に満ちあふれた神さまに喜ばれ、祝福される人生は、何と幸いなことでしょうか。

イエスさまはトマスや他の弟子たち、そして私たちに向かって、「これからは、見なくても証言だけで信じる人になって、神さまの祝福を受ける幸いを味わっておくれ」とおっしゃっています。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.イエスは私たちにシャロームに満ちた人生を与える

イエスは今の気分を責めない

トマスは悲しみと嫉妬によってすねたような気分に陥りました。そして、イエスさまについてひどい言葉を吐いてしまいました。トマスはその言葉をイエスさまに直接申し上げたのではなく、他の弟子たちに向かってつぶやきました。しかし、イエスさまはそれを聞いておられました。

それでも、イエスさまはトマスのことを責めませんでした。「お前は、何を子どもっぽいこと言ってるんだ!」と叱ったりなさいませんでした。むしろ、そういう否定的な気分のトマスの位置まで下ってくださり、彼にシャロームを与えるためにわざわざ会いに来てくださったのです。
今のあなたは?
昨日のあなたはもう生きていません。明日のあなたはまだ生きていません。今生きておられるイエスさまは、昨日のあなたでも明日のあなたでもなく、今生きているあなた、今ここにいるあなたに関わってくださいます。

今のあなたはどんな気分ですか? 何かを恐れている? 何か不満? 何かだめなものが目についてたまらない? 何か苦しい? 何か悲しい? どうにかして欲しいことがある? たとえそれが、否定的・消極的・破壊的な気分であったとしても、イエスさまは頭ごなしにそれを責めることをなさいません。

ですから私たちが否定的な気分に毒されてしまったときは、トマスのようにイエスさまにそのことを申し上げましょう。かっこよくなくていいし、不信仰でもいい。今の正直な気分を、飾らないでそのままイエスさまに告白するのです。

すると、イエスさまはそこから何かを始めてくださいます。あなたの心に働きかけて、否定的な気分から抜け出させてくださいます。

イエスは可能性を信じ続ける

レッテル貼り
今回の箇所のせいで、トマスはよく「疑い深いトマス」とか「不信仰なトマス」と呼ばれます。しかし、彼だけがそんなふうに呼ばれるのはどうでしょうか。他の弟子たちも、イエスさまの十字架や復活のことを信じていませんでした。彼らもまた「見たから信じた人」でした。たまたまトマスは不在だったため、一人だけ悪目立ちしてしまっただけなのです。

それに、ここはとても重要なポイントですが、イエスさまも聖書も、トマスのことを「疑い深いトマス」とか「不信仰なトマス」などと呼んでいません。私たちは、つい自分や他人にレッテルを貼りたがります。しかし、イエスさまは私たちに悪いレッテルを貼ったりなさいません。
他の登場箇所
トマスは今回以外に、聖書の3箇所に登場します。1つ目は十二使徒が選ばれた場面、あとはヨハネ11:16と14:5です。

ヨハネ11章は、死んだラザロを助けるためにイエスさまがベタニヤに行こうとおっしゃったときの場面です。指導者たちが殺そうと狙っているから危険だと言う弟子たちの中で、トマスは「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」と語っています。ちょっと悲壮感に満ちすぎてはいますが(イエスさまには、まだ死ぬ気がありませんでした)、勇気あふれる人となりが伺われます。

ヨハネ14章では、分からないことは分からないと素直に認め、イエスさまに尋ねています。トマスはものごとをとことん追求していく人なのです。

トマスはすばらしい性質を持った人物です。ただ今回の箇所では、彼のその持ち味(これと思ったところに、全力を傾ける。とことん追求する)が、たまたまマイナス方向に働いてしまったのでした。

復活のイエスさまと出会ったトマスは、これと思ったことに全力を傾けるプラスの持ち味が引き出され、熱心に伝道するようになりました。そして、やがてインドに渡り、そこで殉教の死を遂げたという伝承が残っています。
新しいレッテル
以前、2人のお子さんを育てるお母さんから以下のような相談を受けました。仮にAさんとお呼びすることにしましょう。
「自分は、怒りっぽい性格で、いつも子どもたちをガミガミと叱ってしまいます。こんな自分の性格がいいとはとても思いません」。

まずAさんに申し上げたのは、性格というのは、「行動パターン」につけたレッテルだということ。たとえば、私は自他共に認める優柔不断な性格ですが、これは「決断するのに他の人より時間がかかることが多い」という行動パターンに、マイナスのレッテルを貼ったものです。

しかし、この行動パターンは、必ずしもマイナスに働くわけではありません。プラスに働けば「安易に判断せず、様々な可能性を多面的に考慮し、最良の決断を下せる」ということです。

ですから、同じ行動パターンにプラスのレッテルを貼ることもできます。すなわち私は「慎重で思慮深い」長所を持っているということです。

では、「怒りっぽい」をプラスのレッテルに変換するとどうなるでしょう。私がAさんに申し上げたのはこうです。

「それは、お子さんの幸せを真剣に考えているということです。
最近は、自分の子どもが公の場で騒いだりいたずらをしたりしているのに、全く叱ることができない親が増えています。そんなふうに育った子どもたちは、ルールやマナーを守る力が身についていないため、人間関係がうまくいかなくなって、学校や社会の中でつらい思いをしてしまうことでしょう。
しかし、Aさんはお子さんに社会性や自立の力をしっかり身につけてもらいたいと願っておられます。それは素晴らしいことです。
Aさんは、愛情に満ちたお母さんです」。

聖書の神さまは、私たちの足りないところをピックアップしてマイナスのレッテルを貼り、それを叩くようなお方ではありません。長所も短所もひっくるめた私たちを、まずはそのまんまで受け止めてくださいます。そして、そのまんまの私たちのことを大好きだとおっしゃるのです。それから、私たちの持ち味を引き出してくださいます。

否定的なレッテル張りは、もうやめませんか? むしろ、自分や他人の短所と見えるところに、素晴らしい可能性を見出してみましょう。貼るならすばらしいレッテル、イエスさまが語ってくださっているようなレッテルを貼りましょう。あなたは「神に愛されている、神の子ども」です。

イエスは新しい目標を与えてくれる

イエスさまは、復活して生きておられます。私たちも生きています。ですから、私たちとイエスさまとの関係も、いつまでも同じではなく常に成長していきます。

イエスさまとトマスの関係も成長しました。見て、しかも触らなければ信じないと語ったトマス。しかし、実際に触らなくても、見ただけで信じられました。さらにイエスさまは、次なるステップ、「見なくても信じる」という世界があることをお示しになりました。

では、「見なくても信じる」とはどういうことでしょうか。それは「聞いて信じる」ということです。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです」(ローマ10:17)。
見ないで信じる人とは
見ないで信じる者は幸いです。この幸いな人とは誰のことでしょう。それはあなたです。あなたは、トマスや他の弟子たちのように、イエスさまを見ることも触ることもできません。それでも、信じておられます。イエスさまが今も生きておられ、この自分をこよなく愛しておられ、この自分を圧倒的な祝福で満ち足らせてくださるということを。

これは、奇跡だとは思われませんか? あなたには、すでにそのようなものすごい力が与えられています。もっともっとその力を活用しましょう。
約束の言葉を聞こう
まずは神さまの約束の言葉を聞くことです。「聞いて信じる」のですから。今、皆さんが置かれている状況で、イエスさまはどんなシャロームを約束しておられますか?
自分に言い聞かせよう
次に、その約束の言葉を、自分自身によくよく言い聞かせることです。

トマスの頭の中には、否定的な言葉が渦巻いていました。「ダメだ」「おしまいだ」「どうせ俺なんか」……。「イエスさまは復活したんだよ」という友の言葉が入る隙がないないくらいでした。私たちが問題に直面して悩んでいるときも、同じように否定的な言葉が脳内を駆け巡っています。

しかし、イエスさまはおっしゃいます。「平安があなたがたにあるように」。「シャローム・アレィヘム」。皆さんは、神さまのシャローム、神さまの祝福、神さまの大丈夫に満ちあふれています。だから、「大丈夫!」と、自分自身に向かって力強く宣言してみましょう。そうして、否定的な思いを吹き飛ばしてしまいましょう。

まとめ

イエスさまは復活し、今も生きておられます。そして、私たちを否定的な思いから解放し、シャローム(平安、大丈夫感覚)を与えてくださいます。

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