(2023年5月21日)
礼拝メッセージ音声
参考資料
35節の「その日」とは、「ベルゼブル論争」が行なわれ、ガリラヤ湖畔で群衆に向かって「種まきのたとえ」など9つのたとえ話を語られた日のことです。
35節の「向こう岸」とは、ガリラヤ湖東岸の「ゲラサ人の地」(5:1)と呼ばれる場所で、以下の地図で「ゲルゲサ」と書かれているところです。そこは異邦人が住む土地でした。出発地は北西岸にあるカペナウム付近です。
イントロダクション
今日は、イエスさまが湖の上で嵐を鎮めた奇跡について学びます。今日のテーマは感動に満ちた人生です。イエスさまは私たちに、恐ろしく感じる程まで感動を与えてくださいます。そして、それはイエスさまがどのようなお方なのかということを知ることによって与えられます。イエスさまはどんなお方のでしょうか。この記事から教えていただきましょう。
1.嵐を鎮めたイエス
向こう岸へ渡ろう
イエスの促し
「さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた」(35節)。
参考資料にも書きましたが、「その日」とは、パリサイ人たちとのベルゼブル論争があり、その後ガリラヤ湖のほとりで群衆に9つのたとえ話を語られた日のことです。
また、今回のシリーズでは取り上げませんでしたが、イエスさまの母マリアや兄弟たちがイエスさまに会いに来たのもこの日です(マタイ12:46-50、マルコ3:31-35、ルカ8:19-21)。マルコ3:21に
「これを聞いて、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が『イエスはおかしくなった』と言っていたからである」と書かれているので、マリアたちもおそらくイエスさまを実家に連れ戻そうとしてやってきたのでしょう。しかし、イエスさまはマリアたちに会おうとしませんでした。
夕方になり、非常に盛りだくさんだった一日が終わろうとしていました。きっとイエスさまはくたくたに疲れていらっしゃったことでしょう。イエスさまは子なる神ですが、この地上には人間となって来られました。当時のイエスさまは、私たちと同じ肉体を持っておられます。ですから、おなかがすくし、喉も渇くし、疲れを覚えもします。
イエスさまは、休息を必要としていました。そして、イエスさまを信じないユダヤ人たちがいない場所で、弟子たちとじっくり語り合いたいと思っておられたことでしょう。ベルゼブル論争のところでお話ししたとおり、イスラエルは国として公にイエスさまを拒否しました。そこで、イエスさまの活動の目的が、できるだけ多くのユダヤ人にご自分が救い主だということを知らせることから、弟子たちを訓練することに変わったからです。
向こう岸というのは、異邦人が住む「ゲラサ人の地」と呼ばれていた地域です。そこにはユダヤ人はほとんど住んでいませんでした。
舟による移動
「そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った」(36節)。
イエスさまの言葉を聞いて、弟子たちはイエスさまと一緒に舟に乗ってこぎ出しました。ペテロ・アンデレ・ヤコブ・ヨハネは元漁師でしたから、舟を操るのはお手の物です。
またほかの舟も一緒に行ったと書かれています。おそらく、9つのたとえ話を舟の上から聞いていた人たちでしょう。彼らもイエスさまの後を追いかけていきました。
激しい嵐
嵐のために沈みそうになる舟
「すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった」(37節)。
突然の嵐が襲ってきました。ガリラヤ湖は普段は穏やかですが、時々激しい暴風が吹き荒れます。ガリラヤ湖はヨルダン渓谷の中にあって、東西を高い山地に挟まれています。また、北方には海抜2,814mもあるヘルモン山がそびえていて、そこから時折冷たい風が海抜マイナス213mのガリラヤ湖に向かって吹き下ろしてきます。
この風は狭い谷の間を通ってくるため、風がぎゅっと集まってスピードが増していきます。ちょうど、火吹き竹でかまどに息を吹きかけるような状態です。そして、ガリラヤ湖に到達した頃にはかなりの強風になっています。その上、冷たい風がガリラヤ湖の上の暖かい空気に触れると強い対流が起こって低気圧が発生し、ますます激しく風が吹き荒れるのです。
この時の嵐は特に激しく、ペテロたちプロの漁師でも手に負えません。大波のために舟の中にどんどん水が入り込み、今にも沈みそうになってしまいました。
レンブラント「ガリラヤの海の嵐」(1633年)
(画像引用:Wikipediaより)
眠るイエスと慌てふためく弟子
「ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生。私たちが死んでも、かまわないのですか』と言った」(38節)。
ところが、そんな状況にもかかわらず、イエスさまは暢気にもすやすやと眠っておられます。よっぽど疲れていらっしゃったのでしょう。それと共に、寝ている間も必ず天の父なる神さまが守ってくださると信じ、安心しておられたのでしょう。
しかし、慌てふためいていた弟子たちは、イエスさまを起こしました。そして言いました。「私たちが死んでもかまわないのですか!」
これはイエスさまの弟子たちに対する愛情を疑う言葉です。もしもあなたが親で、子どもからこんなセリフを吐かれたらどんな気持ちになるでしょう。この時のイエスさまも、きっと悲しい思いをなさったことでしょう。
でも、私たちは弟子たちの不信仰を笑うことはできません。私たちも苦しみにあったり、祈りがなかなかかなえられなかったりしたとき、何度「本当にイエスさまは私を愛してくださっているんだろうか」「神さまは私なんかに興味を持っておられないんじゃないだろうか」と考えたり、そう実際に口に出して祈ったりしたことでしょうか。
もしも本当に対処が必要な問題なら、イエスさまは弟子たちに起こされる前に起き上がって、嵐を鎮めておられたことでしょう。今回イエスさまがそうせずに眠ったままだったのは、弟子たちが死のうがどうしようがどうでもいいと思っておられたからではなく、そうする必要がなかったからです。
しかし、弟子たちは自分たちに対するイエスさまの愛を疑うような発言をしてしまいました。
そしてこの弟子たちの発言は、イエスさまのみことばの力を疑う言葉でもあります。イエスさまは「向こう岸へ渡ろう」とおっしゃいました。神の御子であるイエスさまがそうおっしゃったのなら、必ず向こう岸に渡ることができるはずです。
ところが、彼らはそれを信じることができず、大騒ぎをしてしまいました。
驚くべき奇跡
風と湖に命じるイエス
「イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に『黙れ、静まれ』と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった」(39節)。
弟子たちに無理矢理起こされたイエスさまは、風と湖に静まるよう命じました。すると、一瞬のうちに突風が治まり、湖面が静かになりました。一瞬で変化したということは、偶然嵐が治まったのではなく、イエスさまの命令に従ってのことだということです。
イエスさまはこれまで、多くの病気をいやし、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせることさえなさいました。ここでは、自然現象までコントロールなさっています。
弟子たちへの叱責
「イエスは彼らに言われた。『どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか』」(40節)。
イエスさまは弟子たちの不信仰を叱られました。イエスさまや天の父なる神さまの愛情を疑った不信仰、またみことばは必ず実現するということを疑った不信仰を、です。
しかもイエスさまは「まだ」とおっしゃっていますね。これまで約2年間、弟子たちを教えてきたのに、まだわたしの愛も力も信じられないのかというニュアンスです。
もちろん、船の中にいた弟子たちはみんな、イエスさまのことを聖書が登場を約束してきた救い主であり、世界を治める王の中の王、主の中の主であると信じています。しかし、その信仰はまだまだ未熟で、イエスさまが期待しておられたほどには成長していませんでした。
弟子たちの反応
「彼らは非常に恐れて、互いに言った。『風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか』」(41節)。
イエスさまはどのような方法で嵐を鎮めたでしょうか。それは言葉です。創世記1章で、神さまは言葉を発することによってこの宇宙や生物をお造りになりました。言葉一つで自然をコントロールなさったイエスさまは、創造主の神としての力を発揮しておられます。
そのことに弟子たちは気づきました。
また、詩篇の中に次のような言葉があります。
「あなたは海の高まりを治めておられます。波が逆巻くときあなたはそれを鎮められます」(詩篇89:9)。ここで「あなた」と言われているのは、神さまです。この言葉を弟子たちは知っています。
そこで弟子たちは、目の前にいるお方が人となられた神であると改めて認識しました。
その結果、弟子たちは非常な恐れを抱きました。と言っても、これはイエスさまを化け物のように怖がったということではありません。イエスさまは彼らが想像していたよりはるかにはるかに偉大であり、力あるお方だということを知り、畏怖の念、畏敬の念を抱いたということです。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.恐ろしいほどにイエスさまに感動しよう
私たちが信じている救い主イエスさまは、いったいどんなお方でしょうか。
私たちに関心を持ってくださるお方
弟子たちは大変な嵐を経験しました。私たちも人生の中で、嵐と呼べるような問題に苦しめられることがあります。
問題がなかなか解消されないと、先ほども申し上げたとおり、私たちは神さま、イエスさまの愛情を疑いたくなってきます。しかし、それはサタン(悪魔)の思うつぼです。
悪魔がエバを誘惑するとき、エバは「エデンの園の真ん中にある木の実だけは食べてはならない、食べると死ぬと神さまがおっしゃいました」と答えました。すると、サタンは言いました。
「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです」(創世記3:4-5)。
すなわち、「食べるとすばらしい力を与える木の実を、わざと食べさせないでいるのだ。神さまはけちんぼなんだ。あなたたちのことを本当に愛していたら、こんな制限なんか設けないはずだ」とサタンはささやいたのです。
私たちに対する神さまの愛、善意を疑わせて、神さまと私たちの仲を引き裂こうとするのは、サタンや悪霊たちの常套手段です。引っかかってはいけません。
むしろ私たちは、問題のまっただ中でこそ、神さまが私たちを愛し、必ず幸せへと導いてくださると信じ、告白しましょう。神さまが私たちを愛しておられる証拠は、十字架です。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。
私がこの時計を1,000円支払って手に入れたとしたら、私はこの時計に1,000円と同じ価値があると見なしたことになります。等価交換の原則です。私たちを罪の呪いから救い出し、取り戻して、再び神さまとの温かい交わりを再開させるために、イエスさまの命がささげられました。と言うことは、神さまは私たちのことを、イエスさまの命と同じ価値があると見なしてくださったということです。それだけ大切に思ってくださっているということです。
また、イエスさまも私たちを取り戻すために、進んで十字架にかかり、命を投げ出されました。そして復活して、今も私たちが祝福されるよう父なる神さまに取りなしてくださっています。
私も皆さんも、それほどまでにイエスさまに、神さまに愛されています。そのことを日々黙想し、恐れを抱くほどに感動しましょう。
必ず約束を実現なさるお方
イエスさまは「向こう岸へ渡ろう」とおっしゃいました。そして、その言葉通り嵐をものともせず、弟子たちと共に向こう岸に渡られました。
イエスさまのみことばは、必ずその通りになります。神さまの約束の言葉は、必ず実現します。そのことを改めて意識し、信じましょう。
この話をお読みください。
中通りコミュニティ・チャーチのメンバーであるMさんは、仕事の都合で、持ち家をしばらく使っていらっしゃいませんでした。すると、あるお年寄り夫婦が急に借家を出なければならなくなったため、一時的でいいから住める場所を探しているという話を聞きました。
親切なMさんと奥さまは、その老夫婦がMさんの亡くなったおばあさまと知り合いだったということもあり、自分たちが戻ってくるまでの1年半の間、家を管理してもらう代わりに家賃なしで家を貸すことにしたのでした。
ところが、この老夫婦は、あちこちからゴミを敷地に集めてくるようになりました。それらをバラして、金属などはリサイクル業者に売っているようですが、売れない部分やバラしたときの破片、そしてまだバラしていないゴミなどが、敷地を埋め尽くすようになりました。
びっくりして、片付けるよう何度もお願いしましたが、片付くどころか週ごとにゴミが増えていきます。このままだと我が家が粗大ゴミ集積場のようになってしまうと考えたMさん夫妻は、ついに出て行って欲しいと申し入れました。
ところが、片付けるためのお金がないし、荷物(Mさん夫妻にとってはゴミ)を置いておく場所も見つからないから出て行けないという返答です。老夫婦にはお子さんがいますが、生活保護受給者なのでどうすることもできないとのこと。
Mさんは弁護士にも相談しましたが、Mさんがゴミの処分費用(業者に見積もってもらったら、200万円近くかかるとのことでした)だけでなく、引っ越し先をさがし、そこの敷金礼金も用意しなければならないとのことでした。親切心から家を無償で貸したあげく、管理してもらえるどころかゴミでいっぱいにされ、莫大な経済的負担まで背負わなければならないとは理不尽きわまりない話ですが、法的にはそうだというのです。
ゴミ処分の見積もりに来てくれた業者によると、この老夫婦はこれまでもあちこちで同様のトラブルを起こしてきたようなのです。そして、家を貸してしまった親切な人たちは、役場や警察や弁護士などにも相談しましたが、結局自腹を切って出ていってもらったり、ゴミの山を残したまま出て行ってもらったりして、泣き寝入りするしかなかったとか。
しかし、Mさん夫妻には希望が残されていました。イエスさまは、「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます」(マタイ18:19)と約束なさいました。
そこで、中通りコミュニティ・チャーチでは、Mさんご夫妻のために礼拝式で祈り、さらに全員で1週間の連続祈祷を行ないました。
すると、確かに神さまが働いてくださいました。その週の土曜日にMさんご夫妻が実家に行ってみると、ゴミがきれいに片付いていて、老夫婦はどこかに退去していたのです。まさに、「人にはできないことが、神にはできるのです」(ルカ18:27)と書かれている通りです。
神さまの約束が実現した体験談を、教会でお互いに持ち寄って分かち合いましょう。また、書籍やSNSその他のメディアで紹介されている体験談に触れましょう。そうして、確かにイエスさまは約束のみことばを守られるお方だという確信を深め、恐ろしく感じるまでに感動しましょう。
偉大な力を発揮なさるお方
そして、イエスさまは私たちが想像するよりもはるかに力あるお方です。必要があれば、イエスさまは奇跡さえも起こして目的を達成なさいます。
もう召天なさいましたが、アメリカの牧師でジョン・ウィンバーという牧師がいらっしゃいました。ウィンバー先生は、「新約聖書が完成してからは、もう奇跡によって使徒たちの教えを権威づける必要が無くなった。だから、今はもう奇跡は起こらない」と教える神学校の出身でした。ウィンバー先生自身も、奇跡だとか聖霊の賜物だとかにはまったく興味を持っていませんでした。
ところが、ルカの福音書を連続で解説するメッセージのシリーズを始めたところ、神さまが心に語りかけてくるのを感じます。それは「『イエス・キリストは今もここに書かれているような奇跡を行なうことができる』と教会の人たちに教えなさい。そして、毎週礼拝後にいやしを必要としている人を講壇のところに呼んでいやしを祈りなさい」という命令でした。
最初はものすごく抵抗しましたが、圧倒的な促しに逆らいきれず、ウィンバー先生はいやいやながら神さまの言う通りにしました。ところが、毎週のようにいやしを祈っているのに、ただの一人もいやされません。そこで、いやしはあくまでも神さまのお働きだから、神さまがそう望まれない限り起こらないのだ、だからいやされないこともあるのだと説明するのが常でした。
ところが、あきれた人たちが次々と教会を離れていき、メンバーの数が半分になってしまいました。だから、もうやめようと思うのですが、そのたびに「やめるな」という声が心の中に響いてきます。そこで、毎週のようにいやしを祈り、そしていやされないということを繰り返していました。
そんなある日、あるメンバーの男性が、ぜひ我が家に来て病気で伏せっている妻のいやしのために祈ってくださいと願いました。ウィンバー牧師は男性の家に行くと、奥さんの上に手をかざしていやされるよう祈りました。そして、ご主人の方に振り返ると、いつも語っているとおりどうしていやされないのかを説明し始めました。
すると、男性は怒ったりガッカリしたりするどころかニコニコしています。その視線はウィンバー牧師の後ろに注がれています。ウィンバー先生が振り返ると、さっきまで起き上がることさえできなかった奥さんが上体を起こし、そして立ち上がっているところでした。
その日以来、礼拝の後の祈りで、続々と人がいやされるようになりました。
なかなか奇跡が起こらないと、そのうち期待すること自体をあきらめたくなりますね。それでも、ウィンバー牧師が神さまのお命じになったとおりいやしを求め続けたように、私たちもまたあきらめないで期待し続け、祈り続けましょう。
もちろん、奇跡の主役は私たちではなく神さまです。あえて奇跡を行なわないという判断を神さまがなさる場合もあります。それでも私たちは神さまには偉大な力があることを信じ続けましょう。
その時、私たちは人生に置いて神さまのすばらしい力を体験することができます。そして、恐ろしいほどに感動を覚えることができます。