本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

きよめ論争

イエス・キリストの生涯シリーズ37

マルコによる福音書7章1節〜8節

(2023年7月9日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

1節の「パリサイ人」は、ユダヤ教のパリサイ派に属する人のこと。律法学者は、モーセの律法を研究し、その意味を民衆に教える学者。

3節の「昔の人たちの言い伝え」は、歴代の律法学者たちが作り出した戒律。

6-7節の引用元は、イザヤ29:13です。

イントロダクション

今日の箇所は、きよめに関してイエスさまとパリサイ人や律法学者たちが論争した場面です。

神さまは全知全能で、不可能の何一つないお方です。この方との関係が良好で仲良しならば、私たちの人生は何があっても、何がなくても大丈夫。この地上でも死んだ後でも怖いものは何もありません。

神さまは全知全能であると同時に、きよく正しい方でもいらっしゃいます。そのお方と仲良しでいるためには、私たちもきよくなければなりません。

私たちがきよく正しい状態を保ち、全知全能の神さまといつも仲良しでいるために、そして何があっても大丈夫という希望に満たされているために、私たちは何に注意し、何を目指す必要があるでしょうか。イエスさまとパリサイ人や律法学者たちの論争を通して、そのことを教えていただきましょう。

1.きよめに関する論争

言い伝え

パリサイ人と律法学者
「さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった」(1節)。

パリサイ人とは、ユダヤ教のパリサイ派に属する人のことです。その由来はいわゆるバビロン捕囚に遡ります。
  • 紀元前931年にソロモン王が死ぬと、イスラエル統一王国は北王国と南王国に分裂しました。
  • 紀元前722年、北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、多くの民がアッシリアに連れ去られました。
  • 南王国はもう少し存続しますが、紀元前586年にバビロン(新バビロニア帝国)によって滅ぼされ、やはり多くの民がバビロンに連れ去られていきました。バビロンはアッシリアも滅ぼしましたから、アッシリアに連れ去られた北王国の民もバビロンの支配下に入りました。
  • 紀元前539年、ペルシャ帝国がバビロンを滅ぼしました。その翌年、ペルシャ王キュロス2世は、外国からバビロンに捕らえ移された人々を解放し、希望するなら祖国に帰ってよいというお触れを出しました。そこで、ユダヤ人の一部が祖国に戻ります。その後ユダヤ人のイスラエル帰還は何回かに分けて行なわれました。
こうした歴史的経緯の中で、ユダヤ人たちは考えました。「神の民であるイスラエルが滅ぼされ、民が異教徒の国に連れ去られるという悲劇を招いたのはなぜか。それは、先祖たちや自分たちがモーセの律法を無視し、預言者たちの警告も無視してきた罪のせいだ。だから、神さまのあわれみによって祖国に戻していただいた自分たちは、今度こそモーセの律法を忠実に守り、敬虔な生き方をしなければならない」。

律法学者は、こうした律法遵守運動に則り、モーセの律法に何が書かれているのか、そしてそれらの命令を守るとは、具体的に何を行ない、何を行なわないことなのかを研究して、イスラエルの民に教えた学者たちです。

そして パリサイ人は、律法学者たちの教えを積極的に守り、敬虔な生き方を目指そうとした人々の流れを汲んでいます。

さて、五千人の給食の奇跡の後、カペナウムに戻ってこられたイエスさまの元に、パリサイ人や律法学者たちがやってきました。
手を洗わずに食べる弟子たち
「彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た」(2節)。

この頃のパリサイ人たちは、イエスさまに対して敵対心を抱いていました。それは、イエスさまが自分たちの教えを無視していたばかりか、時に偽善者呼ばわりして批判していたからです。彼らはイエスさまのことを救い主だとは認めず、悪霊の力を借りて奇跡を行なう魔術師と呼んでいました。

そんな彼らは、イエスさまを非難するタネを探していました。そして目を付けたのが、イエスさまの弟子たちが手を洗わないで食事をしていることです。これが非難のタネになるのは、衛生的に問題があるからではなく、パリサイ派の教えに反する行為だったからです。
昔の人たちの言い伝え
「パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである」(3-4節)。

先ほど申し上げたような経緯で、律法学者たちはモーセの律法を研究して、人々に守るよう教えました。ところが、長い年月が経つうちに、律法学者たちの研究がおかしな方向に進んでいきます。

たとえば、モーセの律法の中には、「子ヤギの肉をその母ヤギの乳で煮てはいけない」という命令があります(出エジプト23:19など)。最初の世代の律法学者たちは、この教えはイスラエルの民を偶像礼拝から守るためだと解説しました。モーセの律法が与えられた時代、約束の地に住んでいたカナン人たちが、異教の神々にささげるためにそのような行為をしていたからです。

ところが、後の時代の律法学者たちは、ここに新しい教えを追加していきました。肉になった子ヤギを産んだの母でなくても、子ヤギをどんなヤギの乳で煮ることも禁止。これを守っていれば、より安全だからという理由です。

さらに教えが追加されます。子ヤギでなくても、どんな動物であっても、肉を乳で煮ることは禁止。さらに、肉料理と乳製品を一緒に食べることが禁止。さらにさらに、肉料理を載せる食器は、乳製品を乗せる食器は厳密に区別しなければならない。その上、肉料理用の食器を洗うための流しやスポンジと、乳製品用の食器を洗うための流しやスポンジは分けなければならないとか、肉料理を出すレストランでは乳製品を取り扱ってはならないとかいう教えも生み出されていきました。
こうして、元々の「偶像礼拝を避ける」という目的が忘れ去られて、細かい規則がどんどん生み出されていったのです。

これらの新しい教えは、イエスさまの時代の後に文書化されて「ミシュナ」と呼ばれるようになります。しかし、福音書時代は文書化されておらず、律法学者たちによって代々口伝えで継承されていました。そこで、福音書ではこれらの細かい規則のことを「言い伝え」と呼んでいます。

パリサイ人たちは、律法学者たちの言い伝えを忠実に守ろうとし、民衆にも守るよう教えていました。

その言い伝えの中に、食事の前には手を洗うようにという教えがありました。当時のイスラエルの中にはイスラエルの神を信じていない異邦人もたくさん住んでいました。ですから、異邦人が触ったものにユダヤ人が触れてしまうことがあります。そうすると自分たちも異邦人のように汚れてしまうとパリサイ人たちは教えていました。

汚れを受けてしまうと、きよい神さまとの関係が切れてしまいます。それでは大変ですから、汚れてしまったらきよめを受けなければなりません。だから、パリサイ人たちは教えます。食事の前には手を洗わなければならないし、特に異邦人との接触が多い市場から帰ってきたときには全身を洗うのだといきよめるのだと。

イエスとパリサイ人の議論

パリサイ人たちの質問
「パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか』」(5節)。

パリサイ人と律法学者は、弟子たちが手を洗わないままパンを食べている理由を尋ねました。これは、純粋に理由を知りたいためではなく、弟子たちの師匠であるイエスさまを非難するためです。
イザヤの引用
「イエスは彼らに言われた。『イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから」」(6-7節)。

イエスさまは直接彼らの質問に答えず、イザヤが語った預言の言葉を引用なさいました。イザヤは、紀元前8世紀に南王国で活躍した預言者です。神さまはイザヤを通し、当時の南王国の人々が、表面上は敬虔そうに儀式を行なうけれど、その心が神さまの方向いていないと非難なさいました。そんなことが繰り返された結果、やがて南王国は神さまのさばきを招き、バビロンに滅ぼされてしまいます。
イエスの反撃
「あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです』」(8節)。

イエスさまはパリサイ人や律法学者たちに向かって、イザヤの時代のイスラエルの民とあなた方は同じだと言いました。

人を汚すもの

コルバン規定
今回交読しませんでしたが、この後の箇所でイエスさまは、パリサイ人や律法学者たちが、「人間の言い伝えを固く守り、かえって神さまがお定めになったモーセの律法を無視している」例を挙げておられます。それは「コルバン規定」と呼ばれるものです。

人が自分の財産に向かって「コルバン」(ささげものという意味)と宣言すると、その財産はささげものとなります。そして、神殿に持っていってささげるか、そうでなければ自分自身のために使うかしかできず、他の人のために使うことができなくなります。

一方、モーセの律法の中には、「あなたの父と母を敬え」という教えがあります(出エジプト20:12)。この教えを忠実に守るなら、親が経済的に困っているとき、子どもは彼らに援助をして助けなければならないはずです。
ところが、どんなにお金を持っていても、「コルバン」と宣言してしまえば、そのお金は両親を養うためには使えないのです。

パリサイ人や律法学者たちは、自分たちは言い伝えを守ることによって、結果的にモーセの律法を守っているのだと主張していました。しかし、実際にはコルバン規定のように、かえってモーセの律法の精神を台無しにしているではないか、とイエスさまは非難なさったのです。
群衆への教え
それからイエスさまは、群衆に向かって語られました。「外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです」(15節)。

イエスさまは弟子たちにはさらに解説して、次のようにおっしゃいました。「内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです」(21-23節)。

私たち汚すものは、私たちの中にあります。人の外にあるものではありません。悪霊だって、人が罪深い生活を続けたり、オカルトに手を出したりするなど、人が自ら招き入れて初めて取りつくことが可能になります。

ですから、どんなに体を洗ったり、さまざまな儀式を行なったり、修行をしたり、善行を積んだりして外側からきよめようとしても、それで汚れが取り除かれるわけではありません。

では、私たちの内面がきよめられ、神さまとの関係をいつも良好なものにするため、私たちはどうしたらいいのでしょうか。

2.内面がきよめられるためにすべきこと

自分の心を見張ろう

イエスさまは、人を汚すものは人の内側から出てくるとおっしゃいました。私たちがきよくあり続けるためには、私たちは自分の内側の状態にいつも意識を向けている必要があります。

表面に現れる行動はもちろん大切です。と同時に、私たちはその行動を生み出す内面、すなわち動機にも注目しましょう。

イエスさまがパリサイ人たちを非難なさったのは、彼らの多くが偽善的な行動をしていたからです。彼らは表面的には祈ったりささげものをしたり施しをしたりと、宗教的な行動をしていました。しかし、その動機は人にほめられたいというものだとイエスさまは指摘きなさいました。

私たちの内側に、「神さまなんか関係ない。自分は自分の好きなことをやるんだ」という自己中心的な思いがないか、いつもチェックしましょう。そして、聖書の教えに照らして、それが罪だということを認めましょう。

自分の内面が罪深いことを認めるのは痛いですけれど、それが解放の第一歩です。

罪を告白しよう

そして、自分の中に自己中心的な思いがあることに気がついたら、そしてその結果神さまが喜ばれない行動に走ってしまったのだということに気づいたら、神さまにその罪を告白しましょう。

「自分の内側には神さまが喜ばれない、このような思いがあります。その結果、あなたを悲しませるこのような行ないをしてしまいました。どうかお赦しください」というふうに。

すると、神さまはその罪を赦し、私たちをきよめてくださいます。そして、再び仲の良い関係を回復してくださいます。それは、聖書に次のように書かれているからです。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(第1ヨハネ1:9)。

ある人が、この聖書の言葉を「クリスチャンの石鹸」と呼びました。普通の石鹸は体の外側をきよめるためのものですが、クリスチャンの石鹸は私たちの内側をきよめ、神さまとの関係を回復してくれます。

なぜ告白するだけで赦され、きよめられるのでしょうか。それは、イエスさまが赦しときよめに必要なことを、すでにすべて済ませてくださっているからです。イエスさまは、私たちが罪の報いとして受ける罰を、すべて身代わりとして引き受け、十字架にかかってくださいました。

そして、イエスさまがこの自分の罪のために十字架にかかり、死んで葬られたけれど3日目に復活なさったと信じる人は、本当に罪を赦され、神さまの子どもとなり、永遠に祝福される身分を手に入れました。

その人の罪は、過去の罪も、現在の罪も、未来の罪も、すべてすでに赦されています。ですから、ただ告白するだけできよめられるのです。

そのようなわけで、自分の内側に罪があることを認めたら、それをそのまま神さまに申し上げ、再びきよめていただきましょう。隠してもどうせ神さまにはお見通しなのですから、正直に告白しましょう。

赦しを受け取って再出発しよう

告白するだけで、罪は赦されきよめられ、神さまとの関係は一瞬で回復します。ですから、実際に告白したならば、赦されきよめられていることを信じて受け取りましょう。何となく赦されている気がしない、きよめられている気がしない、神さまと仲良しだという実感がないとしても、それでも赦され、きよめられ、神さまと関係回復していると信じましょう。

そして、神さまが喜ばれる生き方がしたいと願い、実際にそれを実践しましょう。

また失敗するかもしれません。その時は改めて告白して赦しを受け取り、またまた再出発しましょう。
安心してください。あなたはあなた一人の力でそれを行なうわけではありません。イエスさまを信じたとき、神の霊である聖霊さまがあなたの内に住んでくださるようになりました。そして、あなたを内側からきよめ、成長させてくださり、少しずつイエスさまに似たものに作り変えてくださっています。

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(第2コリント3:18)。

今日も、明日も、そして死に至るまで、内側の罪を告白しながら、そして聖霊さまのお働きに期待しながら、神さまの喜ばれる生き方を続けていきましょう。それにより、私たちはいつも神さまが共にいて支えてくださるという確信が深められ、何があっても大丈夫という希望に満たされることができます。

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com