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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

わたしをだれだと言うか

イエス・キリストの生涯シリーズ39

マルコによる福音書8章27節〜37節

(2023年7月23日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

27節の「ピリポ・カイサリア」は、ガリラヤ湖のずっと北にあった町。
28節の「エリヤ」は、紀元前9世紀、北王国イスラエルで活躍した預言者。当時、アハブ王とその妻イゼベルによって、国策として異教礼拝が行なわれていましたが、エリヤは多くの奇跡を行ないながらそれと戦いました。なお、マラキ4:5には、救い主が来て世の終わりに悪をさばく前に、エリヤが再臨すると預言されています(そこで現代の過越の祭りでは、家族以外にエリヤのための席を設けるのが通例となっています)。

イントロダクション

今日の箇所で、イエスさまは弟子としての心構えを語っておられます。

1.イエスの正体に関する弟子との問答

イエスは何者か

わたしをだれだと言うか
「さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイサリアの村々に出かけられた。その途中、イエスは弟子たちにお尋ねになった。『人々はわたしをだれだと言っていますか』」(27節)。

イエスさま一行は、ガリラヤ湖周辺を離れて、ずっと北にあるヘルモン山の方向に進まれました。そして、ピリポ・カイサリアの町周辺の村々を訪問なさいました。このあたりは異邦人が住んでいる地域です。

すると、イエスさまは弟子たちに「みんなはわたしのことをだれだと言っているかなぁ」とお尋ねになりました。 もちろん名前を知っているかどうかということではなく、イエスさまの正体についてどう理解しているかという意味です。
人々の意見
「彼らは答えた。『バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます』」(28節)。

バプテスマのヨハネは、イエスさまが公の活動を始める少し前に働き始めた預言者です。預言者とは、神さまからの語りかけを直接聞いて、それを人々に伝える役割の人です。ヨハネは「間もなく救い主が現れる」と預言し、そのために罪を悔い改めるよう人々に求めました。そして、悔い改めのしるしとしてヨルダン川で洗礼を授けました。また、イエスさまが登場すると、この方こそ救い主だと証言しました。
ヨハネはガリラヤの国主ヘロデ・アンティパスを批判して捕らえられ、やがて首を切られて殉教しました。人々の中にはイエスさまのことを「ヨハネがよみがえって奇跡を行なっている」と主張する人もいて、ヘロデ王はその噂を聞いて当惑しました(マルコ6:16)。

エリヤは、紀元前9世紀の前半に北王国で活躍した預言者です。彼は天から火を下したり、死んだ子どもをよみがえらせたりするなど、驚くべき奇跡を行ないました。その後エリヤは、生きたまま天に挙げられました。マラキ書には、世の終わりに救い主が現れ、この世の悪を滅ぼす前に、エリヤが再び現れると預言されています。ですから、ある人たちはイエスさまのことをエリヤだと誤解したのです。

またある人たちは、イエスさまのことを預言者だと言いました。

いずれにしても、人々はイエスさまのことを神さまの働きをする偉大な預言者ではあるけれど、結局はただの人間だと考えていたということです。
ペテロの信仰告白
するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。『あなたはキリストです』」(29節)

イエスさまは、弟子たちはご自分のことをどう考えているかお尋ねになりました。すると、ペテロが弟子たちを代表して「あなたはキリストです」と答えます。

ギリシア語でキリスト、ヘブル語でメシアとは、救い主のことです。旧約聖書には、アダムとエバが罪を犯した直後から、やがて救い主が現れるという預言がたくさん語られています。救い主は神が人となって来られるお方であり、地上の悪をすべて滅ぼして、神の国という理想的な王国を地上に建設して、救われた人たちを住まわせてくださいます。

ペテロや他の弟子たちは、イエスさまこそその救い主だと宣言しました。これまでも彼らはイエスさまのことを救い主だと信じ、だからこそ家も仕事も捨てて付き従ってきました。ここで、改めて自分たちの信仰を宣言したのです。

すると、平行記事のマタイの福音書を読むと、イエスさまが次のようにおっしゃったと書かれています。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません」(マタイ16:17-18)。

ペテロとはギリシア語で石という意味です。当時のイスラエルの人たちが日常しゃべっていたアラム語ではケファと言います。岩のような大きな石ではなく、小さな石を指します。ペテロも不完全で小さな存在です。
しかし、彼が宣言した「イエスさまは救い主です」という信仰告白は、岩のようなどっしりとした存在です。イエスさまは、その信仰告白という岩の上に、教会を建てるとおっしゃいました。私たち教会の土台は、イエスさまこそ救い主だという信仰です。
誰にも言うな戒め
「するとイエスは、自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒められた」(30節)。

イスラエルの国が、公式にイエスさまのことを救い主ではないと決定して以降、イエスさまの活動方針が変わったというのはこれまでもお話ししてきました。以前は、すべてのユダヤ人がご自分のことを救い主だと信じるよう努めておられました。そのため、多くの人々の前で奇跡を行ない、ストレートな教え方をなさいました。

しかし、イスラエルの公式拒否以降は、弟子たちを訓練することがメインの目的になり、基本的に奇跡はイエスさまを救い主だと信じた人たちの前、しかも少人数の前でしか行なわず、教え方もストレートではなくたとえ話を用いるようになります。そして、イエスさまが救い主だと信じた人たちに対しては、そのことを誰にも言うなと口止めなさいました。

イエスさまの今回の命令も、この頃のイエスさまの活動方針通りです。

十字架と復活の予告

十字架と復活
「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた」(31節)。

弟子たちの信仰を改めて確認なさったイエスさまは、重要な預言を語られます。それは、救い主である自分はこれから逮捕され、殺され、3日目に復活しなければならないということです。十字架と復活の予告です。

福音書にはイエスさまが十字架と復活を予告なさったことが4回記されていますが、この時初めて言及なさいました。
ペテロの反論
「イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた」(32節)。

マタイの福音書には、この時のペテロのセリフが書かれています。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」(マタイ16:22)。ペテロは、救い主であるイエスさまが殺されるなどということがあろうはずがないと言いました。

ペテロも他の弟子たちも、イエスさまが救い主だということは信じていました。しかし、その救い主のイメージは、その時代の多くのユダヤ人が抱いていたものの影響を受けています。当時のイスラエルはローマ帝国によって支配されていましたので、悪を滅ぼして神の国を打ち立てる王としての救い主の登場が期待されていました。

確かに旧約聖書は王として君臨する救い主について預言しています。しかし、その一方で苦難のしもべとしての救い主も描いています。

神の国が完成する前に、救い主は地上のすべての悪を滅ぼします。ということは、罪のある人は滅ぼされる側であって、神の国に入れないということになります。そこで、神さまは人の罪を赦し、滅ぼされることがないように配慮してくださいました。そのために必要なのが、救い主の十字架の死と復活です。

神さまは正義ですから、罪を無かったことにはできません。罪は必ず罰せられなければならないのです。そこで救い主が、私たち罪人の代わりに罰を受け、神さまの呪いを引き受けることによって、私たちに罪の罰が降りかからないようにしてくださいました。つまり、つまり救い主の死と復活によって、私たちの罪が赦されるのです。

ところが、当時の救い主イメージに引きずられていたペテロは、救い主が殺されるはずがないとイエスさまに意見しました。イエスさまが教師であってペテロはその弟子のはずなのですが、ペテロはイエスさまの間違いを指摘しようとしたのです。
ペテロへの叱責
「しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。『下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』」(33節)。

イエスさまはペテロを叱られました。サタンとは悪魔のことです。イエスさまはペテロを悪魔呼ばわりしたのではありません。ペテロがサタンによって惑わされ、そのような発言をしたと指摘なさっています。
サタンは神さまの敵です。ですから神の御子であるイエスさまを憎み、イエスさまを亡き者にしたいと考えていました。しかし十字架で死なれたのでは、神さまの救いの計画が完成に近づいてしまいます。ですから、十字架による死は避けなければなりません。そこで、ペテロを惑わして、イエスさまの心から十字架にかからなければならないという使命感を取り除こうとしました。ところが、イエスさまはそれを見抜かれ、サタンに退くようお命じになりました。

しかも、イエスさまは弟子たちを見渡した後でペテロを叱っておられます。ということは、この叱責の言葉は、ペテロだけでなく他の弟子たちにも向けられていることを示しています。他の弟子たちも、当時の一般的な救い主イメージに影響され、神の国が完成する前に人の罪の問題が解決されなければならないという真理を理解していなかったのです。

十字架と復活に関する弟子たちの無理解は、その後も解消されませんでした。実際にイエスさまが捕らえられ、十字架にかけられて亡くなると、弟子たちはみんな恐れ戸惑いました。復活を期待する弟子は一人もいませんでした。

群衆と弟子への語りかけ

自分の十字架を負って従え
「それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。『だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(34節)。

イエスさまは弟子たちと、ついてきていた群衆を近くに呼び集めなさいました。そして、イエスさまに従ってくるための条件を語られました。それは、自分を捨て、自分の十字架を負うことです。

これはいったい何を意味しているのでしょうか。十字架は、今は愛とか平和とか安全の象徴として用いられていますが、当時は残酷な死刑の道具です。であれば、「自分を捨て、自分の十字架を負う」とは、イエスさまに従う際、死をも厭わないという意味だと分かります。

これは、弟子や群衆にとっては衝撃的な命令でした。彼らは当時の救い主イメージの影響を受けていたと申し上げましたね。彼らが救い主に期待していたのは、自分を祝福し、自分の欲望を満足させてくれるお方です。

少し前に、五千人の給食の奇跡が起こりました。その時パンと魚を与えられた群衆は、もっと食べ物が欲しいと思ってイエスさまを追いかけていきます。そんな彼らにイエスさまはおっしゃいました。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」(ヨハネ6:26)。

イエスさまが自分の欲望を満たしてくれないと知った群衆、そして弟子たちの一部が、イエスさまの元を去ってしまいました。イエスさまが期待していたお方でないと考えたからです。

イエスさまは、確かに私たち人類を祝福してくださいます。しかし、イエスさまに従っていく過程では、期待通りにことが進まなかったり、問題にぶつかったり、迫害に遭ったりすることもあります。それを覚悟せよとイエスさまはここで群衆と弟子たちに語りかけておられます。
いのちのパラドックス
「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです」(35節)。

ここで「それ」と訳されているのもいのちです。しかも、それは肉体的ないのちではなく永遠のいのちです。永遠のいのちとは、永遠に存在し続けるという意味ではありません。天国でも地獄でも、人の魂は永遠に存在し続けます。永遠のいのちとは長さの問題ではなく、どういう状態で永遠という時を過ごすのかという質の問題です。

永遠のいのちとは、神さまとの親密な交わりを得ていることです。永遠のいのちを手に入れた人は、罪を赦され、将来実現する神の国に住む権利を得ますし、その後も永遠に神さまと共にいて深い平安やワクワクするような喜びを味わわせていただきます。

自分の肉体的ないのちを惜しむあまり、イエスさまに従わない道を選んでしまうと、せっかく神さまが与えようとしてくださる永遠のいのちを手に入れられないよとイエスさまはおっしゃいます。
本当の利益
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか」(36節)。

私たちは自分の欲望が満足されることを求めています。夢がかなうとか、お金が儲かるとか、成功するとか、人からちやほやされるとか、勉強や仕事やスポーツで一番になるとか……。しかし、仮に全世界の富を独り占めできたとしても、死んでしまったらどうなるでしょうか。

伝道者の書はソロモン王が書いたと言われています。ソロモンは知恵に満たされ、贅沢な暮らしをし、1000人の美女を妻としました。しかし、伝道者の書で「賢い人も愚かな人も、結局死ぬという点では同じ結末を迎える」と述べた後、「すべては空しい」と語っています。

夢がかなっても、どれほど贅沢な暮らしができたとしても、永遠のいのちを手に入れないまま死んでしまっては、何の意味もありません。
いのちの代価
「自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか」(37節)。

肉体的ないのちは永遠には続きません。いつか私たちも死にます。それでも、私たちが復活して永遠に生きることができるため、すなわち永遠のいのちを手に入れるには、いったいどんな代価が必要かとイエスさまは問いかけておられます。
結論としては、人は罪を赦され、永遠のいのちを手に入れるための代価を支払うことができません。もし神さまが私たちの良い行ないのごほうびとして救いを与え、永遠のいのちを与えてくださるのだとすれば、要求されるのは完璧な行動です。毛ほどの不十分さもあってはならないし、ただ一度の間違いも赦されません。

私たちは、神さまから一方的に赦され、救っていただくしかありません。そのために必要なのが、神さまが私たちの代わりに支払ってくださる代価です。救い主イエスさまは、この後十字架にかかって血を流し、ご自分の尊い命をおささげになります。それこそが私たちに永遠のいのちをもたらすための代価です。

自分の欲望を満たすことばかり考えがちな群衆や弟子たちに向かって、イエスさまは一般的な救い主のイメージを捨て去って、十字架と復活を信じるよう促しておられます。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.正しい救い主イメージを持とう

自己中心的な欲望を捨てよう

私たちも、1世紀のユダヤの人々と同じような救い主イメージにとらわれてしまう恐れがあります。私たちはローマ帝国からの解放を望んではいませんが、自分の欲望を満たすお方として父なる神さまやイエスさまや聖霊さまのことを考えてしまうことがあります。

確かに神さまは今も奇跡を行ない、私たちの願い事の祈りに応えてくださることがあります。しかし、そもそも救いとは病気が治ることではありません。社会的に成功することでもありません。お金が儲かることでもありません。人間関係が良好になることでもありません。問題が一切なくなることでもありません。結果としてそうなることはありますが、それが救いの本質ではありません。

救いとは、罪が赦され、神さまとの関係が回復して、ずっと仲良しでいられるようになることです。全知全能の神さまと仲良しでいるという意識によって、私たちはどんな問題の中でも平安でいられるし、「絶対大丈夫」という希望を保ち続けることができます。
私たちは、自分勝手な欲望を満足させるために神さまを利用しようとしていなかったか、いつも自分自身を省みる必要があります。
  • 自分の方が神さまのしもべなのに、自分が神さまに命令して思い通りに動かそうとしてこなかっただろうか。
  • イエスさまのことを、人格をお持ちのお方というよりも、祝福の自動販売機(ちょっと献金して祈りのボタンをポンと押せば、望んだとおりの祝福がガコンと出てくる)のような扱いをしていなかっただろうか。
  • 単に自分がいい気持ちになるためだけに、聖霊さまの満たしを求めてこなかっただろうか。
もしもそんな自分に気づいたなら、神さまにそのことを告白して、「この自分中心の思いを捨てます」と宣言しましょう。神さまは必ず赦してくださり、「もう一度やってごらん」と背中を押してくださいます。

苦しみを覚悟しよう

イエスさまは、ご自分に従うには自分を捨てて、自分の十字架を負わなければならないとおっしゃいました。すでに学んだように、これは痛み・苦しみを覚悟するということです。イエスさまに従うと、苦しい思いを味わわなければならないことがあります。

それは、必ずしも信じない人たちから迫害を受けることだけではありません。聖書の命令を守ること自体も、時に私たちに痛みや苦労を与えます。聖書の命令が私たちの感情に反することがあって、それでも自分自身の心の声ではなく、神さまの命令の方を選ぶのは大変な痛みを伴います。

たとえば、今日皆さんはこうして礼拝式に出席なさいました。一緒に集まって礼拝するようにという神さまの命令を守られました。そのためには、やりたかったこと(たとえばもっと寝ていたいとか、買い物に行きたいとか)を我慢したり先送りにしたりするなど、犠牲を払われましたね。

ある牧師夫人(うちの教会の、ではありません)から、若い頃失恋なさったときの話を聴きました。本当に悲しくつらくて、ずっと泣いていたい気持ちになりました。しかし、聖書の中には「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい」(第1テサロニケ5:16-18)と書かれています。しかし、こんなつらい経験について、喜んだり感謝したりできるものでしょうか。

しかし、この将来の牧師夫人は大変な葛藤を乗り越えて、神さまのを賛美することにしました。「のぞみも消えゆくまでに」という聖歌があります。
望みも消え行くまでに 世の嵐に悩むとき
数えてみよ主の恵み なが心は安きを得ん
数えよ主の恵み 数えよ主の恵み
数えよ一つずつ 数えてみよ主の恵み
聖歌604番
その曲をボロボロ涙を流しながら何度も何度も歌ったそうです。

イエスさまに従う道は祝福に満ちています。しかし、決して平坦な道ではありません。イエスさまに従うには犠牲がつきものだということを覚悟しなければなりません。そして、その先に素晴らしい祝福が待っているのだということを覚えていましょう。

一方的な恵みを感謝しよう

救い主イエスさまは信じる人たちを神の国に招き入れ、その千年後には新しい天と新しい地に住まわせ、永遠に続く幸せを与えてくださいます。しかし、その前にイエスさまは十字架にかかり復活することで、私たちの罪を赦し、神の国に入る資格を与えてくださいました。

私たちが罪赦され、神の国に入る資格を得るために必要なのは、ただ恵みの福音を信じるだけです。すなわち「この私の罪を赦すために、イエスさまは十字架にかけられた。そして、死んで葬られたけれど、3日目に復活なさった」ということを、「これは真実です」と受け入れることだけです。

私たちは神さまによって一方的に愛され、選ばれ、救い出されました。そのことをいつも覚えて感謝しましょう。その感謝こそが、私たちに自己中心的な欲望を捨てさせ、またたとえ苦労してもイエスさまに従っていきたいという思いを生み出させます。

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