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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

魚の口から神殿税

イエス・キリストの生涯シリーズ42

マタイによる福音書17章24節〜27節

(2023年8月13日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

24節の「神殿税」とは、ユダヤ人の20歳〜50歳の男子に課せられた税金。1年ごと半シェケルを納めました。これは労働者2日分の給料(2デナリ)に相当します。神殿税はイスラエルの地に住むユダや人たちだけでなく、世界各地に離散しているユダヤ人たちからも徴収されました。

神殿税の根拠は出エジプト記30:11-16です。元々は、兵士となれる住民の人数を調べる人口調査の際に、登録される20歳以上のイスラエル男性が幕屋(後の神殿)に支払いました。この納入金は、人口調査を受ける人たちが災いに遭わないためにささげる贖い金だと言われています。モーセの律法では、人口調査のたびに支払うものでした。
紀元前6世紀にバビロンによってエルサレム神殿が破壊されます。その後、バビロンが滅びてイスラエルに帰還した人たちは、新しく作られた神殿での礼拝を維持するため、毎年1/3シェケルをささげることにしました(ネヘミヤ10:32)。
イエスさまの時代になると、モーセの律法の規定とネヘミヤ記の規定が合体して、「20歳〜50歳のユダヤ人男性は、毎年半シェケルささげる」と定められました。

25節の「シモン」は、使徒ペテロの本名。ペテロは、イエスさまが付けたあだ名です。

27節の「ステタル銀貨」はギリシアの通貨で、1ステタルは神殿税2人分である1シェケルと同価でした。

イントロダクション

今日の話は、マタイの福音書のみに記録されています。ここから、私たちの行動基準を教えていただきましょう。自分がどういう行動をするか、どんな基準で決めるのかということです。

1.神殿税問題

神殿税の催促

カペナウムへの帰還
「彼らがカペナウムに着いたとき」(24節)、

この話の直前には、ヘルモン山の上でイエスさまの姿が栄光に変えられた話と、イエスさまが山の麓で悪霊につかれた子どもを解放したという話が載っています。その間、イエスさまは何度か、ご自分が間もなく殺され、その後復活するという話を弟子たちになさっています。

その後、イエスさまたちは南に下り、ガリラヤ地方での活動拠点にしていたカペナウムに戻ってきました。
神殿税
「神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った」(24節)。

参考資料にも書きましたが、神殿税は20歳〜50歳のユダヤ人男性が納める税金の一種で、毎年半シェケルと定められていました。

エルサレムやその近郊に住んでいる人たちは、エルサレム神殿に詣でて神殿税を支払えばいいですが、地方や外国に住むユダヤ人もたくさんいて、物理的に神殿に行けない人たちもいます。そんな人たちから神殿税を徴収する係の人がいました。

その係の人がやってきて、ペテロに話しかけました。
催促の言葉
『あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか』」(24節)。

神殿税を納める時期は、春の過越の祭りの時でした。ところが、秋になってもイエスさまは神殿税を納めていませんでした。そこで、神殿税を集める人たちが来て、催促をしているわけです。

支払い義務がない

ペテロの回答
「彼は『納めます』と言った」(25節)。

ペテロは、納めますと言いました。救い主であるイエスさまの評判が下がってはいけないと思ったのでしょう。救い主が神さまの定めた命令に違反するなら、それは救い主ではあり得ません。

ただ、神殿税の規定は、モーセの律法そのものではないということに留意しなければなりません。モーセの律法に書かれているのは、人口調査の際に支払う贖い金であり、これにバビロン捕囚後にできたネヘミヤ記の定めが合体してできた規則です。

イエスさまは、モーセの律法は完璧に守っておられました。しかし、人間が勝手に作り出した規則、たとえばパリサイ人たちが守っていた規則についてはまるっきり無視したり、わざと違反するような行動を取ったりしました。たとえば、「安息日に人をいやしてはならない」というような規則ですね。
イエスの問いかけ
そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。『シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか』」(25節)。

ペテロに向かって、イエスさまの方から神殿税について話を始めました。しかし、最初は直接その話をせず、王さまたちが誰から税や貢ぎ物を徴収するかという話から始めます。
イエスさまの問いかけは、王たちは自分の子どもたちから税を取り立てるだろうかというものでした。期待されている答えはノーです。日本の皇族は、日本の法律に則ってしっかり納税なさっていますが、この当時の王の子どもたちは税金を免除されていました。
神の子たちの支払い義務
ペテロが『ほかの人たちからです』と言うと、イエスは言われた。『ですから、子たちにはその義務がないのです」(26節)。

ペテロは、王たちは自分の子どもからは税を集めないと答えました。

するとイエスさまも、「子どもたちにはその義務がない」とおっしゃいました。これは、免税についての一般論を話していらっしゃるわけではありません。ここで言う「子どもたち」とは「神さまの子どもたち」のことです。すなわち、
  • 神の御子であるイエスさま
  • イエスさまを救い主だと信じて救われ、神さまの子どもとされた弟子たち
のことです。

つまり、イエスさまにも弟子たちにも、神殿税を支払う義務はないとイエスさまはおっしゃっているのです。

つまずかせないため

「しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい』」(27節)。

イエスさまや弟子たちには神殿税を支払う義務はありませんが、それでもイエスさまは支払おうとなさいました。その理由は、神殿税を集める人たちをつまずかせないためです。

バビロンによって国が滅ぼされた時、神殿が破壊されてしまいましたが、その後バビロンが滅びてユダヤ人たちがイスラエルの地に帰ってきた際、神殿も再建されました。神殿は、国が復興したシンボルだったのです。

その後も、イスラエルの国はマケドニア王国、エジプトやシリアによって支配され、福音書の時代にはローマ帝国に占領されて属国となっていました。パレスチナ以外に散らされて外国に住むユダヤ人もたくさんいます。そんな彼らにとって神殿は心のよりどころでした。そして、神殿を維持するための神殿税も、ユダヤ人にとっては非常に重要な義務と考えられていたのです。

ですから、神の子である自分には神殿税を支払う義務がないから払わないと言ったら、必ずや一悶着起こることでしょう。

イエスさまは、「安息日には人をいやしてはいけない」などのようなパリサイ派の教えはあからさまに無視したり逆らったりしました。それは、その命令によって、人間の命や尊厳が軽んじられていたためです。しかし、神殿税の教えについては、特に人の命や尊厳がかかっているわけではありません。

そこで、無駄な争いを避けて、神殿税を支払うことにしたのです。具体的には、イエスさまは次のようにペテロに命じました。
  1. ペテロがガリラヤ湖で釣りをする。
  2. 最初に捕れた魚の口の中にステタル銀貨1枚が見つかるから、それを取る。
  3. その銀貨は神殿税2人分に相当するので、イエスさまとペテロの2人分として納める。
その後のことは書かれていませんが、ペテロはさっそく実行したことでしょう。
なお、ペテロが釣った魚の種類は分かりませんが、今ガリラヤ湖に行くと、セントピーターズフィッシュ(聖ペテロの魚)と呼ばれる白身魚をレストランで食べることができます。私も聖地旅行に行った際に食べましたが、淡泊な味だと聞いていたので醤油を持参して使いました。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.愛を動機として行動しよう

私たちには自由が与えられていることを知ろう

私たちがイエスさまの恵みの福音を信じたとき、すなわち自分の罪を赦すためにイエスさまが十字架につけられたこと、そして死んで葬られたけれど、3日目に復活なさったという聖書の主張は真実だと受け取ったとき、私たちは神さまの子どもとされました。

そして、神さまの子どもとなった私たちには自由が与えられました。「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます」(ローマ8:14-15)。

この言葉が意味するのは、私たちは神さまからの罰を恐れて、いやいやながら神さまの命令に従うのではないということです。私たちを愛し、その罪を一方的に赦し、そのために御子イエスさまという尊い犠牲を払ってくださった神さまへの感謝によって、私たちは自発的に神さまを愛し、その命令に従うようになります。

しかし、ただ信じるだけで救われ、神さまの子どもとして永遠に祝福されるという教えは、人間にとって信じがたいものでもあります。ギブ・アンド・テイクに慣れている私たちは、「そんなに簡単なはずではない、自分も救われるために何かしなければならないはずだ」と思ってしまうのです。

その結果、人間は勝手にさまざまな救いの条件を付け加えがちです。たとえば、これこれの修行をしたらとか、良い行ないをしたらとか、これだけ献金したらとか。もちろん、聖書は私たちが正しい生き方、良い生き方をすることを求めています。しかし、それは救われた結果、感謝に基づいて行なうものであって、神さまに愛されたり救われたりするための条件ではありません。
偶像にささげた肉問題
その1つの例として、使徒パウロは偶像にささげた肉をクリスチャンが食べていいかどうかという問題を取り上げています(第1コリント8章)。
コリントには異教の神殿がありました。そこにいけにえとしてささげられた動物の肉は、一部は神殿で働く人たちが消費しましたが、残りは市場に卸されて一般市民に売られました。ですから、コリント教会のクリスチャンが市場で肉を買うと、神殿にささげた肉を買って食べる可能性があったのです。それは神さまへの罪なのかどうか尋ねる手紙が、パウロの元に届きました。

まずパウロは答えました。偶像など存在しない。そして肉は肉である。だから、偶像にささげられた肉を食べたからと言って、それでクリスチャンが汚れたり罪に定められたりするわけじゃない。食べたければ食べればいいし、食べたくなければ食べないだけだと。つまり、自由なんだということですね。

聖書ではっきり禁じられていること意外については、私たちが自由に判断できます。それなのに、私たちはいつの間にか自分勝手な掟を作り上げて、それに縛られてはいなかったでしょうか。私たちは自由になったということをもう一度確認しましょう。

与えられている自由を愛に基づいて使おう

イエスさまは、ご自分にも弟子たちにも神殿税を支払う義務がないにもかかわらず、あえて支払われました。それは、税を徴収する人たちをつまずかせたくないという、愛の動機からでした。

パウロも、「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます」(第1コリント8:1)と語っています。そして、自分は偶像にささげた肉を食べることそのものは罪ではないという知識を持っているけれど、もしも自分が肉を食べることで他の人がつまずき、信仰を失ってしまうのだとしたら、他の人への愛の故に自分は食べないとコリント教会の人たちに書き送りました。その理由は、
  1. その人が「偶像にささげた肉を食べることは罪なんじゃないか」と考えていたとする。
  2. しかしパウロが平気でパクパク肉を食べているのを見て、自分も食べないと場が白けるような気がしてつい肉を食べてしまったとする。
  3. すると、その人は「本当は罪だ」と思いながらその行為をしたことになる。
  4. 客観的には罪ではなくても、その人の心は神さまに従っていないので罪を犯したことになる。というのも、「信仰から出ていないことは、みな罪」(ローマ14:23)だからである。
  5. そして、そのようなことを配慮しないで平気で肉を食べたパウロは、その人に罪を犯させた罪を負うことになる。
それから、パウロは言います。

「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません」(第1コリント13:1-3)。

表面的にどれほど問題ない行動であっても、それどころか正しい行ないであったとしても、あるいはそれが異言とか預言とか奇跡とかの聖霊の賜物による超自然的な行ないであったとしても、愛がなければまったく意味がないというのが聖書の教えです。

私たちは、自分の行動が愛に基づいているかどうか、いつも注意している必要があります。というのも、すぐに愛以外の動機が滑り込んで、愛を弾き飛ばしてしまいがちだからです。
この話をお読みください。
セミナー会社の講師である佐藤さんは、スピーチのクラスを担当していました。彼女の友だちの山本さんは、このスピーチ・クラスに出席したかったのですが、会場が遠い上、ちょっと料金が高いために二の足を踏んでいました。

それを知った佐藤さんは、過去行なわれたスピーチセミナーのCDを貸してあげようと思い立ち、「これは、本来なら貸し出さないものだけれど」と、特別に貸してあげました。ところが、山本さんは、佐藤さんの親切の喜ぶどころか、一瞬迷惑そうな表情を見せました。

佐藤さんは、このことを先輩に相談しました。なぜ山本さんがあんな反応を示したのか分からない、と。

すると先輩はこう尋ねました。「あなたが親切を受けた立場だったらと考えてみよう。相手が親切をしてくれているのは分かる。でも、少しもうれしいと思わないとしたら、どんなときだろうか」。

佐藤さんはしばらく考えて、「恩着せがましく、また上からものを言われたように聞こえるとき」と答えました。そして、自分がしばしば他人にそのような対応をしていたことに気づいたのです。クリスチャンである佐藤さんは、それは傲慢の罪だと考えて悔い改めの祈りをしました。それ以来、佐藤さんの人間関係は大きく変わりました。

愛は謙遜のパイプを通して注ぎ出されます。「してやっている」という思いがどこかにあるならば、もう一度自分の傲慢を悔い改める必要があるでしょう。私もこの話を聞いて、自分の中にも、他人に対して優越感を持ちたいという動機がうごめいていることを感じました。イエスさまが、私に本当の謙遜を教えてくださいますように。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
私たちの一挙手一投足が、愛に基づいていただろうかということを改めて確認しましょう。

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