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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

七回を七十倍するまで

イエス・キリストの生涯シリーズ44

マタイによる福音書18章15節〜22節

(2023年8月27日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

16節の教えは、モーセの律法に基づいています。「いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない」(申命記19:15)。

18節の「つなぐ」は有罪にすること、「解く」は無罪にすることを意味します。

イントロダクション

今回のテーマは、こちらに損害を与えるようなことをしている人、問題行動をしている人に対して、私たちはどのように対処すればいいかということです。今回の箇所で、イエスさまはどのように教えておられるでしょうか。

1.イエスの教え

クリスチャンの中に、自分に対して損害を与えてくるような人がいた場合、たとえば意地悪な言動をするとか、迷惑を掛けてくるとかする人がいた場合、4段階を踏むようイエスさまは教えておられます。

この手順は、こちらが直接被害を受けている訳ではないけれど、相手が罪(神さまが喜ばれない行動)を犯している場合にも適応できます。

正しい手順

(1) まず一対一で話し合う
「また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります」(15節)。

まずは一対一でその人に問題点を指摘して、問題行動をやめるよう説得しなさいとイエスさまはおっしゃいました。しかも、2人だけのところでと言われています。いきなり公衆の面前で悔い改めを迫るような真似はしてはなりません。

そして、その目的は「兄弟を得るため」です。すなわち、クリスチャン同士の温かい関係を回復するためです。決してケンカをするためではありませんし、相手を言い負かして自分の正しさを誇るためではありません。
(2) 2、3人で話し合う
「もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです」(16節)。

一対一での話し合いが不調に終わったなら、1人か2人の人と一緒にその人のところに行き、問題行動をやめるよう勧告します。これも公衆の面前で指摘するわけではありません。
(3) 教会が関わる
「それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい」(17節)。

2,3人での説得にも応じようとしないなら、今度は教会に伝えるようイエスさまはおっしゃいました。具体的には牧師に相談するということです。問題行動をしているのが牧師の場合には、他のリーダー的存在ということになるでしょう。
すなわち、この段階では自分の手を離れて、教会に組織としてその人に対処してもらうということです。
(4) 除名する
「教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」(17節)。

教会による説得にも悔い改めようとしない場合には、最終的に「異邦人か取税人のように扱え」とイエスさまはおっしゃいます。当時のユダヤ人は、異邦人や取税人とは交流しませんでした。ですから、「異邦人か取税人のように扱え」というのは、具体的には除名処分ということです。

もちろんイエスさまは、異邦人や取税人を差別していらっしゃるわけではなく、当時の文化的背景で、ユダヤ人の聴衆や読者が理解できる表現を使って説明していらっしゃるだけです。

除名の具体例が、2通のコリント人への手紙に載っています。コリント教会には問題行動をしている人がいました。その人は、自分の父の妻(つまり継母)と姦通していたのです。しかも、教会がその人に対して何の対処もしていないと、使徒パウロは第1コリント5章で叱責しています。そして、次のように語っています。

「それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。」(第1コリント5:2)。

その後もコリント教会はこの問題を放置し続けましたが、パウロは自らコリントに乗り込んだり、今は残っていない手紙を送りつけたり、弟子を遣わしたりして指導を続けた結果、ついにコリント教会はその人を除名処分にしました。

教会の交わりから閉め出されたその人は、ついに悔い改めて問題行動をやめました。そこでパウロは、第2の手紙の中で「その人を赦して、再び教会員として受け入れるように」と勧めています。

「その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、むしろその人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。そこで私はあなたがたに、その人へのあなたがたの愛を確認することを勧めます」(第2コリント2:6-8)。

処罰の目的は、相手を悔い改めに導き、再び愛の交わりをするためです。これはイエスさまが15節で「あなたは自分の兄弟を得たことになります」とおっしゃっていることと同じです。
以上が、問題行動をしているクリスチャンへの対処の手順です。いきなりみんなの前で相手を非難したりしてはいけないということですね。クリスチャンではない人に対する対処も、これに準じればいいでしょう。

祈りによる準備

赦しに関するクリスチャンの責任
「まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます」(18節)。

参考資料にも書きましたが「つなぐ」とは有罪にすること、「解く」とは無罪にすることを意味します。イエスさまは弟子たちに向かって、「あなたたちが地上で人を赦すなら、神さまもその人の罪を赦し、あなた方が赦さないなら神さまも赦さない」とおっしゃいました。

といっても、ここで言う赦される、赦されないというのは、人が救われたり救いが取り消されたりするという意味ではありません。人が一度イエスさまの十字架と復活を信じたなら、すなわち自分の罪を赦すためにイエスさまが十字架にかけられ、死んで葬られ、3日目に復活なさったと信じたなら、その人は救われています。そして、その救いは決して取り消しにはなりません。

ただし、救われた人でも、罪を犯してしまうと神さまとの関係がおかしくなってしまいます。その結果、神さまとの愛の交わりが制限され、神さまからの祝福が届かなくなってしまいます。

「見よ。【主】の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(イザヤ59:1-2)。
しかし、自分の罪を認めて悔い改めたなら、神さまは直ちに赦してくださり、おかしくなっていた関係を回復してくださいます。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(第1ヨハネ1:9)。

18節でイエスさまが「あなたたちが地上で人を赦すなら、神さまもその人の罪を赦し、あなた方が赦さないなら神さまも赦さない」とおっしゃっているのは、要するに「あなたが他人の罪を指摘する場合には、まずあなた自身がその人のことを赦さなければならない」ということです。

相手を赦さないまま問題行動を指摘すると、どうしても攻撃的な言い方や侮辱するような言い方になってしまいます。すると、相手は心を閉ざし、悔い改めからかえって遠ざかってしまうでしょう。

あるいは、相手を赦せないあまり、その人に対して何の対処もしなかったらどうなるでしょうか。その人はいつまでも悔い改めの機会を失ったままです。

そうなると、その人と神さまとの関係はおかしくなったままです。
複数人での祈り
「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」(19-20節)。

この箇所は、複数のクリスチャンが心を合わせて祈ることについての約束だと捉えられています。その通り、複数人での祈りには力があります。ただ、ここでは特に、罪を犯して悔い改めない人への対処法としての祈りが強調されています。

19節の「二人」、20節の「二人か三人」というのは、16節で教えられているような、一緒に相手を説得してくれる仲間のことを指します。その仲間たちと一緒に、相手がこちらの説得を受け入れ、間違った行動をやめて正しい生き方に戻るよう祈りなさいということです。

そして、自分たちが相手に対して愛の思いを保ちながら、すなわちまず相手を赦せるよう、そして怒りや軽蔑をあらわにせず、柔和に語ることができるように祈りなさい、と。

その祈りの場には、イエスさまがいてくださいます。そして、その祈りを聞いてくださいます。

何回赦すか

ペテロの問いかけ
「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。『主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか』」(21節)。

まず赦してから相手に問題点を指摘するようにというイエスさまの教えを、使徒ペテロは正しく理解しました。そして、何回まで赦すべきか尋ねました。「7回まででしょうか」というのは、ペテロとしては「これだけやれば充分でしょう」という思いから出ています。
イエスの答え
「イエスは言われた。『わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです』」(22節)。

7を70倍ということは490回……というわけではありません。これは、数えるなという意味です。「これで53回目。ということは、あと437回まで我慢、我慢」というふうにカウントダウンするのは、実は赦していないということですからね。

教会の説得にも応じず悔い改めないなら、その人を除名しなさいとイエスさまはおっしゃいました。しかし、その目的は相手を切り捨てることではなく、あくまでも悔い改めを期待し、再び兄弟姉妹の交わりを回復するためです。たとえまったく悔い改めようとしない頑なな人であっても、私たち自身はその人を赦さなければなりません。
借金のたとえ
それからイエスさまは、赦しの原動力についてたとえ話を用いてお話になりました。23-35節に書かれています。ここでは簡単に紹介しますが、後でぜひその箇所を開いてお読みください。

ある人(Aさんということにしましょう)が王さまに1万タラントの借金をしていました。タラントというのは重さの単位で、1タラントの銀は1デナリ銀貨6千枚に相当しました。1デナリは労働者1日分の日当と同じですから、1万タラントといえば6千万日分の給料に相当します。仮に日当5千円で計算するなら、3千億円です。

1万タラントの負債を負ったAさんはは「もう少し待ってください。必ず返します」と王さまに泣きつきました。しかし、6千万日分の大金なんて、とても個人で返せるものではありません。哀れに思った王さまは、Aさんの借金をすべて棒引きにしてくれました。なんと太っ腹なことでしょう。

喜んだAさんが家に帰る途中、Bさんに出会いました。BさんはAさんに借金していました。その額100デナリ。日当5千円なら50万円です。決して少ない額ではありませんが、3千億円に比べたら微々たるものです。ところが、AさんはBさんに借金を今すぐ返せと迫り、「もう少し待ってくれ」と懇願するBさんを牢屋にぶち込んでしまいました。

その話を聞いた王さまは大変怒り、Aさんを呼び出しました。そして、「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか」と言って、Aさんを牢屋に入れてしまいましたとさ。
このたとえは何を意味しているのでしょうか。それは、自分がどれほど神さまからあわれみを受けているかを自覚すること、そしてそれに対して感謝の思いを持つことが、他の人をあわれみ、赦すための原動力になるよということです。

では、ここから何を私たちは学ぶことができるでしょうか。

2.赦してから正しい手順で関わろう

まず赦す

問題行動をしている人に対して、私たちはまずその人を心の中で赦す必要があります。赦さないまま相手を話をしようとすると、攻撃的な言い方をしたり、相手をさらし者にしたりしがちです。そうなると相手は心を閉ざし、かえって悔い改めにくくなってしまいます。

赦しの原動力は、自分自身の赦しの自覚と感謝だと学びました。自分がどれほどのあわれみを神さまから受けているか、いつも思い起こし、感謝をささげましょう。

赦しは、私たち自身のためでもあります。花子さんは、職場で色々と自分に嫌みなことを言ってくる人のことでイライラしていました。しかし、あるとき聖書を読んでいて人を赦すことの大切さを学び、その人のことを赦そうと決心しました。

その人は花子さんにいろいろ言うことで、花子さんの心をかき乱し、その様子を見て楽しんでいるのかもしれません。しかし、花子さんが相手の言動に振り回されてやる義理はありません。花子さんは神さまに祈りました。自分はあの人のことを赦しますと。そして、神さまもあの人のことを赦してくださいますようにと。

すると、深い平安が花子さんを包むようになりました。何を言っても花子さんが平気な顔をしているので、そのうち嫌みを言っていた人もおもしろくないのか、関わってこなくなったそうです。

相手を赦すことによって、私たちは怒りや恨みといったネガティブな感情から解放されます。自由を得ることができるのです。まず相手を赦しましょう。そして、自由な心を手に入れてから他の人の問題行動に関わりましょう。

正しい手順で関わる

相手を赦すことと、その人に何も指摘しないこととは違います。むしろ、相手を大切に思うが故に、私たちは相手が悔い改めて、神さまとの関係を回復するよう願い、説得するのです。

そして、説得には手順があることを今回学びました。まずよく祈った上で一対一で説得し、それでダメなら次に祈った上で1人か2人の人と一緒に説得します。それでもダメなら教会に対処をゆだねます。そうなると問題は自分個人の手を離れますが、引き続きその人のために祈り続けます。

目的を見失わない

私たちクリスチャンが、問題行動をしている人の罪を指摘するのは、相手が悔い改めることによって、クリスチャン同士の関係を回復するためです。

一昨日、ラジオでピアニストの清塚信也さんがお話しなさっているのを聴きました。お子さんが良くないことをしているとき、たとえばそれが危険な行動だったりすると、きつく叱らなければならないときがあります。それは相手のための行動です。しかし、そんなとき必ず自分自身に向かって問いかけるのだと清塚さんはおっしゃいます。

それは「この行動、自分の利益になってないか?」という自問です。たとえば、相手を叱ることで、自分が上で相手がしたということを確認していい気持ちになってないか。自分のストレス発散、鬱憤晴らしになってないかというようなことです。

他にも、「あなたのため」と言いながらあれこれ世話を焼いたりアドバイスしたりしていても、本当は自分自身の不安解消という自分の利益を目的とした行動になっているということもあるでしょう。
私たちが他の人の問題行動を取り上げるのは、「兄弟を得るため」というのが目的です。相手が神さまとの関係を回復し、再び祝福されるように、そしてみんなと兄弟姉妹の温かい交わりを回復するために、それを邪魔している問題行動をやめるよう説得するのです。そこを外さないよう、いつも注意しなければなりませんね。

自分の利益のための行動を完全に取り去るのは難しいことです。しかし、少なくとも私たちは自分の中に自己利益を求める傾向があることを自覚している必要があります。だからこそ、私たちは「人にはできないことが神にはできる」とおっしゃる神さまに祈って助けを求め続けなければならないのです。

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