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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

良い羊飼いのたとえ

イエス・キリストの生涯シリーズ49

ヨハネによる福音書10章7節〜16節

(2023年10月1日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

生まれつき目の見えなかった人をイエスさまがいやした記事の続きです。いやされた人のことを、ユダヤの指導者たちは罪人呼ばわりしてユダヤの共同体から除名しました。イエスさまはいやされた人と再会し、自分が救い主であることを明かします。そして、一緒にいたパリサイ人や群衆に向かって語られたのが今回の箇所です。

イントロダクション

イエスさまは私たちに豊かないのちを与えると約束してくださっています。豊かないのちが与えられるとはどういう意味でしょうか。それが私たちにとってどんな祝福をもたらすのでしょうか。

1.豊かないのちの約束

羊の門

わたしは羊たちの門です
「そこで、再びイエスは言われた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です」(7節)。

イスラエルの羊飼いは、夜になると放牧していた羊たちを集めて、石垣を巡らせた囲いの中に移動させました。野獣や盗賊から羊たちを守るためです。

ある旅行者がアラビアで羊飼いと出会ったときの体験談を読みました。日が暮れると、羊飼いは羊を囲いの中に追い込みます。それから、入り口の所にごろりと横になって野宿を始めました。旅行者が何をしているのかと尋ねると、羊飼いは「自分は門の代わりになっているのだ」と答えたといいます。もしも羊が外に出ようとしても、また外から野獣や盗賊が入り込もうとしても、羊飼いの上を乗り越えて行かねばなりません。もしもそういう事態になったら、羊飼いはそれをとどめることができるというわけです。

イエスさまが「わたしは羊たちの門です」とおっしゃったのは、イエスさまは羊たちにとって門代わりの羊飼いのような存在だという意味です。
わたしの前に来た者たち
「わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした」(8節)。

イエスさまの前に来た者たちとは、当時の宗教的指導者たちのことです。彼らのほとんどはイエスさまのことを救い主だとは信じませんでした。それどころか、あの生まれつきの盲目をいやされた人のことを共同体から追い出したように、人々がイエスさまを信じるのを邪魔しています。

しかし、羊、すなわち神さまが救おうと計画しておられる人たちは、宗教的指導者たちの妨害をものともせず、イエスさまのことを救い主だと信じています。私たちも、神さまによって選ばれ、救っていただいた羊です。
わたしを通って入るなら
「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます」(9節)。

聖書は、イエス・キリストを信じることだけが救いの道だと教えています。紀元30年のペンテコステの日、聖霊なる神さまが弟子たちの上に降り、それ以来私たちクリスチャンの内側に住んでくださるようになりました。その日ペテロが立ち上がって、様子を見に来た人々に向かって語りました。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」(使徒4:12)。

イエスさまは、「わたしイエスを通って救われた人は牧草を見つける」とおっしゃいました。イエスさまを信じた人は罪を赦され、神さまとの親しい関係を手に入れます。そして、神さまによって地上でも、そして次の世でも大いに祝福されます。
いのちを豊かに得るため
「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」(10節)。

ここで語られている「いのち」とは、永遠のいのちのことです。人が救われると永遠のいのちが与えられます(ヨハネ3:15-16)。

永遠のいのちが与えられるというのは、永遠に存在し続けるという意味ではありません。一度生まれた人間の魂は、クリスチャンであろうがなかろうが永遠に存在し続けます。問題は、どんな状態で永遠の時を過ごすかです。

イエスさまは永遠のいのちについて次のように定義しておられます。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)。

ユダヤの文化で「知る」という言葉は、単に情報を知っているという意味ではありません。体験的な知識を得ることを指します。神さまやイエスさまを知るというのは、神さまやイエスさまと親しい関係になる、仲良しになってその関係を楽しむということです。

聖書が約束している救いとはお金が儲かることではありません。病気が治ることでもありません。仕事が成功することでもありません。結果としてそうなることはあったとしても、それが救いなのではありません。救いとは、神さまとの関係回復です。

しかもイエスさまは「豊かに得る」とおっしゃっています。ちょっとした知り合いになるという程度ではなく、かなり親しくなるということです。しかも、日に日にその関係は親密になっていきます。

全知全能であり、愛に満ちあふれておられる神さまと仲良しであるならば、もう何も怖くありません。何があっても大丈夫です。

良い牧者

いのちを捨てる良い牧者
「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます」(11節)。

良い牧者であるイエスさまは、私たち羊のために何をしてくださるのでしょうか。イエスさまは、自分は命を捨てるとおっしゃいました。これは、この時から約半年後に起こる十字架の死です。
人が神さまと良い関係になるには、罪の問題が解決しなければなりません。罪とは、神さまの存在やすばらしさを否定したり値引いたりすること、そして神さまのみこころに逆らうことです。

聖書の神さまは愛にあふれておられる方ですが、同時に完全にきよい正義の神です。罪は必ずさばかれなければなりません。罪のあるままで、人間が神さまと親しく交わることは不可能です。

そこで、罪を一度も犯さなかった神の御子であるイエスさまが、私たちの身代わりとして罪の罰を受けてくださいました。これが十字架の死です。それによって私たちの罪は赦され、私たちが神さまから拒絶されたり罰せられたりすることがなくなりました。
雇い人の無責任
「牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです」(12-13節)。

牧者でない雇い人とは、8節で「わたしの前に来た者たち」と言われている人たち、すなわち多くの宗教的指導者たちのことです。

預言者エゼキエルは、バビロン捕囚によってバビロンに連れて行かれた人です。そして、バビロンで預言活動をしました。神さまはエゼキエルを通して、当時の政治的・宗教的指導者たちについて次のように糾弾しておられます。

「あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった。こうして彼らは散らされた」(エゼキエル34:3-5)。

だから、神さま自らがイスラエルの牧者として人々を捜し出し、導くとおっしゃっています。

イエスさまは、福音書の時代の指導者たちも、エゼキエル時代の指導者たちと同様に羊たちに対して無責任だとおっしゃっています。そして、神の御子であるイエスさまが、羊たちを導き養う良い羊飼いとなってくださいます。
わたしのものは、わたしを知っている
「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます」(14-15節)。

羊の囲いの中には、いくつかの群れが一緒に入ることがありました。そうすると、どの羊がどの羊飼いに属するか分からなくなってしまいそうですね。しかし、羊たちは迷うことなく自分を飼っている羊飼いの声に応えて囲いを出入りします。

それと同じように、イエスさまを信じる者たちは、イエスさまの声と偽物の指導者や悪魔たちの声を聞き分けることができます。

ほかの羊

ほかの羊も導かねばならない
「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです」(16節)。

ここで言われている「ほかの羊」とは誰のことでしょうか。それは、その時までにイエスさまを救い主だと信じて救われていた以外の人たちのことです。すなわち、
  1. まだイエスさまを信じるか信じないか態度を明確にできないでいる、どっちつかずのユダヤ人
  2. パリサイ人、律法学者、祭司の多くのような、ユダヤ人の中の反対者
  3. 上記の人々よりもさらに遠いところにいた異邦人(ユダヤ人以外の民族)
私たち日本人は、遠くにいた異邦人です。その中から私たちはイエスさまによって捜し出され、導かれて救いをいただきました。
「一つの群れ」というのは、教会を指します。紀元30年のペンテコステの日に誕生した教会は、最初はみんなユダヤ人だけから構成されていました。しかし、そこに次々と異邦人も加わっていきました。そして、同じ救い主であるイエスさまを信じるものとして、二つのものが一つになりました。

「このキリストを通して、私たち二つのもの(註:ユダヤ人と異邦人)が、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです」(エペソ2:18-19)。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.豊かないのちを味わおう

神との交わりを求めよう

救いとは、父・子・聖霊なる三位一体の神さまとの交わりの回復です。そして、全知全能の神さま、私たちのことが大好きで本当の幸せを与えたくてたまらない神さまと深い交わりを持っているということこそ、私たちにとっての幸せの源です。

私たちは、いつの間にか神さまとの交わり以上の幸せの種を探し求めてこなかったでしょうか。
幸福主義
明治大学文学部教授の諸富祥彦先生は、昔と違って今ははるかに物質的な豊かさを手に入れているはずなのに、現代人は慢性的に欲求不満だと指摘しておられます。そして、それは「幸福主義」にとらわれているためだと。

幸福主義とは、「誰もが自分の幸福を求めるものだ。そして、そうするのが当然だ」という考え方のことです。そして、幸福主義では、「幸福は、自分の欲求が満足されることによってもたらされる」と考えます。

幸福主義にとらわれると、たとえ何か欲求が満たされても、やがてそれでは満足できなくなります。そして、別の欲求が生まれ、それを追い求め始めます。つまり、いつまでたっても「これで充分」がやってこず、いつも欲求不満なのです。

私たちの願いがいつもその通りかなうとしたら、私たちの欲望は限りなく大きく育っていきます。そして、いつも欲求不満状態に陥ってしまうことになるでしょう。
どんな状態でも味わえる幸福
神さまの願いは、私たちが神さまとの交わりそのものに喜び・平安・感動を見いだして、何があっても何がなくても幸せでいられることです。

使徒パウロは言いました。「私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」(ピリピ4:12-13)。

私たちもそうありたいですね。神さまとの交わりそのものに、もっともっと喜びを見いだせるよう、聖霊なる神さまにお願いしましょう。

神の声を聞き分けよう

イエスさまは、羊が自分の羊飼いの声を聞き分けることができるように、イエスさまを信じる者はイエスさまを知っていて、イエスさまの声を聞き分けることができるとおっしゃいます。

そして、イエスさまの声に従って導かれるとき、私たちは永遠のいのちの祝福を豊かに、豊かに体験することができます。これはイエスさまの約束です。

現在も、神さまはさまざまな方法で私たちに語りかけ、導きを与えてくださいます。たとえば、
  • 幻や天使を通して
  • 神が語られたと感じるほどの強烈な印象によって
  • ある考えについて思い巡らせると、心多くそこに深い平安が与えられることによって
  • 誰かの言葉が心に響くことによって(相手はクリスチャンでない場合もあります)
  • 聖書の言葉が生き生きと目に飛び込んでくることによって
しかし、今も多くの人がオレオレ詐欺に引っかかっているという事実を忘れてはなりません。電話の相手は息子に間違いないと思っても、実は詐欺師なのかもしれません。悪魔は人間の詐欺師以上に悪賢いです。また、牧師や宣教師のような霊的指導者であっても過ちを犯すことがあります。ですから、私たちはイエスさまの声を聞き間違えないよう、いつも注意している必要があります。

ではどうしたらいいのでしょうか。
祈ろう
私たちがイエスさまの語りかけを聞き分けることができるというのは、イエスさまの約束です。神さまの約束の内容は、神さまのみこころにかなっていますね? そして、神さまのみこころに従って願われる祈りは絶対に聞かれるというのも、神さまの約束です(第1ヨハネ5:14)。

ですから、それらの約束に基づいて、「どうか、私が悪魔や間違った指導者たちの声に惑わされず、正しくあなたの声を理解することができるよう守り導いてください」と祈りましょう。
聖書に親しもう
聖書は約40人の聖書記者たちが長い時間を掛けて作り上げていった書物です。しかし、聖霊なる神さまがその成立の過程で働き、間違いなく神さまのみこころが記されるよう導かれました。ですから、聖書は神さまの言葉だと言えます。

どんなに「神が語られた」と思えるような強烈な印象が心に浮かんだり、幻や天使を見たりしても、あるいはどんなに有名な牧師が語ったことであったとしても、聖書全体のメッセージに反するものは神さまからの語りかけではありません。

ですから、聖書に親しみ、聖書のメッセージを心に蓄えましょう。神さまは、最終的には聖書の言葉を用いて私たちを導いてくださいます。

神の熱心に感謝しよう

イエスさまは、ご自分の羊たちが永遠のいのちの祝福を手に入れるために、ご自分のいのちを差し出してくださいました。

また、ご自分を信じたユダヤ人だけでなく、まだ信じていないユダヤ人、さらには神の民ではない異邦人までも、ご自分の羊として救いの囲いに招こうとしてくださっています。
あきらめの悪い羊飼い
イエスさまは、あきらめの悪い、しつこい羊飼いです。百匹の羊がいて、たった一匹いなくなっても、「別にいいや」とあきらめず、見つかるまでしつこく探し回る羊飼いです(ルカ15:4-7)。

イエスさまは、あなたが失われることを決して望んでおられません。あなたを取り戻して、あなたに豊かないのちを与えることを、しつこいまでに熱心に願っておられます。
もう遠慮できない
ですから私たちは、イエスさまに対して遠慮することはできません。イエスさまの側ではそんなふうに熱心に愛し、幸せにしようとしてくださり、十字架によってすべての条件を整えてくださいました。ですから、「もう少し聖書のことを勉強してから従います」とか、「もう少しましな人間になってから信じます」とうふうに、条件を自分勝手につけられないのです。

神さまはあなたのことをそのままの姿で受け入れてくださっています。そして、そのままの姿のあなたに、神さまは豊かないのちをくださっています。ですから、それをそのまま信じ、受け取りましょう。
感謝しよう
私たちは、すでに豊かです。すでに幸せです。そして、これからもっともっと豊かに、そして幸せになることができます。どんなときもそのことを思い描いて、感謝をささげましょう。

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