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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

豊作の金持ちのたとえと貪欲

イエス・キリストの生涯シリーズ54

ルカによる福音書12章13節〜21節

(2023年11月5日)

豊作になった金持ちのたとえを通して、貪欲についてイエス・キリストが何を教えているか解説します。

礼拝メッセージ音声

参考資料

13節に遺産に関する話が出ています。神さまがユダヤ人に与えたモーセの律法では、遺産相続について次のように定められています。

「ある人が二人の妻を持ち、一人は愛され、もう一人は嫌われていて、愛されている者も嫌われている者もその人に男の子を産み、長子が、嫌われている妻の子である場合、その人が息子たちに財産を受け継がせる日に、長子である、その嫌われている妻の子を差し置いて、愛されている妻の子を長子として扱うことはできない。嫌われている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から二倍の取り分を彼に与えなければならない。その子は父の力の初穂であるから、長子の権利は彼のものである」(申命記21:15-17)。

すなわち、長男は弟たちの2倍を受け取ります。たとえば1000万円分の遺産を3人兄弟で分けるとすると、長男は500万円、次男と三男は250万円ずつです。その代わり、長男は父の仕事の跡を継ぎ、一家の大黒柱として未亡人となった母親や未婚の弟妹たちを扶養します。

イントロダクション

今回のテーマは「貪欲」です。イエスさまは人の貪欲についてどんなことを教えていらっしゃるでしょうか。そして、今回の箇所を通して私たちにどんな励ましを語っておられるでしょうか。

1.貪欲についての教え

依頼と返答

群衆の一人の依頼
「群衆の中の一人がイエスに言った。『先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください』」(13節)。

群衆の一人が、イエスさまに遺産問題について依頼をしました。この当時、イスラエルの遺産配分は、長男が弟たちの2倍と決められていました。これはモーセの律法で定められています(申命記21:17)。

ところが、現実には長男が規定以上に財産を取ったり、弟たちがもっとよこせと要求したりして争いが起こります。たとえモーセの律法通りにきっちり分けたとしても、不満を持つ人はいるものです。この人の家庭でも遺産を巡る争いが起こっていました。

この人が長男の立場なのかそうでないのかは分かりませんが、要するにこの人はもっと遺産をもらいたいと言っているのです。そして、この件についてイエスさまに何とかしてもらいたいというのが今回の依頼です。

当時のパリサイ人や律法学者たちは、民衆に聖書を教えるだけでなく、生活上のさまざまなトラブルに対して仲裁を行なう役割を負っていました。この人は、イエスさまのことをパリサイ人たちと同じような聖書の教師だと思って依頼したのでしょう。
依頼の拒否
「すると、イエスは彼に言われた。『いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか』」(14節)。

イエスさまはこの人の依頼を退けました。それは、遺産問題を仲裁するのは自分の任務ではないという理由です。イエスさまが地上に来られたのは、救い主として人々の罪の問題を解決するためでした。

もちろん救い主は地上に神の国を建設して、世界の王として人々の生活をさばきます。しかし、それは罪の問題を解決してからです。救い主は2度地上に来られますが、神の国の王として即位するのは2度目に来られたとき、すなわち再臨の時です。1回目、初臨の目的は、十字架にかかって血を流すことによって人類の罪を取り除くことでした。
貪欲についての戒め
「そして人々に言われた。『どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです』」(15節)。

イエスさまはその人だけでなく、そこにいた人たちみんなに向かって「貪欲に気をつけよ」とおっしゃいました。貪欲という言葉の意味は、「自分が当然受け取ることができる以上のものを欲する心」です。

モーセの律法では、他人に属するもの、すなわち自分に権利がないものを欲しがってはならないと教えています。いわゆるモーセの十戒の10番目に挙げられている教えです。「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない」(出エジプト記20:17)。

イエスさまは依頼をしてきたこの人の心の中に、貪欲があることを見抜かれました。また、他の人たちも貪欲に捕らえられてしまう危険があることを見て取られました。そして、「人のいのちは財産にあるわけではない」とおっしゃいます。

この場合の「いのち」とは、「永遠のいのち」のことを指します。そして永遠のいのちを持っているとは、神さまとの関係が良く、親しい交わりを持っていることです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)。

たとえ話

畑が豊作になった金持ちのたとえ
「それからイエスは人々にたとえを話された。『ある金持ちの畑が豊作であった」(16節)。

イエスさまは人々に向かってたとえ話をなさいました。それは、15節で語られたように「人のいのちは財産にあるわけではない」ということを説明するためのたとえ話です。
贅沢な悩み
「彼は心の中で考えた。「どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない」」(17節)。

非常にたくさんの作物が取れました。19節に書かれていますが、数年分に相当する量です。これではせっかく取れた作物を入れておく場所が足りません。贅沢な悩みですね。

しかし、贅沢な悩みであっても悩みは悩みです。人間は生きている以上、何かしらの問題にぶつかるものです。生活に必要なものが足りないのも問題ですが、手に入ったら入ったで今度はまた別の問題がやってきます。
金持ちの決断
「そして言った。「こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう」(18節)。

金持ちは考えた末に、もっと大きな倉を建てて収納量を増やそうと考えました。倉を建てるのにはお金がかかりますが、せっかく収穫した作物を無駄にするよりはマシですし、すぐに出費分は回収されるでしょう。この案はなかなか良さそうです。
金持ちの目論見
「そして、自分のたましいにこう言おう。『わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ』」(19節)。

数年分の蓄えが1年で手に入りました。そのことで金持ちはすっかり上機嫌になりました。そして、宴会を開いて喜ぼうと考えました。
神の語りかけ
「しかし、神は彼に言われた。「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」」(20節)。

神さまは大喜びしている金持ちに、冷水をかけるようなことをおっしゃいました。それは、今夜この金持ちが死ぬという予告です。どれほど財産を蓄えたとしても、それを天のパラダイスに持って行くことはできません。

聖書の中で「愚か者」とは特別な意味があります。「愚か者は心の中で『神はいない』と言う。彼らは腐っている。忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない」(詩篇53:1)。つまり愚か者とは、聖書の神さまを信じない不信仰な人、そして当然神さまの命令を守ろうとしない人のことです。

この人は自分の財産のことや、自分の贅沢な暮らしのことについては気にしていましたが、神さまを愛し神さまに従うことについてはとんと無頓着でした。また、聖書は貧しい人たちのことを気に掛け、その人たちを助けることを勧めています。しかし、この金持ちは働くことができずに困窮している未亡人、孤児、障がいのある人たちなどを援助するなど考えもしません。

この金持ちは神さまと敵対関係にあります。ですから、死んだ後に財産を持って行けないどころか、天のパラダイスに入ることすらできず、苦しみの待合室であるハデスに送られることになります。そして、最終的な行き先は永遠の苦しみの場所であるゲヘナ(火の池)です。
たとえの結論
「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです』」(21節)。

「神に対して富む」とは、神さまとの関係が良好であるという意味です。全知全能の神さまと仲良くすることができていたら、たとえ死んでも大丈夫です。先に行けば行くほど祝福されることになります。

貪欲は自分に権利のないものまでも欲する心です。しかし、他人を蹴落としてでも物質的に豊かになろうとしても、神さまとの関係が破綻していたら将来が安泰とは言えません。

ですから、「貪欲に惑わされず、神さまとの関係を大切にせよ」とイエスさまは当時のユダヤの人々に、そして今の時代の私たちにおっしゃいます。

励ましと命令

励ましのメッセージ
ただ、そうは言っても財産を持っていないと不安だという人もいることでしょう。
そこで、イエスさまは続けて励ましのメッセージを語られました。今回一緒に交読した箇所以降も、59節までイエスさまの教えが続きます。

その中でも特に22-34節は、約1年半前にガリラヤの人たちに向かって語られた山上の説教の一部によく似ています。たとえば次のような言葉です。
  • 「何を食べようかと、いのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配したりするのはやめなさい」(22節)。
  • 「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ」(28節)。
  • 「むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます」(31節)。
すなわち、神さまとの関係が良好であれば、何があってもなくても神さまが永遠に守り支えてくださるよとイエスさまは人々を励まされました。
他の人への愛
その上でさらに次のようにお命じになりました。「自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません」(33節)。

神さまとの関係が良好なら、当然神さまを愛し、神さまのみこころを実践しようとするはずです。神さまは自分の持っているもので他の人を愛し助けるよう勧めておられます。ですから、それを実践しなさいとイエスさまはおっしゃいます。
アブラハムたちの信仰
財産を手に入れること自体が悪いわけではありません。信仰の父と呼ばれているアブラハムは裕福でした。その子イサクはさらに裕福でした。そして孫のヤコブも、伯父であるラバンのさまざまな妨害にもかかわらず神さまが物質的に祝福してくださいました。

しかし、この3人は地上の人生だけが人生ではないことを知っていました。自分たちの本当の故郷は天にあり、地上では寄留者のようなものです。ですから、お金持ちではありましたが、今回のたとえ話に出てくる金持ちと違ってものにとらわれてはいませんでした。彼らは物質的に豊かになることよりも、神さまを愛し神さまに従うことを優先したのです。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.神に対して富む者となろう

貪欲な心がないかチェックしよう

私たちの中に、自分に権利が与えられている以上のものを欲しがる心、他人のものをうらやみ欲しがる心がないかいつもチェックしましょう。

貪欲は「今のままでは安心できない」という思いから生まれます。そしてその不安は、神さまがいらっしゃるだけでは不安、神さまの約束だけでは不十分という思いから出てきます。

この話をお読みください。
15年以上前の話です。個人的に、ちょっとショックなことがありました。今後仕事の幅を広げようと思ってけっこう力を入れて準備してきたことが、相手方の都合で突然ダメになってしまったのです。

別に損失が出たわけではないのですが、一生懸命準備してきただけに正直凹みました。そして、神さまに抗議したくなりました。実際、少しばかり恨み言を言いました

しかし、祈ってもイエスさまは何もお答えになりません。なぜ今回こんな事が起こったのか、そのわけも、これから先のことも、一切答えはなし。

でも、自分のことが見えてきました。その「あること」にかなり入れ込んでいた自分です。必死になっていた自分です。

別に、必死になることも、真剣に何かを願うことも、それ自体は決して悪いことではありません。しかし、私は神さまの介入を全くと言っていいほど期待していなかったと気づかされました。自分の知恵と力とで事をなそうとしていたのですね。

それは、不安だったからです。生活のこと、教会のこと、仕事のこと、人生のこと……。いろんなことが、実は不安だったからです。だから、何かを成し遂げることで、自信を付けようとしていたのだろうと思います。

「わたしの約束だけでは不安ですか?」 ようやく、イエスさまの声が聞こえてきました。「はい、不安です」。正直な(?)私は、そう答えました。「でも、あなたの約束に信頼します。信頼できるよう、助けてください」。

神さまは、こういう不信仰な祈りでも、喜んで聞いてくださるようです。最初のショックや、不平不満は薄くなり、今は少しずつ平安が心を占めるようになっています。信仰もまた、神さまからのプレゼントなのだと、あらためて思わされています。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
もしも、自分の中で神さまに信頼する心が薄れていること、その結果貪欲な部分が首をもたげていることに気づいたら、すぐに悔い改めましょう。そして、聖霊なる神さまがこの自分をきよめてくださり、貪欲な心を取り除いてくださるよう祈りましょう。

神のみこころを実践しよう

悔い改めて神さまとの関係を回復したら、神さまに従うことを優先します。

私たちはついつい次のように考えて行動してしまいがちです。
  • 自分がしたいことは何だろうか
  • 自分がいいと思うことは何だろうか
  • 自分が楽なことは何だろうか
  • 自分にとって得なことは何だろうか
そうではなくて、次のような発想をしましょう。
  • 神さまが私にしてほしいと思っておられることは何だろうか
  • 神さまが喜ばれる行動は何だろうか
  • 神さまが計画なさったプロジェクトの中で、私が担わなければならないことは何だろうか
そのような発想をしましょう。そして、それを祈りながら考え、実際に行動しましょう。

神の恵みを意識し感謝しよう

23節から34節で、イエスさまは神さまがあなた方を守ってくださると約束なさいました。だからこそ、私たちは将来に対する不安に自由な心でいられます。結果として、貪欲に陥ることなく自由な心でものを取り扱ったり、他の人と接したりすることができます。

しかも、そのような祝福は、私たちが神さまの命令を守ったらから与えられるのではありません。たとえば33節では「自分の財産を売って施しをしなさい」と命ぜられていますが、この命令を守ったら神さまが罪を赦し、関係を回復させ、祝福してくださるようになるわけではありません。

神さまによる救いは恵みです。すなわち一方的に与えられるプレゼントです。父なる神さまは本来神さまの敵である罪人の私たちを赦し、祝福したいと一方的に願ってくださいました。そして、イエスさまは私たちがお願いしていないのに十字架にかかり、私たちが受けるはずだった罪の罰を身代わりに負ってくださいました。そのことを聖霊さまがさまざまな方法で私たちに教えてくださいます。
私たちは正しい行ないをするから救われるのではありません。イエスさまがこの自分の罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られたけれど3日目に復活なさったという聖書の教えが本当だと信じ受け入れるだけでの十字架と復活を信じるだけで救われるのです。

そのことを信じて感謝と喜びに満たされるとき、私たちは神さまに愛され、守られ、永遠に続く祝福の道を導かれていることを確信できるようになります。そして、平安と希望を抱くことができます。そうなったら、私たちはものに執着することなく、必要に応じて神さまや他の人への愛を示すためにものを手放すことさえできるようになります。

ですから、私たちは神さまの恵みをいつも意識して、感謝し続けましょう。イエスさまがこの自分の罪を赦し、永遠のいのちというプレゼントを与えるためにどれほどの犠牲を払ってくださっているかをいつも思って、感謝をささげましょう。

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