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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

携挙に備えよ

イエス・キリストの生涯シリーズ55

ルカによる福音書12章35節〜59節(44節)

(2023年11月12日)

携挙」についてイエス・キリストが教えていることについて解説します。ここから、世の終わりが近い今を我々がどのような心構えで生きていけばいいか学びます。

礼拝メッセージ音声

参考資料

35節の「帯を締める」は、着物の裾をたくし上げて動きやすくすることを指します。すなわち、いつでもしもべとしての仕事ができるよう準備をしておくことです。

36節の「婚礼」は、古代イスラエルでは1週間ほど続きました。

40節の「人の子」は、救い主イエスさまのことです。

イントロダクション

今回の箇所はとても長いので、交読は44節までにいたしました。他の箇所はメッセージの中で改めて朗読いたします。

今回のテーマは、「世の終わりが近い今の時代をどのような心構えで生きるか」です。3つのセクションに分けてお話しします。

1.世の終わりの時代を生きる者として

(1) いつも用心していなさい

主人の帰りを待つしもべのたとえ
35 腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。
36 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい。
37 帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます。
38 主人が真夜中に帰って来ても、夜明けに帰って来ても、そのようにしているのを見てもらえるなら、そのしもべたちは幸いです。


一家の主人が知人の結婚披露宴に出かけたというのが、このたとえ話の背景です。古代イスラエルの披露宴は、1週間ほど続きました。イエスさまは、主人の帰りを待ち、帰ってきたらすぐに戸を開けてお迎えするしもべのようであれとおっしゃっています。

このたとえに登場する主人はイエスさまです。

また、41〜44節で、イエスさまはペテロに対してこのたとえと似たたとえを語っておられます。

41 そこで、ペテロが言った。「主よ。このたとえを話されたのは私たちのためですか、皆のためですか。」
42 主は言われた。「では、主人によって、その家の召使いたちの上に任命され、食事時には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人とは、いったいだれでしょうか。
43 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。
44 まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。


これは、主人がいない間にしもべたちを監督するよう命ぜられた管理人のたとえです。主人が留守だからといってしもべたちにつらく当たったり、財産を勝手に使い込んだりせず、与えられた仕事をしっかりこなす管理人のようであれとイエスさまはおっしゃっています。
携挙
これらのたとえ話は、世の終わりに起こる「携挙」という出来事のことを表しています。携挙で何が起こるのかについては、聖書で次のように解説されています。

「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(第1テサロニケ4:16-17)。

イエスさまが天から下って来られると言われていますが、これはイエスさまが地上に帰ってこられる再臨とは異なります。イエスさまが来られるのは地上ではなく空中です。そこで、地上への再臨(地上再臨)と区別して「空中再臨」と呼ぶ場合があります。

その時、すでに死んでしまったクリスチャンは復活します。「キリストにある死者」と言われていますから、この時復活するのは教会時代のクリスチャンだけで、旧約時代の信者の復活はイエスさまが地上に再臨されたとき、すなわち神の国(千年王国)が実現するときです。

また、その時生きているクリスチャンは復活の体と同じ栄光の体に造り変えられます。

「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」(第1コリント15:51-52)。

復活したクリスチャンと、生きたまま栄光の体に変えられたクリスチャンは、共に空中に引き上げられて、そこに来られたイエスさまと一緒に天のパラダイスに引き上げられます。
忠実なしもべや管理人への報酬
最初のたとえ話では、主人の帰りをちゃんと待っていたしもべに対して、主人はまるで自分がしもべであるかのように世話をしてくれると語られています。また、ペテロに対するたとえ話では、「主人はその人に自分の全財産を任せるようになります」(42節)とおっしゃいました。

これは、携挙された人たちに対して、イエスさまが考えられないような祝福を与えてくださることを指しています。その祝福は天のパラダイスにおいて、そして地上に実現する神の国において、さらにその千年後に実現する新しい天地において与えられます。 そこでは、先に行けば行くほど与えられる祝福が素晴らしいものにグレードアップしていきます。
泥棒に警戒する人のたとえ
39 このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、泥棒の来る時間を知っていたら、自分の家に押し入るのを許さないでしょう。
40 あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのです。」


イエスさまは、別のたとえ話として、泥棒に警戒する一家の主人の話をなさいました。泥棒はいつ侵入するか分かりませんから、常に警戒していなければなりません。

このたとえ話は、携挙がいつ起こってもいいように準備しているべきだということを教えています。

聖書は、携挙は必ず起こるけれどいつ起こるかは分からないと教えています。そして、そのための前提条件はありません。ですから、今日起こる可能性もあります。また、千年後かもしれません。携挙がいつ起こるかについては分からないのです。

イエスさまも別の箇所で、携挙について次のようにおっしゃいました。「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます」(マタイ24:36)。

ですから、誰かが「この日に携挙が起こる」と預言しても、それを語ったのがたとえ著名な牧師や学者だったとしても嘘なので信じてはいけません。しかし、携挙はいつか必ず起こります。起こるのは今日かもしれませんし、千年後かもしれません。大切なのは、いつ起こっても後悔しないように、常にイエスさまに忠実な生き方を心がけるということです。

(2) 分裂を覚悟しなさい

さばきをもたらす救い主
49 わたしは、地上に火を投げ込むために来ました。火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
50 わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、わたしはどれほど苦しむことでしょう。


「火を投げ込む」と言われているのは、悪をさばいて滅ぼすことを指します。そして、「わたしが受けるべきバプテスマ」とは、イエスさまが十字架にかかって血を流すことです。

ここでイエスさまは救い主の2つの側面について語っておられます。一つは悪をさばく王としての側面、もう一つは人の罪を赦すために十字架にかかる神の子羊としての側面です。

正義である神さまは、確かに罪人を裁いて滅ぼします。しかし、私たちの罪が赦される道を神さまは用意してくださいました。イエスさまがこの自分の罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさったと信じるだけで、私たちの罪は一方的に赦され、そればかりか神の子どもとされて、永遠に祝福されます。

そのようにして一方的に救われ、祝福された私たちは、携挙に備えてイエスさまのみこころにかなう生き方をしようと心がけます。しかし、そうすると必ずイエスさまを信じない人たちからの反発が来ます。このことについて、イエスさまは51節〜53節で語っておられます。
福音は分裂をもたらす
51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。
52 今から後、一つの家の中で五人が二つに分かれ、三人が二人に、二人が三人に対立するようになります。
53 父は息子に、息子は父に対立し、母は娘に、娘は母に対立し、姑は嫁に、嫁は姑に対立して分かれるようになります。」


イエスさまは弟子たちに、そして私たちに対して、イエスさまに忠実に生きようとすると反発を受けることがあるけれど、それは思いがけないことではなく私も知っていることだとおっしゃっています。

イエスさまが知っておられるのだとしたら、弟子たちを愛してやまないイエスさまは必ず守り導いてくださいます。たとえその決壊の地を投げ出すことになったとしても、永遠の祝福の中に入れられます。だから、負けないでみこころに従う方を選びなさいと、イエスさまは励ましておられるのです。

(3) 時代を見分けなさい

携挙を計算に入れない人たち
45 もし、そのしもべが心の中で、『主人の帰りは遅くなる』と思い、男女の召使いたちを打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めるなら、
46 そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ報いを与えます。
47 主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。
48 しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。
ここで語られているのは、これまで申し上げたような忠実なしもべではなく、主人の不在をいいことに好き勝手に振る舞うしもべです。そのようなしもべは主人が帰ってきたら、すなわち携挙が起こったら、ひどい罰を受けることになるとイエスさまはおっしゃいます。

というと、ちょっと恐ろしい気がします。もしかしたら私たちクリスチャンも、いい加減な生き方をしていたら救いを取り消されて、地獄に落とされ滅ぼされてしまうのでしょうか。

いいえ。聖書のある箇所を解釈するときには、そこだけで解釈するのではなく、前後の話の流れや聖書全体のメッセージに注目しなければなりません。では、聖書は救いの取り消しの可能性について何を教えているのでしょうか。

聖書によれば、救いは私たちの良い行ないのごほうびとして与えられるものではありません。神さまの恵みのゆえに、そして私たちの信仰によって与えられます(エペソ2:8)。また、何ものも私たちを神さまの愛から引き離すことはできないと約束されています(ローマ8:39)。

ですから、いったんイエスさまを信じて救いを受け取ったなら、救われた後に良くない行動をしたからといって救いが取り消しになることは決してありません。

では、このたとえ話でひどい罰を受けると言われている不忠実なしもべとは誰のことでしょうか。それはイエスさまを信じていない人のことです。彼らはイエスさまが再び戻ってこられること、そして戻ってこられたら最後のさばきをなさることを計算に入れていません。

しかしそういった人たちは、そのままではさばきを受けてしまうことになります。そこでイエスさまは群衆、すなわちまだイエスさまのことを救い主だと信じていない人たちに向かって、次のように語られました。
時代を見分けよ
54 イエスは群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言います。そしてそのとおりになります。
55 また南風が吹くと、『暑くなるぞ』と言います。そしてそのとおりになります。
56 偽善者たちよ。あなたがたは地と空の様子を見分けることを知っていながら、どうして今の時代を見分けようとしないのですか。
57 あなたがたは、何が正しいか、どうして自分で判断しないのですか。
58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときは、途中でその人と和解するように努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行き、裁判官はあなたを看守に引き渡し、看守はあなたを牢に投げ込みます。
59 あなたに言います。最後の一レプタを支払うまで、そこから出ることは決してできません。」


携挙が起こると地上にクリスチャンは一人もいなくなります。イエスさまを信じていない自称クリスチャンはいますが、イエスさまの恵みの福音を信じた本当のクリスチャンは全員天に挙げられます。

すると、地上は大混乱に陥るでしょう。そして、携挙が起こってどれくらいの日数が経ってからかは聖書に書かれていませんが、7年間の大患難時代がやってきます。この大患難時代は、さまざまな天変地異が起こって人々が苦しみますし、特にユダヤ人に対するひどい迫害が起こります。

そして7年の終わり、いよいよユダヤ人が絶滅させられそうになった直前、ユダヤ人たちは国家的に悔い改めてイエスさまを信じます。そして「主よ、来てください」と祈ります。すると、イエスさまはその祈りに応えて地上に戻ってこられます。地上再臨です。

それからイエスさまは地上の悪をすべて滅ぼし、サタンや悪霊たちも封印して、理想的な王国である神の国(千年王国)を打ち立てます。そこにはイエスさまと一緒に地上に戻ってきたクリスチャンの他に、旧約時代の復活した信者たちや、携挙の後に救われた人たちも住んで、幸せな生活を千年間に渡って楽しみます。

千年が終わると、今の宇宙が消えて無くなって新しい天地が創造され、千年王国にいた人たちはそちらに引っ越してさらに素晴らしい祝福を味わいます。しかし、その前に白い御座のさばき(いわゆる最後の審判)が行なわれます。生きている間に神さまの恵みによる救いを受け取らなかったすべての時代の不信者は、神さまから有罪判決を受け、火の池とも呼ばれるゲヘナに落とされて永遠の苦しみを味わうことになります。
恵みを無駄にしないように
しかし、イエスさまは人が罪の罰を受けて永遠に苦しむことを喜ばれません。今はまだ一方的な赦し、救いのプレゼントが神さまから差し出されています。まだ、永遠の刑罰を逃れる道が用意されているのです。

「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。神は言われます。『恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける』。見よ、今は恵みの時、今は救いの日です」(第2コリント6:1-2)。

しかし、そんな時代は永遠には続きません。タイムリミットは近づいています。今はそういう時代なのだということを認識して、罪を悔い改め、イエスさまを信じて救われるように。イエスさまはそのように群衆に向かって訴えておられます。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.携挙を待ち望みながら生活しよう

後悔しない生き方をしよう

携挙はいつ起こるか分かりませんが、必ず起こります。それは今日かもしれないし、千年後かもしれません。
今日携挙が起こってもいいように
携挙が起こったときに、「ああ、こんなに早く地上を離れなければならないんだったら、もっと神さまに忠実な生き方をしておけば良かった。あの人と和解しておけば良かった。もっと家族を大切にしておくべきだった」。そんなふうに後悔しないような生き方をしておきたいですね。

これまでが後悔の多い生き方だったとしても大丈夫。今日から新しくやり直しましょう。
死んだ後に携挙が起こってもいいように
携挙はいつ起こるか分かりません。ですから携挙は数秒後に起こる可能性もありますが、私たちが生きている間には起こらない可能性もあります。ですから、世の終わりが近いのだからと仕事や家事や勉強の手を抜いたりせず、長期計画を立てて地道に生きることもまた大切です。

反発を恐れず従おう

イエスさまに忠実な生き方をしようとすると、反発を招くことがあります。それを覚悟し、それでもイエスさまに従う方を選び取りましょう。

私は元々小学校教師になりたいという夢を持っていました。そして、幸い出身地である愛媛県の教員採用試験に合格して、あとはこれから赴任先が決まるという段階まで来ていました。ところが、神さまはそんな私に「教師になるのをやめて、伝道者になれ」と語りかけてこられました。

その命令を守れば、親や大学関係者からの反発が予想されます。実際、大変な反発を食らいました。そこで神さまに従いきれない私に対して、神さまはさまざまな聖書の言葉や人の言葉や状況を通して励ましてくださいました。その一つがルカ12:51-53のみことばです。

イエスさまは、皆さんのことも励まし、導き、守ってくださっています。勇気を出して従い通しましょう。

他の人の救いのために働こう

イエスさまは、携挙を計算に入れない人たちのことも心に掛けておられます。ですから、しもべである私たちも他の人たちの救いのために祈りましょう。そして機会を見つけてイエスさまの話、聖書の話、教会の話、救いの話を語りましょう。

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