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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

からし種とパン種のたとえ

イエス・キリストの生涯シリーズ57

ルカによる福音書13章10節〜21節

(2023年11月26日)

イエス・キリストが語った「からし種とパン種のたとえ」から、私たちが良い影響を周りに与えられる存在になるために必要な態度を解説します。

礼拝メッセージ音声

参考資料

10節の「会堂」は、13歳以上のユダヤ人男性が10人以上いる地域に作られた集会所。ユダヤ人の礼拝や祈り、律法に関する教育、冠婚葬祭などが行なわれました。

13節の「会堂司」は、会堂の維持管理を行なうほか、会堂で安息日に行なわれる礼拝の司式を行ない、聖書朗読や説教(奨励)の担当者を指名しました。会堂司は会堂に所属する長老たちが輪番で担当しました。

19節の「からし種」は、アブラナ科の植物であるクロガラシの種だと考えられています。種は1ミリほどの大きさで当時のパレスチナに生えていた植物では特に小さいですが、生長すると2〜3メートルほどになります。

21節のパン種とは、パン生地を発酵させたとき、それを焼く前に一部取り分けておいたもの。それを次回焼くためのパン生地に混ぜると、中いる酵母(イースト菌)によって粉が発酵して膨らみます。

21節の「サトン」は容量の単位で、1サトンは約13.17リットル。よって、3サトンは約39.5リットル。

イントロダクション

歴史的に見ると、キリスト教会はこの世に対して良い影響を与えてきました。一方、残念ながら悪影響を与えてしまったこともあります。私たち中通りコミュニティ・チャーチは、そしてそこに属する私たち一人ひとりは、悪影響ではなく良い影響を与えられる存在になりたいですね。そういう存在になるのに必要な態度について、今回の箇所から教えていただきましょう。

1.安息日論争

腰の曲がった女性のいやし

安息日の出来事
(10節)イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。

安息日とは土曜日、より正確に言うと金曜日の日没〜土曜日の日没までのことです。神さまがユダヤ人に与えた命令、モーセの律法によると、この日は働かずに休むよう命ぜられていました。ですから、元々は公に集まって礼拝するよう定められた日ではありませんが、福音書の時代には安息日に会堂に集まって礼拝する習慣ができていました。

この日、イエスさまはある会堂での礼拝で聖書の内容について教えておられました。
悪霊につかれた女性
(11節)すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全く伸ばすことができない女の人がいた。

その会堂の中には、腰が曲がってしまった女性がいました。日常生活を送るのに非常に困難を覚える状態です。しかも、それは単に加齢や障害によって起こったものではなく、悪霊の仕業でした。そして、そういうつらい状態が18年も続いていたのでした。
女性のいやし
(12-13節)イエスは彼女を見ると、呼び寄せて、「女の方、あなたは病から解放されました」と言われた。そして手を置かれると、彼女はただちに腰が伸びて、神をあがめた。

イエスさまは、この女性を呼び寄せると、病からの解放を宣言なさいました。解放されたと訳されている言葉は、まさにとらわれていた人を解き放って自由にするという意味です。それは腰が曲がるというこの症状が悪霊によって引き起こされたものであって、この女性が悪霊にとらわれて支配されている状態だったからです。

イエスさまは、この女性を悪霊の支配から自由にしてくださいました。その結果、この女性の腰の症状もいやされました。女性は喜び、イエスさまを通していやしをもたらしてくださった神さまを賛美し、礼拝しました。
会堂司の反発
(14節)すると、会堂司はイエスが安息日に癒やしを行ったことに憤って、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。」

18年間腰が曲がっていた女性がいやされたのですから、これは喜ばしいことのはずです。しかし、少なくとも会堂司は喜びませんでした。それは、安息日にいやしを行なう行為が、モーセの律法に違反しているとこの会堂司が考えたからです。

モーセの律法には、安息日には働かずに休みなさいと命じています。そして、モーセの律法を研究する律法学者たちは、何が安息日に禁止されている労働なのかを事細かに規定していました。最終的には安息日に関してだけで1500もの禁止事項が作られています。

それによると、すぐに命の危険が無い病気や怪我以外、安息日に治療を行なってはいけないことになっていました。モーセの律法自体にはそのような教えはありませんが、代々の律法学者たちがそのような新しい規則を作り上げてしまったのです。

会堂司は、当時のほとんどのユダヤ人同様、律法学者たちの教えを忠実に守らなければならないと考えていました。そして、会堂司の仕事の一つは、礼拝の秩序維持です。間違った教えを語る説教者がいたり、礼拝を混乱させる人がいたりした場合、それを止めなければなりません。そこで、この会堂司もイエスさまが安息日にいやしを行なったことを問題視します。

そして、会衆に対しても、安息日にいやしを求めてはならないと改めて命じました。
イエスの反論
(15-16節)しかし、主は彼に答えられた。「偽善者たち。あなたがたはそれぞれ、安息日に、自分の牛やろばを飼葉桶からほどき、連れて行って水を飲ませるではありませんか。この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」

イエスさまは「偽善者たち」と呼びかけました。これは会堂司と彼に賛同する人たち、そして彼らに影響を与えている律法学者たちのことです。偽善者とは、表面的には宗教的な態度を周りの人に見せながら、心が神さまから離れている人のことを指します。

会堂司は、表面的にはモーセの律法の教えを忠実に守っているかに見えます。しかし、実際にはその心がモーセの律法に反しているとイエスさまはおっしゃっているのです。

そして、家畜に対する態度を例に挙げます。安息日に働くなと言う人たちであっても、安息日に牛やロバの世話をします。それは牛やろばの世話をしなければ、彼らが飢え渇いてしまい、調子を崩したり死んだりしてしまうからです。

もちろん家畜は大切な存在です。しかし、それ以上に人は大切です。どうしてこの女性を苦しみから解放してやることがいけないのかとイエスさまはおっしゃいます。

また、イエスさまはこの女性のことを「アブラハムの娘」と呼びました。これはアブラハムの子孫という意味です。ここでは特にユダヤ人のことを指します。神さまはアブラハムを祝福し、その子孫であるユダヤ人を祝福すると約束なさいました。

それほどまでに神さまはユダヤ人のことを大切に思ってくださっています。だからこそ、苦しんでいる人をその苦しみから解放するのは当然ではないかとイエスさまはおっしゃっているのです。
人々の反応
(17節)イエスがこう話されると、反対していた者たちはみな恥じ入り、群衆はみな、イエスがなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。

この話を聞いた会堂司や、彼に同調していた人たちは恥じ入りました。多くの宗教的指導者たちは、イエスさまから矛盾を指摘されても自分たちの考えを変えようとはしませんでした。むしろ、ますますイエスさまのことを憎み、殺意さえ抱きました。ところが、この会堂の会堂司たちは素直な心を持っていました。自分たちの間違いに気づくと、すぐに方向転換したのです。
神の国のたとえ話
するとイエスさまは、神の国に関する2つのたとえ話を語られました。これらのたとえ話が、今回のいやしに関連していることは明らかです。

神の国というのは、救い主が来たとき地上に実現すると聖書で約束されている理想的な王国のことです。救い主は地上から神の敵を討ち滅ぼしてすべての悪を取り除くと、神の国の王として全世界を統治なさいます。そして、かつてのエデンの園のように、人々も動物たちもみんな幸せに暮らすことができます。

特に福音書の時代は、イスラエルの国はローマ帝国によって支配されていましたから、救い主の登場と神の国の実現が強く待ち望まれていました。

それでは、そんな神の国に関するイエスさまのたとえ話を見ていきましょう。

神の国とからし種のたとえ

からし種の たとえ
(18-19節) そこで、イエスはこう言われた。「神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか。それはからし種に似ています。ある人がそれを取って自分の庭に蒔くと、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」

まずはからし種のたとえです。からし種は当時ユダヤで知られていた種の中で特に小さい種でした。しかし、生長するとぐんぐんと背が伸び、最終的には2〜3メートルにまでなります。特にこのたとえ話に出てくるからし種は大きく生長し、鳥がそこに巣を作るほどでした。もはや草ではなく木のようです。
  • 実際のクロガラシの茎はさすがに鳥が巣を作るほど強くはありませんが、このたとえ話のポイントはそこではなく「小さなものがそれくらい大きく生長する」というところにあります。
たとえの意味
では、このたとえは何を意味しているのでしょうか。 からし種は、小さいものが大きく生長することを象徴しています。そんなからし種と同じように、神の国、すなわち救い主の王国は大きく生長します。

そして、「鳥が巣を作る」という表現は、人々が依り頼むという意味です。神の国は大きく生長して、人間社会にさまざまな良い影響を与えます。

本日、洗礼式と併せて入会式が行なわれ、新しいメンバーがこの教会に加わりましたね。私たちクリスチャンは教会に所属しています。

教会はイエスさまの体にたとえられています。教会は神の国そのものではありません。しかし、イエスさまが再臨なさって神の国が実現するまでの間、神さまに逆らうこの世の中で神さまのみこころが実現するために働いています。将来実現する神の国がメインディッシュだとすると、今の時代の教会はその前菜のようなものです。

そして神の国の前菜である教会は、さまざまな分野でさまざまな良い影響をこの世に対して与えてきました。クリスチャン人口が1%にも満たないこの日本においても、これまで福祉、教育、医療、司法、政治、人権、環境問題などでクリスチャンたちが活躍してきましたし、今も活躍しています。

ただし、影響力は良い面ばかりではありません。教会が本来あるべき姿にないと、悪い影響をこの世にもたらしてしまうことにもなりかねません。そのことを2つ目のたとえ話が教えています。

神の国とパン種のたとえ

パン種によって膨らむ粉
(20-21節) 再びイエスは言われた。「神の国を何にたとえたらよいでしょうか。それはパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの粉に混ぜると、全体がふくらみました。」
聖書も当時のラビ(律法の教師)たちも、パン種を罪の象徴として用いています。わずかな量のパン種が、大量の粉全体に発酵という影響を与えるように、小さな罪を軽く見て放置していると、その人の生活全体が堕落してしまったり、その人が属するグループ全体や社会が堕落してしまったりするというたとえです。 残念ながら、教会が神さまのみこころから外れて罪の状態になってしまい、その結果として社会に良い影響ではなく悪い影響を与えてしまうことがあります。
中世の教会
中世のヨーロッパでは、教会のこの世に対する教会の影響力が非常に高まりました。神聖ローマ帝国の皇帝や各国の王たちよりも教皇の方が権力を持っていたこともあったほどです。

一方で当時の教会は、
  • 免罪符などという怪しいお札を発行してお金儲けに走りました。
  • 魔女狩りや異端審問などの野蛮な行為を先導しました。
  • 十字軍など、侵略戦争を主導しました。
  • 聖書の教えを間違って解釈し、地動説を否定してガリレオ・ガリレイを裁判にかけるなど、長い間科学の発展を邪魔してきました。
異端の教会
現代においても、聖書の教えから離れてしまった異端の教会や、リーダーを神聖視してカルト化してしまった教会も、社会に対してさまざまな悪影響を及ぼしています。
置換神学と反ユダヤ主義
異端ではない教会の中にも、聖書の教えを間違って解釈してしまう人たちがいます。その一例が「キリストを否定したユダヤ人を神は捨ててしまった。代わりに教会が神の民となった」という教え(置換神学)です。それにより、ヨーロッパを中心とした様々な国で ユダヤ人に対する迫害が起こりました。
指導者たちの教えについての警告
パン種のたとえ話は、腰の曲がった女性のいやしの後に語られました。イエスさまは当時の指導者たちの教えを偽善だと非難しておられます。彼らの教えは一般のユダヤ人にも影響を与え、18年も悪霊によって苦しめられていた女性が解放されたことを素直に喜べなくしてしまいました。それは、パン種が粉全体に影響を与えているのと同じです。

幸い、この会堂の会堂司や会衆は、自分たちの間違いに気づいて恥じ入りました。しかし、多くの指導者や民衆はイエスさまの話を受け入れようとせず、むしろ間違った影響力を行使し続けるのです。今でもほとんどのユダヤ人はイエスさまを憎み、救い主だと認めようとしません。それは教会がイエスさまのお名前と十字架というシンボルを使ってユダヤ人を迫害してきたからですが、それだけでなく歴代のラビたちがイエスさまを否定するよう教えてきたからでもあります。

1つ目のからし種のたとえが示しているように、神の国にはものすごい影響力があります。そして、その前菜である教会も大きな影響力を秘めています。それだけに、間違った教えに惑わされることがないようにと、イエスさまは訴えておられるのです。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.良い影響を与えられる存在となろう

そのために、3つのチェックポイントに注目しましょう。

聖書を正しく解釈しているだろうか

律法学者たちの間違った律法解釈や、異端や置換神学の例を挙げたように、聖書を間違って解釈してしまうと私たちクリスチャンは世の中に良い影響を与えられなくなります。それどころか、悪影響を及ぼしかねません。

私たちは聖書を正しく読んで理解する力を養わなければなりません。といっても、実はそれほど難しいことではありません。ポイントは「素直に読む」ということです。では、素直に読むとはどういうことでしょうか。2つ申し上げます。
普通の文章と同じように読む
私たちは普段新聞や小説や詩を読んでいます。そこで分からない単語や言い回しが出てきたらどうしますか?
はっきりした意味が分からなくても、前後関係からこういう意味だろうなと推測できるならそのまま読み進めるでしょう。どうしても意味が分からないとその箇所が理解できないなら、辞書を引いたり、ネットで検索したり、知っていそうな人に質問したりすることでしょう。

聖書も同じように読めばよいのです。
前後関係を無視しないで読む
聖書は旧約39巻、新約27巻、計66巻の文書が集まってできています。しかし、それらはバラバラに集められているものではなく、聖書はその全体で1冊の書物です。全体を通して人間に神さまのみこころを伝えようとしています。

ですから、聖書のある箇所だけ抜き出して、そこから何かの意味を引き出そうとすると間違って理解しかねません。必ず話の流れの中でその箇所の意味を考えなければなりません。また聖書全体が何を教えているかについても参考にしなければなりません。

そのような読み方をすれば、ただ歴史的な事実を述べているだけなのに、「ここは将来こういうことが起こるという預言だ」などと間違って解釈してしまうのを防げます。また、前後関係を気にしながら読めば、本来そんなことは命じられていないのに、勝手に厳しい命令を受け取って生活ががんじがらめになってしまうのを防げます。

前後関係や全体のメッセージを参考にするというのは、私たちが普段行なっていることです。普通の文章を読むのと同じように、聖書も素直に読めばよいのです。

愛を実践しているだろうか

聖書は、神さまや人を愛することの大切さを繰り返し述べています。

第一のチェックポイントでは、私たちが正しく聖書を理解することの大切さを学びました。しかし、どれほど聖書のことを詳しく知っていても、私たちに愛が欠けていたらその知識はかえって人を傷つけてしまう恐れがあります。

聖書の教えに従って生活することは素晴らしいことです。そして、聖書は誰かが間違った生き方をしているときには、正しい生き方をするよう戒めなさいと勧めています。しかし、それが愛の動機で行なわれないなら、意味がありません。

たとえば相手を責めることで自分の方が正しいということを証明し、それでいい気持ちになるためだとしたら、それは愛に基づいていません。そんな指摘や指導は相手を傷つけるばかりで意味は無いでしょう。

また、行為を責めるのではなく、相手の人格まで否定するような言い方をしてしまうと、相手は素直に聞いてくれなくなるでしょう。

聖書の正しい知識を持つことは、教会や個々のクリスチャンが周りに良い影響を与えるためには必要不可欠です。しかし、その知識をどのように実際の行動に表すかについては注意が必要です。

この世に良い影響を与えるクリスチャンであるために、私たちは愛の動機で行動しているだろうかということ、そして実際に愛を実践できているかということをチェックしましょう。

謙遜に生きているだろうか

会堂司も会衆たちも、イエスさまの指摘を受けて素直に悔い改めました。そして、素直に女性のいやしを喜び、イエスさまをほめたたえるようになりました。

彼らは「自分は正しく、相手が間違っている」「自分は正解を知っていて、相手は知らない」「自分は聖いが、相手は汚れている」という傲慢な態度から、謙遜な態度へと変わりました。

先ほど、愛が大切だという話をしました。「愛は謙遜というパイプを通して流れ出る」と言った人がいます。傲慢さがあると、愛がうまく他の人に届かなくなるのです。確かに、「賢くて力のある私が、愚かで弱いあなたを助けてあげましょう」などという態度で親切にされても、あまりうれしくないどころか嫌ですよね?
謙遜になるために
では、どうしたら私たちは謙遜さを身につけられるでしょうか? 会堂司たちが変わったきっかけは、イエスさまと出会い、イエスさまのみことばを聞いたことです。

私の神学校時代の恩師は、非常に厳しい方でした。訓練機関の先生なのですから、それはある意味当然かもしれません。ところが、卒業して数年後にお目にかかると非常に柔和な印象を受けました。その先生自身、自分は変えられたとおっしゃいます。そのきっかけは、アシュラムという超教派の集会に参加するようになったからだそうです。

アシュラムの集会では、聖書を読み、静かにじっくりと神さまの語りかけに耳を傾けます。それを繰り返すことによって、聖書のみことばが自分を内側から造り変えていくのだとこの先生は教えてくださいました。
謙遜さは自分の力では身につけられません。聖なる神さまの御前に出るならば、どんな人も頭を下げてひざまずかざるを得ません。しかも、恐ろしさのあまり震え上がりながらではなく、神さまのすばらしさを愛の深さに圧倒され、感動しながらです。

私たちも、礼拝式において、あるいは毎日の聖書の学びや祈りにおいて、そして生活の一瞬一瞬において、イエスさまの前にいるという意識をいつも保っていましょう。そうするならば、イエスさまが私たちを謙遜にしてくださり、それにより愛が周りに流れ出て、良い影響を与えられるようになります。

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