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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

神性宣言

イエス・キリストの生涯シリーズ58

ヨハネによる福音書10章22節〜33節

(2023年12月3日)

イエス・キリストが神性宣言なさった箇所を解説します。テーマは私たちの救いの確かさです。

礼拝メッセージ音声

参考資料

22節の「宮きよめの祭り」(ハヌカー)は、毎年12月頃に8日間行なわれる祭りです(2023年は12月7日の日没から15日の日没まで)。これはモーセの律法には定められておらず、次の歴史的な出来事を記念して行なわれるようになったものです。

紀元前168年当時、イスラエルはセレウコス朝シリアの支配下にありました。時の王アンティオコス4世はユダヤ人にモーセの律法を守ることを禁止した上、エルサレム神殿はギリシア神話の神ゼウスのものだと宣言します。これに対してユダヤ人たちは大いに怒り、祭司であったハスモン家の人々をリーダーとする大規模な反乱が起こりました(マカバイ戦争)。

このマカバイ戦争は紀元前142年まで続いて、ようやくイスラエルは独立を勝ち取ります。その23年前の紀元前165年12月、エルサレム神殿がユダヤ人の手に取り戻されました。そして、異教の神と祭司たちが取り除かれ、再び聖書の神さまに対する礼拝が行なわれるようになります。宮きよめの祭りは、このことを記念して行なわれるようになりました。

8日間続く宮きよめの祭りでは、各家庭でハヌッキーヤと呼ばれる9枝の燭台が用意され、毎晩1本ずつ火がともされます(9本のキャンドルのうち1本は点火用)。これは神殿奪還時、神殿の燭台に用いるための聖なる油が1日分しかなかったのに、奇跡によって8日間燃え尽きなかったとされる伝説にちなんでいます。

(画像引用:Wikipedia
23節の「ソロモンの回廊」は、エルサレム神殿の東側にあった屋根付き通路です。

31節の「石打ち」は、モーセの律法で定められた死刑の方法です。大勢の人が罪人に石を投げつけて殺します。新約聖書では、ステパノが石打ちで殺されています(使徒7:57-60)。また使徒パウロも石打ちにあいましたが、後に息を吹き返しています(使徒14:19-20)。

イントロダクション

今回のテーマは「救いの確かさ」です。イエスさまとユダヤの宗教的指導者たちの問答から、そのことを教えていただきましょう。そして、大きな平安と希望をいただきたいと思います。

1.宮きよめの祭りでの出来事

ユダヤ人たちとの問答

宮きよめの祭り
(22-23節)そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられた。

時は紀元29年の12月です。イエスさまの公の働きの期間はあとわずかしか残されていません。約4カ月後には、イエスさまは十字架にかけられ、3日後に復活なさいます。

この時イエスさまは、宮きよめの祭り(ハヌカー)を祝うためエルサレムに滞在しておられました。この祭りについては、上の参考資料で解説しています。そしてイエスさまは、神殿のソロモンの回廊と呼ばれている通路を歩いていらっしゃいました。
ユダヤ人たちの詰問
(24節)ユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」

イエスさまに対して、あるユダヤ人たちが「キリスト(すなわち旧約聖書が登場を約束してきた救い主)ならはっきりそう言え」と要求します。

このユダヤ人たちは、パリサイ人や律法学者など宗教的指導者たちだと思われます。そう考える理由については後で説明します。
話したのに信じない
(25-26節a)イエスは彼らに答えられた。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、あなたがたは信じません。

指導者たちは、まるでイエスさまがご自分の正体についてはっきり語っていないかのように要求しています。しかし、イエスさまはこれまで自分が救い主だと話してきたし、奇跡によってその言葉が本当だということを証明もしてきたと主張なさいました。

さらに、「それなのに信じなかったのはあなた方だ」と、逆に指導者たちを非難しておられます。
信じない理由
(26節b)あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。

ここでイエスさまは、ご自分のことを羊飼いにたとえておられます。そして、イエスさまのことを救い主だと信じない指導者たちのことを、羊飼いであるイエスさまに所属していない羊にたとえました。

羊の放牧地では、複数の羊飼いたちが一緒に羊たちに牧草を食べさせたり水を飲ませたりします。しかし、羊たちは自分の羊飼いの声を聞き分けることができます。ですから、自分の羊飼いの言うことには従いますが、他の人が声をかけても聞こうとしません。そのことは当時のユダヤ人の多くが知っている常識でした。

イエスさまはその常識をたとえに用いました。指導者たちがイエスさまのことを救い主だと信じないのは、彼らが救い主であるイエスさまに属する羊ではないからだとおっしゃるのです。
イエスの羊たちの反応
(27節)わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。

ユダヤ人のすべてがイエスさまを救い主だと認めなかったわけではありません。弟子たちのようにイエスさまを信じた人たちもいました。彼らはイエスさまに属する羊だから信じたのだとおっしゃいます。
イエスの羊たちへの約束
(28-29節)わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。

イエスさまを信じた人たちには永遠のいのちが与えられるとイエスさまは約束なさいました。

永遠のいのちとは永遠に存在し続けるということではありません。天国であっても地獄であっても人は永遠に存在し続けます。大切なのはどういう状態で永遠の時を過ごすのかということです。

イエスさまは永遠のいのちについて次のように定義しておられます。(ヨハネ17:3)永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

この場合の「知る」とは、人格的に交わりがあるという意味です。神さまに罪を赦され、その結果親子として親しく交わることができるようになり、神さまから大いに祝福される状態になること。それが永遠のいのちを与えられるということで、救われるという言葉と同じ意味です。

そして、信じて救われた人と神さまの仲を引き裂くことは誰にもできません。その人は神さまにとって大切な存在だからです。ですから、いったん永遠のいのちを手に入れた人は、その後神さまから捨てられることはありません。すなわち、罪の赦しを取り消されて永遠の苦しみという罰を受けるようには決してならないとイエスさまは約束しておられます。
イエスと父なる神との関係
(30節)わたしと父とは一つです。」

そしてイエスさまは、ご自分と父なる神さまが一つだとおっしゃいました。ですから、イエスさまの教えは父なる神さまの教えであり、イエスさまが保証なさることは神さまが保証しておられるのと同じです。

そしてこの言葉は、イエスさまがご自分のことを神だと宣言しているのと同じです。

ユダヤ人の殺意

石を取るユダヤ人たち
(31節)ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。

イエスさまの主張を聞いた指導者たちは、イエスさまを死刑にするために石を取りました。「再び」と書かれているのは、ヨハネ8:59でも神殿でパリサイ人や律法学者たちがイエスさまに石を投げようとしたことがあったからです。
  • そしてこの「再び」という言葉が、今回登場したユダヤ人たちがパリサイ人や律法学者たちだと考える根拠になっています。
石打ちの理由
(32-33節)イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒涜のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」

イエスさまの主張を聞いた指導者たちは、イエスさまがご自分のことを人となった神だと宣言したと正しく理解します。

しかし、彼らはイエスさまのことを人となった神、すなわち救い主だと認めていません。もしもただの人間が神を自称したとしたら、それは神さまに対する冒涜の罪です。そして、モーセの律法によれば、神さまを冒涜する者に対する刑罰は死刑でした(レビ24:16)。

そこで彼らはイエスさまを死刑にするため石を手にしたのです。さあ、この後どうなったでしょうか。今回は一緒に交読しませんでしたが顛末を紹介します。

この後の出来事

聖書による反論
(34-36節)イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか。 神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。

パリサイ人や律法学者たちは、自分たちはモーセの律法に忠実だと自負していました。そこでイエスさまは、旧約聖書を用いて彼らの間違いを指摘しようとなさいました。
イエスさまが引用なさったのは詩篇82:6の言葉です。この詩篇の中で、神さまは人を裁くお方として描かれています。そして、さばきのわざの一環として人間たちにさばきの権限の一部をおゆだねになっています。そのゆだねられた人たちのことを、この詩篇は「神々」(ヘブル語でエロヒム)と呼んでいます。

これはパリサイ人や律法学者たちが大切にしている聖書の記述です。彼らは聖書を廃棄されることのない神のことばだと認めています。そして、詩篇82:6でただの人間が神々と呼ばれていることをおかしなことだと主張しません。それなのに、イエスさまがご自分のことを神と一つである、神の子であると主張するとそれは冒涜だと責めて殺そうとします。これは矛盾ではないかとイエスさまはおっしゃいます。

もちろん、イエスさまは人間が神を自称すること、神さまを冒涜することを善しとしておられるわけではありません。最初からイエスさまのことを受け入れようとせず、言葉尻をとらえてイエスさまを亡き者にしようとする指導者たちの態度を責めていらっしゃるのです。
イエスのわざを見よ
(37-38節)もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」

イエスさまは指導者たちに、ご自分のみわざ、すなわち奇跡を見て信じなさいと勧めます。たとえイエスさまが救い主だとい うことを信じたくなくても、その行ないを見れば救い主だということが明らかに理解できるはずです。

イエスさまはこれまで、パリサイ人や律法学者たちが、「この種の奇跡は救い主しか行なうことができない」と教えていた奇跡を行ないました。具体的には、ツァラアトという特別な皮膚病のいやしや、悪霊によって聾唖にされた人のいやし、そして生まれつき目の見えない人のいやしです。イエスさまがそれらの奇跡を行なった以上、論理的には彼らはイエスさまのことを救い主だと信じなければならないはずです。
ペレヤへの一時退避
ところが指導者たちはイエスさまの勧めに耳を傾けようとせず、イエスさまを捕らえて殺そうとしました。理屈ではなく感情の方を優先させ、実力行使をしようとしたのです。しかし、イエスさまは指導者たちの手を逃れます(39節)。

それからイエスさまは、ヨルダン川の東側、ペレヤと呼ばれていた地域に一時的に避難なさいました。そこは、かつてバプテスマのヨハネが洗礼を授けていた場所です(40節)。

指導者たちはイエスさまのみわざを見ても信じようとしませんでした。しかし、ペレヤの人々はイエスさまの奇跡を目撃すると、イエスさまのことを救い主だと信じて救われました(41-42節)。つまり、彼らはイエスさまの群れに属する羊だったのです。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.救いの確かさを確認しよう

救いにおける人のわざと神のわざ

聖書は、救いに関して人がすべきことと神さまがしてくださることの両面があることを教えています。
人がすべきこと
人がしなければならないことは、救いに関する神さまの教えを聞いて信じることです。信じるべき内容は時代によって変わります。今の私たちが信じなければならないメッセージの内容は、恵みの福音と呼ばれています。

すなわち「この自分の罪を赦すためにイエスさまが十字架にかけられ、死んで葬られ、3日目に復活なさった」ということです。これを事実だと信じるだけで、私たちは救われます。すなわちすべての罪が赦され、神さまの子どもにしていただき、永遠に神さまと祝福に満ちた交わりを持つことができるようになります。

人は良い行ないをしたからごほうびとして救われるわけではありません。人は信仰によって救われます。今回の箇所でも、イエスさまは指導者たちに信じるよう促しておられます。
神がしてくださること
では、救いに関して神さまがしてくださることは何でしょうか。

今回の箇所でイエスさまは、ご自分に属する羊はイエスさまを信じて救われるけれど、属さない羊は信じることをせず救いを手に入れることがないとおっしゃっています。すなわち、神さまは、救われる人をあらかじめ選び、その人が福音を信じて救われるよう導かれるということです。

聖書の他の箇所でも、救いにおける神さまの選びについて教えています。たとえば次のようなみことばです。(エペソ1:4)すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
両方を受け入れよう
救いにおける人間の信仰と神さまの選び、その両方を聖書は教えています。ですから、どちらか一方を強調しすぎてもう一方を無視することがあってはなりません。

人間の側の信じる責任を無視して神さまの選びだけを強調すると、「救われる人はあらかじめ決まっているのだから、伝道なんかしなくても勝手に救われる」ということになります。しかし、聖書はあらゆる人に福音を宣べ伝えるよう命じています。

逆に、神さまの選びを無視して人間の責任だけを強調するとどうなるでしょうか。何かのきっかけで赦しの確信が揺らいでしまったり、大きな失敗をやらかしたりしてしまうと、とたんに「本当は救われていなかったのかもしれない。救われたというのは気のせいだったのかもしれない」と不安になってしまうでしょう。

救いに関する保証

救いについての私たちの信仰と神さまの選びの教えは、「一度信じて手に入れたあなた救いは、何があっても決して取り消しにならない」ということを保証してくれます。

救いは神さまの選びと私たちの信仰によって私たちに与えられたものであって、私たちの立派な行ないに対するごほうびではありません。それは救われた後も同じです。たとえ私たちが救われた後に大きな罪を犯してしまったとしても、それで救いが取り消しになることはありません。

また、悪魔や悪霊たちであっても、クリスチャンである私たちの救いを台無しにすることはできません。

罪を犯して悔い改めないでいると、神さまとの関係がおかしくなって、せっかく神さまが用意してくださっている祝福が味わえなくなったり、私たちの間違いを気づかせるために神さまから懲らしめとしての苦しみがやってきたりすることはあります。ですから罪は犯さない方がいいし、犯してしまったらすぐに悔い改めた方がいいのです。

しかし、たとえ懲らしめにあったとしても、それは神さまに愛されなくなったためではなく、むしろ子どもとして愛し大切にしてくださっている証拠です。ただ、どんな罪も私たちの救いを取り消すほどの力を持っていないということを私たちは信じましょう。

自分と人とを大切にしよう

父なる神さまが救われるよう選ばれた人たちについて、イエスさまは(29節)「わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です」とおっしゃいました。
あなたは大切
あなたは三位一体の神さま、すなわち父なる神さま、子なるイエスさま、そして聖霊なる神さまにとって大切な存在です。

この話をお読みください。
ある小学校での出来事。児童養護施設から引き取られた子どものことを、友だちが「お前の親は本当の親じゃない」とからかいました。するとその子はすまして言いました。「たまたま両親の元に生まれてきた君たちと違って、僕はお父さんとお母さんに『この子がいい!』って選ばれて、2人の子どもにしてもらったんだよ」。

この世には、自分が望まれて生まれてきたとはとても思えない環境で生まれ育った人もいることでしょう。親から直接「お前なんか生まれてこなければ良かったのに」というようなひどい暴言を受けた人もいることでしょう。

それでも、実子であろうが養子であろうが、あなたがこの世に生を受けたのは神さまがそれをお望みになったから。そして、神さまがご自分と共にすばらしい人生を送ってほしいと願われたから。そして、あなたは、イエスさまがご自分のいのちと引き換えにしても惜しくないと思われるほど、大切な大切な存在です。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
ですから、自分を粗末にしないで大切にしましょう。健康を害するような食べ物・飲み物や生活習慣は改めなければなりません。自分に対してダメ出しばかりして自信ややる気を損なうようなことをしてはなりません。むしろどういう行動をすることが自分を大切にすることなのか考え、それを実践しましょう。
他の人も大切
また、他の人も神さまに選ばれ愛されている存在として大切にしましょう。その人に対してどんな言葉をかけることが、あるいはどんな振る舞いをすることが、その人を粗末にしないで大切にすることでしょうか。

また、誰が救いに選ばれているか私たちには分からないということも知っておきましょう。キリストの教えに頑固に反対したり迫害してきたりした人、私たちにとって敵のように思える人も、もしかしたら救いに選ばれていて将来救われるかもしれません。実際、救われた後に大伝道者になるパウロは、かつて教会を迫害してきた人でした。
ですから、私たちは相手が誰であっても、神さまに選ばれ愛されている存在として大切にしましょう。たとえ直接親切な行動をすることが感情的に、あるいは物理的に難しい場合でも、その人の幸せのために祈ることはできます。

今週、自分自身の救いの確かさを再確認しながら、自分自身と他の人への愛を具体的に実践しましょう。

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