(2024年9月29日)
イエス・キリストが、ユダヤ属州総督ポンティオ・ピラトとガリラヤ国主ヘロデ・アンティパスによって尋問される場面です。
礼拝メッセージ音声
参考資料
1節の「ピラト」は、ローマ帝国から派遣されてユダヤとサマリア地方の統治を担当していた属州総督、ポンティオ・ピラト(在位:26-36年)。
2節の「カエサル」は、ローマ帝国の皇帝。この時の皇帝は第2代のティベリウス。
7節の「ヘロデ」は、イエスさまが子どもの頃、ベツレヘムの2歳以下の男の子を虐殺したヘロデ大王の息子の一人アンティパス。大王の死後、ガリラヤ地方とペレヤ地方(ヨルダン川の東の地域)の国主(王より一段低い称号)になりました。
【イスラエルの統治者の変遷】
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紀元前37年、ヘロデ大王が当時イスラエルを統治していたハスモン家を滅ぼし、ローマ帝国による後援によって王となりました。
前4年にヘロデ大王が亡くなると、その領土は3人の息子に相続されました。
- アルケラオ(マタイ2:22)はユダヤとサマリヤの国主
- アンティパス(今回の箇所に登場するヘロデのこと)はガリラヤとペレヤ(ヨルダン川の東の地方)の国主
- ピリポ(マタ14:3、マコ6:17、ルカ3:19)はトラコニテ、ガダラ、バタニエアなど(ガリラヤ湖の北東部地域)の国主
- 地中海沿いのいくつかの都市は娘サロメ(バプテスマのヨハネの首を求めた少女とは別人)が相続
紀元6年、ユダヤとサマリアの住民がアルケラオの残忍さを皇帝に訴えたため、アルケラオは退位させられます。そして、ユダヤとサマリアはローマ帝国の直轄地となり、ローマから派遣される属州総督が統治することになりました。総督は、普段は地中海沿いのカイサリアにいて、軍事・司法・徴税などを担いましたが、領地管理の仕事の多くはユダヤ人の指導者たちに委託していました。
イントロダクション
今回は、イエスさまがユダヤ属州総督ピラトとガリラヤ国主ヘロデ・アンティパスによって取り調べを受ける箇所を取り上げます。
ここから私たちは、神さまが私たちの本当の幸せのためにくださるものについて学びましょう。それによって、いろいろな問題にぶつかって悩むときの励ましが与えられます。
1.たらい回しされるイエス
ピラトによる尋問
総督官邸への送致
(1節)集まっていた彼ら全員は立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。
まず、この出来事の時代背景を知っておく必要があります。
この当時、イスラエルの国はローマ帝国の支配下にありました。かつて帝国から委任されてイスラエル全土を治めていたヘロデ大王が亡くなると、その領土は3人の息子が分割して相続します。ユダヤとサマリヤ地方はアルケラオ、ガリラヤとペレヤ地方はアンティパス、トラコニテなど北東部の地方はピリポです。
ところが、アルケラオは住民に対して非常に残酷な行ないをしたため、皇帝によって罷免されてしまい、代わりにローマから遣わされた総督が治めることになりました。今回の出来事の時期、紀元30年時点でのユダヤ総督はポンティオ・ピラトです。
総督は、通常は地中海沿いのカエサリアにいましたが、祭りが行なわれるときには暴動を警戒して軍隊と共にエルサレムに滞在しました。その際に使用する官邸は、神殿の北西にあるアントニア要塞の中です。

(画像引用:聖書研究wiki@trinity_kristo)
さて、
先々週のメッセージで取り上げたように、ユダヤの指導者たちによる不正な裁判で、イエスさまは死刑と決まりました。ところが、この当時ユダヤでは、死刑を執行する権限がローマ帝国によって奪われていました。ですから、もしイエスさまを死刑にしたければ、ローマから遣わされた総督に訴え出て、死刑を執行してもらなければなりません。
そこで、指導者たちは、イエスさまの身柄をユダヤ属州総督ピラトの元に送りました。
指導者たちによる訴え
(2節)そしてイエスを訴え始めて、こう言った。「この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました。」
ユダヤの指導者たちによる裁判では、イエスさまを死刑に定めた罪状は冒涜罪です。ただの人間に過ぎないのに、自分を神の御子キリストだと称したという罪です。
しかし、ローマ帝国の役人であるピラトにとって、そのような宗教的な罪は意味がありません。そこで、最初ピラトは次のように語って指導者たちを追い払おうとします。
(ヨハネ18:31)そこで、ピラトは言った。「おまえたちがこの人を引き取り、自分たちの律法にしたがってさばくがよい。」
そう言われたユダヤの指導者たちは、イエスさまがローマ皇帝に対して反逆を企てていたという罪をでっち上げます。特にここでは3つの不法行為を指摘しています。
1つ目の不法行為
1つ目は、民衆を惑わしたということ。これはイエスさまが民衆をあおって、ローマ帝国に対して反乱を起こそうとしているのだという訴えです。
2つ目の不法行為
2つ目は、ローマに税金を納めるなと教えたということ。もしこれが本当なら重罪ですが、この訴えは嘘です。
数日前、指導者たちはイエスさまに、「カエサル(皇帝)に税金を支払うことはモーセの律法にかなっているか」と質問しました。それに対してイエスさまは、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と答えました。つまり、決められたとおり納税しなさいと教えたのです(詳しくは
こちらのメッセージ参照)。
3つ目の不法行為
3つ目は、勝手に自分が王キリストであると主張しているということです。
この訴えのポイントは、王を名乗るには皇帝の許可が必要だったという点です。ヘロデ大王の長男アルケラオも、最初は父親と同様ユダヤの王となることを望みました。しかし、皇帝の許可を得ることができず、国主という一段低い地位に甘んじなければなりませんでした。
ですから、自分で勝手に王を自称することは、ローマ皇帝に対する反逆の意思があると捉えられても仕方がありません。
宗教的な罪で訴えているのではなく、皇帝に対する反逆罪で訴えているのだと主張されては、ピラトも無視するわけにはいきません。イエスさまを自ら取り調べることにしました。
ユダヤ人の王なのか
(3節)そこでピラトはイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは答えられた。「あなたがそう言っています。」
ピラトは、イエスさまに対して、本当に自分がユダヤ人の王だと主張するのかと尋ねました。1番目と2番目の訴えよりも、こちらの方がより重要だとピラトは考えたのです。もしイエスさまが自分が王だと本気で主張しているのなら、民衆に反逆をあおったり、納税を禁じたりするのもうなずけます。

(画像引用:牧師の書斎)
ここのやり取りは、ヨハネの福音書に詳しく記されてます。
(ヨハネ18:33-35)そこで、ピラトは再び総督官邸に入り、イエスを呼んで言った。「あなたはユダヤ人の王なのか。」 イエスは答えられた。「あなたは、そのことを自分で言っているのですか。それともわたしのことを、ほかの人々があなたに話したのですか。」ピラトは答えた。「私はユダヤ人なのか。あなたの同胞と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのだ。あなたは何をしたのか。」
イエスさまは、「あなたはユダヤ人の王か」という質問が、ピラト自身の考えから出ているのか、それともユダヤの指導者に言われたからそのまま尋ねているのかと逆質問しました。
それに対してピラトは、自分はユダヤ人じゃないから、キリストなどという宗教的な教えについては興味がないと答えます。ただ、ユダヤの指導者たちが、あなたが王を自称して皇帝に反逆していると訴えているから尋ねているのだ、と。
(ヨハネ18:36-37)イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」そこで、ピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
イエスさまは、「確かに自分は王であるが、その国はこの世の権力に関することではなく信仰的な真理に関することだから、皇帝に反逆するものではない」とおっしゃいました。
(ヨハネ18:38)ピラトはイエスに言った。「真理とは何なのか。」
ピラトのこの言葉は、イエスさまが語る真理に興味を示したのではなく、「真理? なんだそりゃ」という侮蔑をこめた皮肉の言葉です。ピラトはイエスさまの教えに興味を示すことがありませんでした。
無罪の判断
(4節)ピラトは祭司長たちや群衆に、「この人には、訴える理由が何も見つからない」と言った。
ユダヤの指導者たちは、イエスという男が反逆を企てていると主張しましたが、ピラトはそうではないと判断しました。イエスが「自分は王だ」と主張したとしても、それは政治的な意味での王ではなく、宗教的な意味だと理解したのです。
そこで、ピラトはイエスさまを引っ張ってきた人たちにもそのように伝えました。
さらなる訴え
(5節)しかし彼らは、「この者は、ガリラヤから始めてここまで、ユダヤ全土で教えながら民衆を扇動しているのです」と言い張った。
ユダヤの指導者たちとすれば、このままイエスさまが無罪放免ということになっては困ります。そこで、さらに強く、イエスさまが民衆を惑わして反逆を企てているのだと主張しました。
総督ピラトはローマ帝国から遣わされた人であって、ユダヤ人にとっては支配者です。しかし、あまりユダヤの指導者たちに強く言えない事情もありました。
というのも、ユダヤはすぐに民衆が暴発して暴動に発展するような不安定な場所でした。そのため、代々のユダヤ属州総督たちは、祭司とかパリサイ人とか律法学者とかいったユダヤ人のリーダーに助けてもらいながら、この難しい地域を治めていたのです。
かといって、ローマの法律に違反していない人間を罰するわけにもいきません。ピラトは困ってしまいました。しかし……
ヘロデへの押しつけ
(6-7節)それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあると分かると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころ、エルサレムにいたのである。
イエスさまがガリラヤ出身だということに注目したピラトは、ガリラヤ地方の国主であるヘロデ・アンティパスの元にイエスさまを送ることに決めました。というのも、ローマの法律では、被告人が罪を犯したとされる場所の支配者か、被告人の出身地の支配者の、どちらがさばいてもよいことになっていたからです。
ちょうどその頃、ガリラヤを治めるヘロデ・アンティパスが、過越の祭りを祝うためにエルサレムに上ってきていました。そこでピラトはイエスさまをヘロデに押しつけて、厄介払いをしようと考えました。こうしてイエスさまは、エルサレムにあるヘロデの宮殿に送られます。
ヘロデによる尋問
喜ぶヘロデ
(8節)ヘロデはイエスを見ると、非常に喜んだ。イエスのことを聞いていて、ずっと前から会いたいと思い、またイエスが行うしるしを何か見たいと望んでいたからである。
やっかいごとを押しつけられた形のヘロデ・アンティパスですが、なんと彼はイエスさまが送られてきたことを喜びました。
この時から約1年前のこと、ヘロデ・アンティパスに捕らえられていたバプテスマのヨハネが殺されます(この事件については、
こちらのメッセージを参照)。
そして、イエスさまがさまざまな奇跡を行なっていることを知ったヘロデは、バプテスマのヨハネがよみがえって奇跡を行なっているのだと恐れました(マタイ14:1-2)。ヨハネの死について、ヘロデが後ろめたい思いを抱いていたからこそ、そのような恐れを抱いたのでしょう。
ところが、1年という時間がたつうちに、ヘロデの罪責感は薄らいでいったのしょう。そんなことよりも、イエスさまの奇跡を目の前で見られるかもしれないと思って、楽しみにさえなりました。

ニコラウス・クヌプファー作「ヘロデ・アンティパスの前のキリスト」
(画像引用:KUADROS)
何も答えないイエス
(9節)それで、いろいろと質問したが、イエスは何もお答えにならなかった。
ヘロデは、イエスさまのこれまで行なった奇跡について色々と質問したのでしょう。その狙いは、この場所でも奇跡を行なって欲しいということです。
ところが、ヘロデがご自分のことを見世物のように扱うのを知ったイエスさまは、ヘロデの質問には一切お答えになりませんでした。
イエスを訴える指導者たち
(10節)祭司長たちと律法学者たちはその場にいて、イエスを激しく訴えていた。
ユダヤの指導者たちはヘロデの宮殿にもやってきて、あれこれと訴えます。ヘロデは、ユダヤ教の教えにも理解がありましたから、総督ピラトに対して訴えた反逆罪という政治的な罪のほかに、冒涜罪という宗教的な罪についても訴えたと思われます。
送り返されるイエス
(11節)ヘロデもまた、自分の兵士たちと一緒にイエスを侮辱したり、からかったりしてから、はでな衣を着せてピラトに送り返した。
必死で訴える指導者たちの熱心をよそに、ヘロデは反逆罪にも冒涜罪にも興味がありませんでした。ヘロデは総督ピラトと同じく政治家の端くれですから、指導者たちの訴えがイエスさまを排除したいがための作り話に過ぎないということはお見通しでした。そして、そんなことよりも奇跡を見て驚きたいと思っていたのです。
ところが、イエスさまがまったく反応しないので、ヘロデはイエスさまに興味を失ってしまいました。そして、兵士と共に侮辱とからかいの言葉を投げかけます。
それからヘロデは、イエスさまに派手な服を着せました。これはヘロデの国主としての装束でしょう。「ユダヤ人の王だといって訴えられているのだから、そんなみすぼらしい服ではなくこちらの方がお似合いだろう」という皮肉です。これもイエスさまを馬鹿にするための行為です。
こうして散々侮辱されたイエスさまは、総督ピラトの元に送り返されることになりました。
後日談
仲良くなったヘロデとピラト
(12節)この日、ヘロデとピラトは親しくなった。それまでは互いに敵対していたのである。
ヘロデ・アンティパスは、かつてイスラエル全土を治めていたヘロデ大王の息子です。現在は一部の地域しか支配できていないものの、本当ならイスラエル全土はヘロデ王家のものだという意識が強かったことでしょう。
一方のピラトはイスラエルではなくローマ帝国の利益を求める人物です。
このようなわけで、ヘロデとピラトは、表立った争いはなかったとしても、感情的には相容れない思いを抱いていたと考えられます。
ところが、今回の出来事をきっかけに両者が接近することになったと聖書は記します。これは、両者が仲良くなったということではなく、以前と比べると対立関係が緩和したということでしょう。
共通の敵
それは、共通の「敵」を見いだしたからです。どちらも、ユダヤの指導者たちの協力が必要でしたが、同時に彼らの扱いには困らされていました。今回の、荒唐無稽な訴えに関してもそうです。法的には、イエスさまがローマの法律に違反していないのは明白ですが、さりとてユダヤの指導者たちの意向をまったく無視するわけにもいきません。
ヘロデとピラトは、そんな苦労を分かち合える相手として互いを認識して、心が通じ合う気持ちがしたのでしょう。言ってみれば、「敵の敵は味方」という感じです。
ただ、ヘロデもピラトも、イエスさまご自身の教えに共感して心を一つにしたわけではありませんでした。あくまでも政治的な駆け引きにしか、彼らの興味がなかったのです。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.神との深い交わりを求めよう
地上のことにしか興味がなかったピラトとヘロデ
ピラトとヘロデは、地上の事柄にしか興味を持っていませんでした。
イエスさまはピラトに、自分の国はこの世のものではないとおっしゃいました。これは、旧約聖書に預言されている神の国(千年王国)が地上に実現することはないという意味ではありません。
この場合の「この世」とは、サタンが支配するこの世界のことです。当時のローマ帝国もイスラエルの国も、そして現在の日本を始めとするさまざまな国々も、「この世」に属しています。
イエスさまが実現しようとしている神の国は、罪人たちが作り上げたそういった国々とはまったく違う性質のものです。神の国は人間的な欲望によって動かされるのではなく、神さまへの愛と互いへの愛、そして正義によって動かされます。それは、神の国の国民は、神さまによって罪を赦され、救われた人たちだからです。
そして、イエスさまは「自分は真理を証しするために来た」とおっしゃいました。イエスさまがおっしゃる真理とは、三位一体の神さまについての真理、罪とその赦しについての真理、将来実現する神の国についての真理、救われた人に求められる生き方についての真理などです。
しかし、この世の権力や富にしか興味のないピラトは、そのような霊的な真理については興味を示しませんでした。
ヘロデも同じです。彼は物珍しいことには興味を示しましたが、霊的な事柄についてはまったく関心を持っていません。そこでイエスさまは、ヘロデには口をきこうとさえしませんでした。
私たちはどうか?
では、私たちはどうでしょうか。私たちは神さまや聖書や教会に対して、どんな期待を抱いているでしょうか。
多くの人たちが、悩みをきっかけにして教会の集会に参加したり、聖書を手に取ったりします。その中には、イエス・キリストの恵みの福音を信じて救われる人もいます。ところが、問題が解決すると、いつの間にか教会の交わりから姿を消してしまうのです。
問題を解決したい、自分の願いをかなえてもらいたい。最初のきっかけはそれでもいいのです。しかし、いつまでもそればかりだと、イエスさまが私たちに本当に体験して欲しいと願っておられる祝福を取りこぼすことになります。
イエスさまが私たちに体験して欲しいと願っておられるのは、病気や障がいが治ることではないし、社会的に成功することでも、お金が儲かることでも、良い学校に入れることでも、良縁に恵まれることでもありません。結果的にそうなることもありますが、それが救いの本質なのではありません。
イエスの願い
イエスさまの願いは、私たちが三位一体の神さまと仲良しになること、深い人格的な交わりを持つようになることです。最後の晩餐が終わったとき、イエスさまは弟子たちを前にして次のように祈られました。
(ヨハネ17:2-3)あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。
この場合の「知る」とは、人格的な交わりを持つことです。全知全能の神さま、何でも知っておられどんな奇跡でさえ行なうことができる不可能のない神さまが共にいてくださり、私たちの味方でいてくださるなら、何があっても大丈夫だという深い平安と、これからの人生も、また死んだ後も絶対幸せになれるという希望がわき上がってきます。
神との交わりを求めよう
ですから、私たちは父なる神さま、イエスさま、聖霊さまとの深い交わりを求めましょう。
もちろん、神さまに願い事をしてもよいのです。私たちは神さまの子どもにしていただいたわけですから、遠慮なんかしては神さまはガッカリなさいます。大胆に、率直に祈り求めましょう。
しかし、願い事ばかりの信仰生活になってしまうと、神さまを奴隷か自動販売機のように扱ってしまうことになります。極端なことを言えば、願い事を叶えてさえくれるなら、別にイエスさまでなくてもかまわないということになってしまいます。
聖書の神さまは人格的な存在ですから、そのような扱いをされれば悲しまれます。父なる神さま、イエスさま、聖霊さまは、私たちと共にいて、語り合い、互いの存在を喜び合いたいと願っておられます。それは、願い事がかなうことよりももっともっと素晴らしい祝福です。
リンカーン
この話をお読みください。
第16代アメリカ大統領エイブラハム・リンカーンは、ホワイトハウスの近くにあった小学校の子どもたちの様子を見るのが好きでした。ところがある日、一人の少年が他の子たちに取り囲まれていじめられているのを目撃します。
その学校は、ホワイトハウスや議会に勤める人たちの子ども、言ってみれば上流階級の子どもたちが通う学校でした。ところがその子は他の子たちのようなパリッとしたシャツやズボン、ピカピカの靴やカバンではなかったため、それをからかわれているのでした。
リンカーンはその子について調査を命じました。すると、その子のお父さんが南北戦争で戦死したため、生活が苦しくなってしまったということが分かりました。そこで、リンカーンはその子にパリッとしたシャツとズボン、ピカピカの靴やカバンを贈り、その子のお母さんに多額の生活費を渡しました。
さらに、その子が通う小学校に現れ、「この子の父親は私が始めた南北戦争で命をかけて戦ったのだから、私にとって英雄だ。だから、自分が英雄の代わりに成長を見守る」と級友たちの前で宣言したのでした。
後にその子はその時のことを振り返って、こう語ったそうです。「物質的援助ももちろんうれしかったが、最もうれしかったのは、リンカーンが彼自身を僕に与えてくれたことだ」と。
イエスさまは、私たちにご自身を与えてくださいました。私たちが神さまと深い交わりを持つことができるようになるために、十字架にかかって命さえ差し出されました。それは、健康よりも、社会的成功よりも、お金よりももっともっと素晴らしいプレゼントです。
ですから、神さまがどんなに素晴らしいお方なのかもっと知りたいと願い、「今、神さまが共にいてくださる」という圧倒されるほどの確信がさらに深められるようにと祈りましょう。
今週、ますます父なる神さま、イエスさま、聖霊さまとの深い交わりを楽しむことができますように。