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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

昇天と大宣教命令

イエス・キリストの生涯シリーズ107

ルカによる福音書24章44節〜53節

(2024年12月1日)

イエス・キリスト昇天の場面です。キリストは復活した後、弟子たちに大宣教命令を語ってから天に帰っていきました。

礼拝メッセージ音声

参考資料

44節の「モーセの律法と預言者たちの書と詩篇」とは、旧約聖書のことです。

49節の「わたしの父が約束されたもの」とは、聖霊降臨のこと(ヨハネ14:16-17, 26, 15:26, 16:7-15)。

50節のベタニアは、エルサレムの南東3キロのところにあった村です。

イントロダクション

イエスさまの地上生涯を時系列で追っていく「イエス・キリストの生涯シリーズ」も、いよいよ今回が最終回です。イエスさまが昇天なさったという記事を取り上げます。
ここから、私たちイエス・キリストの弟子とはどういう人のことなのかということを確認します。それにより、私たちにも52節に書かれているような大きな喜びが与えられます。

1.天に昇るイエス

ガリラヤでの教え

ガリラヤの山での礼拝
(マタイ28:16-17)さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。

イエスさまの復活後、11人の弟子たちはガリラヤに移動しました。そして、7人の弟子たちが大漁の奇跡を体験します(前々回のメッセージ参照)。それから、イエスさまはペテロと個人的に対話をなさいました(前回のメッセージ参照)。

そして、今度は11人全員が指定されたガリラヤの山に登り、そこでまた復活のイエスさまとまみえました。イエスさまはずっと弟子たちと過ごされたのではなく、現われたり消えたりなさったのです。

イエスさまと再会した弟子たちは、イエスさまを礼拝しました。しかし、マタイは、「疑う者たちもいた」と記しています。イエスさまが復活した日、11人のうち10人はイエスさまと会っています。一人だけ会えなかったトマスも、次の週の日曜日に会って礼拝しています。それなのに疑う者がいたというのはどういうことでしょうか。これにはいくつかの解釈があります。
  1. ガリラヤ湖で大漁の奇跡を体験した7人以外の4人の中に、目の前の人がイエスさまかどうか疑う人がいたという説。
  2. 復活を信じられなかったというのではなく、自分たちに与えられた「あらゆる国の人に宣教せよ」という使命に対する不安や戸惑いを感じたという説。
  3. この時の話ではなく、かつてトマスが疑ったことを指しているという説。
  4. 11人の他に同行していた弟子たちのことを指しているという説。
いずれにしても、人間の心は移ろいやすく、弱いものです。私たちは自分一人の力だけで信仰を持ち、それを保ち続けることはできません。

今回の箇所は、この時に語られた言葉だと思われます。
かつての教えの振り返り
(44節)そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」

イエスさまは弟子たちに、十字架以前に語った教えを思い出させようとなさっています。それは、イエスさまの身に起こることは、すべて旧約聖書に書かれていることの実現だということです。
死と復活の預言
(45-46節)それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、

まずイエスさまは、救い主が苦しみを受けることが預言されていることを示されました。たとえば、イザヤ53章などです。

(イザヤ53:5)しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

イエスさまが十字架にかかって血を流し、一度死なれたのは、私たち人類の罪が赦されるためでした。人類には罪があります。神さまの存在やそのすばらしさを認めなかったり値引いたりして、そのみこころを無視し続けてきました。当然、罪は罰を招きます。本来なら、私たちは罪の罰として永遠に続く苦しみを味わわなければならないはずでした。

その罪の罰を、イエスさまは十字架にかかることによって身代わりに受けてくださいました。ですから、私たちに与えられるはずの罪の罰は完了して、私たちに注がれることはありません。イエスさまの十字架は、この私の罪を赦すためだったと信じる人は、そのままの姿で罪を赦されます。

またイエスさまは、復活についての預言についても解説なさいました。たとえば、詩篇16:10です。

(詩篇16:10)あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。
  • 使徒2:24-28でペテロは、イエスさまの復活について詩篇16篇が預言していると述べています。
イエスさまは復活なさいました。それもまた私たちの身代わりです。イエスさまが新しいいのちに復活なさったので、私たちにも新しいいのちが与えられました。十字架と共に古い私たち、罪人であり神さまの敵であった私たちは死に、復活と共に神さまの子どもとして新しく生まれました。
宣教の預言
(47節前半)その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』

神さまがユダヤ人を選びの民となさったのは、ユダヤ人だけが救われて祝福されるためではありません。神さまは、全人類の先祖であるアダムとエバに対して、やがて救い主が現れて罪の問題を解決すると約束なさいました(創世記3:15)。

また、神さまはユダヤ人の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約の中で、ユダヤ人を通して全世界の人々が祝福されるとおっしゃいました。

(創世記12:3)わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
大宣教命令
(47節後半-48節)エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。

イエスさまは、十字架と復活のメッセージを世界中に届け、あらゆる民族に救いの道を教えるメッセンジャーは、あなた方弟子であるとおっしゃいました。マタイの福音書には、この内容がより詳しく書かれています。

(マタイ28:18-20)イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

マタイが記したこの命令(大宣教命令)の中心は、「弟子としなさい」という動詞です。そして、それを説明するための分詞が「行きなさい」「バブテスマを授けなさい」「教えなさい」です。すなわち「行って弟子としなさい」「バプテスマを授けて弟子としなさい」「命令を守るよう教えて弟子としなさい」ということです。
父が約束されたもの
(49節)見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

「父が約束されたもの」とは聖霊さまのことです。最後の晩餐の後で語られた説教の中で、イエスさまは自分が天に戻ったら、代わりにもう一人の助け主である聖霊さまが弟子たちのところにいらっしゃると約束なさいました。

(ヨハネ14:16)そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
この約束通り聖霊さまに満たされると、弟子たちはイエスさまの証人として全世界に救いのメッセージを届けることができるようになります。

(使徒1:8)しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

弟子たちはイエスさまの証人として世界中に出て行く前に、聖霊さまに満たされるという約束が実現するのを待たなければなりません。そこでイエスさまは弟子たちに、聖霊降臨の約束が実現するまで都、すなわちエルサレムに滞在するようにとお命じになりました。

昇天

オリーブ山での祝福
(50節)それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。

ベタニアはオリーブ山の麓にある村です。使徒1:12を見ると、イエスさまが弟子たちを連れて行った場所がオリーブ山だということが分かります。そこでイエスさまは弟子たちを祝福なさいました。
昇天
(51節)そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。

使徒の働きには次のように書かれています。

(使徒1:9)こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。

そしてこの後、2人の天使が現われて、イエスさまが今天に昇って行かれたようにまた地上に戻ってこられるということを弟子たちに語りました(使徒1:11)。

イエスさまが再び地上に戻ってこられるとき、すなわち再臨なさったとき、旧約聖書が約束してきた神の国、千年王国が実現します。それは祝福に満ちあふれた理想的な王国です。

ガロファロ作「イエス・キリストの昇天」(16世紀)
(画像引用:光の色彩を求めて

残された弟子たち

喜び賛美する弟子たち
(52-53節)彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。

こうして弟子たちはエルサレムに入っていきました。そこはイエスさまが殺された町です。そして、弟子たちは自分たちもとらえられて殺されるのではないかと恐れていました。しかし、今や彼らの心には大きな喜びがありました。それは、聖霊降臨とイエスさまの再臨の約束を受け取ったからです。

そして、間もなく約束通り聖霊さまが降ってこられ、弟子たちの内に住んでくださるようになります。

では、今日の箇所から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.イエスさまの弟子として生きよう

イエスさまが弟子たちに残された使命、大宣教命令は、現代の弟子である私たちに対しても与えられています。私たちも全世界に救いのメッセージ、十字架と復活を信じるだけで罪を赦され、神さまの子どもとなり、永遠に祝福されるというメッセージを届けましょう。

と同時に、自分たちは大宣教命令を守った人たちのおかげで救われ、神さまの子どもにしていただいたのだということを確認しましょう。

これに関して、3つ申し上げます。先ほど、マタイの福音書に書かれた大宣教命令は、「弟子としなさい」が主動詞だという話をしました。そして、それを3つの分詞「行きなさい」「バプテスマを授けなさい」「教えなさい」が修飾しています。

この3つの分詞を、自分が救いを届けてもらった立場から読み替えてみます。すなわち、キリストの弟子とはどういう人のことなのかということを考えます。

行く:神の恵みの中に生きる人

大宣教命令は、救いのメッセージを届ける側に向けて語られた命令です。その人たちに対して「いけ」とイエスさまはおっしゃいます。ですから、メッセージを受け取る側の人たちの立場に立てば、「来てもらう」ということになります。

弟子候補生は、神さまのメッセージを携えた人に来てもらうことで、弟子になるのです。

私たちは、自分でこの救いを発見したわけではありません。誰かが伝えてくれたのです。たとえ、聖書や本を読んでいるうちに、一人で信仰の決断をしたという場合でも、その聖書や本が私たちの手元に届くようにしてくれたのは、信仰の先輩たちや教会のおかげなのです。
一方的な恵み
そもそも救いは、神さまからの一方的な恵みとして与えられます。それは、人間が考え出したものではなく、父なる神さまが、永遠の昔から計画して下さったものです。

また、それは人間が努力して勝ち取るものではなく、イエスさまが身代わりに十字架にかかることによって、一方的に与えられたものです。そして、一方的に与えられた救いは、私たちの行ないによるのではなく、信仰によって私たちのものになります。

また、救われた後に与えられる祝福も、私たちの行ないに対するごほうびではなく神さまの恵みによって与えられます。
感謝しよう
救いは恵みだということを決して忘れないようにしましょう。そして、神さまの一方的な恵みと、それを実現するためにイエスさまが十字架にかかり、復活してくださったのだということをいつも覚えて感謝しましょう。

バプテスマを授ける:神との深い交わりの中に生きる人

バプテスマ、すなわち洗礼という言葉は、液体の中にドボンとつけて沈めることを表しています。その意味は一体化です。染色液に布を浸すと染色液と布が一体化しますね。あのイメージです。

では教会が授ける洗礼の場合、私たちと何が一体化するのでしょうか。イエスさまは「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」(マタイ28:19)とおっしゃいました。

聖書において「名」というのは、その名を持つ人自身を指します。ですから、教会が授ける洗礼は、三位一体の神さまの中にドボンと浸かること、父なる神さま・子なるイエスさま・聖霊なる神さまと一つになることを意味しています。

ですから、キリストの弟子となった私たちは、神さまとの深い交わりの中に生きている人のことです。
神の愛の中に生きる
聖書は「神は愛である」語っています(第1ヨハネ4:16)。ですから、神さまとの深い交わりの中に生きるということは、神さまの愛の中に生きるということです。キリストの弟子は、神さまとの交わりの中で、神さまの愛に包まれて、安心し、喜びながら生きていくことができます。

では、どうしたらますます神さまの愛を実感できるようになるのでしょうか。
祈ろう
神さまと人間との関係は、聖書の中ではしばしば夫婦の関係にたとえられています。結婚生活が長くなるに従って、だんだんと夫婦の関係は深まっていきますね。それと同様に、クリスチャン生活が長くなればなるほど、神さまとの関係は親密になっていきますし、神さまの愛に包まれる安心感や喜びも、深みを増していきます。

ただし、夫婦がほとんどコミュニケーションを取らないでいれば、いくら年数を重ねても関係は深まっていきません。神さまとの関係を深めるためにも、神さまといつも交わり、コミュニケーションを取っておく必要があるのです。

神さまとコミュニケーションを取る方法は、祈りです。私たちの思いを、神さまに聴いていただきましょう。良い話でも悪い話でも、心にあることは何でも神さまに話してください。

また、コミュニケーションは一方的にしゃべることではありません。聴くことも大切です。ですから、祈りの中で、口を閉じ、神さまが何を語ろうとしていらっしゃるか、心の耳を傾ける時間も取ってください。最初はよく分からなくても、だんだんと神さまの語りかけが聞こえてくるようになります。

教える:キリストのみことばの中に生きる人

弟子候補生は、教えられて弟子となります。そして、その教えは、人が勝手に考え出したものではなく、神さまが与えて下さった聖書に基づいたものです。

弟子は、師匠の言葉を守ります。師匠の指示に従わず、最初から自分のやり方を貫き通すなら、いつまでたってもその道で一本立ちはできません。伸びる弟子というのは、師匠の話を納得するまで聞き、それを実践する人です。
聖書に親しもう
神さまの、私たちに対する願いは、聖書の中に記されています。聖書は、神さまの知恵に満ちています。じっくりと読み、学びたいものです。
聖書を実践しよう
しかも、ユダヤ的な意味で「学ぶ」とか「知る」とかいうのは、ただ知的に知るということではありません。実践的、体験的に知るということです。たとえば、スマホについて学ぶというのは、スマホの機能や仕組みを知るということではなくて、スマホを使って通話したり、メッセージをやり取りしたり、音楽を聴いたり、検索したりできるようになるということです。

聖書を、ただ知的に学ぶというだけでなく、実行するという見地から読みましょう。そこに勧められていることを実践してみましょう。試してみましょう。

私が救われた教会の牧師であった中川健一先生は、こうおっしゃいました。「聖書研究とは、まだ自分が実践していない神の真理がないかどうかを探ることである」。

あなたは、今日のメッセージ学んだことを、生活の中で具体的にどのように実践なさいますか? また、先週学んだことを、どのように生活の中で実践なさいましたか?

まとめ

キリストの弟子であることの意味を意識して、今週も感謝し、祈り、聖書を学んで実践しながら生活しましょう。

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