(2026年3月1日)
コリント教会の聖餐と愛餐の混乱から、聖餐の本質と普遍的な聖書の価値観を学び、現代を生きる自分自身の価値観を吟味しましょう。
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
あなたが「当たり前」だと思っていることは、本当に正しいでしょうか?
コリントの教会では、礼拝のたびに食事を共にし、その中で聖餐式を行っていました。しかし、その場で起きていたことは愛の交わりとはほど遠いものでしたし、聖餐の意味をまったく意識しないものでした。ところが、彼らは悪意を持ってそうしていたわけではありません。それが「当たり前」だったから、気づかなかったのです。
現代を生きる私たちも、自分自身の中の「当たり前」に気づき、本当にそれがイエスさまのみこころにかなうものかどうかを吟味する必要があります。そのやり方について、今回の箇所から教えていただきましょう。
1.愛餐会の中での聖餐式の問題
コリント教会にあった聖餐と愛餐の問題
コリント教会への叱責
(20節)しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。
「主の晩餐」とは、聖餐式のことです。
聖餐式の元となったイエスさまと弟子たちの最後の晩餐は、ユダヤの祭りである過越の食事会でした。そして、最初期のクリスチャンたちはみんなユダヤ人でしたし、自分たちがユダヤ教からキリスト教に改宗したとは思っていませんでした。そこで、これまで通り過越の祭りを祝いましたし、その食事会の中で聖餐式を行ったでしょう。
しかし、聖餐式は年に一回だけ行われたのではなく、集まるたびに毎週、あるいは毎日行われていました。たとえば、使徒2:46では、毎日集まってパンを割いていた、すなわち聖餐式を行っていたことが記されていますし、使徒20:7でパウロは過越ではない日に聖餐式を行っています。
というのも、元々ユダヤには、礼拝や祭りのため会堂に集まったとき、みんなで一緒に食事をする「ハブラー」と呼ばれる風習があったためです。
また、ローマ・ギリシア世界にも、宴会を開いて政治や恋愛などさまざまなことについて語り合う、「シュンポジオン」という集まりがありました。コリントはギリシアの町でしたから、コリント教会では集会前にみんなで一緒に食事をしたのです。
ハブラーもシュンポジオンも、どちらも共同体として一つになるためのものであり、メンバー同士が親しく交わるための場でした。教会も、集会の際に食事を共にすることで、自分たちがキリストの体として一つであること、互いに愛し合っているということを確認し合っていました。
クリスチャンが集会の際に一緒に食事をする風習は、愛餐(アガペー)と呼ばれていました(2世紀のオリゲネスやテルトゥリアヌスなどの著作の中に、この用語が登場します)。そして、当時は愛餐の中で聖餐式も行なっていました。
ところがパウロは、コリント教会ではこの愛餐の中の聖餐式が、本来の聖餐になっていないと指摘しています。
問題点
(21節)というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。
当時のローマ・ギリシア世界は貧富の差が非常に大きく、教会の中にも金持ちや身分の高い人がいる一方、奴隷や貧しい労働者たちもいました。
金持ちたちは時間に余裕がありましたから、集会に早く集まってくることができますが、奴隷や労働者たちは夕暮れまで働かなければなりません。そこで、遅れて集会にやってくることになります。
コリント教会の金持ちたちは、先に自分たちだけで愛餐を済ませてしまったので、貧しい人たちが到着したときにはもう何も残っていない状態でした。すなわち愛餐や聖餐式に参加できなかったのです。
貧しい人たちへの配慮のなさ
(22節)あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。
パウロは、愛餐や聖餐に関するコリント教会の金持ちたちの行動が、教会を軽んじ、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせていると指摘します。
主のからだと血に対する罪
聖餐で食べるパンの意味
(23-24節)私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
パウロは、改めて聖餐の意味について説明します。これは、パウロ自身が教えられたことであり、すでにコリント教会の人たちにも伝えてあることです。
まず、聖餐式で食べるパンは、イエスさまのからだだとパウロは言います。
私たちが聖餐式に参加してパンを食べる際は、ここに「わたしを覚えて」とあるように、私たちの罪を赦すために十字架にかけられ、傷を負ってくださったイエスさまのことを思いながら食べる必要があります。
聖餐で飲むぶどう酒の意味
(25節)食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
聖餐式で飲むぶどう酒は、イエスさまの血による新しい契約を表しています。「新しい契約」については、
2024年7月21日の礼拝メッセージ、イエスさまの生涯シリーズの「最後の晩餐」の回で取り上げました。
この「新しい契約」という言葉は聖書に登場する専門用語です。神さまはイスラエルと、モーセの律法とは別の新しい契約を結ばれました。
(エレミヤ31:31-34)見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──【主】のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
すなわち、
- 神さまは、ご自分の命令をイスラエル人の心に書き記し、ただ命令の内容を知っているだけでなく、実際に守ることができる力を与えてくださる。
- 神さまとイスラエル人の間に親密な関係が結ばれる。
- 神さまはイスラエル人の罪を完全に赦す。
イエスさまはここで、「この新しい契約は、わたしの血によって実現する」とおっしゃっているのです。
そして、この新しい契約に基づく祝福は、イスラエルだけでなく私たち異邦人にももたらされることになりました(エペソ2:11-13)。
私たちが聖餐式でぶどう酒をいただくときには、イエスさまのおかげで罪が赦され、神さまと親子としての親密な関係になり、聖霊さまによって内側が造り変えられて神さまの命令に従うことができるようになっていくことを意識し、感謝する必要があります。
聖餐式の宣教的意義
(26節)ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。
そして、聖餐式は教会の外の人たちに対しては、宣教としての意味を持っています。イエスさまの死によって人の罪が赦され、神さまの子どもとなり、やがてイエスさまが再臨なさってこの世を根本的に造り変えてくださったとき、その新しい世界に招き入れてくださるのだということを、聖餐式は宣言しているのです。
ふさわしくない仕方で聖餐を行なう罪
(27節) したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
当時のコリント教会で、愛餐の席で行われていた聖餐式も、そのようなすばらしい意味を持っているはずでした。しかし、コリント教会の人たちはその意味を忘れて、ただ自分たちの空腹を満たす場にしてしまっていました。
そして、その結果貧しい人たちや奴隷身分の人たちが聖餐式に参加できなかったり、愛餐会の食事を通して確認されるクリスチャン同士の愛の交わりを体験できない状態になっていたのです。
そのような仕方で聖餐を行なうのは、イエスさまのからだと血に対して罪を犯すことであるとパウロは指摘します。
自分自身を吟味せよ
(28節)だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
そこで、聖餐式に参加する際は、自分自身が聖餐の意味を意識し、感謝しながら参加しているか吟味せよとパウロは命じます。
ふさわしくない仕方はさばきを招く
(29節)みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。
聖餐の意味を意識せず、ただ空腹を満たすために聖餐のパンやぶどう酒を飲み食いすることは罪ですから、神さまからのさばきを招くことになるとパウロは警告します。
さばきの例
(30節)あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。
コリント教会では、聖餐の意味をないがしろにしたため、実際に神さまのさばきを招いていました。具体的には、体が弱ってしまったり、病気になったりする人がたくさんいました。中には、死んでしまう人もいたのです
。
もちろん、病気や死がすべて神のさばきかというと、そんなことはありません。ただ、コリント教会においては、神さまはそのような苦しみを通して、彼らの間違いを示して悔い改めに導こうとなさったということです。
さばきを免れる方法
(31節)しかし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。
必要以上に、さばきを恐れる必要はありません。罪を犯さないでいれば、あるいは罪を犯してもすぐに悔い改めて正しい生き方に戻るなら、さばきを招くことはありません。
なぜなら、イエス・キリストの十字架によって、私たちのすべての罪は赦されているからです。そこで聖書は、私たちが罪を告白するだけできよめられると約束しています。
さばきの目的
(32節)私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。
31節の理由が語られます。「この世」は基本的に神さまに逆らっていますから、将来滅び(神さまから完全に切り捨てられ、永遠の苦しみに遭うこと)を味わいます。
しかし、神さまがクリスチャンを罪の結果苦しい目にあわせるのは、滅ぼすことが目的ではありません。私たちが悔い改めて正しい生き方をするためです。
ですから、罪を離れるよう努めている限り、神さまからの教育的指導によって苦しめられることはありません。
具体的な指導
待ち合わせてから食べよ
(33節)ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。
パウロは、神さまのみこころにかなう具体的な行動を提示します。集会で愛餐と聖餐を行う際は、全員そろうまで待つようにとパウロは命じました。これは、愛餐や聖餐に参加できない人が出ないようにという配慮です。
空腹は家で満たせ
(34節)空腹な人は家で食べなさい。あなたがたが集まることによって、さばきを受けないようにするためです。このほかのことについては、私が行ったときに決めることにします。
他の人を待つことができないくらい空腹な人は、先に家で食べてこいとパウロは言います。愛餐や聖餐の目的は、空腹を満たすことではなく、互いの愛とイエスさまによる救いを確認して喜びと感謝に満たされるためだからです。
愛餐会や聖餐式については、他にも指導すべき点がありました。しかし、手紙の中で取り上げるには細かすぎたのでしょう。パウロは自分がコリントを訪問した際に指示すると言いました。
2世紀以降の愛餐と聖餐の関係
ちなみに、この当時は、聖餐式は愛餐会の中で行われていました。しかし、2世紀になると、聖餐式は(今の私たちの教会で行われているように)独立して行われるようになっていきます。そして、2世紀の半ばには、聖餐は礼拝式の中で行われ、愛餐とは完全に切り離されました。
これにはいくつかの理由が考えられます。
- ローマ帝国は、夜間に集まって食事をする団体を反乱の温床として警戒するようになります。そこで、「夜明け前に集まってキリストに賛美を歌い、一度解散した後、再び集まってありふれた無害な食事を摂る」習慣ができたことが、2世紀初頭に書かれた大プリニウスの手紙から分かります。
- 教会が急激に成長し、1つの家にたくさんの人が集まるようになると、毎回本格的な食事を用意することが難しくなったと考えられます。
そして、今回指摘されているように、愛餐の中で聖餐を行なうことで、聖餐の意味を深く意識しないで飲み食いする人たちが他の地域でもたくさん出てきたという事情もあったかもしれません。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.自分の価値観を見直そう
文化的な命令と普遍的な命令の違いを意識しよう
礼拝時のかぶり物問題
11章の前半で、パウロは礼拝の際の男女のかぶり物について取り上げました(
前回のメッセージで解説しました)。彼がコリント教会に命じたのは、礼拝の際に男性はかぶり物をしてはならず、女性はかぶり物をせよというものです。
これは当時のコリントの文化に配慮した結果です。
- コリントの一般男性は、異教の神々を礼拝するとき、頭に布をかぶりました。そこで、クリスチャン男性が礼拝の際にかぶり物をすると、異教礼拝と変わらないことをしていると誤解される恐れがありました。
- コリントの一般女性は、公の場では頭に布を被りましたが、娼婦たちは髪の毛をさらしていました。ですから、クリスチャン女性が髪の毛を人前にさらすことは、性的に非常にきわどい格好をしていると見なされました。
このような文化がない地域、たとえば今の日本では、男性がかぶり物をしたり女性が髪の毛をさらしたりしてもまったく問題ありませんから、礼拝の際のかぶり物についてのパウロの命令を守る必要はありません。
愛餐と聖餐の混乱問題
11章の後半でパウロが取り上げた愛餐会や聖餐式の混乱の問題も、当時の文化の影響が強く反映しています。古代のローマ帝国においては、身分や経済に格差があることや、奴隷制度があることは当然のこととして受け入れられていました。
また、ギリシアやローマで持たれていたシュンポジオンという宴会には、貧しい人や奴隷も参加できましたが、彼らはリビングルームではなく中庭で食事をとり、話し合いに参加しました。そのような差別的な扱いは、当時の文化では当然だったのです。
しかし、パウロはこれを文化的に問題ないからと見過ごしにしませんでした。貧しい人たちや奴隷身分の人たちをないがしろにする態度、そして聖餐式の意味を深く理解しないで飲み食いする態度を厳しく責めたのです。
これは、神さまの前ではすべての人が平等であるという普遍的な価値観、どんな身分のクリスチャンもイエスさまの体である教会の大切な一員であるという価値観に抵触しているからです。
聖書が教える普遍的な価値観
どれほどこの世では当たり前であり、受け入れられることであっても、聖書の価値観に反するならクリスチャンが行うべきではありません。一方、聖書の価値観に反しないなら、この世の価値観を尊重し、周りの人たちに配慮しながら行動すべきです。
かぶり物に関するパウロの命令も、「秩序ある礼拝をささげるべきだ」とか「一緒に礼拝する人たちのつまずきにならないようにすべきである」という、普遍的な聖書の教えを大切にした結果として語られました。
私たちは聖書が何を教えているか、それを学び続け、実践し続けましょう。
世俗的な価値観に染まっていないか注意しよう
自分自身の価値観は、普段は意識されていません。あまりにもそれが当たり前のことだからです。
そんな当たり前の考え方、当たり前の常識の中には、聖書の教えと矛盾するものもあります。たとえば……
(1) 成果至上主義
この世は「数字、地位、所有物」で価値を測ります。その価値観に染まってしまうと、クリスチャンでも「年収が上がった」「子どもが有名校に入った」「大きな家を買った」ことなどを、神さまに祝福されている証拠だと思い込んでしまうことがあります。
そして、自分が社会的に成功しないと神さまに愛されていない感じがして苦しんだり、社会的に成功していない人を神に愛されていない人として見下したりする恐れがあります。
(2) 物質主義
SNS・テレビ・雑誌のコマーシャルで、「もっと良いものを、もっとたくさん欲しい」という欲求がかき立てられがちです。そして、そのような欲求に駆り立てられている人は、たとえ欲しいものが手に入ってもすぐに別のものがほしくなります。いつまでたっても満足できないのです。
(3) 自己中心主義
日本でしばらく暮らしていた外国の人が、母国に帰って電車に乗ろうとしたとき愕然としたそうです。
日本ではみんな列を作って電車の到着を待ち、先に降りる人を通してから順番に電車に乗り込みます。ところが、母国ではみんなが我先に乗り込もうとするので、全員が乗り降りするのにかえって時間がかかってしまうことに気づいたのです。
自分を大切にすることは重要です。神さまは私たち神の子がみじめな思いをすることを望んでおられません。だからといって、自分さえよければ他の人はどうでもいいという生き方をみんなが続けていれば、その社会はみんなにとって生きづらいものになります。
(4) 多様性主義
差別は決して赦されるものではありません。しかし、多様性の名の下に、何でもかんでも「自分が正しいと思えば正しい」と主張し、それを他の人に押しつけるとおかしなことになっていきます。
たとえば、体が男性のままでも「私は心が女性である」と主張すれば、女湯に入っても問題ないということになりかねません。そうなると、本当は体も心も男性である性犯罪者が女湯に入っても分からないことになります。
(5) 忙しさ美徳主義
特に日本では、忙しいことを美徳と考える風潮が強くあります。そして、暇であることを恐れ、常に何かに追われていることが「充実」だと勘違いされがちです。しかし、公の礼拝や、個人の祈りや聖書の学びがおろそかになるほどの忙しさは、霊的な感性を麻痺させます。
(6) 承認主義
人間誰しも、他の人から自分の存在を認められたいという承認欲求を持っています。しかし、他人から注目され、「いいね!」と称賛されないと、自分の存在価値がなくなると誤解してしまうと、他人の目を気にして振り回されることになります。
たとえば、SNSなどで「いいね」やフォロワーの数を気にしすぎて、一喜一憂するなどです。
こういったこの世の価値観に染まってはいなかったでしょうか。私たちは時々立ち止まって、自分の心を見つめ直しましょう。
聖書の学びと祈りを大切にしよう
コリント教会の金持ちたちは、貧しい人たちや奴隷をないがしろにしているのに、それが文化的に当たり前だったため問題だと気づきませんでした。私たちも、自分自身の価値観に気づくことは困難です。
ですから、普段から聖書に親しみ、聖書が普遍的な価値として教えていることが何かを学ぶ必要があります。そして、その普遍的価値観に基づく行動は何か、いつも考え実践しなければならないのです。
また、祈りの中で、自分が気づいていない「当たり前」に気づかせていただくことも大切です。私たちにとって意識できないくらい「当たり前」のことでも、それが聖書の価値観に反することなら聖霊なる神さまは気づかれます。そして、祈りの中で教えてくださるでしょう。
いつも祈りましょう。
- 私たちが父なる神さまのみこころに従い、イエスさまの命令に従って生きられるよう、聖霊なる神さまが私たちに間違いを教えてくださるように。
- そして、普遍的な価値と、それに基づく生き方がどういうものか教えてくださるように。
- さらに、実際にそれを行う力や知恵が与えられるように。