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ショートエッセイ:中通りコミュニティ・チャーチ

これに勝る愛はない

(2022年2月13日)

荻野吟子さん(1851-1913年)は、日本で初めて国家資格を持つ女医となった方です。埼玉県では、あの渋沢栄一や塙保己一と並んで、埼玉三大偉人の一人に数えられています。

荻野さんは結婚後、女遊びがひどい夫から性感染症をうつされます。そして、実家に戻され、病院に入院することになりました。ところが、患部を男性の医師に診せなければならないことに、大変な恥ずかしさと屈辱を覚えました。当時は性感染症にかかっても、恥ずかしさの故に医療を受けず、その結果悪化したり亡くなったりする女性がたくさんいたそうです。

そこで、荻野さんは女性が安心して受診できるよう、医師になることを決意します。そして、女子師範学校も医学校も最優秀の成績で卒業しました。ところが、役所が「前例がない」という理由で医師開業試験の受験資格を与えてくれません。それでも荻野さんは、あの羞恥と屈辱を思い出してあきらめず、申請や政府への請願を出し続けました。

そんな彼女の姿に心を動かされる人々が現れます。そして、塙保己一が残した文書の中に、平安時代に国家が女医を養成していたことが判明しました。前例が見つかったのです。こうして、荻野さんは晴れて受験を許され、医師免許を手にしました。

ところが、実際に病院の経営を始めてみると、たいへん苦労することになります。経済的理由で医療を受けられない人が多い上、女性を職業人として信用しない当時の社会的風潮もあって、なかなか人が集まらなかったのです。

また、医療の限界も感じ始めていたようです。
人の病にはそれぞれの事情が絡んでいる。医療を施すよりも、その人の周りの環境を改めた方がいい場合がはるかに多い。医者が患者にしてあげられることは、本当に微々たるものだ。(国際留学生協会のサイトより)

そんなとき、荻野さんはキリスト教の講演会に出かけ、人は皆、男も女も神さまの前では平等だというメッセージに触れます。それに大変感激した荻野さんは、熱心に聖書を学ぶようになり、やがてイエス・キリストを信じました。その後の荻野さんは、教会が行なっていた社会福祉の働き、特に娼婦を社会的に自立させる運動に力を注ぎます。

また、先週のメッセージで紹介した石井亮一さんの働きに賛同し、濃尾地震で孤児となった子どもたちのために病院の一角を開放、自分でも孤児たちの世話をしました。そして、再婚した夫と共に、北海道で布教活動や福祉活動も行なっています。医師としての働きも、62歳で亡くなるまで続けました。

荻野さんがいつも愛唱していた聖書の言葉があります。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)。

荻野さんは医療の限界や世間からの逆風に苦しみ続けました。さらに、再婚した夫も早くに亡くしてしまいます。それでも荻野さんが隣人として誰かを助ける働きをし続けることができたのはなぜでしょう。それは、平等に扱ってくださる神さま、自分のことを友と呼び、命を投げ出して救ってくださったイエスさまの愛に触れ、励まされていたからでしょう。

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