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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

主よ終わりまで仕えまつらん

イスラエルの王シリーズ4 「アサ」(南王国)

第2歴代誌16章1節〜9節

(2021年1月31日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

アサは、ソロモンの子レハブアムの子アビヤム(アビヤ)の子です。南王国3代目の王ということになります。

1節のイスラエルは北王国、ユダは南王国のことです。アラム、ラマ、ゲバ、ミツパなどの場所は以下の地図を参照してください(国全体の地図は、こちらの記事を参照))。
7節の予見者は預言者のことです。イスラエルで、神さまのことばを聞いて人々に伝える役割の人です。先見者と呼ばれることもあります。

8節は、14:9-15に書かれている、クシュ(エジプト南部からスーダン北部にあった国)が攻めてきたときの出来事を指しています。

イントロダクション

現在、歴代のイスラエル王について学んでいます。 今回取り上げるのは、南王国3代目の王アサです。南王国では合計20人の王が立ちましたが、そのうち8人が信仰的な王で、アサもその一人です。彼の生き方から、私たちが神さまに祝福されるための心構えを教わりましょう。

1.始めと終わり

神と共にあったアサ

これまでのメッセージの中でも「高き所」という言葉が出てきました。これは、礼拝のための祭壇、あるいは礼拝場所を指します。元々は丘の上など高い場所に造られたのでそう呼ばれています。

アサの曾祖父ソロモンが神殿を建てたので、もう高き所はいらなくなったはずです。しかし、ソロモンは晩年になってからあちこちに高き所を造りました。しかも、彼は外国からめとった妻たちの影響で異教の神々を礼拝するようになったため、高き所はもっぱら異教の神々にいけにえをささげる場所として用いられたのです。また、聖書の神さまの神殿には神殿男娼も置きました。もちろん、これらの行為はモーセの律法に違反します。

アサの祖父レハブアムと父アビヤムはこの問題に対処しませんでした。それはこの2人が神さまと心を一つにしていなかったからです。「彼(アビヤム)は、かつて自分の父(レハブアム)が行ったあらゆる罪のうちを歩み、彼の心は父祖ダビデの心のように、彼の神、【主】と一つにはなっていなかった」(第1列王記15:3)。

一方、アサは王になった最初の年に、国中にあった偶像を破壊し、神殿男娼を追放しました。また、聖書の神さまを礼拝するための高き所はそのまま残しましたが、異教礼拝のための高き所はことごとく破壊しました。そして、モーセの律法を守るよう人々を指導しました。

そこで、祖父や父が「ダビデほどには主と心が一つになっていなかった」と評されていたのに対して、アサについてはこう言われています。「アサの心は生涯、【主】とともにあり、全きものであった」(第1列王記15:14)。

アサと共にあった神

そのようなアサを神さまは喜び、アサと南王国を祝福なさいました。初期の頃、アサが国民に向けて語った言葉が聖書に収録されています。「彼はユダの人々に言った。『さあ、これらの町々を建て、その周りに城壁とやぐらを巡らし、門とかんぬきを設けよう。この地はまだ私たちの前にある。私たちが私たちの神、【主】を求めたからだ。私たちが求めたので、神は周囲の者たちから私たちを守り、安息を下さったのだ』。こうして、彼らは町々を建設し、繁栄した」(14:7)。

神さまは、このような物質的な繁栄だけでなく、軍事的な平和も与えてくださいました。まず、アサが王になってから10年間平和が続きました(14:1)。

ところが10年目にその平和が壊されかけます。14:9-15によると、クシュ(エジプト南部からスーダン北部にあった国)が百万の軍勢と三百台の戦車を率いて南王国に迫ってきました。対する南王国軍は、予備兵力を合わせても58万人ですが、そのすべてをクシュとの戦いに動員できるわけではありません。祖父の代からたびたび戦いを交えてきた北王国との国境警備や首都の治安維持など、他の場所の守りのためにも兵力を残しておかなければならないからです。数倍の敵に迫られたのではとても勝ち目はありません。南王国は絶体絶命のピンチでした。

しかし、アサは震えて王宮に閉じこもったわけでも、部下たちに当たり散らしたわけでも、せめて死に花を咲かせようと無謀な戦いに出て行ったわけでもありません。彼は神さまに祈りました。「アサは自分の神、【主】を呼び求めて言った。「【主】よ、力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたには変わりはありません。私たちの神、【主】よ、私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に向かって来ました。【主】よ、あなたは私たちの神です。人間が、あなたに力を行使することのないようにしてください」(14:11)。

するとどうなったでしょうか。「 【主】はアサとユダの前でクシュ人を打たれたので、クシュ人は逃げ去った」(14:12)。南王国軍は、逃げるクシュ軍を追撃して全滅させ、多くの戦利品を持ち帰りました。

こうして再び平和が南王国に訪れて、その平和はその後25年間続きます。アサは預言者アザルヤという人の助けを借りて、宗教改革をさらに力強く推し進めました。その徹底ぶりについて、聖書は次のような出来事を記録しています。

アサの祖母マアカは異教の偶像を造って礼拝していたので、その偶像を取り上げて焼いてしまったばかりか、彼女から皇太后の称号まで剥奪してしまったのです。身内だからといって甘い対応はしなかったのですね。
  • マアカに対する処分について語っている第1列王記15:13では、実はマアカはアサの母と呼ばれています。第1列王記15:10でもアサの母でありアブシャロムの娘と呼ばれています。
    一方、第2歴代誌11:20によると、アサの祖父レハブアムの妻でアビヤムを産んだ女性の名もマアカで、やはりアブシャロムの娘と呼ばれています。
    また、第2歴代誌14:2によると、アビヤムの母の名はミカヤです。
    これはいったいどうなっているのでしょうか。
  • 聖書の系図では間が2代以上離れていても父あるいは子と呼ぶことがあります。また、シモンがペテロ、レビがマタイのように、別名で呼ばれる人もたくさんいました。
  • ですから、マアカとミカヤは同一人物、すなわちアサの祖母であり、さらにダビデの子アブシャロムの孫だと考えられます。以下の系図はその解釈に基づいて作成しました。
とにかく、こうしてアサが治める南王国は、神さまの祝福の中で平和と繁栄に満たされました。そして、彼の治世は41年間の長きにわたって続きました。

最後のつまずき

ところが、アサは最後の最後に失敗してしまいます。

彼の治世の36年目、今度は北王国がちょっかいを出してきました。当時の北王国の王はバアシャです。彼は、北王国2代目の王ナダブを殺して3代目の王になりました。この人が、南王国との国境にある町ラマに要塞を建設し始めたのです。
  • アサ王の治世36年目と申し上げましたが、実は 列王記の方の記録によると、バアシャはその10年前に死んでいます(第1列王記15:33)。ですから、36年というのは写本転記の際のミスによるものかも知れません。
    聖書の原本は残っておらず、写本すなわちコピーをコピーしてまたコピーしてと、代々書き継がれてきました。手で書き写すわけですから当然書き損じが起こりますし、分かりにくいからとかいって勝手に表現を変えたり説明を加えたりすることもあります。そこで、今も残っているたくさんの写本を比較することで、聖書原本を復元しようとする研究が行なわれています。この箇所の年代の矛盾についても、今後の研究や考古学的発見が待たれるところです。
バアシャが要塞を建設しようとしたのは、北王国の民衆が南王国に流れていくのを防止するためです(1節)。というのも、アサが宗教改革を行なって、南王国が神さまによってたいそう祝福されるのを見た北王国の人たちが南王国に亡命するということが、たびたび起こっていたからです(15:9)。

南王国にしてみれば、国境に要塞を築かれたのでは、平和が脅かされてしまいます。そこで、アサは一計を案じました。北王国のさらに北にある国アラムの王ベン・ハダドの元に金や銀を贈って、北王国を攻撃して欲しいと願ったのです。

北からアラムに攻められたバアシャは、要塞の建設をあきらめてアラムとの戦いに兵士たちを回すことにしました。もぬけの殻となったラマには建設資材がたくさん残されていたため、アサは軍勢を送ってそれらを略奪します。そればかりか、手に入れた建材を用いて、北王国側に自分たちのための拠点を2つ作ってしまいました。国境線をぐっと北に押し上げてしまったわけです。
ハナニによる批判
戦略的には大変優れた方法です。しかし、このアサの行為を真っ向から批判する人物が現れました。預言者であるハナニです。ハナニが問題にしたのは、アサが神さまにより頼むのではなくて、外国の王により頼んだことです。クシュとの戦いでは、アサは神さまに全面的に信頼しました。その結果勝利を得ました。その成功体験があったにもかかわらず、アサは自らの外交手腕だけで問題を解決しようとしたのです。

実はアラムは、その後の時代に南王国にとって大変な軍事的脅威となります。そこで神さまは、本当はこの問題を機に北王国の野望をくじくだけでなく、ついでにアラムも滅ぼそうと考えておられたようです。「それゆえ、アラム王の軍勢はあなたの手から逃れたのです」(7節)。

ところが、アサはそんな神さまのお考えを台無しにしてしまいました。人間的にいかに優れた知恵であっても、神さまとしっかり心がつながってなければ、かえって神さまが用意してくださる祝福を受け取り損ねてしまうのです。

最後にハナニは言いました。「【主】はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。これから、あなたには数々の戦いが起こるでしょう」(9節)。

アサは、35年間に渡って神さまと心を一つにしていました。その結果、神さまは彼と彼の王国に平和や繁栄を与えてくださいました。しかし、アサは今回それを忘れてしまいました。彼の心が神さまと一つでなくなってしまったのです。ハナニはそう指摘しました。
逆ギレ
ここでアサがはたと気づいて神さまに悔い改めて、神さまと心を一つにすることを求め続けたとしたなら、神さまはきっと彼の過ちを赦してくださり、再び祝福してくださったことでしょう。

彼の先祖であるダビデがそうでしたね。ダビデは人妻と姦通した上その夫を殺すという、アサがしたよりもはるかに恐ろしい罪を犯しましたが、彼は神さまの使わした預言者ナタンの厳しい言葉を素直に受け止めて、真実悔い改めました。その結果、神さまはダビデを赦してくださいましたし、彼の子孫の中から救い主が生まれ、ダビデ王家とその王座は永遠に続くという約束も取り消しになさいませんでした。

ところが、アサの行動はダビデとは異なりました。ハナニの怒りは神さまの怒りです。ハナニは神さまが遣わした預言者だからです。しかし、アサはハナニの怒り、すなわち神さまの怒りに対して逆ギレします。そして、ハナニを捕らえて厳重に足かせをつけ、牢に閉じ込めてしまったのです。また、おそらくハナニの批判に同調していた人たちが民衆の中にいたのでしょう。アサは彼らに対しても迫害を行ないました(10節)。
結果
悔い改めなかった結果はどうなったでしょうか。ハナニが預言したとおり、その後の南王国は数々の戦いを経験して、アサだけでなく彼の子孫たちも大変苦労することになります。

そして、アサ自身にもつらい出来事が起こりました。「アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気になった」。それは非常に重かったが、その病気の中でさえ、彼は【主】を求めず、医者を求めた」(16:12)。

まるで預言者ハナニが両足に足かせがはめられて歩けなくなったことと関係しているかのようですね。ですから、これは神さまからの罰、アサに自分の間違いに気づかせて悔い改めに導くための、神さまからの懲らしめだと考えた方が良さそうです。ところが、アサは悔い改めて神さまに信頼する道に戻ることをせず、医者に頼るばかりでした。

初めも途中も非常に素晴らしい王だっただけに、最後の最後が本当に残念です。

では、アサの生涯から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.主と心を一つにしよう

神と同じ思いになる

祝福されていたとき、アサは主である神さまと心を一つにしていました。神さまと心を一つにしなくなって、祝福を失いました。では、神さまと心を一つにするとはどういうことでしょうか。

使徒パウロがピリピ教会に宛てた手紙の中に、次のような言葉があります。「あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください」(ピリピ2:2)。これは、教会のメンバー同士の心が一つになるという意味で使われている言葉です。

神さまと心を一つにするというのも、「神さまと同じ思いになり、同じ愛の心を持つ」というふうにとらえることができます。すなわち、
  • 神さまが愛しているものを、私も愛します。
  • 神さまが大切にしておられるものを、私も大切にします。
  • 神さまが嫌っておられるものを、私も嫌って避けます。
  • 神さまが目指しておられることを、私の目標にします。
たとえば、私たちクリスチャンは盗みません。それは罰が怖いからではありません。神さまがその行為を嫌っておられるからです。なぜなら、盗みは神さまが愛しておられる他の人を傷つけ、困らせる行為だから。

私たちは直接的・間接的に伝道します。それは、神さまができるだけ多くの人がイエスさまを信じて救われ、神さまの子どもになって欲しいと願っておられるからです。

私たちは一生懸命働きます。それは、神さまご自身が勤勉であり、労働を素晴らしいものと考えておられるからです。

治世の前期と中期のアサ王は、神さまが喜ばれることは何かということをいつも考え学んで、それを自分の思いとして実践しました。私たちも、神さまの思いについていつも考え、聖書や祈りやクリスチャン同士の交わりなどを通して学び、学んだことを実践しましょう。

イエスの行動に倣う

特に、神さまと心を一つにするということについて、良いモデルがいます。それはイエスさまです。イエスさまは人となって地上に来られた神です。ですから、イエスさまを見れば神さまが分かります。イエスさまの言動を見れば、神さまが何を好み、何を憎み、何を目指し、また私たちがどのように行動することを願っておられるかが分かります。

ある人は、いつも愚痴をこぼし、家族に小言を言い、政治や社会に対してブツブツ文句を言っていました。ところが、ある朝聖書を読んでいたら、イエスさまがこんなふうにおっしゃっている箇所が目にとまりました。「口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します」(マタイ15:18)。

この方は、イエスさまが口から出るもの、すなわち言葉をとても大切に考えておられることに気づきました。それは、自分の心にあるものが言葉となって表に出てくるからです。

そして、自分の内側に、不平や不満が満ちあふれていて、神さまが今与えてくださっているものに対する感謝とか、神さまがついているから将来も絶対に大丈夫だという平安や希望とかが欠けている。そう気づかされたこの方は、言葉を変えることを決意しました。愚痴や小言や文句の代わりに、神さまへの感謝の言葉を口にすることにしたのです。何が起きても起きなくても「ありがとうございます」。それが残念なことであっても、「神さまが与えてくださったものですから、ありがとうございます」。

すると、人間関係が好転し、自分の心の中にも喜びや平安があふれてくるようになったそうです。

失敗してもやり直す

神さまと心を一つにすることは、私たちを幸せに導きます。しかし、私たちは赦された罪人であり、弱くて不完全です。ですから、ずーっと神さまに心を合わせてきアサ王が最後の最後につまずいてしまったように、私たちもいつ失敗して神さまから心が離れてしまってもおかしくない存在だということを心に刻む必要があります。

若い頃には熱心に礼拝に通い、伝道や教会の奉仕も積極的に行ない、喜びに満ちあふれていたのに、いつの間にか教会を離れてしまったクリスチャンの友人がたくさんいます。悲しいことです。

ですから、私たちは弱いということをいつも自覚して、聖霊なる神さまに助けを求める必要があります。「聖霊さま。私が今日も神さまと心を一つにすることができるようにお助けください」といつも祈りましょう。

それでも私たちは失敗してしまいます。しかし、神さまはそんな私たちを赦してくださいます。そして、何度でもやり直しをさせてくださいます。イエスさまが十字架にかかって私たちの罪の罰を全部引き受けてくださったからです。

ずっと成功続きで自信過剰になっていたのでしょう、アサはそのチャンスを生かそうとしませんでした。しかし、私たちは神さまが用意してくださる悔い改めのチャンス、やり直しのチャンスを生かしましょう。そして、もう一度神さまと心を一つにしましょう。

まとめ

私が死んだら葬式で歌ったもらいたい賛美歌があります。賛美歌338番「主よ終わりまで」です。
  • 1番「主よ終わりまで仕えまつらん。みそば離れずおらせたまえ。世の戦いは激しくとも、御旗のもとにおらせたまえ」。
  • 4番「主よ、今ここに誓いを立て、しもべとなりて仕えまつる。世にある限りこの心を、常に変わらず持たせたまえ」。
アーメン!

あなた自身への適用ガイド

  • 神さまの心とあなたの心が一つになるというのは、今のあなたにとって特にどういうことですか? それは、どのような具体的な行動によって表現できますか?
  • 今、あなたが改めるように神さまから望まれている価値観、好み、目標、行動などがありますか?
  • 最近、どんなことで悔い改めることができましたか? そのような悔い改めのチャンスを与えてくださったことについて神さまに感謝しましょう。
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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