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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

リベカ

聖書の女性シリーズ3

創世記27章1節〜10節

(2021年7月25日)

リベカは、ユダヤ人の先祖アブラハムの子イサクの妻です。その生涯から、自分の中の良い性質を引き出して生かすための秘訣を確認しましょう。

礼拝メッセージ音声

参考資料

イサクがエサウに与えようとしていた祝福には、神さまがアブラハムと結び、その子イサクが継承した契約(アブラハム契約)の次の継承者として認めるという意味がありました。

イントロダクション

今回取り上げるのはリベカです。リベカはアブラハムの子イサクの妻であり、イスラエル民族の祖となったヤコブを産んだ女性です。

私たちの中には長所もあれば短所もあります。短所を抑え、長所を引き出すには一体どうしたらいいのでしょうか。私たちはリベカの生涯を学ぶことによって、自分の中の良い性質を引き出して生かすための秘訣を再確認しましょう。

1.リベカの生涯

出身

アブラハムは、一家が住んでいたカナンの地の女性ではなく、同じ神さまを信じる親戚の女性を息子の妻にしたいと考えました。そこで、信頼するしもべをハランの地に派遣して嫁探しをさせました。

前回のメッセージでも触れましたが、ハランというのは、アブラハムが神さまの命令を受けて故郷のウルを離れ、カナンの地に向かう途中でしばらく滞在した場所です(地図はこちらのサイトを参照)。

そのときアブラハムには妻サラの他、父テラや兄弟ナホルとその家族、またすでに亡くなっていた別の兄弟の息子であるロトも同行していました。しかし、父テラはハランで亡くなり、アブラハムが再びカナンに向かった旅を始めたとき、兄弟ナホルの一家はハランに留まる道を選びました。

ここで、アブラハム一族の家系図をご覧ください。今回の主人公であるリベカは、ナホルの子ベトエルの娘です。ナホルにはベトエルの他に11人の息子が生まれましたから、アブラハムの親戚の娘は他にもたくさんいました。しかし、その中でしもべがイサクの妻として選んできたのはリベカでした。その経緯は次の通りです。
しもべが出した条件
アブラハムのしもべは、イサクの妻にふさわしい女性を見つけるために、神さまにあるお願いの祈りをささげていました。

「私の主人アブラハムの神、【主】よ。どうか今日、私のために取り計らい、私の主人アブラハムに恵みを施してください。ご覧ください。私は泉のそばに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出て来るでしょう。私が娘に、『どうか、あなたの水がめを傾けて、私に飲ませてください』と言い、その娘が、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたが、あなたのしもべイサクのために定めておられた人です。このことで、あなたが私の主人に恵みを施されたことを、私が知ることができますように」(24:12-14)。

実はこれ、とんでもなくハードルの高い条件です。しもべは1人でハランにやってきたのではなく、他に大勢のしもべと10頭のラクダを連れてきていました。ラクダは、一度に80リットルもの水を飲むそうです。ですから10頭全部に水をやるには最低800リットルは必要です。女性が水の持ち運びに使った水瓶に10リットル入ると仮定すると、水だけで10キログラム。さらに水瓶の重さが加わります。800リットル運ぶには、そんな重い水瓶を持って井戸とラクダの水桶の間を80回も往復しなければなりません。

そんな大変なことを、自ら進んでやろうと言ってくれる女性がいたとしたら、体力があって働き者で、それにどんなにか心優しく気の利く女性でしょうか。しかし、リベカはこのとんでもない条件をクリアしました。聖書はリベカの見た目が大変美しかったと証言していますが(24:16)、内面はさらに美しい女性だったのです。しかも、アブラハムの願い通り親戚の娘だというわけで、しもべはリベカをイサクの妻として連れ帰りました。

不妊と妊娠

リベカは夫となったイサクにとても愛されました。イサクの父アブラハムにも、また息子エサウやヤコブにも複数の妻がいましたが、イサクの妻は生涯リベカだた1人だけです。

ところが、愛し合う2人にはなかなか子どもが生まれませんでした。前回のメッセージで申し上げましたが、当時の中東では結婚した女性が子どもを産めないのは非常な恥だとされていましたから、どんなにかリベカは気をもんだことでしょうか。そして、ようやく妊娠したのが、結婚後20年たってからです。

リベカのおなかに中にいたのは双子でした。ところが、この双子がおなかの中でケンカして暴れるようになりました。身の危険を感じたリベカが神さまに祈ると、神さまは次のように語られました。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える」(25:23)。

これは単純に弟の子孫の方が兄の子孫の方より強くなるということではありません。また、神さまにとってエサウはどうでもいいということでもありません。エサウも、経済的には非常に祝福されました。ここで問題にされているのは、アブラハム契約が言う「子孫」とは誰を指しているのかということです。

アブラハム契約については前回も触れましたが、特に契約の中でも重要な約束が3つありましたね。それは、
  1. 子孫の約束:子どものいなかったアブラハムに息子が生まれ、その子からたくさんの子孫が出る。
  2. 土地の約束:アブラハムとその子孫に、将来広大な約束の地が所有地として与えられる。
  3. 祝福の約束:アブラハムとその子孫は神さまに大いに祝福され、また全世界の民族もアブラハムとその子孫によって祝福される。
アブラハムには最終的に8人の息子が生まれますが、その中で約束の子孫として選ばれアブラハム契約を継承したのは次男であるイサクでした。そして今、イサクの2人の息子のうち、約束の子孫、アブラハム契約の継承者として選ばれたのは、兄エサウではなく弟ヤコブの方だと神さまはリベカにおっしゃったのです。

策略

さて、息子たちが誕生して成長するに従って、リベカとイサクの夫婦はそれぞれ息子たちの一方をお気に入りにするようになりました。リベカは弟ヤコブの方を気に入って大切にしていましたが、イサクは兄エサウの方を大切にしました。そしてある事件が起こりました。

それは、イサクがエサウに祝福を与えるつもりだということをリベカが知ったのです。ここで言う祝福とは、ただ単に子どもの幸せを神さまに祈り求めることではありません。参考資料にも書きましたが、エサウがアブラハム契約の継承者であることを公に認めるものです。

しかし、エサウとヤコブが生まれる前、神さまはヤコブの方を継承者として選んでいることをお示しになりました。イサクはリベカを通じてそのことを知らされていたはずですが、そんなことはまるっきりなかったかのようにエサウを祝福しようとしています。
イサクをだます罪
そこで、リベカはそれをやめさせて代わりにヤコブの方を祝福してもらおうと考えました。といっても、それはリベカが神さまの選びを重んじたからではありません。単にエサウよりもヤコブの方が好きだったからです。もし、リベカが神さまの選びを本当に信じていたのなら、神さまに祈り、後は神さまの介入を期待して見守っていたはずです。

ところが、この時のリベカの信仰はどこかに迷い込んでいました。そして、自分の知恵や力で神さまの約束を実現させようとします。それは、イサクをだますことでした。

エサウが獲物を捕っておいしい料理を作ってイサクに差し出す前に、リベカが料理を作ってヤコブに持って行かせ、エサウのふりをしてイサクをだまし、エサウの代わりにヤコブが祝福を受けるようにさせようというものです。当時イサクは目が見えなくなっていましたから、それでだませるはずだというのです。

ヤコブが「でも、兄さんは毛深くて僕の肌はすべすべです。触られたら一発でバレてしまいますよ」と言うと、リベカは料理に使う子やぎの毛皮を腕に巻いていけば触られても分からないと答えました。その言葉通り、イサクは見事にだまされ、ヤコブに祝福を与えました。いくら目が見えないからといって、毛深い人間の肌と毛皮とは区別できるだろうと思いますが、神さまが介入なさってイサクの判断力を鈍らせたのであろうと私は考えています。

その直後にエサウが戻ってきて、イサクはヤコブが自分をだましたのだと気づきます。しかし、イサクはエサウを祝福し直し、代わりにヤコブを呪うことをしませんでした。それは、妻と次男が自分をだましたことは悔しかったでしょうが、その背後に神さまの介入をイサクが認めたからに他なりません。
ヤコブとの別れ
リベカとヤコブが犯した罪はさっそく報いを受けました。彼らの罪は、エサウから長子の権利、すなわち契約の継承者としての資格を奪い取ったことではありません。それは生まれる前からエサウではなくヤコブのものでした。おまけに、エサウは長子の権利を一杯のスープと引き換えにヤコブに売り渡していますから、法的にもヤコブのものです。彼らの罪は、イサクをだましたことです。

今回のことでヤコブに対する怨みを募らせたエサウは、父イサクが死んだらヤコブを殺してやると決意しました。実際にイサクが死ぬのはこの時から43年も先のことですが、イサクは目が見えなくなって気弱になっていてすぐにでも死ぬだろうと考えていましたし、エサウもそう考えていたのです。

そこで、リベカはイサクに対して、「エサウがカナン人の女たちを妻にしていて、彼女たちのことで自分は大変苦労させられているから、自分がイサクの妻となったように、ヤコブにもハランにいる親戚の中から妻をめとってもらいたい」と言いました。イサクもエサウの妻たちの態度には辟易していたようで、その意見には賛同してヤコブをリベカの兄ラバンの元に送り出しました。

ただ、アブラハムはリベカをイサクの妻として迎え入れる際、多額の花嫁料を彼女の実家に支払いました。ところが、イサクはアブラハム以上の資産家なのに、ヤコブにまったく花嫁料を預けず、護衛のしもべを同行させることもありませんでした。神さまのみこころを受け入れてヤコブを契約の継承者として認めはしましたが、感情的にはまだヤコブを赦せていなかったのでしょう。

そんなわけで、リベカは、愛する息子をたった一人で異国に送り出さなければなりませんでした。そして、これが今生の別れとなりました。彼女は、この後死ぬまでヤコブに会うことがかなわなかったのです。

これがリベカの生涯です。ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.神の領分には手を出さないで待つ

人の責任と神の責任

聖書は、人の責任と神さまの責任、すなわち人間がしなければならないことと、神さまがなさることを区別しています。

たとえば、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」(ヨハネ1:12)という箇所で、
  • イエスさまを信じ受け入れる、すなわち「この私の罪を赦すためにイエスさまは十字架にかかり、死んで葬られたけれど、3日目に復活なさった」(第1コリント15:1-8)と信じるのは私たちがすることです。
  • そういう信仰を持った私たちを実際に救い、神さまの子どもにしてくださるのは神さまがなさることです。
イエスさまを信じたのに、救われている確信、神さまに子どもとして愛されているという確信がなかなか味わえないときがあります。しかし、約束通り救って子どもとして愛してくださるのは神さまの責任、神さまの領分ですから、私たちが手を出してはいけません。愛されている確信を得るために、いろいろな善行を積んだり、苦しい修行をしたりする必要はありませんし、そんなことをしてはいけません。

もちろん、自分の間違った欲望を制限して神さまが喜ばれない悪を行なうのを押さえ、逆に正しいことを行なうことは必要なことです。しかし、それは神さまがすでに私たちを救い、愛してくださっているからであって、愛されていない私たちが神さまに愛されるためではありません。

また、聖書は敵を愛し、敵を呪うのではなくむしろ祝福されるよう祈りなさいと教えています(マタイ5:44など)。それは私たちの責任です。しかし、そうした結果、相手が自分に対する意地悪をやめるかどうか、あるいはそのことで私たちが神さまにどんなふうに祝福されるかは、神さまがお決めになることです。

私たちは、人の責任と神さまの責任、人がすべきことと神さまがしてくださることを分けなければなりません。

自分のすべきことをして待つ

そして、私たちは自分がしなければならないことを行ない、神さまがなさることについては神さまにお任せして結果を待ちましょう。

ある面では、リベカは信じて待つことのできる女性でした。サラは子どもが生まれると約束されてから最終的に25年後にそれがかなえられました。しかし、10年たった頃に待ちきれなくなり、女奴隷ハガルを夫アブラハムに与えて、ハガルを通して子どもの母になろうとしました。

リベカも不妊の女性でしたが、彼女にも子どもが生まれるという約束が与えられていました。イサクからたくさんの子孫が出るというのがアブラハム契約の約束だからです。リベカはサラのように自分でこの問題を解決しようとせず、ただただイサクと共に約束が実現する時を祈りながら待ち続けました。そうして、2人の息子を得たのです。

ところが、祝福の祈りの剣では、リベカは待ちきれずに自分で動いてしまい失敗しました。

イサクがエサウを契約の継承者として祝福しようとしていることを知ったとき、リベカがすべきだったのは、イサクと話をして神さまの約束のことを思い出させるか、あるいは神さまにそのことを訴えることでした。

そもそも、神さまがエサウではなくヤコブを継承者として選んでおられる以上、イサクがみこころにかなわない祝福を与えたとしても、神さまはやっぱりヤコブと契約を結ばれたことでしょう。ですから、イサクや神さまに自分の考えを訴えたら、後は神さまがうまくやってくださることを信じてまたなければなりませんでした。

私たちの多くも待つことが苦手です。特に、何でもすぐに手に入れることができる現代人は、待つことが苦手になりました。しかし、信仰とは約束を信じて待つことです。神さまは約束なさったことを必ず実現してくださいます。

あなたは、神さまからどんな約束を受け取っていますか? その実現のために自分がすべきことと神さまがなさることを分けて、自分がすべきことを行ないながら信じて待ちましょう。

信仰によって良い持ち味を引き出してもらう

アブラハムのしもべが感動したほどに「気が利いて心優しい」という良い性質をリベカは持っていました。しかし、そんなリベカの良い性質が、今回の箇所では間違った方向に発揮されました。それはヤコブに対する深い愛情が暴走して、愛するヤコブのために、賢い頭を使って間違った手段を考えついて実行したことです。

人間には長所もあれば短所もあります。しかし、よく見てみると実は長所と短所は裏表だということが分かります。たとえば「優柔不断」という短所があるとします。これは、「決断するのに時間をかける」という行動パターンがマイナスに働いたものです。しかし、同じ行動パターンをプラスに使うことができたら、それは「慎重で思慮深い」という長所に変わります。

私たちには神さまから様々な持ち味が与えられています。私たちは、それをプラスに働かせて長所として用いることもできるし、マイナスに働かせて短所として用いることもできます。そして、私たちが精神的な余裕を失うと、持ち味をマイナスに働かせてしまいがちです。

信仰、特に「神さまは私たちを愛してくださり、私たちの幸せのために約束なさったことを必ず実現してくださる」という信仰を失うと、私たちは精神的な余裕を失い、神さまに与えられた良い持ち味を充分に使うことができなくなり、かえって間違った方向に使ってしまいがちです。

逆に、私たちは信仰によって心に余裕を得て、それまでマイナスに発揮されていた性質をプラスの方向に変えることができます。

まとめ

神さまの約束を見つけ出し、それに関して自分がすべきことと神さまがしてくださることを分け、自分がすべきことをやりながら、神さまの約束が実現するのをワクワクしながら待ちましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 今、あなたが実現を待っている神さまからの約束がありますか? その実現のために、これまでどれくらい待ち続けていますか?
  • その約束の実現のために、あなたがすべきことと神さまがしてくださることはそれぞれ何だと思いますか?
  • あなたが自分の短所は、どんな性質、持ち味がマイナスに働いた結果ですか? その持ち味がプラスに働くとしたら、どんな長所に変わりますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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