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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

宮廷長官オバデヤ

助演男優シリーズ10

第一列王記18章7節〜15節

(2022年5月8日)

オバデヤは北イスラエルの悪王アハブに仕えた宮廷長官です(オバデヤ書を書いた預言者とは別人)。アハブや王妃イゼベルと戦った預言者エリヤほど有名ではありませんが、陰で大切な役割を果たしました。

礼拝メッセージ音声

参考資料

7節の「オバデヤ」の名には、「主のしもべ」という意味があります。

9節の「アハブ」は、北王国イスラエル第7代目の王です(在位:紀元前874〜853年)。北王国の王たちはみんな偶像礼拝の罪を犯しましたが、アハブは異教礼拝を国教としました。
預言者エリヤは、数年間北王国に露も降りず雨も降らないとアハブに宣告しました。アハブの罪へのさばきです。そして、その通りになりました。
ところが、アハブは自分の罪を悔い改めず、むしろ干ばつはエリヤのせいだと責任転嫁して、エリヤを捕らえようとしていました。

13節の「イゼベル」は、アハブ王の妃。元はツロとシドンの王女で、アハブをそそのかしてイスラエルに異教礼拝を持ち込みました。そして、まことの神に仕える多くの預言者を殺しました。

イントロダクション

皆さんは、預言者エリヤのことをよくご存じだと思います。エリヤは、北王国に異教礼拝を広めたアハブ王やイゼベル王妃と戦った預言者として有名です。しかし、エリヤだけが孤軍奮闘していたわけではありません。オバデヤはエリヤと同じ時代にまことの神さまへの信仰を失わず、目立たないながらも大きな働きをした人です。

クリスチャン全員が、エリヤのような派手な働きをするわけではありません。私たちの多くに神さまが期待していらっしゃるのは、オバデヤのような働きです。それは一体どういうことなのか、今回の箇所から教わりましょう。

1.オバデヤの働き

時代背景

参考資料でも触れましたが、今回の箇所の時代背景を確認しましょう。

時代は、紀元前9世紀半ば。この頃、イスラエルの国は北王国と南王国に分れていました。舞台は北王国です。この時代、北王国を治めていたのは第7代目の王アハブです。彼は外国からめとった王妃イゼベルの影響を受けて、国中にバアルやアシェラといった神々を信じる異教礼拝を広めました。

そればかりではありません。王妃イゼベルはまことの神さまを信じる信者、特に預言者たちを次々に殺しました。アハブ王はそんなイゼベルをたしなめるどころか、彼女の言いなりになっていました。
さばきの宣告
これに対して、神さまは預言者エリヤをアハブ王の元に遣わします。そして、さばきの宣告をさせました。「ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。『私が仕えているイスラエルの神、【主】は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない』」(17:1)。

イスラエルでは10月下旬から4月上旬が雨季です。それ以外は乾季で雨は一滴も降りませんが、夜から朝にかけて降りる露が土地を潤します。エリヤは、数年間その露が降りず雨も降らないとアハブ王に言いました。北王国を干ばつが襲うというさばきの宣告です。

そして、その通りになりました。3年間に渡って、北王国は干ばつに苦しみました。
悔い改めないアハブ
ところがアハブ王は悔い改めませんでした。干ばつが起こったのはエリヤのせいだと責任転嫁して、エリヤの行方を捜しました。エリヤを捕らえて痛めつけ、干ばつをやめさせようとしたのでしょう。

その捜索は徹底していました。今回の箇所で、オバデヤはこう語っています。「私の主人があなたを捜すために人を遣わさなかった民や王国は一つもありません。その王国や民が、あなたはいないと言うと、主人は彼らに、あなたが見つからないという誓いをさせています」(10節)。

それでもエリヤを見つけることができませんでした。預言者たちを次々と殺したイゼベルも、真っ先にエリヤの命を狙ったはずです。ところが、やはりエリヤを捕らえることができませんでした。神さまの守りがあったためです。
オバデヤの派遣
さて、今回の主人公であるオバデヤは何者でしょうか。彼は、アハブ王に仕える宮廷長官です。あるときアハブ王はオバデヤを呼び出し、次のように言いました。「国内のすべての水の泉や、すべての川に行ってみよ。馬とらばを生かしておく草が見つかり、家畜を絶やさないですむかもしれない」(5節)。

こうしてオバデヤは、馬やらばの餌となる草を求めて北イスラエル中を探索することになりました。オバデヤが預言者エリヤと出会ったのは、その探索の最中でした。

密かな反抗

オバデヤはアハブ王に仕える宮廷長官です。宮廷内のさまざまな仕事を取り仕切る仕事ですね。しかし、アハブ王やイゼベル王妃に完全に忠節を誓っていたわけではありません。彼はアハブ王夫妻の異教礼拝推進政策に対して、密かに怒りを感じていました。そして、表立ってではありませんが反抗します。

具体的には何をしたのでしょうか。イゼベル王妃がまことの神さまに仕える預言者たちを殺そうとしたときのことです。オバデヤはそのうちの100人を洞窟の中に密かにかくまい、水や食料を与えて生き延びさせました。

オバデヤの元には、宮廷内のさまざまな情報が集まります。おそらく預言者たちを殺す企てについてイゼベルがアハブ王か手下の者に話しているのを、女官か宦官が耳にしたのでしょう。そして、その報告を聞いたオバデヤがすぐに手を打ったのでしょう。

オバデヤは、100人の預言者を50人ずつの2つのグループに分けました。そして、それぞれ違う洞窟にかくまいました。万が一片方が摘発されても、もう一方が生き延びられるようにしたと考えられます。とても思慮深いですね。
残された七千人
後にエリヤはイゼベルに脅され、恐れを抱いて国を逃げ出しました。そして、うつ状態に陥ったエリヤは、「もう死なせてください」と神さまに願います。彼は、自分一人だけが残されたと嘆きます。そんなエリヤに、神さまは励ましの言葉をかけました。「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである」(19:18)。

オバデヤは七千の一人です。そして、オバデヤが助けた100人も、七千に含まれます。そう考えると、オバデヤがしたことは非常に大きな働きだったと分かります。

エリヤとアハブの橋渡し

今回の箇所で、オバデヤはエリヤと出会いました。その背後には神さまからの導きがありました。エリヤはオバデヤに、アハブ王を呼んでくるように言いました。

最初、オバデヤはそれを断ります。アハブ王を呼んできて、エリヤが姿を消していたら、自分は嘘をついたということでアハブに殺されてしまうからです。しかしエリヤは、自分は必ずアハブと会うと誓いました。そこで、オバデヤはアハブを呼びに行きました。
オバデヤの信仰
私たちはさらりとこの箇所を読み進めてしまいがちです。しかし、オバデヤの心の内を想像してみましょう。オバデヤには、エリヤとエリヤを遣わした神さまへの深い信頼がありました。そうでなければ、このような危険な真似をすることなどできません。

信仰とは、神さまへの信頼です。すなわち、「あのお方が、語られたことを違えるはずがない」という信頼。また、「あのお方が自分に悪いことをなさるはずがない。それどころか必ず良いことをしてくださる」という信頼です。オバデヤの信仰深さが、ここにも表れています。
エリヤの後押し
アハブと対面したエリヤは、次のようにアハブに言いました。「今、人を遣わして、カルメル山の私のところに、全イスラエル、ならびにイゼベルの食卓に着く、四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者を集めなさい」(19節)。

この後、エリヤが異教の預言者たちと雨ごい合戦をするのは有名な話です。双方がいけにえをささげて祈り、天から火を下して応えた神が本物だとエリヤは言いました。異教の預言者たちは、バアルやアシェラに延々と祈り続けました。刃物で自分の体を傷つけることさえしました。ところが、まったく変化がありません。

しかしエリヤが神さまに短く祈ると、天から火がくだってきていけにえを焼き尽くしました。恐れを感じた民衆に、エリヤは異教の預言者たちを殺すよう命じます。そして、その後3年ぶりに雨が降りました。
ところで、アハブはどうしてエリヤに呼び出されたときに彼を逮捕しなかったのでしょうか。わざわざエリヤの挑発に乗って、雨ごい合戦を実行させたのはなぜでしょう。多くの注解者は、オバデヤがそうするようアハブ王に進言したからだと書いています。オバデヤは自ら奇跡を行ったわけではありませんが、奇跡を行おうとしているエリヤを援護射撃したのです。

これが、宮廷長官オバデヤに関する聖書の記事です。それでは、私たちはオバデヤに何を学ぶことができるでしょうか。

2.状況が不利なときにも神さまに仕え続ける

状況が不利なときも

オバデヤが宮廷長官として働いていた時代は、まことの信仰者が生きにくい時代でした。聖書の神さまの預言者たちが、次々と殺されていました。そんな中、オバデヤは預言者たちをかくまいました。もしもアハブ王やイゼベル王妃にバレたら、オバデヤ自身が殺されてしまうでしょう。それでもオバデヤは、預言者たちを助けようとしました。

現代の日本では、イエス・キリストを信じたからといって命を取られる心配はほとんどありません。それでも、信仰に従って生きることで不利になってしまう状況はあります。

この話をお読みください。
口の大きなカエルがいました。彼は自分の口の大きさがたいそう自慢で、自分よりも大きな口の動物はいないと思っていました。そして、それを証明するために、大口の動物を捜しに旅に出ました。

ウサギに出会いました。小さな口です。カエルは尋ねました。「いつも何を食べてるんだい」。ウサギは答えました。「ニンジンだよ」。するとカエルは大きな口で勝ち誇ったように、

「Really?」(ああそう。ホント?)

次に牛に出会いました。かなり口が大きい動物ですが、このカエルほどではありません。カエルは尋ねました。「いつも何を食べてるんだい」。牛は答えました。「干し草だよ」。するとカエルは、さらに大きな口で勝ち誇ったように、

「Really?」

さらに進むと蛇に出会いました。これまたかなりの大口ですが、このカエルにはかないません。またまた「いつも何を食べてるんだい」と尋ねると、蛇は答えました。「口の大きなカエルだよ」。すると、カエル、おちょぼ口で、

「Really?」

自分が何者であり、何を信じているのか……何事もないときには他の人の前で語ることは易しいでしょう。しかし、それによって馬鹿にされたり、何らかの危険が生じたりするときこそ、実体が明らかにされます。あなたにとって信仰は、虚栄心を刺激するためのものでしょうか。それとも、何にもまして大切な宝でしょうか。

と、偉そうにお説教する私は、自分が前者であることをよく知っています。だから、イエスさまの十字架による赦しと、聖霊さまによる助けをいつも必要としているのです。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
同調圧力
また、みんなが神さまのみこころに反する行動をしている中で、自分一人だけが従い続けるのもストレスです。

たとえば、職場や学校でみんなが誰かの悪口を言っていたとします。すると同調圧力を感じて、自分もみんなと同じように悪口を言わないといけないような気持ちになることはないでしょうか。自分の同じようにしないと、何となく場を白けさせてしまうんじゃないかというような。

しかし、聖書は人の悪口を言うことを禁じています。「あなたの舌に悪口を言わせず唇に欺きを語らせるな」(詩篇34:13)。その教えを守ってみんなに同調しない、それどころか人に対して良いことを語るのが神さまのみこころです。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい」(エペソ4:29)。
それでも従う
そうしたからといって、こちらが得になるというわけでもありません。それどころか、「つまんねぇ奴だなぁ」と思われてしまう恐れがあります。そして、今度は自分が悪口の対象になってしまうかもしれません。同調圧力をはねのけるのは、なかなか勇気がいりますね。

それでもオバデヤのように、私たちは神さまのみこころに従う方を選び続けましょう。

神さまへの信頼

そうできるためには、神さまへの深い信頼が必要です。オバデヤが信じたように、神さまは自分に最善を行ってくださると信じる信頼です。

神さまに従うことを選んだ結果、つらい目にあわなければならないことがあります。次々と問題が起こって、本当に神さまは私を愛してくださっているのだろうかと疑いたくなるときがあります。そうすると、神さまに従うのはやめたいという気持ちが湧き上がってきます。

それでも神さまは私を幸せにしてくださると、私たちは神さまを信頼しています。その信頼がなければ、何があっても神さまに従う方を選ぶことなどできません。

私たちクリスチャンは、いつも神さまから問いかけられています。「あなたは、それでも私を信頼してくれますか?」と。その問いかけに、「はい」と応答したいですね。オバデヤのように。
数えよ主の恵み
聖歌の中に、「望みも消え行くまでに」という歌があります。そのサビの部分では、「数えよ主の恵み」と繰り返し歌われます。神さまがこれまで私たちに示してくださった、さまざまな恵みのわざを思い出しましょう。そして、それを数え上げ感謝しましょう。

そうするならば、私たちは神さまへの信頼の心を育てることができます。特に思いつかないという場合でも、一方的に救っていただいたことを感謝することができるはずです。

本来なら、私たちは自分の罪の罰を受けて滅ぼされるはずでした。しかし、イエスさまが身代わりとなって十字架にかかってくださいました。その結果、私たちは一方的に赦されました。それどころか、神さまの子どもにしていただけました。
聖書には次のように書かれています。「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか」(ローマ8:31-32)。

心の中で、いつもイエスさまの十字架を見上げていましょう。そして、感謝を積み重ねていきましょう。そうすると、私たちはますます神さまに信頼できるようになっていきます。そして、不利な状況でも神さまにお仕えすることができるようになります。

この話をお読みください。
ある小さな教会(A教会ということにしましょう)が、大変な問題に巻き込まれてしまいました。そんな中、教会を離れてしまう人も出ました。しかし、残った人たちは、心を合わせて問題に立ち向かいました。そして、数年後、問題を乗り越えたA教会は、爆発的に成長し始めたのです。

ある時、その地区のいくつかの教会が、合同の婦人集会を行ないました。そこに、あの問題の中でA教会から別の教会に移っていった婦人が来ていました。その人は、A教会の人たちに「A教会、祝福されているんだってね。私もまた戻りたいな」と言いました。

多くの人たちは「あの大変なときに教会を捨てておいて、問題が無くなったら帰ってきたいなんて。虫がいいこと」という思いを持ったそうです。しかし、ある婦人がこう言いました。「よかった! ずっとあなたのこと、祈ってたんだよ」。

A教会の多くの婦人たちの反応は、当然であり、別に悪いわけではありません。それだけ大変な苦労をしながら、問題を乗り越えてきたのでしょうから。私が彼らなら、実際に口に出したかもしれません。

しかし、「祈ってたんだよ」と言ったご婦人は、あの時の苦労が苦労ではなくなっていました。むしろ、神さまが与えてくださった祝福と捉えていました。ですから、「虫がいい」という発想自体が出てこなかったのでしょう。

上には上がいるものだと思わされました。
(当サイト「ショートエッセイ」より)

まとめ

神さまの恵みを数え上げ、感謝することで神さまへの信頼の心を育てましょう。そうすることで、不利な状況でも神さまに従った行動を取れるようになりましょう。オバデヤのように。

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