本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

最初の宮きよめ

イエス・キリストの生涯シリーズ9

ヨハネによる福音書2章13節〜22節

(2022年11月27日)

宮きよめとはイエス・キリストが神殿で大暴れをした事件です。宮きよめは2回行なわれましたが、ここでは最初の方を紹介します。

礼拝メッセージ音声

参考資料

13節の「過越の祭り」は、今の3月から4月に行なわれるユダヤの例祭。出エジプトのできごとを記念しています。

17節は、ダビデ王が書いた詩篇69:9からの引用です。この詩の中でダビデは、「自分が神さまに熱心に仕えれば仕えるほど、他の人々から馬鹿にされたり憎まれたりする」と語っています。

18節の「しるし」は、救い主であることを証拠だてる奇跡のことです。

20節で、「この神殿は建てるのに四十六年かかった」と言われています。ヘロデ大王が神殿の改築を始めたのが紀元前19年頃のことです。細かい補修はまだ終わっておらず、完全に工事が完了したのは、今回のできごとから36年後の紀元63年頃です。

イントロダクション

今日取り上げるのは、いわゆる「宮きよめ」と呼ばれる事件です。イエスさまは2回宮きよめを行ないました。1度目が今回の箇所、そして2度目は十字架にかけられる直前です。

ヨハネの福音書のテーマの一つは、光と闇の戦い、そして光の勝利です。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)。この箇所でも、救い主であるイエスさまは闇の中に光をもたらそうとしておられます。

まことの光として、イエスさまは私たちに何をしてくださるのでしょうか。それを宮きよめの記録から読み取りましょう。

1.神殿のきよめ

神殿の様子

カナの婚礼の後、イエスさまは短期間ガリラヤ湖畔にあるカペナウムで過ごされました。そして、エルサレムに向かわれました。過越の祭りに参加するためです。過越の祭りは春に行なわれるユダヤの祭りで、モーセの律法では過越の祭りの時にはエルサレム神殿に詣でるよう定められています。

神殿に入ったイエスさまは、ある光景をご覧になりました。「牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て」(14節)。
牛や羊や鳩を売っている者たち
神殿での礼拝には、罪の赦しなどのために動物犠牲が必要でした。いけにえの動物はなんでもいいわけでなく、種類が決まっていましたし、傷や病気や障がいのないものでなければなりませんでした。

そこで、人々がいけにえの動物を神殿に連れてくると、係の人がその動物の体を調べて、いけにえとしてふさわしいかどうかチェックします。しかし、合格になることはほとんどありません。何かしら難癖をつけられ不合格になります。

その結果、礼拝に来た人たちは、神殿ですでに用意されている動物を買い取ってささげるしかなくなります。これらの動物は市場価格と比べて法外に高い値段がつけられていました。これを売っていたのが、14節に書かれている「牛や羊や鳩を売っている者たち」です。
両替をしている者たち
さらに、神殿で使うお金、すなわちいけにえを買ったり、神殿税を支払ったりするためのお金は、一般に使われている貨幣は使えませんでした。

当時のイスラエルはローマ帝国に支配されていて、ローマのお金が流通していました。コインにはローマ皇帝の肖像が刻まれています。これは偶像であるから神殿では使えないという理由で、シェケルというイスラエルのコインを使うことになっていました。

そこで、神殿に両替人がいて、生活で使うコインと神殿で使うコインを両替したのです。このとき取られ両替る手数料も、ものすごく高く設定されていました。

いけにえの動物を売ったり、両替をしたりするのは、礼拝のために神殿にやってきた人たちの利便性のためです。問題なのは法外なお金を人々から巻き上げていたことでした。 動物を売ったり両替をしたりする商売は、大祭司の家族が独占していました。そこで、たくさんのお金が大祭司一家の懐に舞い込んでいたのです。
イエスの怒り
そんな神殿の様子をご覧になったイエスさまは、怒りをあらわになさいます。そして、細縄でムチを作るとそれをふるって動物や商売をしている人たちを神殿から追い出し、両替商の机をひっくり返すという大暴れをなさいました。

2つの問題点

イエスさまはなぜ怒られたのでしょうか。本来礼拝の場である神殿が、商売の場になっていたからです。イエスさまは別に、商売そのものを汚れたものだとおっしゃったわけではありません。イエスさまが問題になさったのは、いけにえの動物を売ったり両替をしたりする行動の背後に、2つの忌むべき態度があったことです。それは「偶像礼拝」と「自己中心」です。
偶像礼拝
救い主(メシア、キリスト)が十字架にかけられて復活する以前の時代、人々の罪が赦され、神さまに堂々と近づくために、犠牲のシステムが神さまから与えられました。

しかし、イエスさま時代の大祭司たちは、それを金儲けの手段としました。しかも、表向きはもっともで宗教的な理由をつけて、です。彼らは神さまへの愛ではなく、お金への執着に囚われていました。神さまではなく、お金を礼拝していたのです。

この話をお読みください

この話もお読みください
自己中心
神殿は、聖所が建っている内庭と、さらにその外にある広い外庭の、2つの区画に分けられていました。内庭にはユダヤ人しか入ることができませんが、外庭は異邦人(非ユダヤ人)も入ることができました。そこで外庭のことを「異邦人の庭」とも呼びます。
動物を売ったり両替したりする人たちが商売していた場所は、この「異邦人の庭」でした。本来は、ユダヤ人ではない人々も礼拝することができるようにと設けられた場所です。

ユダヤ人が神の民として選ばれたのは、世界の祝福の基となるためです(創世記12:1-3)。ところが、「どうせ異邦人の庭だからいいや」という感じで、市場にしてしまったのです。

今日からクリスマスを準備するアドベント(待降節)ですね。子どもたちはクリスマスプレゼントを心待ちにしていることでしょう。私たちも、神さまから大いに祝福されたいと思います。天国には、私たちが受け取るはずなのに、求めないために発送できないでいるプレゼントが山のように積まれていると言った人がいます。大胆に、祝福を求めましょう。

しかし、私たちが祝福をいただくのは、自分だけが幸せになるためではなく、出て行って他の人を祝福し、幸せに導くためです。今週、私たちは祝福の使者として、何をイエスさまから期待されているでしょうか。

救い主宣言

当然のことながら、商売を邪魔された人たちは怒りました。そして、イエスさまに向かって言いました。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか」(18節)。

彼らの商売のバックには、イスラエルの宗教的指導者の中でもトップに君臨する大祭司がいます。そのやり方を批判できるとしたら、大祭司より偉い人でなければなりません。それはもう救い主をおいて他にないじゃないか、と。じゃあ、救い主としての証拠を見せてみろと人々はイエスさまに詰め寄りました。

するとイエスさまはお答えになります。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」(19節)。

このとき、イエスさまに詰め寄った人たちだけでなく、そばにいた弟子たちもこの意味を理解できませんでした。しかし、弟子たちは、後にイエスさまが十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさったとき、「ああ、このことをおっしゃっていたのか」と思い当たることになります。
これはイエスさまの、「自分は救い主だ」という宣言です。救い主であるイエスさまは、間もなく、十字架にかかり復活なさいます。それは全人類の罪の罰を身代わりとして引き受け、人類が罪を赦されて、神さまの子どもとして神さまと永遠に愛の交わりをすることができる道を開くためです。
証拠としての奇跡
そしてイエスさまは、ご自分が本当に救い主であるという証拠を、さまざまな奇跡によってエルサレムの人々に示されました。「過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた」(23節)。

イエスさまが公の働きを始めて約半年、イエスさまはヨルダン川の東にいたバプテスマのヨハネの弟子たちや、その知り合いの人たち、そしてカナの婚礼の裏方の人たちなど、ごく少数の人たちにしか知られていませんでした。

しかし今や、エルサレムで俄然注目を集める存在になったのです。今後、指導者たちも民衆も、イエスさまを無視できなくなっていきます。それについては追々触れることにしましょう。。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。それはイエスさまが私たちを照らす光だということです。

2.私たちを照らす光

光は傷つける

暗いところから、急に明るいところに出ると、目が痛くなったりめまいがしたりすることがありますね。光は時に私たちに痛みを与えます。
そして、光は部屋の汚れを明らかにします。見たくもないようなものを私たちに見せて、私たちをがっかりさせたり嫌な気持ちにさせたりします。光であるイエスさまも、時に私たちに痛みを与えたり、嫌な気持ちを引き出したりなさいます。

それは、イエスさまが私たちの罪を明らかになさるからです。イエスさまは聖霊なる神さまを通して私たちの心の奥底まで探り、私たちの心の中に神さまに逆らう思いや自己中心的な思いがあることを見抜かれます。そして、それを私たちにも示されるのです。

その時、人間が取る反応が4つあります。否認、無視、取引、そして認罪です。
  • 否認は「私は悪くない」と罪を認めないことです。
  • 無視は「気づかなかったことにする」態度です。
  • 取引は、自分の良い部分をアピールして、「だから罪は差し引きゼロ」とする態度です。
  • しかし、神さまが願っていらっしゃるのは、罪を認めて悔い改めることです。
自分の中に罪の性質が宿っていて、実際に神さまが喜ばれないことを考えたり行なったりしたということ認めるのは、とても痛いこと、つらいこと、嫌なことです。しかし、イエスさまが罪を示すのは、私たちを苦しめることが目的ではありません。赦しを受け取ることができるようにするためです。

あるときイエスさまは、神殿で祈る取税人とパリサイ人のたとえを語られました(ルカ18:10-14)。パリサイ人は自分がいかに信仰的で正しい生き方をしているかということを神さまの前で誇りました。しかし、取税人は顔を上げることもできず、自分の胸を打ちたたき、「神様、罪人の私をあわれんでください」と祈ります。イエスさまは、神さまに受け入れられたのは取税人の方だとおっしゃいました。

取税人が、神さまの前に自分の罪を認めて赦されたように、私たちも、自分の問題点を示された時、逃げないでしっかりとそれを認め、悔い改めて赦されましょう。

光はいやす

光であるイエスさまは、人をいやされます。イエスさまが私たちの足りないところを示し、傷つけるのは、ちょうど外科医がメスを使うように、私たちをいやすためです。

「しるしをみせろ」と人々はイエスさまに言いました。しるしというのは、救い主である証拠のことです。これに対してイエスさまは、「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」(19節)とおっしゃいました。これは、ご自分の体の神殿のことだとヨハネは解説しています。すなわち、十字架にかかって死んで、3日目に復活することです。

十字架と復活が、私たちをいやします。十字架と復活は、私たちのいのちの価値を教え、また完全な罪の赦しをもたらします。
いのちの価値
なぜ人は心を病むのでしょうか。それは、自分の価値が分からないからです。生きていていい、愛される価値がある、幸せになる権利があると、100%の確信を持てないからです。だから、お金を持つとか、快楽を味わうとか、勉強や仕事ができるとか、人々から賞賛されるとか、目立つことをするとか、着飾るとか、そういうことで「自分には価値がある」という証拠にしようとするわけです。

しかし、これらの証拠は不安定です。ですから、周りと摩擦を起こすほどに必死になりすぎたり、一喜一憂したり、振り回されたりすることになります。そして、たとえば、仕事で成功することを証拠にしている人が、定年やリストラにあったりすると、とたんに「自分には価値がない」という命題に直面し、抑鬱状態になったり、荒れてしまったり、ひどい場合には自殺してしまったりすることになります。

しかし、あなたには価値があります。その証拠が十字架と復活です。あなたを救うために、神さまは御子イエスさまのいのちを差し出されました。等価交換の原則からいうと、神さまは、あなたのいのちに対して、イエスさまのいのちと同じだけの価値を見出されたということです。イエスさまも、そうしても惜しくないと思われたほどに、あなたのことを高く見積もっておられます。
罪の赦し
それでも、自分の中の様々な不十分さを示されると、私に価値があるなんて思えないことがあります。イエスさまは、それらの不十分さの罰を、全部赦すとおっしゃいます。神さまはもはや私たちの罪をご覧になりません。すべて忘れてくださいました。

罪を赦された私たちは、それだけでなく神さまの子どもにしていただきました。そして、神さまの子どもとして神さまに愛され、祝福されています。そのことを決して忘れないようにしましょう。それにより、私たちはどんな状況の中でも希望を失わず、喜びに満たされながら生活することができるようになります。

光は導く

光に背を向けていたら、見えるのは真っ黒い影です。光は私たちの進むべき道を示します。イエスさまも、ただ単に私たちの問題点を示すだけでなく、私たちがどのように生きていけばいいかを教えてくださいます。

宮きよめは、私たちに偶像礼拝の危険と、自己中心の危険を教えてくれると共に、まことの神さまに信頼し、この方から祝福をいただき、その祝福を他の人々に分かち合うことを教えてくれています。

今週も、光であるイエスさまを見上げながら、歩んで参りましょう。

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com