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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

人に見せるための善行

イエス・キリストの生涯シリーズ23

マタイによる福音書6章1節〜6節

(2023年3月19日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

2節の「偽善者」とは、元々は劇の俳優を指す言葉でした。転じて、表面的には良い行ないをしながら、内面が伴っていない人を表す言葉となりました。俳優が別の人間を演じるように、良い人を演じるということです。

イエスさまは前の章でパリサイ派の律法学者たちの律法解釈と、救い主であるご自分の律法解釈を比較しておられ、弟子たちにはパリサイ人たちの義にまさる義を身につけるようお求めになりました。ですから6章に登場する偽善者は、パリサイ人や律法学者たちのことを暗に示しているのでしょう。

イントロダクション

今回のテーマは偽善です。偽善とは、表面的には良い行ないでありながら、不純な動機でそれを行なうことです。これに関してイエスさまはどのように教えておられるでしょうか。

そして、偽善は私たちクリスチャンにとって避けて通ることができない問題です。聖書は偽善の問題について私たちにどんな励ましを語ってくれているでしょうか。

1.偽善についての教え

施しについて

人に見せるための善行をするな
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません」(1節)。

イエスさまは、人に見せるために良い行ないをすることを禁止なさいました。その一方で、同じ山上の説教の中で、イエスさまは弟子たちのことを「世の光」と呼び、世の人々に自分たちの良い行ないを見てもらうようにと命じてもいらっしゃいます。

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」(5:16)。

一見矛盾に見えますが、イエスさまが問題にしておられるのは人前で良い行ないをする動機です。自分がほめられるために人前で良い行ないをするのではなく、天の父なる神さまがほめたたえられるために良い行ないをしなさいとおっしゃっています。
偽善者たちの施し
「ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです」(2節)。

イエスさまは、偽善者が行なう人前での良い行ないの例として、施しを挙げておられます。神さまがイスラエルに与えたモーセの律法では、貧しい人たちに金品を贈ることを勧めています(申命記15:7-8など)。ですから、施しをすること自体はすばらしいことです。

ただ偽善者たちは、大勢の人の前でラッパを鳴らして注目を集めておいてから施しをしました。自分が「なんとあわれみ深い人だろうか」と人々からほめられるためです。参考資料にも書きましたが、この偽善者たちとは前の章に登場したパリサイ人や律法学者たちのことを指しているようです。

イエスさまは、彼らはすでに自分の報いを受けているとおっしゃいました。人々から賞賛されたことがその報いです。しかし、やがて神の国に入ったときに神さまがくださる、もっとすばらしい報いはいただくことができません。

救い主イエスさまは、これから十字架にかかり復活して天にお帰りになります。そして、やがて世の終わりの時が来るともう一度地上に戻ってこられ(再臨)、地上の悪を一掃して理想的な王国である神の国(天の御国、千年王国)を建設なさいます。

神さまの恵みを信じて救われた人は復活して神の国に済むことができるようになりますが、生きている間に神さまが喜ばれる行ないをした人は、その行ないに応じて報いをいただきます。神の国に入れていただくだけでたいした祝福なのですが、プラスαで祝福を追加していただけるのです。

どんな追加の祝福をどれくらいいただけるか決める基準は、生きている間の行ないです。ただし、表面的に良い行ないをするだけでは不十分であり、その動機が問われるとイエスさまはこの箇所でおっしゃっています。自分がほめられるために人前で良い行ないをする人は、生きている間はほめられていい気分になることができますが、動機が間違っているため神さまには評価されず、神の国で追加の祝福をいただくことはできません。
隠れたところで施しをせよ
「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(3-4節)。

右手がしていることを左手に知らせないというのは、イエスさまならではのおもしろい表現ですね。これは、施しをするなら隠れたところでひっそりと行ないなさいという意味です。自分がほめられるためという動機からではなく、純粋に貧しい人たちのことを考えて行動するようにということです。
そのような純粋な施しは天の父なる神さまに認められ、神の国での追加の祝福をいただくことができます。

祈りについて

偽善者たちの祈り
「また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです」(5節)。

敬虔なユダヤ人、特にパリサイ人たちは、毎日決まった時間(9時・正午・15時)に祈りをささげていました。ところが、ある人たちは祈りの時間が近づくとわざわざ外出し、ちょうど祈りの時間に人通りの多い場所にいるようにしました。

それは自分が祈っている姿を大勢の人に見せ、「あの人はいつもああやって祈っている。なんと敬虔な人だ」とほめられたいがためです。イエスさまは、このような行動も人には認められても神さまには認めていただけず、神の国での追加の祝福を受け取り損ねるとおっしゃいました。
隠れたところでの祈り
「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(6節)。

イエスさまは、隠れたところで祈るよう命じておられます。といっても、礼拝式など人前で祈ってはならないという意味ではありません。ここでも、ほめられたいという動機で祈ることを禁じていらっしゃるのです。

神さまと交わりたい、神さまと対話したい、神さまに自分の思いを聞いていただきたいという純粋な動機で祈るならば、個人の祈りであれ公の祈りであれ神さまは喜んで耳を傾けてくださるし、やがて神の国において報いをいただくことができます。

断食について

今回ご一緒に交読はしていませんが、16節以降では断食と偽善について語られています。断食とは、信仰的な理由で一定期間食事の全部、または一部を絶つことです。

断食したからといって立派な人間になるわけではないし、祈りがかなえられやすくなるということもありません。また、断食して自分を苦しめることで罪が赦されるわけでもありません。

ただ、断食することでかなりの時間を祈りや聖書の学びや良い行ないに当てることができるようになります、また、実践した人たちの多くは「霊的な感受性が増し、神さまからの語りかけがよりクリアに響くようになった」と証言しています。そのようなわけで、今も多くのクリスチャンが断食を実践しています。
偽善者たちの断食
「あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです」(16節)。

モーセの律法でユダヤ人に断食するよう命じているのは、宥めの日(贖罪の日。ヨム・キプール)だけです。1年間の罪を振り返り、悔い改めの表現として断食するのです。もちろん、断食したから罪が赦されるのではなく、赦しは神さまの恵みによって一方的に与えられます。

そのようなわけで、律法では断食は年に1回だけですが、パリサイ人たちは毎週2度、月曜と木曜に断食を行ないました。その際、一部の人たちはわざと苦しそうな様子を見せて、周りの人たちに自分が断食していることをアピールしました。それは「敬虔な人だ」とほめられるためです。イエスさまは弟子たちに、あなたたちはそんなまねをするなとおっしゃいました。
普通に生活せよ
「断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは、断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます」(18節)。

むしろ弟子たちは断食しているときでも身なりを整え、普通に生活しなければなりません。それは、断食していることを周りの人たちに知られないようにするためです。

もちろん、周りの人に断食がバレたからといって、それで断食の効果が無くなったり、神さまから罰を受けたりすることはありません。施しや祈りと同様、こちらから積極的に見せびらかすことが良くないとイエスさまはおっしゃっているのです。
まとめ
「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません」(19-20節)。

イエスさまは、貯金やお金儲けなんかするなとおっしゃっているわけではありません。「地上に宝を蓄える」とは、ここまで繰り返し述べてこられたように、人にほめられるために良い行ないをすることです。

その代わりに、私たちは天に宝を蓄える必要があります。それは、純粋な動機で良い行ないをすることです。そのような良い行ないは、それがどんなに些細なものであったとしても神さまは必ず憶えていてくださり、やがて神の国で必ず祝福によって報いてくださいます。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.偽善の罪を赦されていることを感謝しよう

他人ではなく自分に適用しよう

偽善が良くないわけ
人に認められるために良い行ないをするとしても、良い行ないには変わりありません。それでも偽善が戒められているのはなぜでしょうか。それは、人目を気にして良い行ないをする人は、人目を気にして悪い行ないをすることもあるからです。

前回のメッセージで、モーセの律法はユダヤ人を異教礼拝の影響から守るため、異邦人との交わりを厳格に制限する働きを持っていたという話をしました。しかし、イエスさまが十字架にかかられたとき、モーセの律法は役割を終えて、ユダヤ人は異邦人と自由に交流できる時代になりました。

その一環として、神さまは使徒ペテロに夢を見せ、モーセの律法が食べては鳴らないと命じていた動物の肉を食べるようお命じになりました。目が覚めたペテロは異邦人であるコルネリウスの家に招かれ、彼らに福音を語って救いに導くと共に、彼らと食事を共にしました。

ところが、モーセの律法は今も有効だと主張するユダヤ人クリスチャンの目を恐れて、ペテロやバルナバは次第に異邦人と食事を共にすることを控えるようになりました。それを使徒パウロは批判しています。

「ところが、ケファがアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり、バルナバまで、その偽りの行動に引き込まれてしまいました」(ガラテヤ2:13)。

ここで、「本心を偽った行動」と訳されている言葉は、偽善者と訳されている言葉と同じ語源で、偽善と訳すこともできます。 このように、人目を恐れる心は悪い行動を生み出すこともあるのです。
自分への適用
聖書の中の命令を読んだときは、それをいきなり他人を批判するための材料にするのではなく、まず自分自身を省みて成長の糧にすることが大切です。

聖書を使って他人を指導したり問題行動を責めたりすること自体がダメなわけではありません(パウロもペテロの問題行動を責めました)。先ず自分に適用し、自分自身の問題を改めてから他の人を指摘するという、その順番が重要だということです。

「兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます」(7:4-5)。
マザー・テレサの祈り
この教会のクリスマス礼拝で、マザー・テレサの祈りを一緒に祈っていた時期があります。
イエスよ、わたしを解放してください。

愛されたいという思いから、
評価されたいという思いから、
重んじられたいという思いから、
ほめられたいという思いから、
好かれたいという思いから、
相談されたいという思いから、
認められたいという思いから、
有名になりたいという思いから、

侮辱されることへの恐れから、
見下されることへの恐れから、
非難される苦しみへの恐れから、
中傷されることへの恐れから、
忘れられることへの恐れから、
誤解されることへの恐れから、
からかわれることへの恐れから、
疑われることへの恐れから。

(祈り引用: 平野克己編「祈りのともしび」日本キリスト教団出版局)
(画像引用:Wikipedia
この祈りを読んだ家内がつぶやきました。「マザー・テレサも、こんな思いを持っていたのねぇ」。

偽善的な行ないを戒めるイエスさまの言葉を自分自身に当てはめると、私の中にもまた人にほめられたい、認められたい、重んじられたいという思いがあること、また人の目を恐れて偽りの行動を取る可能性があることを認めざるを得ません。

こうして、礼拝メッセージを語っているこの瞬間も、私の中にはウケを狙って自分の評価を高めたい自分がいるのです。純粋な動機で良い行ないをするよう勧める一方で、私自身の動機はどうなのかと問われれば、純粋とはとても言えません。以前うちの教会で流行った台詞で言えば、「どの口が言うのか」です。

私の中には偽善の罪があります。なんと恐ろしいことでしょうか。

赦しを確認しよう

しかし、私たちには希望があります。それは、私たちは私たち自身の正しさによって神さまに認められ、救われるわけではないということです。神さまは私たち罪人のことをそのままの姿で愛してくださり、その罪を赦してくださり、神さまの子どもとして祝福し、本当の幸せへと導いてくださいます。

そのためにイエスさまが地上に来られました。イエスさまは私たちのあらゆる罪(その中には偽善の罪も含まれます)を赦すために、十字架にかかって血を流してくださいました。そして死んで葬られましたが、3日目に復活なさいました。そのことを信じるだけで私たちは本当に赦され、救われます。

正直に自分自身を見つめたら、私たちはみんな偽善者としてイエスさまに糾弾されてもおかしくありません。しかし、イエスさまはそんな偽善者である私を、そしてあなたをこよなく愛し、慈しんでくださっています。そのことをいつも確認しましょう。

感動と感謝を原動力としよう

神さまに一方的に赦され、愛されているという事実は、私たちの心に大きな感動と感謝を生み出します。それが原動力となって、私たちは純粋に神さまに喜んでいただくため、あるいは他の人たちへの純粋な愛の動機で良い行ないをすることができるようになります。
ロックフェラーの悔い改め
この話をお読みください

(画像引用:Wikipedia
ですから、いつもイエスさまによる罪の赦しを確認し、感動と感謝の思いを育てましょう。それが偽善から遠ざかり、純粋な良い行ないに近づくための秘訣です。今週も、ますます私たちが神さまの愛を実感できますように。

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