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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

目の中の梁

イエス・キリストの生涯シリーズ26

マタイによる福音書7章1節〜11節

(2023年4月16日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

5節の「偽善者」とは、元々は役者を表す言葉です。人にほめられたいがために表面上は敬虔な様子を演じるけれど、内面に信仰の実体が伴っていない人のことです。

イントロダクション

今日は、他の人が間違いをしたり罪を犯したりしている場合に、私たちはどのように対応するかということを教えています。

1.さばいてはいけない

まず目の梁を取り除こう

さばかないのはさばかれないため
「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです」(1節)。

イエスさまは弟子たちに「さばいてはいけない」とおっしゃいました。これは、クリスチャンは裁判官や検察官や警察官になってはいけないとか、裁判員に指名されても引き受けてはいけないとかいう意味ではありません。
また、他の人が罪を犯していても、見て見ぬふりをして何も指摘するなということでもありません。イエスさまは、たびたびパリサイ人など指導者に向かって厳しい非難の声を投げかけています。

そして、使徒たちは手紙の中で宛先の教会で問題行動をしている人や、なすべきことを行なっていない人を責めて、神さまのみこころにかなう行動をするよう求めています。また、教会内で起こった問題については、まず教会の中でさばいて決着をつけるようにとも求めています(第1コリント6:1-3)。

では、イエスさまが禁じている他人へのさばきとは、いったいどういうものなのでしょうか。それを理解するために、さばいてはならない理由に注目します。イエスさまは「自分がさばかれないため」とおっしゃいました。どういうことでしょうか。
自分が他人をさばいた基準で自分もさばかれる
「あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです」(2節)。

家族の誰かが不注意で皿を割ったとします。そして、私がそれを厳しく責めたとしましょう。すると、私が不注意で茶碗を割ってしまった場合、私も家族から同じように厳しく叱られてもしかたがないことになります。

「形あるモノはみんな壊れる。わざとではなく不注意なんだから、別に気にすることない」という、自分にだけ甘い言い訳は通用しないというわけです。

まして、皿を割ったことで、その人のことを「人間としての価値、30点引き」というふうに評価したとしたら、私も食器を割るたびごとに人間としての価値が30点ずつ目減りしていくことになります。そのうち生きる価値なしということになるでしょう。

だから、相手の人間の価値を値引きするような責め方をしてはいけないとイエスさまはおっしゃるのです。
目の中の梁
「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか」(3-4節)。

梁は柱同士をつなぐ木材です。そのような大きなものが目に入るはずがありませんが、これはイエスさまお得意の誇張表現ですね。それくらい大きな異物が自分の目に入っているのに、他の人の目の中の小さなちりが気になって、それを一生懸命に取り除こうとすることのおかしさを表現しています。

他人をさばいている基準を自分に当てはめてみたら、もしかしたら同じようなことをしているかもしれません。
まず自分の梁を取り除こう
「偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます」(5節)。

イエスさまは、他の人の問題点を一切指摘したり指導したりしてはいけないということをおっしゃっているのではありません。自分自身を省みて、まず自分自身が本当に正しい生き方をできるようにしよう。それから他の人の問題点に取り組もう、ということです。

相手を見て指摘しよう

犬や豚に良いものを与えても無駄
「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります」(6節)。

「豚に真珠」ということわざの元になった聖句ですね。ユダヤの文化では、犬や豚はきよくない動物で、ここでは性質が良くない人のことを表しています。

相手の成長を思ってせっかく問題点を指摘したとしても、その人が忠告を謙遜に聞いて受け止めることのない頑なな性質の人なら、かえって逆恨みされて攻撃されてしまいます。それでは時間とエネルギーの無駄ですから、私たちは相手を見て指摘するかどうかを判断しなければなりません。
箴言の中にも同様の教えがあります。「嘲る者を戒める者は、自分が恥辱を受け、悪しき者を叱る者は、自分が傷を受ける。嘲る者を叱るな。彼があなたを憎まないために。知恵のある者を叱れ。彼はあなたを愛する。知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵ある者となる。正しい人を教えよ。彼は洞察を深める」(箴言9:7-9)。

愚かな人はどんなに指摘されても責められたと捉えるばかりで、反発します。ですから成長がありません。

しかし、知恵ある人は、他人からの指摘を謙遜に受け止め、自分の成長の糧とします。たとえ的外れな指摘であったとしても、そこに何らかの成長のヒントがありはしないかと検討することができます。そこで、ますますきよめられていきます。

私たちが問題点を指摘しようとしている人は、知恵ある人でしょうか。それとも犬や豚や愚か者でしょうか。少なくとも、私たちが相手のことを犬や豚、愚か者だと見下げているなら、指摘はすべきではありません。その人は私たちの言うことを素直に聞くはずがないからです。

また、私たちが相手を犬や豚、愚か者だと見下して問題点を指摘するなら、相手は自分が侮辱されたと感じ、よけいに反発を強めることでしょう。「あなたは本当にバカだ。だから賢い私が正解を教えてあげよう」という態度で指摘されたとしたら、たとえそれが正論であっても、皆さんは反発を感じませんか?

この話をお読みください。
1549年にフランシスコ・ザビエルが来日して、キリスト教がこの国に伝わりました。その後、豊臣・徳川政権によるキリシタン禁令まで、キリスト教は爆発的な勢いで日本中に広がっていきました。ところが、そんな時代にも、一時的に教会成長が停滞した時期がありました。フランシスコ・カブラルという人が日本宣教の総責任者として滞在していた1570年からの8年間です。

カブラルは、こんな手紙を残しています。「私は、日本人ほど傲慢で、貪欲で、不安定で、偽善的な国民を見たことがない」。ひどい言われようですが、自分を振り返ってみると、確かにそうかなぁとも思わされます。

一方、ザビエルはというと、こんな手紙を残しています。「日本人は、私が出会った民族の中で、最も優れている。彼らは一般的によい素質を持ち、悪意がなく、交際していて非常に気持ちがいい」。

この「二人のフランシスコ」の活動時期は20年ほどの差しかありません。そのわずかな間に、日本人の気質はそんなにも変わってしまったのでしょうか?

そうではなくて、二人の日本人に対する見方の違いではないでしょうか。日本人に対する愛情の違いと言ってもいいかもしれません。カブラルだって、宣教師となり、国を捨てて遠いアジアまでやってきたほどに伝道に燃えた人です。それなのに、彼の滞在時にあまり教会が成長しなかった理由が、このあたりにあるように私には思えてなりません。

「あなたは罪人で邪悪である。だから私が伝道してまともな人間に変えてやる」という態度。「あなたは問題を抱えた不完全な人間である。だから、私が相談に乗って助けてやる」という態度。そんな態度で臨むなら、誰もその人の話に耳を傾けたいとは思わないでしょう。「お前はダメ人間だ」とバカにされていると感じるからです。

私たちは天の父なる神さまに愛された存在です。イエスさまが、ご自分のいのちと引き替えにしても惜しくないと思われるほどに、すばらしい存在です。聖霊さまが心に住んでくださるならば、思いもよらない力を発揮することができる、そんな可能性に満ちた存在です。まずは、そんなふうに相手に対する深い愛情と感動が与えられて初めて、伝道や援助の関わりも功を奏していくのでしょう。

そして、そんなふうに人に接することができるためには、自分自身がどんなに神さまに愛され尊重されているかを知ることが大切です。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
何かを指摘するのであれば、相手は必ずこちらの指摘を受け止めてくれる知恵ある人だと信じてからにしましょう。「あなたはすでにすばらしい神の子。だから、この点を修正できたら、さらにすばらしくなれる」というニュアンスで指摘をするのです。

といっても、私たちはなかなか相手を冷静に分析し、何をどのように伝えるか考え、伝えることはできません。特に、相手の言動によってこちらが迷惑を被っている場合には、ついつい感情的に責めたくなります。他人を上手に責めるためには、私たちに心の余裕がなければなりません。

そこでイエスさまは、私たちの心を整える秘訣を語っておられます。それが7節以降のみことばです。

求め、探し、叩こう

求めれば与えられる
「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます」(7-8節)。

「求めなさい」「探しなさい」「たたきなさい」という命令文は、進行形のニュアンスで訳すことができます。すなわち、「求め続けなさい」「探し続けなさい」「たたき続けなさい」という命令です。

そうするならば、必ず与えられるとイエスさまは約束されました。では、私たちは何を求め続けるのでしょうか。
子どもには良いものをあたえる
「あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。」(9-11節前半)。

何を求め続けるべきか答える前に、イエスさまは説明の前振りとして、人の親なら、たとえ悪人であったとしても、子どもには良いものを与えるはずだとおっしゃっています。

もっとも、親は子どもが求めるものをすべてその通りにかなえることはしません。夕食の前にお菓子が食べたいと願っても、もし与えたら夕食を充分食べなくなり、栄養バランスを崩してしまうと思えば「ダメ」と言うでしょう。しかし、それは子どものためを思っての行動です。多くの親は、子どもに良いものだけを与えたいと願っています。
神がくださる良いもの
「それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか」(11節後半)。

悪人でさえも我が子に良いものを与えるのだから、まして愛と恵みに満ちた天の父なる神さまは、求めるものに良いものを与えるはずだとイエスさまはおっしゃいます。

同様の言葉が載っているルカ11:13によれば、父なる神さまがくださる「良いもの」とは、聖霊さまのことだと記されています。

聖霊なる神さまは、イエスさまの恵みの福音を信じて罪赦され、救われた人の心の中に住んでくださいます。そして、内側からその人を作り変え、少しずつイエスさまに似たものに作り変えてくださいます。

聖霊さまがますます私たちの心を満たし、生活のあらゆる領域を支配して、聖霊さまご自身が好きなように作り変えてくださるように願いましょう。そうするなら、「求めよ、されば与えられん」、必ずその願いは聞き届けられます。

自由に働く聖霊さまは、私たちを内側から作り変えてきよめ、目の中の梁を取り除いてくださいます。そして、迷惑を与える相手を赦す力、また相手の可能性を信じる力を与えてくださいます。さらに、どのように相手に語ればいいかを判断する知恵も与えてくださいます。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.良いものを与える存在となろう

まず祈ろう

誰かの問題点を本人に指摘したくなったとき、多くの場合怒りの感情にとらわれています。そして、怒りのままに発言してしまいがちです。怒りは損害を与えた相手に対する復讐の感情、処罰の感情、攻撃の感情ですから、相手は攻撃されたと受け止めます。そうすると相手は心をガードしたり、攻撃は最大の防御とばかりに逆ギレしたりします。どちらにしても、こちらが伝えたいことが充分伝わることなく、お互いに嫌な気持ちで終わってしまいます。
怒りを静める祈り
そこで、相手に指摘する前に、まずは静まって祈りをささげましょう。聖霊なる神さまが私の内で自由に働いてくださって、相手に対する怒りを静め、相手を赦すことができますように、と。
愛を求める祈り
相手のことを犬や豚や愚か者だと思って指摘しても、その指摘は相手の心に響きません。相手の罪を私たちが赦すどころか、私たちがその人のことを大切な兄弟姉妹として愛せるよう祈り求めます。
悔い改めの祈り
それから、自分自身の目の中に梁がないかチェックします。自分自身が相手と同じような間違いを犯していないか、同じような弱さを抱えていないか吟味しましょう。また、自分を量る基準と、相手を量る基準が異なる、ダブルスタンダードになっていないかチェックしましょう。

もしも思い当たることがあるなら、素直に認めて悔い改めましょう。イエスさまは、どんなひどい罪も十字架の血潮によって赦し、きよめてくださいます。そのことを確認して感謝しましょう。
知恵を求める祈り
そして、何をどのように語ればいいか、知恵を与えてくださいと聖霊さまにお願いしましょう。「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます」(ヤコブ1:5)。

プラスプラスの指摘をしよう

マイナスからプラスの励まし
人を励ます際、2つのやり方があるといわれています。一つは、「マイナスからプラスの励まし」です。「今はダメだけど、がんばれば良くなる」という励まし方ですね。

このやり方は、元々自信にあふれている人には効果があるのですが、自身をなくしている人にとってはかえってつらく聞こえる場合があります。「今はダメだけど」のところがやたらに心に響いてしまって、その後の励ましの部分が聞こえなくなってしまうのです。

皆さんは「うつ病の人を『がんばれ』と励ますのは良くない」と聞いたことがありますか? うつ病の人は、症状の一つとしてものごとを否定的に解釈する癖が強くなっています。ですから「がんばれと言われたということは、自分はがんばっていないと思われているということだ。でも、どんなにがんばっても体が動かない。これ以上どうがんばればいいっていうんだ! もう疲れた。死ぬしかない」と、かえって落ち込ませてしまうのです。
プラスからプラスプラスの指摘
一方、プラスからプラスプラスの励ましは、相手の現在を肯定するところから入ります。「あなたはこんなにすばらしい人だ。だから、ここのところを良くすればさらにすばらしさに磨きがかかるよ」という励まし方です。

軽石はどんなに磨いても宝石にはなりません。たとえ見た目が薄汚れていても、それがダイヤの原石なら、磨けば光り輝きます。あなたもそうです。あなたはすでに神さまに愛されているすばらしい神さまの子どもです。ですから、将来に希望があります。
プラスからプラスプラスの指摘
相手の問題点を指摘する場合も、プラスからプラスプラスの励ましを基本としましょう。相手が犬や豚や愚か者なら、どんなに指摘しても意味がありません。相手がすばらしい可能性を持った存在だからこそ、相手が自分の問題点に向き合うとさらに成長できるのです。

問題点を指摘する前に、その人の素晴らしい所を挙げてみましょう。できれば、相手にそれを伝えましょう。

コリント教会にはさまざまな問題があって、使徒パウロは第1の手紙でさまざまな問題点を指摘し、修正するよう求めました。しかし、問題点の指摘の前に、パウロはコリント教会のすばらしい点を挙げています。

「私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。キリストについての証しが、あなたがたの中で確かなものとなったからです。その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになっています。主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます」(第1コリント1:4-8)。

この話をお読みください。
先日、小学1年生くらいのお兄ちゃんが、5歳くらいの妹を蹴っ飛ばし、泣かしてしまった場面に遭遇しました。どうやら妹がお兄ちゃんのおもちゃを勝手にいじろうとしたようです。お母さんが妹をなだめている間に、お父さんがお兄ちゃんを指導しました。「Aくん。君は優しい子なんだから、嫌なことをされたときは、叩いたり蹴ったりしちゃいけない。言葉を使ってどうして欲しいかを言おうね」。「お見事!」と、思わず心の中で拍手しました。

「妹を蹴っ飛ばすなんて、お前はなんて乱暴者なんだ。妹には優しくしなさい。嫌なことがあったら叩いたり蹴ったりしないで言葉で言いなさい」でも、同じことを指導しています。しかし、これではもしかしたら「お前は乱暴者」という評価が、お兄ちゃんの心にすり込まれてしまって、お父さんの意図に反してますます乱暴な言動を引き出していくようになるかもしれませんね。

同様に、行動が遅いお子さんに「グズ。早くしろ」と言っていると、ますますグズになるだけでしょう。むしろ、物事をていねいに行なう持ち味があることを認めてあげてはいかがでしょうか。あるいは、いくらグズだと思われているお子さんでも、時間通りに行動できるときが必ずあるはずです。そういう普通にできたことを「そんなのはできて当たり前だ」などと無視したりしないで、しっかり指摘して、「早く準備ができたね。その分たくさん遊べてうれしいね」などと認めてあげてはいかがでしょうか。
プラスから始まる指摘、指導を心がけましょう。

自分も良いものを受け取ろう

私たちが、相手に対して瞬間的に攻撃的な言葉を投げかけるのではなく、プラスから始める指摘をすることができるためには、私たち自身が充分にプラスの関わりを体験しておく必要があります。

子どもの頃に虐待を受けた人は、自分の子どもを虐待する確率がそうでない人よりも高いという話はお聞きになったことがあるでしょう。それは、他に子どもに接するやり方を知らないからです。

私たちクリスチャンが愛の人に変えられ、たとえ問題点を指摘するという状況であっても、相手に良いものを提供することができるようになるためには、まず私たち自身が神さまから愛の体験をさせていただく必要があります。

この話をお読みください。
ノートルダム清心学園理事長で、シスターの渡辺和子さんが、こんな話をしておられます。「私が出張から疲れて帰ったとき、あるシスターが、私の『ただいま』に返事をしてくださらなかった。小さな傷です。しかしその後、私の方からそのシスターに話しかけるのには勇気がいりました」。

人に話したならば、「なんだそんなこと」と言われるような、そんな小さな小さな傷かもしれない。しかし、靴の中に入った小さな石ころや、入れ歯の間に入り込んだ小さなごま粒は、ひどい痛みを引き起こし、自由な行動をできなくさせてしまいます。それと同じように、小さな小さな心の傷が私たちの生き方をゆがめてしまい、神さまや人との関係をゆがめてしまいます。そして、その小さなゆがみが、積もり積もって大きなゆがみへと成長していくのです。

渡辺和子さんとは、一度直接お話しさせていただく機会がありましたが、本当に温かいぬくもりに満ちた方でした。それは、日々の生活の中で、やむを得ず負ってしまった小さな傷を放っておかないで、イエスさまによって慰めていただき、さらに相手を赦す力を求めていらっしゃるからでしょう。そうするとき、小さな傷は、単にいやされるだけでなく、他の人の小さな傷(そして大きな傷も)を共感する土台となるのです。

あなたも、小さな傷を負っていらっしゃいますか? イエスさまも傷を負ってくださいました。そしてその傷によって人類を救ってくださいました。どうぞ、あなたの小さな傷を、傷をいやす名人であるイエスさまに委ねてください。
このようにして、神さまとの愛の交わりの中でいやされ、強められる経験を積み重ねていると、他の人に何か指摘する場合でも、良いものを提供できるようになります。

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