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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

百人隊長のしもべのいやし

イエス・キリストの生涯シリーズ28

ルカによる福音書7章1節〜10節

(2023年4月30日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

1節の「これらの言葉」は、いわゆる山上の説教(山上の垂訓)のこと(マタイ5-7章、ルカ6:17-49)。

1節の「カペナウム」は、ガリラヤ湖北岸にあった町。ローマ軍の駐屯地がありました。
2節の「百人隊長」は、ローマ軍の百人隊(定員100人の部隊)を率いた指揮官。実践での戦闘指揮の他、軍の秩序維持、兵士の訓練なども担う重要なポジションでした。

5節の「会堂」(シナゴーグ)は、13才以上のユダヤ人男性が10人以上いる地域に建てられる、ユダヤ教の集会場のこと。礼拝や律法教育を行なう宗教施設であると共に、冠婚葬祭や文化活動を行なうコミュニティーセンターとしての役割も果たしています。

(画像引用「たけさんのイスラエル紀行」)

カペナウムの会堂跡。上の白い石の部分は紀元5世紀に建てられたものです。
その下の黒い部分は紀元1世紀のもの、すなわち今回登場する百人隊長が建てた会堂の土台部分だと考えられています。

イントロダクション

今回はローマ軍の百人隊長が主人公です。彼は異邦人ですが、イエスさまによって高く評価されました。いったい彼の何が評価されたのでしょうか。私たちもこの百人隊長に倣って、イエスさまに高く評価され、地上でも死んだ後でも大いに祝福される人生を歩みたいですね。

1.しもべのいやし

いやしの願い

カペナウム入り
「イエスは、耳を傾けている人々にこれらのことばをすべて話し終えると、カペナウムに入られた」(1節)。

これまで7回に渡って山上の説教(山上の垂訓)の内容を解説してきました。今回は山上の説教が終わった直後の話です。イエスさまは、拠点としていたカペナウムの町に戻ってこられました。カペナウムはガリラヤ湖の北岸にある町です。

百人隊長のしもべの病
「時に、ある百人隊長に重んじられていた一人のしもべが、病気で死にかけていた」(2節)。

百人隊長はローマ軍の士官で、100人の兵士を統率する中隊長です。カペナウムの町にはローマ軍の駐屯地がありましたから、この百人隊長もカペナウムに駐屯する軍隊を指揮していました。

(画像引用:Wikipedia
そんな百人隊長が頼りにしていたしもべが病気で死にかけていたと聖書は語ります。平行記事であるマタイ8:6によると、この病気は中風だと書かれています。おそらく脳血管障害のために、体がマヒして苦しんでいたのです。
いやしの願い
「百人隊長はイエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、自分のしもべを助けに来てくださいとお願いした」(3節)。

百人隊長は、イエスさまの噂を聞き、この人なら大切なしもべをいやしてくれるだろうと期待しました。そして、ユダヤ人の長老たちを仲介者として、イエスさまにしもべをいやしてくれるようお願いしました。

しもべとは、要するに奴隷のことです。しかし、ここで「しもべ」と訳されている言葉は「息子」とも訳せる言葉です。百人隊長にとって、このしもべは息子にも等しい大切な存在でした。

当時のローマ帝国には、たくさんの奴隷がいました。戦争で捕虜となった人、貧しさ故に身を売ったり親に売られたりした人、あるいはそういった奴隷身分の人から生まれた人などです。

ただ、アメリカの黒人奴隷と比べれば待遇が良く、能力のある人は執事として家の財政を切り盛りしたり、医師・会計士・家庭教師などの専門家として働いたりしました。このしもべも、百人隊長が頼りにしていたのですから、非常に能力のあった人なのでしょう。

それでも、主人の中には奴隷を虐待したり、道具のように使い捨てにしたりする人もいました。そんな人たちと比べると、しもべのいやしのために奔走してくれたこの百人隊長は、しもべたちに対して非常に愛情深い人だったと言えます。
長老たちの取りなし
「イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です」(4節)。

仲介を頼まれたユダヤ人の長老たちは、イエスさまに対して熱心にお願いしました。これは驚くべきことです。

当時のユダヤ人たちは、異邦人を非常に軽蔑していました。ユダヤ人は神さまに選ばれた民族であり、生まれながらにして救われ、将来神の国に招かれる存在、その一方異邦人は神に呪われた民族であり、地獄の火の燃料くらいに考えていたのです。

しかも、当時のイスラエルはローマ帝国によって占領され、属国となって、納税など様々な苦しみを負わされていました。そんなユダヤ人にとって、ローマ軍人はローマ人の中でも最も憎むべき存在のはずです。

ところが、カペナウムの町の長老たちは、この百人隊長の願いをかなえてくれるよう、イエスさまに熱心に願いました。脅されていやいやそうしたのではなく、自発的にそうしたということです。これはいったいどうしたことでしょうか。
長老たちの好意の理由
「私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました」(5節)。

山上の説教の中で、イエスさまは次のように教えておられます。「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)。「あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい」(マタイ5:41)。これは、当時のローマ兵がユダヤ人によく行なっていたことでした。属国の民であるユダヤ人に対して、多くのローマ兵は傲慢でひどい態度を取っていたのです。

ところが、この百人隊長はユダヤの民を愛してくれていると長老たちは語りました。しかも、ユダヤ人のために会堂の建設費用を支払ってくれました。今の日本円でどれくらいの金額か分かりませんが、数千万円は支払ったことでしょう。

この人は、他のローマ軍人とは違う。ユダヤの長老たちは感じました。そこで、イエスさまへの取りなしを依頼されたとき、いやいやながらどころか、喜んでその願いを受け入れたのです。それほどに、この百人隊長の人格に惚れ込んでいたと言えます。

百人隊長のメッセージ

イエスの応答
「そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた」(6節前半)。

イエスさまは、長老たちの願いを受け入れ、百人隊長のしもべをいやしてやろうと決意なさいました。そして、百人隊長がいるローマ軍の駐屯地に向かいました。
百人隊長からの2度目のメッセージ
「ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。『主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした」(6節後半-7節前半)。

百人隊長の願いを聞き入れ、今まさにイエスさまが向かっておられるという情報を百人隊長が受け取ったのでしょう。百人隊長は別の使いを遣わして、イエスさまがわざわざ我が家に来られる必要はないと言いました。

その理由は、自分はイエスさまを我が家にお迎えする資格がないということです。百人隊長は、自分は神の民であるユダヤ人ではなく異邦人だから、本来ならユダヤ人の王であるイエスさまにお願いができる筋合いではないと考えていました。

ですから、直接お願いにうかがうことも失礼だと考え、ユダヤの長老たちに取り次いでもらったのだと彼は言いました。

今の上皇陛下の時代から、皇族が国民に近い存在になりました。行く先々で一般の方たちと直接言葉を交わすということをなさっていますが、かつてはそうではありませんでした。皇族を直接見たら目が潰れるとさえ言われていたのです。臣下が直接言葉を交わすことなどあり得ず、取り次ぎの者を介してやり取りをしました。

百人隊長は、まるでローマ皇帝と接するときのように、自分がイエスさまと直接話をすることなどとんでもないと語ったのでした。
言葉だけで十分
「ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください」(7節後半)。

百人隊長は、言葉をくださるだけでしもべはいやされると語りました。すなわち、わざわざ我が家に来なくても「いやされよ」と語るだけで十分だということです。
言葉だけで十分な理由
「と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします」(8節)。

百人隊長の下には、最大100人の兵士が所属しています。彼らはどんなに激しく矢が降り注ぐ戦場であっても、あの丘を攻めるぞを言えば命がけでその命令に従います。また、しもべたちはどんなに面倒くさい命令であっても、自分の命令に従います。

ましてや、神が人となってこられた救い主、王の中の王、主の中の主であるイエスさまが命じるなら、どんなにひどい病でも、また悪質な悪霊でも、言うことを聞くはずだ。だから、わざわざ我が家にいらっしゃらなくても、その場で「いやされよ」というお言葉だけください。百人隊長はそう語っているのです。

イエスによるいやしのわざ

イエスの驚嘆
「イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。『あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません』」(9節)。

イエスさまは百人隊長の信仰深さにびっくりなさいました。この百人隊長はローマ人、すなわちユダヤ人ではなく異邦人です。神さまから与えられた啓示の量を比べれば、ユダヤ人よりもはるかに少ない情報しか持っていないはずです。それにもかかわらず、この百人隊長は当時の多くのユダヤ人よりも神さまが喜ばれる信仰を持っていました。

多くのユダヤ人はイエスさまを救い主だと認めようとしなかったのに、この百人隊長はイエスさまのことを神が人となってこられた権威あるお方、救い主だと信じていました。

マタイの福音書では、続けて当時のユダヤ人に対して辛らつな言葉が語られています。「あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです」(マタイ8:11-12)。

ここで「御国の子」とはユダヤ人のことです。もちろん、ペテロたちを始めとして多くのユダヤ人がイエスさまのことを救い主だと信じました。ただ、ほとんどのユダヤ人はイエスさまが救い主であることを認めませんでした。ユダヤ人として生まれたからといって、それが救いの保証にはなりません。ユダヤ人であっても異邦人であっても、イエスさまを救い主だと信じなければ救われません。故に、イエスさまはこんな辛辣なことをおっしゃったのです。
しもべのいやし
「使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた」(10節)。

百人隊長の願い通り、しもべはいやされました。

百人隊長は「お言葉をください」とお願いしているのに、ルカの福音書だけ見ると、お言葉なしにいやされたかのように思います。

しかし、マタイの福音書では、ちゃんとお言葉をくださっています。「それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」(マタイ8:13)。先ほど確認したように、その場に百人隊長はいませんから、実際には使いの者に語られたということです。

百人隊長が語ったとおり、イエスさまは言葉一つでいやしをなさいました。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちは、イエスさまが驚嘆なさるほどの存在になれるでしょうか。

2.イエスが認める人とは

イエスの権威を認める

権威とは、他のものを従わせる力のことです。百人隊長は、イエスさまには権威があることを認めました。しかも、この世のありとあらゆるものを従えることができるほどの権威です。

イエスさまは、神が人となって来られた方です。私たちが信じる聖書の神さまは、人間にちょっと毛が生えた程度の方ではありません。神さまは全知全能、何でも知っておられ何でもすることがおできになります。そのことを私たちは信じなければなりません。

そして、この世のあらゆるものがイエスさまに従うのであれば、私たち自身もまたイエスさまに従う必要があります。私たちは神さまの子どもですが、同時にイエスさまのしもべでもあります。イエスさまが私たちに何を望んでおられるかいつも聴き取って、たとえ自分自身の感情に反する命令であっても、忠実に従っていきましょう。
この話をお読みください。
セミナーで出会った靖子さん(仮名)は、鬱病の治療を受けています。いつも「自分が悪い」という思いに苦しんでいす。また、人から切り捨てられることが不安でたまりません。そして、ちょっとでも人との間にストレスを感じると、向こうに捨てられる前に、靖子さんの方から関係を切ってしまい、結果としてどんどん孤独になっていくのです。仕事も長続きせず、こんなことでは結婚もまったく考えられないとおっしゃいました。

これまでの病院での治療や、心に関するセミナーでの学びを通して、これらの自罰傾向や人間不信が親子関係から来ているということが、靖子さんにも分かっていました。お父さんが情緒不安定な方で、いつも突然怒りだし、靖子さんのことを理不尽な理由で殴ったり、家の外に追い出したりしたのです。そして、お母さんは泣いてばかりで、靖子さんのことを守ってくれませんでした。むしろ、靖子さんの方が、横暴なお父さんに悩まされるお母さんのことをいつも気遣っていました。

そう私に語りっていた靖子さんは、胃がひっくり返って吐きそうになりました。靖子さんによると、これはいつも感じる症状なのだそうです。胃のあたりに何かがいて、それが痛いのだとか。胃が痛いのではなく、「その何か」が痛がっている感覚です。

大人になった今も、言ってみれば、ご両親が心の中に住んでいて、「今のお前じゃダメだ。また叩くぞ。追い出すぞ。それが嫌ならもっとちゃんとしろ。人に気を遣え。自分のことなんて後回しにしろ」……と責め立てているようなものですね。

1回限りのカウンセリングを依頼された私は、まずはイメージ法というやり方で対処することにしました。そういう責める両親(実際の両親ではなく、心の中の両親。今ではお父さんはすっかり人が変わり、優しくなったそうです)を外に吐き出したいのかなと思い、「目をつぶって、ご両親がお腹のあたりにいるのをイメージして。それから、二人に『私の心の中から出ていけ!』と言いましょう」と申し上げました。

しかし、また激しく胃がひっくり返って倒れそうになりました。靖子さんは言いました。「かわいそうで、そんなこと言えません。二人とも弱いから」。

靖子さんは、いつも泣いていたお母さんだけでなく、お父さんも弱い人だと分かっていました。ですから、ご両親に対する怒りを持っていながらも、それを表に出すことができません。「お父さんも、お母さんも弱いから、怒れない」。彼女はそう言いました。

靖子さんがクリスチャンだと知った私は、イエスさまに登場していただくことにしました。イエスさまがそのお腹のところにいらっしゃったイメージを持ってもらい、イエスさまが靖子さんやお父さんたちに何を言い、何をするかをイメージしてもらったのです。

イメージの中で、イエスさまは靖子さんに「もう大丈夫。私があなたを守るからね。あなたは大切だよ。そんな理不尽な怒られ方をしなきゃならないような、悪い子じゃないよ」と言い、抱きしめてくれたそうです。そしてお父さんたちには「大切な娘になんてことをするんだ。もっと優しくしなきゃダメじゃないか」と、お父さんを叱ってくれたそうです。

しかし、またすぐに胃がひっくり返りました。そして、「いいえ。やっぱり私がダメなんです。ちゃんとやれない私が悪いんです。お父さんやお母さんに優しくできない私が悪いんです」と言います。

イメージ法を中断し、私は言いました。「ここ(お腹)にいるのは、お父さんでもお母さんでもなく、靖子さん自身だよね。イエスさますら入り込めないくらい、靖子さんの思い込みが占領しちゃっているね。イエスさまが、あなたのことを大切だと言っても、絶対守ると言っても、靖子さんは『自分はダメ人間だ。こんな子は死んだ方がマシだ。もっとがんばらないとダメだ』という自分の考えの方を優先させてる。靖子さん、あなたはイエスさまに従って生きていきたいの? それとも自分の考えを優先させて生きていきたいの?」

靖子さんは「イエスさま」とおっしゃいました。「じゃあ、悔い改めよう」。そう促すと、靖子さんは祈りました。「イエスさま。今まで、自分中心に生きてきたことを悔い改めます。そして、これからは『お前は大切だ。わたしはあなたを愛している。絶対守って幸せにするから大丈夫』とおっしゃるイエスさまの声を聞いて生きていきます。私も、イエスさまが大切にしている私自身を大切にします」。

再びイメージ法を使いました。「ここに、生まれたばかりの赤ちゃんの靖子さんがいます。いらない子だから、捨てちゃう? 何もできないから捨てちゃう? そんなことしないよね。さあだっこして。優しくなでてあげて。どう?」 靖子さんは、赤ちゃんを受け取り、だっこする仕草をしました。そして「かわいい」と言いました。「今まで、こんなかわいい子のことを、私は『お前はダメな子。いらない子。ちゃんとやれないなら死んじゃえ』っていたぶってきたんですね。でも、これからこの子のことを大切に育てます」。

そうして、その子を、お腹のところに戻してあげました。

翌日、再びセミナーでお目にかかったので尋ねてみると、あれ以来ひどい落ち込みや胃の痛みが無くなったそうです。そして、喜びが心を満たしているのが分かるとおっしゃいました。

いやしのカギは悔い改めでした。さて、あなたは、何を悔い改めなければなりませんか? イエスさまの約束よりも、あなたの考えの方を優先していませんか?
(当サイト「ショートエッセイ」より)

恵みに生きる

百人隊長は、イエスさまにしもべのいやしを求めました。しかし、自分にはイエスさまと直接お目にかかる資格さえないとも語っています。

私たちが神さまによって祝福されるのは、当然の権利ではありません。私たちは生まれながらに不完全であり、罪人です。神さまに呪われて、直ちに滅ぼされても文句の言えない存在です。

しかし、だからといって百人隊長は遠慮して黙っていたわけではありません。それでもイエスさまは自分の願いを聞き届けてくださり、大切なしもべをいやしてくださるはずだとも信じていました。

本来お願いなどできないはずなのに、それでも神さまは私たちを愛し、私たちの願いに耳を傾けてくださいます。これを恵みと言います。

私たちが罪を赦されて救われ、神さまの子どもとして祝福されるのは、私たちが何かすばらしいことを行なったごほうびではなく、神さまからの一方的な恵みです。そのことを決して忘れてはなりません。

愛を実践する

この百人隊長がイエスさまの力を求めたのは、自分自身の出世のためでも、贅沢な暮らしのためでもありませんでした。大切なしもべを助けたいという愛の動機からでした。

第1コリント13章は、よく結婚式の時に朗読される聖書の箇所です。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。(以下略)」というふうに、聖書が教える愛とは何かということが書かれています。

そして、その直前の箇所で、使徒パウロは次のように書いています。「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません」(第1コリント13:1-3)。

さらに次のように締めくくっています。「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です」(第1コリント13:13)。

私たちの行動、私たちの願い、私たちの目標、それらが神さまへの愛、人への愛に基づいているかどうか、いつもチェックしましょう。そして、愛の動機で願い、行動できるようにしましょう。

この話をお読みください。
Aさんは、人から誘われたり頼まれたりすると、なかなか断ることができなかったそうです。そのため後でくたくたになったり嫌な思いをしたりして、よく後悔したのだとか。

あるとき祈っていたら、自分のこの性格が恐れから来ていることが分かりました。誘いや依頼を断ると、嫌われてしまうのではないかという恐れです。またどこかに、「クリスチャンなんだから、自分を無にして他の人に仕えねばならない」という義務感もあったようです。

そしてその日、聖書の言葉が心にとまりました。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです」(第1ヨハネ4:18)。

「そうか。たとえ良いことをしたとしても、恐れを動機として行なったのなら、それは愛とは言えないのか」。Aさんはそう受け取りました。

次の日。友だちからLINEが入りました。「土曜日、映画見に行かない? 午後は買い物に付き合ってよ」。ところが土曜日の夜に妹が泊まりに来て、翌日は一緒に礼拝に行く予定になっていたので、土曜日の昼間に部屋の掃除や整理整頓をしたいと考えていました。ですから、本当なら断りたいところです。しかし、いつもの癖で「いいよ」と返信したくなってしまいました。

ハッと気づいたAさんは祈りました。「神さま。たとえ友だちが喜ぶ行動をしたとしても、恐れからしたことであればそれは愛ではないと、昨日あなたから教わりました。しかし、私の心は今、嫌われたらどうしようという恐れでいっぱいです。どうか私から嫌われることへの恐れを取り除いてください。断る勇気を私に与えてください」。

祈ったAさんは、特に自分が勇気凜々になった感じを受けませんでした。しかし、必ず祈りは聞かれていると信じたAさんは、内心プルプル震えながらもLINEで友だちに事情を説明して、誘いを断りました。

すると、友だちからは「そう。残念だけど、それじゃ仕方ないね。また今度。じゃ、お掃除がんばってね!」と優しい返事が来ました。

正しいことを行なおうとするとき、恐れが生じてブレーキをかけてくることがありますね。そんなときは正直に神さまに告白して、勇気を与えてくださるようお願いしてみましょう。そして、正しいことを実行しましょう。
(当サイト「ショートエッセイ」より)

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