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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

種まきのたとえ

イエス・キリストの生涯シリーズ30

マタイによる福音書13章3節〜9節

(2023年5月14日)

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

今回はイエスさまが語られたたとえ話に注目します。ここでイエスさまは種がまかれた4つの土地について語っておられます。これは、私たちの人生が実を豊かに実らせるために語られたものです。

豊かな実を結ぶとは、神さまが約束しておられる祝福を余すところなく味わうことです。たとえ経済的に豊かになったとしても、心の中が不安や不満やねたみや後悔や罪責感でいっぱいだったらどうでしょうか。人間関係がおかしくなって、争いや孤独に満ちた人生だったらどうでしょうか。そんな豊かさには意味がありませんね?

今日は、種まきのたとえ話から、私たちが豊かに豊かに実を結ぶことができるという励ましをいただきましょう。そして、そのための秘訣を教えていただきましょう。

1.たとえで語るイエス

教え方の変化

「イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた」(3節前半)。

今回の記事は、前回取り上げたベルゼブル論争直後の話です。その際、ベルゼブル論争を境として、イエスさまの活動がガラッと変わってしまったという話をしました。その変化の一つがたとえ話です。

以前は、イエスさまはストレートな教え方をしていました。しかし、ベルゼブル論争後、弟子たちに対してはストレートに教えましたが、まだイエスさまを救い主だと信じていない群衆に向かっては、たとえ話でしか教えなくなりました。

10節を見ると、弟子たちがイエスさまに「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」と尋ねています。それくらい、イエスさまの教え方がまったく変わってしまったのです。

では、なぜ変化したのでしょうか。

変化の理由

イエスさまは、疑問を抱いた弟子たちに変化の理由を語られました。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです」(11-12節)。

これはもちろん、貧富の格差拡大を肯定する言葉ではありません。霊的な世界の話です。イエスさまを救い主だと信じる信仰を持っている人は神さまに大いに祝福されるようになり、信仰を持っていない人は祝福を失っていくということです。
公の否定と目的の変化
ベルゼブル論争の時にお話ししたことは、イスラエルの国が公にイエスさまのことを救い主ではなく、悪霊の力を借りて奇跡を行なう魔術師であると断定したということです。イエスさまを救い主だと信じるユダヤ人はたくさんいましたが、国としては否定したのです。

その結果、イエスさまの活動の目的が変わりました。それまでは、ご自分が救い主だということを言葉と行動、特に奇跡によって示すことで、できるだけたくさんのユダヤ人がイエスさまを救い主だと信じるようにすることが目的でした。

本当ならば、救い主が地上に現れたので、約束されていた神の国(天の御国、千年王国)は、紀元1世紀の時代に実現していたはずです。その条件は、イスラエルが国を挙げてイエスさまを救い主だと認めることです。ところが、イスラエルは国としてイエスさまを否定してしまいました。

そのため、この後イエスさまは一時的に天にお帰りになります。そして、遠い未来に再び地上に戻ってこられることになりました。その結果、神の国の実現が、遠い未来まで先送りされることになったのです。
新しい目的
イエスさまがいなくなった地上では、残された弟子たちが教会を形成します。そして、イエスさまの体としてイエスさまによる救いを広めたり、神さまの愛を実現したりすることになります。

そこで、ベルゼブル論争後のイエスさまの活動の目的は、弟子たちを訓練して育てることに変わりました。
たとえ話の効果
たとえ話は、すでに信じている人や、信じようとして真剣に追求している人にとっては、真理を理解するために非常に役に立ちます。分かりやすいのです。しかし、信じようとしない人にとっては、何が語られているかさっぱり分かりません。

9節でイエスさまは「耳のある者は聞きなさい」とおっしゃいました。これは、聞こうとする人だけ聞いてくれたらいいという意味です。逆に言えば、聞きたくない人は聞かなくてもいいという突き放した言葉でもあります。

イエスさまがおっしゃっている通り、「信仰を持っている人は与えられてもっと豊かになり、信仰を持っていない人は持っている物まで取り上げられるのです」。そのため、イエスさまはたとえ話で語るようになりました。

種まきのたとえ

「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた」(3節後半)。

ここでイエスさまは9つのたとえ話を語られました。
  1. 種まきのたとえ(マタイ13:3-23、マルコ4:3-25、ルカ8:5-18)
  2. 自然に生え出た種のたとえ(マルコ4:26-29)
  3. 毒麦のたとえ(マタイ13:24-30,36-43)
  4. からし種のたとえ(マタイ13:31-32、マルコ4:30-32)
  5. パン種のたとえ(マタイ13:33)
  6. 隠された宝のたとえ(マタイ13:44)
  7. 高価な真珠のたとえ(マタイ13:45-46)
  8. 網のたとえ(マタイ13:47-50)
  9. 倉からものを取り出す主人のたとえ(マタイ13:51-53)
その最初のものが種まきのたとえです。このたとえ話では、4つの土地に落ちた種の行く末について語られています。そして18-23節で、イエスさまは弟子たちにこのたとえ話の意味を解説しておられます。

2.種まきのたとえの意味

(1) 道端

「蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった」(4節)。

イエスさまによる解説は次の通りです。「だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです」(19節)。

種とは、神の国に関する神さまの言葉のことです。そして、それを奪い取ってしまう「悪い者」とは、平行記事であるマルコ4:15によればサタン(悪魔)のことです。悪魔がせっかく蒔かれた神さまのみことばを取り上げて、実を結ばなくさせてしまうのです。

では、この種がまかれた道端とはどういう土地でしょうか。道は人によって踏み固められているため、種が土の中に入っていくことができません。道端とは、自分の価値観や考えに固執して、他の考え方を頑なに拒否する人の心のことです。

神さまのみことばは、人生を根本から作り変える力を持っています。人を罪から救い出し、人を内側から変化成長させ、永遠に続く祝福をもたらす力です。しかし、そんなすばらしい神さまの言葉でも、聞く人が最初から頑なに受け入れようとしなければ人生を変える力を発揮することができません。

聖書を読む際には、自分の考えは捨てなくてもいいので、少なくともとりあえず脇に置いておきましょう。そして、聖書が何を語っているかを客観的に読み取っていきましょう。

(2) 土の薄い岩地

「また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」(5-6節)。

イエスさまの解説は以下の通りです。「また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます」(20-21節)。

この土地は、「喜んで受け入れる人のことです」と解説されています。この人たちは、信仰を持ちはしました。ただ、それは感情的なものに留まっています。神さまの約束の、うれしい部分にだけ目を留めて喜んでいます。確かに、イエスさまを信じるクリスチャンに対して、神さまは考えられないような祝福を約束してくださっています。

ただ、同時にイエスさまは次のようにもおっしゃっています。「世にあっては苦難があります」(ヨハネ16:33b)。地上では、クリスチャンであっても問題に巻き込まれたり、病気になったり、誰かに意地悪をされたりして苦しむことがあります。

その理由がいくつかあります。
  • 悪魔が嫌がって攻撃を仕掛けるから。
  • イエスさまを信じ従いたくないこの世の人たちがクリスチャンに反発するから。
  • この世は、アダムの罪の結果呪われてしまっているから。
  • 神さまが問題を通してクリスチャンの信仰を鍛え、純粋なものにしようとしておられるから。
また、聖書の命令を忠実に守ろうとすると、時に私たちは自分の欲望や都合を抑えなければなりません。たとえば、「あなたの敵を赦し祝福しなさい」という命令を守るためには、相手に復讐したい、せめて心の中で呪い続けたいという思いを手放さなければなりませんね。それはとてもしんどいことです。

ですから、ただ感情的に喜んで受け入れるだけで、苦しみやしんどさも引き受ける覚悟をどこかでしないままだと、実際に困難や問題がやってきたときに、「こんなはずじゃなかった」とガッカリして、教会を離れてしまうことになります。

ただ、だからといって悲壮な覚悟まで求められているわけではありません。イエスさまは、クリスチャンが地上で苦しまなければならない現実を語られた後、次のように宣言なさいました。「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハネ16:33c)。

困難はありますが、その困難を乗り越える力を世に勝利なさったイエスさまが与えてくださいます。

(3) 茨の中

「また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった」(7節)。

茨は、聖書ではトゲを持つ雑草一般のことを指します。生命力が強く、麦が育つのに必要な水や光を奪ってしまうため、茨の群生地に落ちてしまった麦は、実を結ぶまで生長することができません。
イエスさまは次のように解説しておられます。「茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」(22節)。

この人もイエスさまを救い主だと信じました。しかし、みことばを聞くことよりも、日々の生活のことやお金のことを優先させてしまった結果、聖書が約束している祝福を余すところなく味わうことができなくなってしまいました。

確かに、お金は大事だし、食べたり飲んだり着たりすることも大切です。神さまはそれらを完全否定しておられるわけではありません。禁欲主義を教えておられるわけでもありません。

しかし、私たちの体力も精神的なエネルギーも使える時間も限られています。あれもこれもすべて行なうことはできません。アスリートが栄冠を得るために、様々なものをあきらめて訓練に集中したり食事制限に取り組んだりするように、私たちクリスチャンも優先順位を設定して、何を行ない何を行なわないであきらめるか決めなければなりません。

イエスさまがおっしゃった優先順位は次の通りです。「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタイ6:31-33)。

将来実現する神の国で味わえるような平和、喜び、感動が、今この時私たちの心の中や私たちの周りに実現すること。そして、神さまが喜ばれる生き方を私たちが実行できるようになること。それを求めることを、私たちの生活の第一優先にしなければなりません。

聖書の教えを聞いて守ることを、自分の優先順位の第一にすると言い換えてもいいでしょう。

そうでないと、私たちは神さまがせっかく約束してくださっている祝福された人生を味わい尽くすことができなくなってしまいます。

(4) 良い地

「また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった」(8節)。

イエスさまはこれについて次のようにおっしゃいました。「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです」(23節)。そして、そういう人は非常に多くの実を結ぶことができます。すなわち、神さまが約束されたものを地上や次に来る世において充分に味わうことができます。
良い地とは、これまで語られてきた実を結ばない3つの土地ではない土地だとも言えます。すなわち、次のような態度を持った人です。
  1. 神さまの言葉を、関心を持ち熱心に聞く人。
  2. 神さまの言葉を、読んでうれしい部分だけでなく、覚悟を求められるような部分も含めて選り好みしないで聞く人。
  3. 神さまの言葉を、優先順位の第一に置いて聞き、そして守ろうとする人。
神さまの言葉を熱心に学びましょう。聖書のどんな箇所も選り好みしないで読み、必要な犠牲を払う覚悟を決めましょう。そして、神さまの命令を守ることを、私たちの人生の第一優先にしましょう。
私たちは実を結ぶことができる
その時、私たちは力ある神さまのみことばによって人生を根本から作り変えられ、この世が決して与えることができないような祝福を味わうことができます。この地上でも、そしてやがて実現する神の国においても。

イエスさまは、あなたの人生にも豊かな実を結びたいと願っておられます。
久米小百合さん
この話をお読みください。
先日(註:2018年1月)、Eテレの「人生レシピ」に、音楽宣教師として活躍しておられる久米小百合さんが出演なさいました。久米さんは、かつて久保田早紀という名で一世を風靡しました。

ミュージシャンというのは、何年もコツコツと下積みをしながら実力を磨いていくものだと漠然と思っていたのに、デビュー曲である「異邦人」がいきなり140万枚を超える大ヒット。小百合さんは訳も分からないうちに、テレビ、ラジオ、ステージ、取材と、大変なスケジュールをこなさなければならなくなりました。

そんな中で、雑誌や新聞の取材で「久保田さんの音楽のポリシーは何ですか?」と聞かれるたびに、これまでそのようなことを考えたこともなかったことに気づかされ、悩みます。また、周囲に期待される音楽を作らなければならないというプレッシャーも、小百合さんを苦しめました。「久保田早紀」という自分とはかけ離れた存在を演じている感覚がずっとつきまとい、「私の人生のバックボーンは何だろう?」と真剣に考えるようになりました。

そんな中で、自分がどうして音楽をやりたいと思うようになったのか、その原体験を思い出しました。それは、子どもの頃に教会学校に通い、そこで聞いた聖歌・賛美歌、バッハの曲などです。もし、教会に行ったなら、自分のミュージシャンとしての根っこを手に入れることができるかもしれない。そんな思いで再び教会の門をくぐりました。

そんなある日の礼拝で、ガラリヤ湖でイエスさまが嵐を沈めたときの話が語られました。牧師は言いました。「皆さんの人生にも、必ず波や風が吹き荒れる時がくるでしょう」。今まさに自分はそういう状態だ。小百合さんはそう思いました。たった一人で、大嵐の海に漕ぎ出して、沖に進むことも港に戻ることもできず、右往左往している、それが自分だと。

牧師は続けます。「人間には2つの生き方があります。1つは、自分一人でボートを漕ぐ生き方。もう1つは、信じられるお方にボートに来ていただき、一緒に沖に向かってどんどん進んでいく生き方です」。それを聞いたとき、自分の人生にも、イエスさまに入ってきていただき、一緒に生きていきたいと、小百合さんは強く思いました。そして、イエスさまを信じ、洗礼を受けます。

その後、4年で芸能界を引退した小百合さんは、神学校で学んだ後、音楽を使ってイエスさまのことを伝える音楽宣教師となります。人生のバックボーンも、音楽のポリシーも分からなかったかつてとは違い、自分はこのために生きている、このために音楽をやっているということをはっきりと知って、生き生きと毎日を過ごしておられます。そして、多くの方々が、小百合さんの音楽を通してイエスさまと出会い、人生を造り変えられています。

イエスさまは、あなたの人生のボートにも入りたいと願っておられます。そして、豊かに豊かに実を結ぶ、あなたならではの人生を与えようとしてくださっています。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
イエスさまと共に、聖書の言葉によって、あなたならではの実を結んでください。

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