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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ベルゼブル論争

イエス・キリストの生涯シリーズ29

マタイによる福音書12章22節〜32節

(2023年5月7日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

23節の「ダビデの子」とは、救い主の称号です。救い主はダビデの子孫として生まれるという預言(第2サムエル7:8-16)から取られました。

24節の「ベルゼブル」は、元々はペリシテ人の町エクロンで礼拝されていた異教の神「バアル・ゼブール」(館の王)。ユダヤ人はそれをもじって「バアル・ゼブブ」(第2列王記1:2)、すなわち「ハエの王」と呼びました。やがて、サタン(悪魔)、または悪霊たちの中のリーダー格を表す名称となりました。ベルゼブルはバアル・ゼブブのギリシア語読みです。

32節の「人の子」は、救い主のことです(ダニエル7:13より)。イエスさまはご自身のことを「ダビデの子」とは呼ばず、「人の子」と呼ばれました。

イントロダクション

順番としては、ナインの青年バプテスマのヨハネからの質問罪深い女の記事が来ますが、2021年以降に取り上げていますので今回はスキップします。そして、今回はベルゼブル論争と呼ばれている事件を取り上げます。

イエスさまの公の活動は3年半と言われています。今回の記事は、活動を開始して1年半ないし2年の時が経過した頃の出来事です。活動初期の頃と比べると、この頃のイエスさまの言動にはある変化が生じていました。そして、その変化がこの事件で決定的となります。
活動の初期 ベルゼブル論争以降
イエスを救い主と信じていない人の前でも奇跡を行なった。 信者の前でしか奇跡を行なわなくなった。 
イエスが救い主だと信じた人に、そのことを他人に伝えることを特に禁じなかった。 イエスが救い主だということを他人に言わないよう強く命じた。 
 ストレートな教え方をした。 弟子たちにはストレートに語ったが、信じていない人にはたとえ話で語るようになった。
ベルゼブル論争はイエスさまの生涯でターニングポイントになった事件だということが分かります。いったい何が起こったのでしょうか。そして、今の私たちにどんな意味があるのでしょうか。

1.イエスとパリサイ人とのベルゼブル論争

特別な悪霊追い出し

悪霊つきのいやし
「そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった」(22節)。

イエスさまがいやしを行ないました。その人は盲目で、しゃべることもできませんでした。しかも、その原因は悪霊でした。

人間が創造される前、神さまは数多くの天使を創造なさいました。そのリーダーだったのがサタンです(エゼキエル28:11-14)。やがてサタンは傲慢になり、神さまに成り代わろうとして反乱を起こします(イザヤ14:13-14)。その時、全天使のうち1/3がサタンに従いました(黙示録12:3-4)。これが後の悪霊たちです。

この時の反乱は失敗しますが、サタンと悪霊たちは今も神さまに逆らい続けています。そして、神さまが愛する人間たちを罪に誘惑して神さまから引き離そうとしています。その一環として、悪霊が人に取り憑いて様々な苦しみを与えようとする場合があります。

今回登場した「目が見えず、口もきけない人」も、悪霊に取りつかれた結果そのような症状に苦しむことになりました。しかし、イエスさまはその人から悪霊を追い出し、苦しい症状から解放なさいました。
群衆の疑問
「群衆はみな驚いて言った。『もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか』」(23節)。

参考資料に書いたとおり、「ダビデの子」とは救い主を表す称号です。あのイエスというお方は救い主なのかと人々は語り合いました。

イエスさまはこれまでも悪霊の追い出しを行なってこられました。しかし、今回イエスさまが行なった悪霊追い出しは、それまでのものとは異なっていました。それは、追い出されたのがしゃべることをできなくさせる悪霊だったからです。

この当時、悪霊の追い出しを行なっていたのはイエスさまやその弟子たちだけではありません。27節でも触れられていますが、パリサイ人たちの中にも悪霊追い出しを行なっていた人たちがいました。

当時の悪霊追い出しは、次のように行なわれました。
  1. 悪霊に取りつかれた人に話しかけます。
  2. 悪霊の名前を聞き出します。
  3. 悪霊の名前を呼び、「出て行け」と命じます。
イエスさまも、悪霊レギオンを追い出した際に同じようなやり方をなさっています(マルコ5章)。

ところが、この人は口がきけませんから、悪霊の名前を聞き出すことができません。ですから、普通のやり方では悪霊を追い出すことができないのです。そこで、イスラエルの民を指導していたパリサイ人たちは、次のように教えていました。曰く「口をきけなくさせる悪霊は、救い主しか追い出すことができない」。

群衆はパリサイ人たちの教えを信じていましたから、口をきけなくさせる悪霊を追い出したイエスさまのことを、じゃあこの方は救い主なんだと考えました。ところが、一方でパリサイ人たちがイエスさまのことを憎んでいて、イエスさまは救い主ではないと考えていることを知っていましたから、これはいったいどういうことなのかと混乱してしまったのです。

パリサイ人の回答

ベルゼブルによる悪霊追い出しだ
「これを聞いたパリサイ人たちは言った。『この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ』」(24節)。

民衆の混乱を知ったパリサイ人たちは、危機に陥りました。

もし自分たちが教えていたとおり、口をきけなくする悪霊を追い出せるのは救い主だけなのだとすれば、イエスさまのことを救い主だと認めなければなりません。ところが、自分たちのことを偽善者呼ばわりし、パリサイ派の教えを次々と無視した行動を取るイエスさまのことを彼らは救い主だなどと認めたくありません。

しかし、イエスさまが救い主だということを認めなければ、これまで自分たちが教えてきたことが間違っていたということを認めなければなりません。プライドが高いパリサイ人たちにはそんなことをしたくありません。

実は、パリサイ人たちが危機に陥ったのは今回が初めてではありません。彼らが、この種類の奇跡は救い主しかできないと教えていたものが他の2つあります。1つは生まれつき目が見えない人のいやし、もう一つはツァラアトという特別な皮膚病のいやしです。

時期的には今回より後になりますが、ヨハネ9章でイエスさまは生まれつき目が見えない人のいやしをなさっています。そして、今回の出来事以前、イエスさまはツァラアト患者を何人もいやしておられます。

自分たちが「救い主しかいやせない」と教えていたツァラアトをイエスさまがいやしている以上、パリサイ人たちはイエスさまを救い主だと認めなければならないはずです。しかし、彼らはそんなことをしたくありません。

そこで彼らは、この矛盾を解決するための回答をすでに用意していました。それが「救い主しか行なえないはずの奇跡をイエスが行なえるのは、イエスが悪霊のかしらベルゼブルの力を借りているからだ」というものです。すなわちイエスさまは神さまが遣わした救い主ではなく、悪魔に仕える魔術師なんだと。

(画像引用:Wikipedia
これは、そこにいた数名のパリサイ人たちの個人的な意見ではありません。後の時代に完成するユダヤ教の経典タルムードには、イエスは魔術を行なってイスラエルを混乱させたため、死刑になったのだということが書かれています。すなわちこれは、イスラエルの国としての公式見解だということです。イスラエルの国は、国家として民族としてイエスさまを拒否したのです。

イエスの反論

仲間割れのたとえ
「イエスは彼らの思いを知って言われた。『どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか」(25-26節)。

イエスさまは、パリサイ人たちの苦し紛れの説明を批判なさいました。まず仲間割れのたとえを語られます。もしもイエスさまが悪霊を用いて奇跡を行なっているのなら、悪魔の勢力の中で仲間割れを起こしていることになるではないかというものです。

悪魔の勢力は、トップであるサタンを頂点として一枚岩の組織として活動しています。内部分裂などあり得ません。
ダブルスタンダードの指摘
「また、もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となります」(27節)。

先ほど申し上げたように、パリサイ人たちの中にも悪霊追い出しを行なっている人たちがいました。彼らは神さまの力によって奇跡を行ない、イエスさまの場合だけ悪霊の力によると主張するのは、ダブルスタンダードではないかという批判です。
神の国はすでに来ている
「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(28節)。

イエスさまは、ご自分の奇跡が神さまの御霊、聖霊さまのお力によるのだと主張なさいました。そして、神の国もすでに来ているとおっしゃいました。神の国(あるいは天の御国、千年王国)は、救い主が地上に実現する理想的な王国だと旧約聖書で預言されています。

すなわち、イエスさまは自分こそ神の国を実現する約束の救い主だと宣言なさったのです。
強盗のたとえ
「まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます」(29節)。

それからイエスさまは強盗のたとえを語られます。
  • 家は、悪霊に取りつかれて苦しんでいる人を指します。
  • 家に押し入って略奪する強盗は、聖霊なる神さまの力に満たされた救い主、すなわちイエスさまのことを指します。
  • 家を守っている強い者とは、悪霊のことです。
  • 家を略奪して家財を奪うとは、悪霊に取り憑かれていた人から悪霊を追い出していやすことです。
聖霊なる神さまの力に満たされた救い主は悪霊よりも強く、その悪霊を縛り上げることができます。だから、たとえ名前を聞き出すことができないやっかいな悪霊からでも、取り憑かれていた人を解放し、いやすことができます。

これこそ、今回の悪霊追い出しのカラクリであって、悪霊を使って悪霊を追い出すなどという説明は愚の骨頂です。
敵か味方かの二択
「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです」(30節)。

ここでイエスさまは、ご自分に対する態度は味方か敵かという二者択一だとおっしゃっています。イソップ寓話のコウモリのような、どっちつかずというグレーゾーンはありません。明確にイエスさまを救い主だと認めないのであれば、それはイエスさまを拒否し、イエスさまに敵対する方を選んでいるということを意味する。イエスさまはそうおっしゃいました。

パリサイ人たちはイエスさまを救い主だと認めませんでした。しかも、イスラエルの国は、国家としてイエスさまを拒否しました。イエスさまを救い主だと認めたユダヤ人はたくさんいましたが、国としてはイエスさまの敵になることを選んでしまったのです。
赦されない罪
「ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません』」(31-32節)。

そこでイエスさまは、イスラエルの国が神さまに対して「赦されない罪」を犯したと宣告なさいました。

たとえ父なる神さまを冒涜しても、救い主イエスさまに逆らうことを言ったとしても、悔い改めたなら必ず赦されます。しかし、聖霊さまに逆らう罪だけは決して赦されないとイエスさまはおっしゃいました。

これまで聖霊さまは、御子イエスさまを通してさまざまな奇跡を行ない、イエスさまこそ救い主だということを教え続けてこられました。聖書を専門的に研究するパリサイ人たちは、真っ先にそのことに気づいてイエスさまを救い主だと認め、そのことを民衆に教えなければならなかったはずです。ところが彼らはそうしませんでした。

それどころか、パリサイ人たちを始めとする指導者たちのほとんどがイエスさまを拒否し、国としてイエスさまのことを救い主ではなく魔術師だと認定してしまいました。これがイエスさまがおっしゃる「聖霊に逆らう赦されない罪」です。これは個人が犯した罪ではなく、国家が犯した罪です。

その結果、イスラエルの国全体がさばきを受けることになります。過去においても、イスラエルは何度か国家規模のさばきを体験しました。
  • 出エジプトの後、約束の地に入ろうとしたとき、イスラエルの民はヨシュアとカレブ以外の偵察兵の言葉を信じ、自分たちは約束の地に入れないと言いました。その結果、大人世代がみんな死に絶えるまで、イスラエルの民は40年間も荒野で放浪生活を送らなければならなくなりました。
  • ダビデ王が死んだ後、イスラエルの民は偶像礼拝・異教礼拝に耽り、不道徳な生活を繰り返しました。そして、それを戒める預言者たちの警告も無視しました。そこで、国が南北に分裂し、さらに北王国はアッシリアに、南王国はバビロンに滅ぼされて、多くの国民が外国に連れ去られてしまいました。
このたびも国家規模のさばきが下ります。まず、出エジプトで約束の地に入るときが先送りにされたのと同じことが起こりました。本当なら、すぐにでも神の国が地上に実現するはずだったのに、ずっと先の世代に先送りになってしまいました。

将来のある時、イスラエルの民は国家規模で悔い改め、イエスさまを救い主と認めます。そして「主よ、来てください」と祈ります。すると、イエスさまは地上に再臨なさり、悪を一掃して理想的な王国、神の国を地上に実現なさいます。

また、さばきとしてイスラエルの国が滅びました。今回の出来事から約38年後の紀元66年、ユダヤ人の一部がローマ帝国に対して反乱を起こします。それが思いのほか拡大したため、ローマ帝国は大規模な討伐軍を派遣しました。そして、紀元70年9月、ティトウス将軍率いるローマ軍がエルサレムを陥落させ、神殿も破壊されてしまいました。その結果、多くのユダヤ人がパレスチナの外に逃れていきました。

その後、紀元130年から132年にかけてもユダヤ人の反乱が起こり、「テルマエ・ロマエ」で有名なハドリアヌス帝が軍団を派遣します。その結果、エルサレムは再び陥落して「ユダヤ」という名称が削除されると共に、エルサレムへのユダヤ人の立ち入りが禁止されてしまいます。

こうして、多くのユダヤ人が世界中に散らされることになりました。そして、1948年にイスラエル共和国が建国されるまで、ユダヤ人は世界中で迫害され、苦しめられることになります。

では、私たちはこの記事をどのように受け止め、自分自身の生き方に生かせばいいのでしょうか。

2.神の恵みを知り、それに応答しよう

神の恵み

今回の箇所で、イエスさまは「赦されない罪」について語られました。そんな箇所を読むと、「もしかしたら自分は赦されない罪を犯してしまったかもしれない。これから犯すかもしれない」と不安になるかもしれません。

しかし、「赦されない罪」は、イエスさま時代のイスラエルの国が犯した罪です。あなたや私個人が犯せる罪ではありません。また、すでにさばきは完了しています。
赦されない罪はない
一方、あなたや私がいったん受け取った個人的な救いは、決して取り消しになりません。イエスさまがこの自分の罪を赦すために十字架にかかられたこと、死んで葬られたけれど3日目に復活なさったことを事実だと信じるなら、あなたは過去どんな罪を犯していようとも、またこれから死ぬまでの間にどんな罪を犯そうとも、必ず救われます。

聖書が言う「救い」とは、社会的に成功してお金持ちになるとか、病気が治って健康になるとか、人間関係が良好になるとかいう意味ではありません。結果としてそうなる場合もありますが、本質はそこではありません。
神との和解
聖書が教える救いとは、神さまとの和解です。すなわち、罪が赦され、その結果神さまとの愛に満ちた良好な関係が回復するということです。

もしも神さまと私たちが良い関係ならば、私たちには怖いものは何もありません。私たちは、不正な手段でお金を儲けなくても幸せになれます。他人を蹴落とさなくても幸せになれます。嘘をついて自分を守ろうとしなくても幸せになれます。たとえこの地上では苦労続きであったとしても、死後の第2の人生では大きな報いを受け取ることができます。
そして、それは恵み、神さまからの一方的な恵みとして与えられました。

応答

その恵みに、私たちは応答し続けていかなければなりません。これに関して3つのことを申し上げます。
感謝し続けよう
イエス・キリストを信じた私たちは、一方的に罪を赦され、愛され、永遠に祝福されます。そのような神さまの恵みを知り、それを信じたならば、私たちはそれに応答しなければなりません。すなわち、そのことを信じて感謝するということです。

感謝は、信仰を表現する最も良い方法の一つです。
従い続けよう
私たちは完全に赦されており、どんな罪を犯したとしても救いが取り消しになることはありません。とはいえ、じゃあ安心して罪を犯そうということにはなりません。私たちが神さまの恵みに感謝しているのなら、そのような発想ができるはずがありません。

また、クリスチャンになってからどんなに罪を犯そうとも、救いが取り消しになることはありませんが、それでも悔い改めずに罪深い生活を送っていると、神さまからの教育的指導を受けて苦しむことになります。

イスラエルの民が国家規模のさばきを招くことになったのは、ユダヤ人に与えられた神さまからの使命を忘れてしまったからです。ユダヤ人が神の民として選ばれたのは、自分たちだけが祝福されるためではありません。神さまを知らない他の民族、異邦人に神さまのことを伝え、彼らが神さまを信じて救われるためです。

ですから、まずユダヤ人がイエスさまを救い主だと信じて従う必要があったのに、彼らはそうしませんでした。だからさばきを受けることになってしまったのです。これはユダヤ人の目を覚まさせるための、神さまからの教育的指導です。

私たち異邦人クリスチャンは、イスラエルの民ではありません。しかし、それでも神さまの子どもにしていただくというとんでもなくすばらしい特権をいただきました。恵みによって救われた私たちには、まだそれを知らない人たちに伝える責任が与えられています。
信じ続けよう
ただ、もしも私たち自身が神さまからの完全な赦し、神さまの守りと祝福を信じていなければ、他の人には伝わりませんね。

アダムが罪を犯して以降、アダムが支配していたこの地球も一緒に罪の呪いを受けてしまいました。この世界は、本来の麗しい姿を失ってしまっています。ですから、時折ひどい自然災害が起こって人間を苦しめます。また、アダムの子孫はみんな罪人ですから、互いに傷つけ合うことがあります。

そこで、たとえクリスチャンであっても、この世で生きているうちは苦しみに遭うことがあります。時には、本当に自分は神さまの子どもとして祝福されているんだろうかと疑いたくなるほどの苦しみを体験することもあります。それでも私たちはイエスさまによって救われ、神さまと良い関係になったこと、そして神さまに愛され祝福されいるということを信じ、感謝し続けなければなりません。

この話をお読みください。
日本の知的障がい者福祉の草分けであり、社会福祉法人「滝乃川学園」の創設者である石井亮一・筆子夫妻に関する記事を読みました。

後に亮一さんの妻となる筆子さんは、親が決めた許嫁と結婚して3人の娘をもうけます。しかし、上の2人は知的障がいがあり、三女は生まれて間もなく亡くなりました。そして、夫も病気で亡くし、虚弱だった次女も亡くなってしまいます。

そんな頃、死者7千人を出した濃尾大地震が起こります(1891年10月28日)。そして、孤児となった女の子たちをさらって女郎屋に売り飛ばす人たちが現れました。そこで、女子の孤児たちを保護して養育する働きを始めたのがクリスチャンの石井亮一さんでした。

そして、様々な悲しみを通してイエスさまと出会い、クリスチャンとなっていた筆子さんは、亮一さんの働きに共鳴して経済的な援助を始めます。亮一さんの運営する養育施設には知的障がい児もいたため、筆子さんはその施設に長女を預け、自分もその施設で働くようになりました。こうして、やがて二人は結婚します。

しかし、1921年、生徒の火遊びから施設に火災が発生し、生徒6人が亡くなってしまいました。さすがの亮一さんも、「神さまは私たちを見放された。この試練に耐えるだけの信仰は、私にはない」と叫ぶほど意気消沈します。そして、二人は施設の閉鎖を決意しました。

ところが、神さまは二人と孤児たちを見放しておられませんでした。新聞に施設の焼失の記事が載ると、大正天皇の皇后を始め、全国から多くの寄付や励ましの手紙が寄せられました。そして、渋沢栄一氏の助けを借りて財団法人化し、火災から半年後には施設を再開することができたのです。

次から次へと問題が押し寄せ、「自分は神に見捨てられた」と言いたくなるような状況。それでもイエスさまの愛を信じ続け、みこころを行なおうと努め続けている人を、神さまは決して見放すことをなさいません。もちろん、あなたのことも。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
恵みによって救われた私たちは神さまと良い関係にあります。ですから、何があっても、何がなくても大丈夫です。そのことを今日も信じて感謝しましょう。

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