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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

五千人の給食

イエス・キリストの生涯シリーズ34

ヨハネによる福音書6章5節〜13節

(2023年6月18日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

今回の五千人の給食の奇跡は、4つの福音書すべてに書かれている唯一の奇跡です。

4節の「過越」は、モーセの律法が毎年行なうよう命じている7つの祭りの第1番目のもの。かつてモーセに率いられたイスラエルがエジプトを脱出した故事を記念しています。

7節の「デナリ」(ディナリウス)はローマ帝国で流通した銀貨で、1デナリは労働者1日分の給料に相当しました。

イエスさま時代のデナリ銀貨
左は皇帝ティベリウス、右はその母リウィアの肖像
(画像引用:World Coin Gallery

イントロダクション

今日は、有名な五千人の給食の奇跡を取り上げます。ここから私たちは、イエスさまが私たちの本当の必要に応えてくださるお方だということを確認して、平安を与えられましょう。まずはこの奇跡を、順を追って見ていきます。

1.食べ物が増える奇跡

直前のエピソード

十二使徒の帰還とヨハネ殉教の知らせ
イエスさまは故郷であるナザレの村を訪問し、その後近くの村々で教えを語られました。それから12人の弟子を2人1組にして、イスラエル各地に派遣します。これについては前回のメッセージで取り上げました。

時は紀元29年の春で、過越の祭りが近づいた頃(4節参照)、イエスさまが十字架にかかられる1年ちょっと前です。遣わされていた十二使徒がイエスさまの元に戻ってきました。場所はおそらくガリラヤ湖の西岸地域です。ちょうどその時、預言者であるバプテスマのヨハネが殉教したという知らせがイエスさまの元に届きます。
休息するようにとの指示
その知らせを聞いたイエスさまは、弟子たちにおっしゃいました。「『さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい』。出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである」(マルコ6:31)。

十二使徒は、伝道旅行に出かける際に悪霊を追い出したりいやしを行なったりする力が与えられました。そのため、帰ってきたばかりなのに、イエスさまと一緒にいやしなどの奉仕を忙しく行なうことになりました。イエスさまは、彼らには休息が必要だとお考えになったのです。

そこでイエスさまに促された弟子たちは、舟に乗ってガリラヤ湖の北東岸に向かいました。彼らが目指した場所は、ガリラヤ湖北の河口の東側から1.5キロほど北にあったベツサイダの近くです。
イエスさまも弟子たちに同行なさいましたが、別の舟に乗っておられました(マタイ14:13、マルコ6:32)。
ついてきた群衆
ところが、群衆は陸路で先回りしました。非常にたくさんの人々がイエスさま一行を待ち構えています。それを見たイエスさまは舟を下りました。当然弟子たちもイエスさまに従って舟を下ります。

イエスさまは集まってきた人たちをあわれに思われました。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた」(マタイ14:14)。

しかも、イエスさまは彼らを迷惑に思われたのではなく、喜んでお迎えになりました。「イエスは彼らを喜んで迎え、神の国のことを話し、また、癒やしを必要とする人たちを治された。」(ルカ9:11)。

前の年の夏から秋にかけての時期、イスラエルの国は公式にイエスさまのことを救い主ではないと決定しました。イエスさまを信じるユダヤ人はそれまでも、そしてそれ以降もたくさん現れましたが、国としては拒否したのです。そこで、イエスさまの活動方針が変わりました。以前は多くの人にイエスさまが救い主だということを知らせて、信じさせることが目的でした。しかし、公式拒否以降は弟子たちを訓練することが目的になりました。

その一環として、信じていない人の前で奇跡を行なうことは控えるようになっておられました。ところが、ここでイエスさまは多くの人をいやしておられます。それだけ、イエスさまはイスラエルの人々のことを大切に思ってくださったのです。

こうしてイエスさまは、休む暇もなくいやしを行なったり教えたりなさいました。弟子たちも同じように人々をいやしたり、交通整理を行なったりと、忙しく働いたことでしょう。

そうこうしているうちに日が傾き、間もなく日暮れの時がやってこようとしていました。そこから今回のエピソードが始まります。

イエスと弟子の問答

ピリポへの問いかけ
「イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。『どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか』」(5節)。

日が暮れると夕食が必要になります。イエスさまは、群衆がおなかをすかせてしまうことを心配なさいました。そして、ピリポにどうやってパンを手に入れたらいいかお尋ねになりました。
イエスの意図
「イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた」(6節)。

イエスさまは、ご自分が奇跡を行なうことで群衆のおなかを満たそうとしておられました。ピリポは、イエスさまにはそのような力があるということを信じなければなりませんでした。そこで、ピリポにそれを信じる信仰があるかどうか試すため、5節のような質問をなさったのです。活動後期のイエスさまは弟子訓練を目的にしておられましたが、ピリポへの質問もまた弟子訓練の一環です。
ピリポの回答
「ピリポはイエスに答えた。『一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません』」(7節)。

ピリポは、そこにいた人々にパンを配るために必要な費用をザッと見積もりました。集まっていた群衆の数は13歳以上の成人男性だけで5千人。女性や子どもを入れれば軽く1万人は超えていたでしょう。その人たちにパンを配るには、200デナリあっても足りないとピリポは言いました。

200デナリとは一般的な労働者が200日働いて稼ぐお金です。福島県の最低賃金である時給858円で計算すると、1日8時間で6,864円、200日だと1,372,800円です。イエスさま一行は質素な暮らしをしていましたから、そんなお金は持っていなかったでしょう。つまり、ピリポの答えは「私たちには彼らに食糧を用意できません」でした。

ピリポは計算に強い人だったようです。しかし、全知全能の神が人となって来られた救い主であるイエスさまのお力を、その計算に入れることができませんでした。
弟子たちの願いとイエスの命令
他の弟子たちもピリポと同様、不十分な信仰しか持っていませんでした。そこで弟子たちはイエスさまに言いました。「群衆を解散させてください。そうすれば、彼らは周りの村や里に行き、宿をとり、何か食べることができるでしょう。私たちは、このような寂しいところにいるのですから」(ルカ6:35)。

ところが、イエスさまはとんでもないことをおっしゃいます。「すると、イエスは答えられた。『あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい』。弟子たちは言った。『私たちが出かけて行って、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか』。イエスは彼らに言われた。『パンはいくつありますか。行って見て来なさい』」(マルコ6:37-38)。
アンデレの報告
弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。 『ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう』」(8-9節)。

弟子たちは当惑しながらも、人々の間を巡って食べ物がないか尋ねて回りました。11人の弟子たちは何も見つけられませんでしたが、ただ一人アンデレだけが食べ物を見つけてきました。
しかし、その内容は5つの大麦パンと2匹の魚だけ。持ち主であるこの子どもには十分であっても、1万人以上の人々の必要の前では無きに等しい量です。ですから、アンデレも「何になるでしょう」と否定的な見解を述べています。

アンデレは、イエスさまの命令を忠実に行なう人、特に他の人をイエスさまの元に連れてくることが得意な人でしたが、彼もまたイエスさまの偉大な力を計算に入れることができませんでした。

イエスによる奇跡

増えた食糧
「イエスは言われた。『人々を座らせなさい』。その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた」(10-11節)。

ヨハネの福音書には書かれていませんが、他の3つの福音書を見ると、群衆は50人から100人のグループに分けられました。そして、イエスさまはパンと魚を弟子たちに分け与え、弟子たちが人々に分け与えました。

つまり、イエスさまが弟子たちに手渡すときにパンと魚の数が増え、弟子たちが人々に配っている間にもどんどん増えていったということです。それはどんなにか驚くべき光景だったことでしょうか。

この奇跡は、4つの福音書すべてにかかられている唯一の奇跡です。それだけ弟子たちにとって印象深い出来事だったからに違いありません。

(画像引用:「ピエール・ビター ― 5000人への給食」より)
弟子たちへの報酬
「彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。『一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい』。そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった」(12-13節)。

余ったパンを集めると、12のかごいっぱい残っていました。12という数字がわざわざ記されているのは、残ったパンが十二使徒にも与えられて、彼らの食糧となったことを表しています。

弟子たちは休むためにベツサイダ近くまでやってきました。ところが、人々が集まってきて、ゆっくり休むことができず、人々のために働きました。弟子たちは疲れていましたし、おなかもすいていました。そんな弟子たちに、イエスさまはちゃんとねぎらいの報酬を用意してくださったのです。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.イエスは私たちの必要を満たしてくださる

イエスは私たちの本当の必要をご存じだと知ろう

イエスさまは、自分を追いかけてきた人々に対して、いつもの行動方針を曲げて多くのいやしを行ない、また人々を教えました。それは、その人々がいやしを求めていたからです。そして、群衆がおなかをすかせているのを見て取って、彼らに食べるものを用意しようとしてくださいました。

また、イエスさまは弟子たちに休息が必要だと考えてくださり、休むよう指示なさいました。そして、弟子たちのおなかも満たしてくださいました。

イエスさまは、今を生きる私たちに必要なものもご存じで、積極的にそれを満たしてやろうとしてくださっています。当時のピリポや他の弟子たちはそのことを信じることができませんでしたが、私たちはそのことを知る必要があります。
私たちの必要
私たちの必要は、お腹が満たされることだけにとどまりません。ある人は悲しみを抱えていらっしゃるでしょう。ある人は、人間関係で圧迫を感じているでしょう。ある人は経済的な必要を覚えているでしょう。ある人は、何をどう決断していいのか分からず、迷っていらっしゃるでしょう。

イエスさまは、あなたの必要が何であれ、それを満たしてくださいます。たとえあなたの願い通りのことが起こらなかったとしても、もっと素晴らしい方法で満たしてくださいます。

あなたは今、悲しんでいますか? 悩んでいますか? むなしさを抱えていますか? それが何であれ、イエスさまはすべてご存じです。そして、助けの手をさしのべてくださいます。

その結果、問題そのものを取り除いてくださるかもしれません。問題に耐える力を与えてくださるかもしれません。ものの見方が変わって、問題が問題に見えなくなるかもしれません。ほかの状況を変えることで、問題がもはや問題でなくなるようにしてくださるかもしれません。一緒に戦ってくれる仲間を送ってくれるかもしれません。いずれにしても、イエスさまは、あなたの問題に介入し、助けを与えてくださいます。
私たちの本当の必要
しかも、イエスさまは私たちにとって本当に必要な助けをご存じであって、それを与えようと思っていてくださいます。
この話をお読みください。
礼拝メッセージで、「今よりも、もう一回り大胆な祈りをしてみましょう」と提案したことがあります。翌週、さっそく実行なさった方がこんなことをおっしゃいました。

「自分が、もう少し大胆に『神さま、○○を与えてください。人生を○○にしてください』と祈るたびに、心の中で、『そりゃ、無理だよ』『絶対、そんなことにならないよ』と声が聞こえて、かえってつらくなる。自分は、神さまや人にお願いをするのが怖い」と。

そこで申し上げました。「それならば、『神さま、怖いのです。助けてください』とお祈りしましょう。なぁに、大丈夫です。あなたが願い事をお祈りできなくても、聖霊さまが代わりに取りなしをしてくださっていますから、神さまはちゃんとあなたの願いを知っておられますよ」。

宅配ピザを注文するとき、ちゃんと現住所をお店に伝えますね? 格好をつけて、住んでもいない高級住宅街の住所なんか伝えません。神さまとの関係、祈りも同じです。

私たちは、自分の「今いるところ」を知って、その自分の思いを神さまに訴えればいいのです。そうすれば、神さまは、ちゃんとあなたの「今いるところ」にふさわしい助けをくださいます。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
この方には様々な願いがあって、それをかなえてほしいと思いました。しかし、その前にお願いすることに対する怖さをどうにかしなければ祈ることができません。そして、そこに焦点を合わせて祈られたのです。

そして、確かにイエスさまはこの方の本当の必要に応えてくださいました。後にお聞きしたところ、この方は怖さを克服して祈ることができるようになったとのことです。

たとえ私たち自身が本当に必要なものについて分かっていなくても、イエスさまはご存じです。そして、群衆がおなかいっぱい食べられたように、私たちの必要を充分に満たしてくださいます。そのことを知り、信じ、感謝し、期待しましょう。

イエスの祝福は一方的に与えられる恵みだと知ろう

弟子たちは、「群衆を解散して、彼ら自身が食べ物を調達できるようにしましょう」とイエスさまに提案しました。しかし、イエスさまは弟子たちが彼らの食糧を用意せよとおっしゃいました。

そして、見つけ出してきたわずかな食べ物を、イエスさまはどんどん増殖させてくださって、人々のおなかを満たしてくださいました。

イエスさまは、私たちの必要、特に本当に必要としていることをご存じで、それを豊かに満たしてくださると申し上げました。その祝福は、イエスさまが一方的に与えてくださるものです。これを聖書は「恵み」と呼んでいます。
恵みとは
「恵み」に関するフィリップ・ヤンシーの定義を再確認しましょう。「恵みとは、『神さまにもっと愛されるために私たちにできることは何もない』ということ、さらに『神さまにもっと愛されなくなるために、私たちにできることも何もない』ということである」。
恵みによる救い
イエスさまの祝福は、恵みによって与えられます。特に救いは恵みによって与えられるということを、私たちは決して忘れてはなりません。

救いとは、私たちが天の父なる神さまを無視してきた罪を赦され、神さまと仲直りをしたばかりか、親子関係を結ぶことができたという祝福です。それは、私たちの立派な行ないに対する報酬ではなく、あるいは何かの悟りを開くことによってではなく、一方的な恵みによって与えられます。

私たちが救われるためにすべきことは恵みの福音(福音=良い知らせ)を信じることだけです。恵みの福音とは、「イエス・キリストは、この私の罪を赦すために十字架にかかられたこと、死んで葬られたけれども3日目に復活なさったこと」です。これを事実であると信じて受け入れるなら、私たちは救われた神さまの子どもとされ、永遠に続く祝福を得られる存在となります(第1コリント15:1-8参照)。
救いも、その他の祝福も、イエスさまからの一方的な恵みによって私たちに与えられます。それをいつも忘れないようにしましょう。

イエスの恵みを信じるべきだということを知ろう

そして、祝福が恵みによって与えられると知った私たちは、それを信じて受け入れなければなりません。

この話をお読みください。
以前、外部奉仕で訪れた教会で、20代前半の女性とお話ししました。高校生の頃から、その教会に通っておられるとのことでした。途中、何度も集会に行ったり行かなかったりを繰り返したそうです。しかし、お祈りをしたり、聖書も読んだり、メッセージを聞いたりして涙を流すこともあるといいます。

ところがこの方、会話の端々に「でも私はクリスチャンじゃないんですけどね」と付け加えるのです。それが気になった私は、「私から見ると、あなたはクリスチャンのように見えるのですが、クリスチャンじゃないとおっしゃるのはなぜ?」と尋ねてみました。

すると、まだ洗礼を受けていないからという答え。そこで、「いや、洗礼式は入学式みたいなもので、洗礼を受けたらクリスチャンになるのではなくて、クリスチャンになったから、それを記念して洗礼を受けるんですよ」と申し上げました。

しかし、まだ釈然としない表情なので、「他に理由はありますか?」と尋ねますと、「礼拝などで、牧師さんじゃない人が、代表してみんなの前でお祈りをしますよね(ちなみに、中通りコミュニティ・チャーチの礼拝では、今のところやっていません)。私、あんなに長く上手に祈れないんです」。

それに対する私の答えは、「心配しなくて大丈夫。私のポリシーは、『個人の祈りは長く、公の祈りと食前の祈りはできるだけ短く』なんですよ。それに、慣れれば上手に祈れるようになるし」。

このような会話をしばらく続けた後、私はこう尋ねてみました。「クリスチャンって、どういう人のことだと思っていらっしゃいますか?」 すると、「立派で、聖書で勧められているような生活をしている人」。

そこで私お得意の一言。「クリスチャンって、図々しい人のことなんですよ。だって、一方的に赦されて、そのままで神さまに愛されているなんて、図々しい話だと思いませんか? 神さまになんにもお返しできなくても、神さまは私を祝福してくれるはずだなんて、なんと図々しい考えだと思いませんか? でも、その図々しいことを信じているのがクリスチャンなんですよ」。

あらためてお聞きしました。「あなたはクリスチャンですか?」 するとその方はにっこり笑って、「はい。私は図々しいことを信じています。ですから私もクリスチャンです」。そして、間もなくご自分の教会で洗礼をお受けになりました。

あなたも、今よりほんのちょっとだけでも図々しくなってみませんか?
(当サイト「ショートエッセイ」より)
私たちは、救いや祝福が恵みだということを忘れてしまいそうになることがあります。その結果、罪責感に陥ったり、不平不満が出てきたり、将来に対して不安を感じたりしてしまいます。

そのことに気づいたら、改めて祝福は恵みだということを思い出しましょう。そして、「私はあなたが私の必要をご存じであり、それを満たしたいと願っておられること、そして実際に一方的にそれを与えてくださるお方だと信じます」と宣言しましょう。

今週も、イエスさまが皆さんの必要を大いに満たしてくださいますように祈ります。

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