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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

十二使徒の派遣

イエス・キリストの生涯シリーズ33

マルコによる福音書6章7節〜13節

(2023年6月11日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

1節の「十二人」は、いわゆる十二使徒(十二弟子)。具体的には、「十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである」(マタイ10:2-4)。
なお、ヨハネの兄弟ヤコブは大ヤコブ、アルパヨの子ヤコブは小ヤコブ(マルコ15:40)とも呼ばれています。
また、バルトロマイはピリポと並んで紹介されていることから、ヨハネ1:43-51でピリポがイエスさまに紹介したナタナエルと同一人物ではないかと言われています(バルトロマイとは、タルマイの息子という意味)。

8-9節について、ルカ9:3では「旅には何も持って行かないようにしなさい。杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません」と命ぜられています(マタイ10:10も同様)。マルコでは杖1本を持参していいと言われているのに、マタイやルカでは杖を持っていくなと命ぜられています。これは矛盾ではなく、すでに持っているもの以外予備を持っていくなという意味です。

イントロダクション

今回の話の前には、長血の女性のいやしヤイロの娘の蘇生の話が書かれていますが、聖書の女性シリーズや信仰の助演男優賞シリーズで取り上げたので今回はスキップします。

今日のメッセージは、十二人の主だった弟子たち、いわゆる十二使徒がイスラエル各地に遣わされ、奇跡を行ないながらイエスさまのことを宣べ伝えることになったという話を取り上げます。ここから、私たち人間に対するイエスさまの思いを読み取りましょう。

1.十二人の派遣

愛に基づく十二使徒派遣

直前の話
「また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった」(7節)。

「また」と書かれていますが、この直前の話を受けている言葉です。ヤイロの娘をよみがえらせたイエスさまは、ヤイロの家(おそらくカペナウム)を去って故郷であるナザレに向かいました。

1年ほど前にもイエスさまはナザレを訪問しましたが、その時ナザレの人々はイエスさまのことを救い主だと受け入れませんでした。そればかりか、イエスさまの叱責の言葉に怒ったナザレの人々は、イエスさまを崖から突き落として殺そうとさえしました(最初のナザレ伝道についての解説は1月8日の記事をお読みください)。
あれから1年経って、イエスさまの噂はかなりナザレにも伝わっていたはずです。しかし、今回もナザレの人々はイエスさまを拒否します。その結果、次のように書かれています。「それで、何人かの病人に手を置いて癒やされたほかは、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を巡って教えられた」(5-6節)。

イスラエルの国が公式にイエスさまのことを救い主ではないと決定して以降、イエスさまの活動の目的が変わりました。以前はできるだけたくさんのユダヤ人にご自分が救い主だということを伝えて信じさせることが目的でしたが、公式拒否以降は弟子たちを訓練することが目的となりました。

その一環として、この頃のイエスさまは、ご自分のことを救い主だと信じた人の前でしか奇跡を行なわなくなっていました。今回ナザレでほとんど奇跡を行なわなかったのもそのためです。
十二使徒の派遣
しかし、代わりに十二使徒をイスラエル各地に派遣し、悪霊追い出しやいやしなどの奇跡を行なわせました。これは、弟子たちを訓練するためです。教師や医師を目指す人が実習に行くようなものです。

実習に向かう十二使徒に、イエスさまは悪霊を追い出す権威をお授けになりました。権威とは、相手がたとえ嫌がったとしても思い通りに動かすことができる雰囲気・迫力のことです。神が人となってこられた救い主イエスさまには、当然悪霊を思い通りに追い出す権威がありますが、同様の権威が人間である弟子たちにも与えられたのです。
イエスのあわれみ
そして、今回の十二使徒派遣は、使徒たちを訓練するという目的だけではありません。それは、イスラエルの人々に対するイエスさまの深いあわれみの心から出ています。

マタイの福音書には、今回の話の直前に次のようなエピソードが書かれています。

「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。そこでイエスは弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい』」(マタイ9:35-38)。

羊はあまり賢くなく弱い動物だそうです。羊飼いが世話をしてやらないと、すぐに迷子になったり、飢えてしまったり、穴に落ちたり、木の枝に毛か引っかかって身動きが取れなくなったり、野獣に殺されたりして生きていけません。

イエスさまの目には、救い主を信じていないイスラエルの民が、羊飼いのいない羊のように見えました。

イスラエルは、国としてはイエスさまを拒否しました。そのため、紀元70年に国が滅びるというさばきが下ることになります。しかし、個人的にはまだイエスさまを救い主だと信じて救われる人が起こされる可能性があります。たとえ国が滅びても、霊的な救いを得ていれば、永遠に続く祝福を手に入れることができます。

そして地上でも、導き手であるイエスさまを信じ、イエスさまに従うことによって、どのように人生を送ればいいかを知ることができます。羊飼いを得た羊のように安心して暮らすことができるようになるのです。
そこでイエスさまは、救いの道を宣べ伝える伝道者を起こしてくれるよう祈れと弟子たちにお話しなさいました。十二使徒が伝道旅行に遣わされたのも、彼らの訓練のためという目的だけでなく、彼らを通してイエスさまを信じる人が一人でも多く起こされるようにとイエスさまが願われたからです。

イエスさまが1年前にすでに拒否され、殺されそうな目にさえあったナザレ村に再び足を向けたのも、今度こそ信じて救われてほしいという願いを持っておられたからです。

十二使徒派遣は、イエスさまの人間に対する深いあわれみ、なんとしても救い出して神さまとの関係を回復し、永遠に続く苦しみではなく永遠に続く祝福を体験させたいという愛の思いの表れです。

使徒たちへの注意事項

持ち物について
「そして、旅のためには、杖一本のほか何も持たないように、パンも、袋も、胴巻の小銭も持って行かないように、履き物ははくように、しかし、下着は二枚着ないようにと命じられた」(8-9節)。

よけいな持ち物は持参するなと命ぜられています。マタイの福音書にはその理由が書かれています。「働く者が食べ物を得るのは当然だからです」(マタイ10:10)。すなわち、神さまが伝道旅行に必要なものをすべて用意してくださるということです。弟子たちは神さまの支えを信じて出ていかなければなりません。そして、実際にそうしました。

30節を見ると、12人の弟子たちはみんな無事にイエスさまのところに帰ってきています。確かに神さまは弟子たちの必要に応えてくださいました。
拠点について
「また、彼らに言われた。『どこででも一軒の家に入ったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまりなさい』」(10節)。

マタイの福音書には、もう少し詳しく記されています。「どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい」(マタイ10:11)。

ふさわしい人というのは、イエスさまを救い主だと信じていて、弟子たちの働きを物心両面から喜んで支えたいと願っている人です。
信じようとしない場所に対する対処
「あなたがたを受け入れず、あなたがたの言うことを聞かない場所があったなら、そこから出て行くときに、彼らに対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい」(11節)。

12人の弟子たちは、イエスさまこそ旧約聖書が約束してきた救い主だということ、そして救い主がすでに登場したので、聖書が預言してきた神の国が実現するときが近づいたということを伝えるようイエスさまに命ぜられました(マタイ10:7)。

しかし、ある町や村に行って、ナザレ村の人たちのように誰も弟子たちのメッセージに耳を傾けない場合はどうしたらいいのでしょうか。天から火が下って彼らが滅ぼされるよう祈るのではなく、足の裏のちりを払い落とせとイエスさまはおっしゃいました。これは「この町の人々が私の語る言葉を受け入れず。その結果神さまにさばかれることになったとしても、私には責任がない」という意味です。
かつてエゼキエルが預言者に選ばれたとき、神さまは次のようにおっしゃいました。

「わたしが、悪い者に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる」(エゼキエル3:18-19)。

エゼキエルの預言者としての責任は、相手を悔い改めさせることではありません。神さまが語れとおっしゃることをそのまま分かりやすく伝えることです。エゼキエルが忠実に語らなければ神さまはその責任を問われます。しかし、忠実に語った上でなら、聞いた人の反応についてはエゼキエルに責任を問われません。聞いた人自身に責任が問われるのです。

今回イスラエル各地に遣わされる弟子たちも同じです。イエスさまが語れとおっしゃるメッセージを忠実に分かりやすく伝えることが彼らの責任であって、聞いた人が信じるかどうかまで責任を負わされることはありません。

実践

「こうして十二人は出て行って、人々が悔い改めるように宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした」(12-13節)。

実際に十二使徒は出て行き、これまでの生き方を悔い改めてイエスさまを救い主だと信じるよう宣べ伝えました。また、その証拠として、イエスさまが自分たちに与えてくださった県意を用いて、悪霊を追い出し、病人をいやしました。

こうして弟子たちは、かつてはイエスさまの奇跡を見るだけだった生活から、自らも奇跡を行ないながらイエスさまのことを宣べ伝える生活になりました。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.イエスの思いを我が思いとしよう

イエスの思いを知ろう

イエスさまの思いとは、人の救いです。聖書が教える救いとは、お金持ちになるとか健康になるとか社会的に成功するとかいうことではありません。罪からの救いです。
罪とは
教会ではよく「罪」という言葉が聞かれます。あまり聞きたくない言葉ですね。罪とは神さまを無視して、自分勝手に生きることです。それは神さまを侮辱することですから、本当なら罪を犯した人は神さまの怒りを買って滅ぼされても文句は言えません。

まことの神さまから離れてしまった人間は、羊飼いのいない羊のようなものです。みんなそれぞれ自分が正しいと思うこと、自分がやりたいことを優先させて生きています。その結果、互いの利害が衝突して、家庭や社会が混乱してしまいまっています。そして、最終的には罪の罰として永遠の苦しみを刈り取ることになります。
神のあわれみと恵みの福音
しかし、聖書の神さまはそんな人間をあわれんでくださいました。私たち罪ある人間たちを滅ぼしたくないと思ってくださったのです。

それでも、神さまは愛であると同時に正義でもいらっしゃいます。罪を無かったことにはできません。罪は必ず裁かれなければ神さまの正義が成り立ちません。そこで、神さまは身代わりをお立てになりました。

そして、子なる神であるイエスさまが人となって地上に来られ、私たちの代わりに罪のない生き方をなさいました。そして、十字架にかかって死ぬことによって、本来私たちが負わなければならなかった罪の罰をすべて身代わりに負ってくださいました。

私たちがイエスさまの恵みの福音を信じるとき、すなわち「イエスさまが、この私の罪を赦すために十字架にかけられたこと、死んで葬られたけれども3日目に復活なさった」ということを真実であると受け入れるとき、その人の罪は本当に赦され、神さまの子どもとされ、永遠に続く祝福が約束されます。
神の思い
父なる神さま、子なるイエスさま、聖霊なる神さまは、私たちが恵みの福音を信じて救われることを望んでいらっしゃいます。私たちはすでに信じて救われましたが、まだまだ世界には信じていない人たちがたくさんいます。その人たちがすべて信じ救われること。これが神さまの願い、イエスさまの思いです。

使徒ペテロは手紙の中で、神さまがなかなか最後のさばきをなさらないことについて、次のように述べています。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(第2ペテロ3:9)。

私も皆さんも、イエスさまのこの熱心な願いによって救いに導かれました。そして、羊飼いに導かれる羊のように、平安や喜びや感動や希望に満ちた人生を手に入れました。

このイエスさまの思いを、私たちの思いとしましょう。「イエスさま、あなたの救霊の思いを、我が思いとさせてください」と祈りましょう。

遣わされて語ろう

そして、十二使徒がイスラエル各地に遣わされたように、私たちも遣わされて福音を語りましょう。では、私たちはどこに遣わされるのでしょうか。

もしも、聖霊さまから宣教師になって外国に行くよう促されたり、フルタイムの牧師になるよう促されたりしているなら、それに従ってください。しかし、すべてのクリスチャンがフルタイムの伝道者になるよう召されるわけではありません。私たちは、生活の中で置かれているその場所で、それぞれイエスさまのことを伝えることが期待されています。
難しい話をする必要はありません。むしろみんな難しい話は敬遠しますから、しない方がいいでしょう。単純に、皆さんがイエスさまを信じる前の状態と、信じた後の状態を話すだけで充分です。イエスさまによって変えられた人生を伝えるのです。そうやってイエスさまに興味を持ってもらいます。

その上で、チャンスがあれば教会の集会に誘ったり、信仰書を貸して読んでみるよう促したりしてみましょう。

私たちはそうやって、他のクリスチャンからイエスさまの話を聞いて興味を持ち、やがて福音を信じて救われました。今度は私たちがイエスさまのことを他の人に伝える番です。

結果は聖霊にゆだねよう

ナザレの人々がイエスさまを信じなかったように、私たちの話を信じないどころか、聞こうとさえしない人たちもいます。

もちろん、私たちが上から目線で「聖い私が邪悪なあなたを回心させてやる」みたいな態度で語るなら反発を食らうでしょう。また、あれこれしゃべりすぎて結局何が言いたいのか分からない話になってしまうと、相手は混乱するだけです。

また、私たちの実際の生活が、語っていることとかけ離れていると、信憑性がありません。たとえば、「イエスさまを信じて毎日が平安と感謝でいっぱいです」と言いながら、実際にはあちこちで不平不満を垂れ流していたのでは、聞く人は「本当かなぁ」と疑わしく感じることでしょう。

私たちは、イエスさまについて謙遜に、そして分かりやすく話せるよういつも準備しておく必要があります。そして、嘘や虚飾のない本当のことを語る必要があります。しかし、そんな工夫や努力をしてなお聞こうとしない人、信じない人がいたとしても、それは私たちの責任ではありません。
なお期待し続けよう
そんなとき、私たちは靴の裏をパーンとはたく必要はありません。心の中で、神さまがこの人に別の機会を与えてくださり、救いに導いてくださるよう祈りましょう。今はダメでも、将来その人が救われることを期待し、祈るのです。

神学生の頃、ハーベストタイムというテレビ伝道番組の裏方を手伝っていたことがあります。番組作りに参加していた照明さんは、クリスチャンではありませんでした。毎回収録のたびに、牧師のメッセージやゲストの体験談を聞いているのにイエスさまを信じようとしませんし、教会の集会に顔を出すということもありませんでした。しかし、番組が終了して何年も経ってから、この方がイエスさまを信じて救われたという話を聞きました。

その時、私たちの話を聞いてもらえなくても、いつかどこかでその人が福音に耳を傾け、素直に信じられる時が来るかもしれません。私たちはそういうときが来ると信じて、その方のために祈りましょう。

皆さんを通して、多くの人がイエスさまと出会い、一人でも多くの人を救いに導きたいと願われる神さまの思いが実現しますように。

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