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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

湖上歩行

イエス・キリストの生涯シリーズ35

マタイによる福音書14章22節〜34節

(2023年6月25日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

22節の「向こう岸」は、34節によるとガリラヤ湖の北西岸にあったゲネサレ付近。弟子たちが元いた場所は、ガリラヤ湖北東岸にあったベツサイダの近くでした。
一方、マルコ6:45には「イエスは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダに先に行かせて」と書かれています。ベツサイダは、弟子たちが元いた場所(五千人の給食が行なわれた所)からは東の方角だと思われます。いったんベツサイダに向かい、日が暮れてから西に向かって再び船出するようイエスさまが命じたのかもしれません。そうでなければ、ベツサイダに向けて東進したのに、強風によって西に流されてしまったのでしょう。

24節の「スタディオン」は長さの単位。1スタディオンは約185メートル。ヨハネ6:19には「二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ」と書かれているので、4.6キロから5.6キロほど沖合に弟子たちの舟がいたことになります。

イントロダクション

イエスさまのご生涯を、順を追って解説しています。イエスさまはこれまでさまざまな奇跡を行なってこられました。今回の出来事の直前には、五千人の給食の奇跡を行なわれました。そして今回は、イエスさまは水の上を歩かれました。おまけに、イエスさまがお命じになると、使徒ペテロも水の上を歩くことができました。

ここから、問題に直面して絶望しかけても、私たちには希望があるという励ましを受け取りましょう。

1.イエスとペテロの湖上歩行

向こう岸を目指す弟子たち

弟子たちの先行
「それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた」(22節)。

イエスさまは弟子たちを舟で向こう岸に渡らせました。向こう岸というのは、参考資料にも書いた通り、ゲネサレの町近くの湖岸です。平行記事には「イエスは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ」(マルコ6:45)と書かれています。というのは、その場所が危険だったからです。

ヨハネの福音書を読むと、何が危険だったかが分かります。「イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた」(ヨハネ6:15)。

五千人の給食の奇跡に興奮した群衆は、イエスさまを王にしようとしました。その当時イスラエルの国を支配していたローマ帝国に対して反乱を起こし、イスラエルを独立させる解放者としての王です。当時のユダヤ人の多くは、救い主のことを、罪の問題を解決して神さまとの関係を回復してくれるお方としてではなく、政治的な解放者としてとらえ、登場を待ち望んでいました。

そのような期待は弟子たちの中にもありました。ですから、そこに留まり続けると、群衆の熱気に巻き込まれて、彼らもイエスさまを王として担ぎ上げる危険がありました。そこで、弟子たちを無理矢理舟に乗せて向こう岸に渡らせようとなさったのです。
イエスの祈り
「群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた」(23節)。

群衆を解散させたイエスさまは、山に登って祈りに専念なさいました。イエスさまは、三位一体の神の第二位格、すなわち100%神です。しかし、地上では一人の人間として過ごされました。父なる神さまにより頼み、聖霊なる神さまの助けを受けながら働かれたのです。

ですから、イエスさまは折に触れて祈り、父なる神さまの導きと聖霊さまの満たしをお求めになりました。今回もそうです。
風と波に悩まされる弟子たち
「舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた」(24節)。

ガリラヤ湖はすり鉢のように周りを山に囲まれています。普段はとても静かですが、時折山から吹き下ろす冷たい風と、湖面の暖かい空気によって低気圧が発生して嵐が起こります。

以前、ガリラヤ湖東岸のデカポリス地方を訪れた際も、イエスさまと弟子たちが乗った舟が大変な嵐に巻き込まれたことがあります。そして、イエスさまが風と湖を叱りつけると、一瞬で大凪になりました(5月21日のメッセージ参照)。

今回はそこまでひどい嵐ではありませんが、それでも向い風によって舟がなかなか前に進みません。嵐が起こってもすぐに避難できるよう、ガリラヤ湖の舟は沿岸近くを航行しますが、弟子たちの舟は風に流されたのでしょう、沖合4、5キロのところをうろうろしていました。

イエスの湖上歩行

近づくイエス
「夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた」(25節)。

日暮れから未明まで、9時間以上も弟子たちは向かい風と格闘しました。すると、なんとイエスさまが湖の上を歩いて弟子たちの舟まで近づいてこられます。
恐れる弟子たち
「イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ」(26節)。

時はまだ夜明け前で、たとえ月が出ていたとしてもはっきりと見えるわけではありません。そして、まさか人間が湖の上を歩けるなどと、弟子たちは考えもしません。ですから、幽霊だと思って震えおののきました。

幽霊とは、死んだ人の霊があの世に行かずに現世をさまよっているものです。聖書にはそのようなものが存在するという教えはありません。しかし、海や湖で溺れ死んだ人の霊が現れて、生きている人を水の中に引き込んで殺すという迷信が、特に漁師たちの間で信じられていたようです。自分たちも、幽霊に襲われて湖の中に引きずり込まれると考え、弟子たちは恐れたのです。
イエスの励まし
「イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた」(27節)。

イエスさまは、自分がイエスさまだと語って、弟子たちを励まされました。しかも、「すぐに」と書かれています。弟子たちが恐れたままであることを望まず、すぐにでも安心させたかったのです。

ペテロの体験

ペテロの申し出
「するとペテロが答えて、『主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください』と言った」(28節)。

十二使徒の一人であるペテロは、イエスさまにお願いをしました。それは、自分も湖の上を歩いてイエスさまの元に行きたいから、そのように命じてくれということです。

この言葉には、ペテロの信仰が表されています。それは、「イエスさまがお命じになるなら、すなわちイエスさまがそのように望まれるなら、たとえ不可能だと思えるようなことでも必ず実現する」という信仰です。

五千人の給食の奇跡の前、ペテロは他の11人と同様、2人1組になってイスラエル各地に伝道旅行に遣わされました。その際、イエスさまは弟子たちに悪霊を追い出したり、いやしを行なったりする権威をお授けになりました。それによって、ただの人間であるペテロたちは奇跡を行なうことができるようになります。

ですから、今回もイエスさまがそうお望みになり、お命じになるなら、ただの人間である自分も水の上を歩けるとペテロは信じたのです。
ペテロの湖上歩行
「イエスは『来なさい』と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った」(29節)。

イエスさまは、ペテロが願ったとおり「来なさい」とお命じになりました。すると、ペテロはその命令に従って、舟の外に出ました。

これはとんでもなく勇気の必要な行動です。片足を湖の湖面に置き、そこに体重をかけて初めて舟の外に出ることができます。もしも、水上を歩く力が与えられていなければ、波が逆巻く夜の湖に飲み込まれて溺れ死んでしまうかもしれません。イエスさまが命じたことは必ず実現するという信仰がなければ、そんなとんでもない行動を取ることはできません。

しかし、ペテロはイエスさまに信頼して、一歩を踏み出し、そのままイエスさまに向かって歩き始めました。
沈みかけたペテロ
ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ」(30節)。

イエスさまを見つめて歩いていたペテロですが、つい目を離して風に意識を向けてしまいました。もちろん、空気の流れである風自体は見えませんが、風が吹き付けて湖面が激しく波立っている様子は見ることができます。ペテロはそれを見て、自分が到底不可能なことを行なっていることに気づきました。そして、恐れを感じます。

すると、それまで問題なく湖上を歩いていたにもかかわらず、ズブズブと沈み始めたではありませんか。
この話をお読みください。
エイブラハム・リンカーンの名言の一つに「ほとんどの人は、自分で決めた分だけ幸せになれる(Most folks are about as happy as they make up their minds to be.)」というものがあります。

幸せになるかそうでないかは、自分で決められるということですね。たとえ幸せとは逆の状況が次々と起こっても、それでも自分は幸せになれると信じ続けることはできるし、そう信じられる人が本当に幸せになれるのだ、と。

イエスさまもおっしゃっています。「あなたの信じたとおりになるように」(マタイ8:13)。
(本サイト「ショートエッセイ」より)
今回、ペテロが湖の上を歩いたのも、途中で歩けなくなって沈みかけたのも、どちらもペテロの信仰の通りです。
  • 「イエスさまがそうお望みになり、お命じになったことは、たとえ常識的には不可能なことでも必ず実現する」とペテロが信じていたときには、実際そうなりました。
  • 「自分なんかが水の上を歩けるはずがない」と信じたとき、その通りになりました。
つまり、水の上を歩いたのも、また歩けなくなったのも、ペテロの信仰次第だったということです。
イエスによる救出と語りかけ
「イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。』」(31節)。

イエスさまは、ペテロの不信仰を嘆いて、戒めのためにしばらく溺れて苦しむのを眺めておられた……わけではありません。ペテロが助けを求めると、すぐに彼を水の中から引き上げました。

そして、ペテロに「信仰の薄い人だなぁ。どうして疑ったんだ」と声をおかけになりました。この箇所についていろいろな牧師がサイトで解説をしていますが、多くの人がイエスさまは厳しくペテロを叱責したのではなく、クスクス笑いながらおっしゃったのだろうと語っています。私もそのように受け取っています。

それは次のような理由からです。ペテロは最終的には失敗してしまいました。しかし、少なくとも「イエスさまが命じたことは、どんなに荒唐無稽なことであっても実現する」という信仰を持ちました。また、それをはっきりと言葉で告白しました。さらに、その信仰を行動によって示しました。そのことを、イエスさまが無視なさるはずがない、必ず喜ばれたからに違いないと信じるからです。

100%完璧でなくても、良い動機で始めたことをイエスさまは喜ばれます。途中で、がんばったり、工夫したり、耐え忍んだりしたことをイエスさまは喜ばれます。もちろん、それらに結果が伴うに越したことはありません。それでも、たとえ結果が伴わずに失敗したとしても、イエスさまは、天の父なる神さまは、聖霊さまは、動機や途中の努力を無視するような冷淡なお方ではありません。

舟の中に留まった11人は失敗しませんでした。溺れかける恐れを経験せずに済みました。しかし、彼らはペテロが体験したこと、すなわち湖の上を実際に歩いたこと、叫び求めたらすぐにイエスさまに救出していただいたこと、一緒に舟まで歩いたことを体験できませんでした。ペテロは失敗しましたが、失敗しなかった11人より、ずっと豊かな体験をしたのです。

イエスさまはそれを喜び、水から引き出されたペテロに笑顔で語りかけたに違いないと私は信じています。
弟子たちの礼拝
「そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。舟の中にいた弟子たちは『まことに、あなたは神の子です』と言って、イエスを礼拝した。それから彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に着いた」(32-34節)。

イエスさまがペテロを連れて舟に乗り込まれると、ピタリと向かい風がやみました。以前のように、イエスさまが奇跡の力によって風を鎮めたに違いありません。

これまでも、弟子たちはイエスさまのことを、旧約聖書が登場を約束してきた救い主だと信じていました。そして、何度も驚くような奇跡を目撃しました。

しかし、今回の湖上歩行の出来事を通して、弟子たちはイエスさまについて、これまで知っていた以上にものすごい力をお持ちなのだということを思い知らされました。そして、ひれ伏して礼拝しました。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.大きなことを願おう

イエスの力に期待しよう

12人の弟子たちは、イエスさまと共にずっと過ごしていました。その間、さまざまな奇跡を目撃していました。それでも今回のように、イエスさまの新たな力に触れて驚かされます。

私たちが想像しているイエスさまは、実際よりもずっとずっと小さいお方です。本当のイエスさまには、私たちが想像するよりもはるかに力があり、知恵に満ち、愛にあふれておられます。

いつも聖書に立ち返って、私たちの中のイエスさま像を修正していきましょう。
イエスがくださる力を期待しよう
特に今回、私たちはペテロが持った信仰に倣いたいと思います。すなわち、イエスさまがそうお望みになり、お命じになるならば、私たちもイエスさまと同じことができるようになるということです。

聖書的な裏づけもあります。最後の晩餐の時、イエスさまは弟子たちにおっしゃいました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです」(ヨハネ14:12)。イエスさまと同じことができるようになるどころか、それ以上のことができるようになると約束なさいました。

イエスさまが父のもと、すなわち天にお帰りになると、代わりに聖霊なる神さまが来られて、クリスチャンの心の中に住んでくださるようになります。そして、聖霊さまがクリスチャンに大きなことを行なわせてくださいます。
それは、湖の上を歩く力ではないかもしれません。しかし、たとえそうでなくても他の力を授かります。ペテロがペンテコステの日に説教すると、1日に3000人の人が悔い改めてクリスチャンとなりました。その後も、数多くの奇跡を行ないました。

私たちもペテロと同じように、自分もイエスさまに大きな力を授かることができると信じましょう。人を救いに導く力、人を慰め、励まし、いやす力、社会の矛盾を解消する力、人間関係のほころびを繕う力……。そして、そのような力を自分にも与えてくださるよう祈りましょう。
神の約束は?
もちろん、私たちが望むことが何でもできるようになるわけではありません。昔お隣の国で、嵐で増水した川を渡ろうとしたクリスチャンが、おぼれて死んでしまうという事件が起こったそうです。今回の箇所を思い出して、自分も渡れると思ったのです。

ペテロは、イエスさまから「来なさい」と命ぜられて渡りました。その命令はペテロ個人に向けて語られたものです。誰でもいつでも水の上を歩けるという約束ではありませんね。

神さまが私たちに何を約束しておられるかということを知ることが大切です。その約束に基づいて期待を抱き、力や知恵を祈り求めましょう。

今、あなたはどんな問題に直面していますか? 神さまはそれに対してどんな約束をしていますか? その約束を信じるとすれば、あなたはどんな行動が取れますか? そして、いつそれをしますか?

イエスを見つめ続けよう

イエスさまの「来なさい」という命令を聞き、「イエスさまがお望みになり、お命じになることは必ず実現する」と信じたペテロは、実際に水の上を歩くことができました。ところが、イエスさまから目を離し、風を見てしまった結果、恐れのあまり信仰を失って沈みかけてしまいます。

風は目に見えませんね。しかし、ペテロの心には見えていました。それは、「こんなふうになるんじゃないか」「こんなふうになったらどうしよう」という先取りの恐れです。それが彼の足をすくませ、「ここまで歩けたんだから大丈夫」という自信を打ち砕いてしまいました。

あらかじめ、いろいろな危険を想定しておくことは大切です。しかし、いったん踏み出したなら、イエスさまから目を離してはいけません。すなわちイエスさまの約束のみことばから目をそらしてはいけません。約束のみことばを忘れて、これから起こる災難ばかりを見ていたら、私たちも嵐に負けてしまいます。

この話をお読みください。
11月第4木曜日は、アメリカでは「感謝祭」の祝日です。感謝祭といえば、私には、東京の母教会にいた頃の忘れられない思い出があります。母教会では、英会話教室を開いていて、ある年から教会のメンバーや英会話教室の生徒さんたちとで、感謝祭のパーティを開催するようになりました。

1995年の感謝祭のパーティは、午後4時から始まる予定になっていました。ところが、午前中に七面鳥を注文していた肉屋さんから電話が入りました。オーブンが突然壊れてしまい、都心にある本店で焼くために、肉が届くのは4時半くらいになるというのです。集会の最初の方では、メッセージを聞いたり、歌ったりして、実際に料理を食べ始めるのは4時半過ぎになりますから、それで了承しました。

ところが、集会が始まって、4時半になっても七面鳥は現れません。何しろ、七面鳥と言えば、感謝祭の主役です。その年の司会者は私でしたので、これは大いに焦ってしまいました。

じりじりしながら七面鳥の到来を待っているとき、「すべての事について、感謝しなさい」(第1テサロニケ5:18)という聖書のことばが、突然私の心に響いてきました。そして、神さまがこう語っておられるような気がしました。「わが子よ。七面鳥が遅れていることを、感謝できますか?」と。

いいえ。私の精神状態は、感謝からはほど遠いものでした。焦りやイライラで一杯です。それでも心の中で「分かりました。感謝します。あなたは決してへまをなさらず、すべてのことを益に変えてくださいますから、感謝します」と祈りました。すると、不思議にイライラが軽くなりました。

ところが、そのまま時間は過ぎていき、5時半になっても七面鳥は来ません。そこで、主任牧師と話し合い、ついに「すみません。お金はお返しします。これでお開きにさせてください」と言おうと決めて、マイクに向かいました。

そして、「す」と言った瞬間(誇張表現ではなく、ほんとの話です)、玄関から「来ました!」の声。さっそく、七面鳥が運び込まれ、パーティが再開されました。

七面鳥が遅れたことを怒る人もなく、皆さん「かえって、ゆっくり話ができて良かった」と、喜んで帰られました。しかも、遅れたということで、肉屋さんが代金を半分にしてくださったのです。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
人生の荒波に、絶望しかけている方はおいででしょうか。問題のまっただ中で、心が揺さぶられて混乱していらっしゃる方はおいででしょうか。今改めて神さまの約束を思い出しましょう。その問題について、イエスさまは何とおっしゃっているでしょうか。どんな約束を与えてくださっているでしょうか。それを思い出しましょう。そして、再び信じましょう。

失敗したらやり直そう

イエスさまの約束から目をそらした結果、ペテロはズブズブと沈みかけてしまいました。 しかし、ここでペテロはもう一度イエスさまを見上げました。そして、「主よ、助けてください」とイエスさまに叫びました。すると、イエスさまはペテロを助けてくださいました。

ペテロのすばらしさは、約束を忘れて困難に負けそうになったとき、もう一度イエスさまのことを思い出したことです。そして、イエスさまに助けを求め、再び水の上を歩くことができるようにしていただきました。

失敗するに越したことはそれから彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に着いた。ありません。しかし、それでも失敗することがあります。大切なことは、またそこでイエスさまを思い出すことです。

この後ペテロは、今回よりももっと大きな失敗を犯してしまいます。最後の晩餐の時、「他の弟子がイエスさまを見捨てても、私は決して見捨てません」と豪語していたのに、実際にイエスさまが逮捕されると、自分の命を守るために「イエスなんか知らない」と3度も言ってしまったのです。

同じようにイエスさまを裏切ったユダは、自分に絶望して首をつって死んでしまいます。しかし、ペテロは図々しくももう一度仲間たちのところに戻ってきました。それは、沈みかけてもイエスさまが助けてくださったという体験をしたからでしょう。

そして、イエスさまを裏切ったのに赦されたという経験をしたペテロは、あなたの罪も赦される、失敗しても神さまは何度もチャンスをくださるのだというメッセージを、我が体験として語り、人々を励まし続けました。

ペテロは失敗者です。しかし、失敗を通してたくさんのことを学んだ人でもあります。 聖書学者バークレーは言いました。「聖人とは、倒れない人のことではなく、倒れても立ち上がって歩き始める人である」と。失敗を通して良い学びをした人は、失敗者でなく成功者です。

この話をお読みください。
宣教団体「ハーベスト・タイム」の中川健一先生が、中学生だった時の話です。

美術の時間にみんなで風景を写生することになりました。一生懸命筆を走らせ、もう少しで完成というとき、なんと不注意で墨汁のつぼを机の上に倒してしまいました。すぐにつぼを拾い上げましたが、時すでに遅し。美しく色づけされた絵の上に、真っ黒の筋が何本も走っていました。中川少年の目の前も真っ暗です。

そこへ美術の先生がやってきました。そして、筆をとると、さささっと画面に何かを描き加え始めました。見ると、墨汁の筋がガラスのひび割れになっており、壊れたガラス窓越しに外の風景を描いた絵になっていたのです。

イエス・キリストは、私たちの身代わりに十字架にかかってくださり、私たちの過去の失敗、その罪を赦してくださいました。しかし、それだけではありません。なければ良かったのにと思えるようなそれらの過去の失敗や傷を、神さまと共に歩む新しい人生において、なくてはならない宝に変えてくださいました。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
私たちも、この先何度も何度も失敗することでしょう。あんなことしなければ良かったとか、ああしておけば良かったとか後悔することが何度もあるでしょう。それでも、イエスさまはその失敗を赦し、再び歩き出すよう背中を押してくださいます。失敗しても絶望することなく、イエスさまが望まれる生き方を再開しましょう。

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