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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ヨナのしるし

イエス・キリストの生涯シリーズ38

マタイによる福音書16章1節〜12節

(2023年7月16日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

直前の箇所に「それから、イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダン地方に行かれた」(15:39)と書かれています(マルコ8:10では「ダルマヌタ地方」)。これはガリラヤ湖西岸の港町マグダラのことだと考えられています。
4節の「ヨナ」は、紀元前8世紀前半の北王国イスラエル(時の王はヤロブアム2世)で活躍した預言者です。ヨナ書の他、第2列王記14:25にも登場します。

6節の「パン種」とは、パンを焼く際、発酵した粉の一部を取り分けておくものです。その日の夜に翌日のための粉をこねる際、そこにパン種を混ぜ込みます。すると、パン種の中にいるイースト菌の働きによって粉全体が発酵します。

6節の「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種」に加えて、マルコ8:15では「ヘロデのパン種」とも語られています。

9節の五千人の給食の奇跡は14:15-21、10節の四千人の給食の奇跡は15:29-38に書かれています。五千人の給食ではイエスさまは5つのパンと2匹の魚、四千人の給食では7つのパンと少しの魚を増やして、群衆のおなかを満たしました。

イントロダクション

パリサイ人やサドカイ人が、またもやイエスさまに難癖を付けています。イエスさまは彼らを撃退し、その後弟子たちにパン種に注意するよう話されました。

今日はこの箇所から、私たちが神さまといつも一緒にいて、祝福された人生を歩むために避けるべきこと、そして目指すべきことを教えていただきましょう。

1.パリサイ人・サドカイ人のパン種

直前の話

順番としては、イエスさまがフェニキア地方(地中海沿岸で、外国)に退き、そこでフェニキア人の女性の娘をいやした話が来ます。これは2021年12月26日のメッセージ(聖書の女性シリーズ)で取り上げていますので、今回はスキップします。

それからイエスさまはガリラヤ地方に戻ってこられました。すると大勢の群衆が、足の不自由な人たち、目の見えない人たち、手足の曲がった人たち、口のきけない人たちを連れてきたので、イエスさまは彼らをいやされました。

3日後、群衆がおなかをすかせているのを見たイエスさまは、7つのパンと少しの魚を増やして、四千人の人たちを満腹になさいました。以前、五千人の給食の奇跡が行なわれましたが、それと似ています。

今回の箇所はその直後の話です。イエスさま一行は、ガリラヤ湖西岸のマグダラにいました。

パリサイ人、サドカイ人との対話

天からのしるしを求める
「パリサイ人たちやサドカイ人たちが、イエスを試そうと近づいて来て、天からのしるしを見せてほしいと求めた」(1節)。

パリサイ人とは、ユダヤ教のパリサイ派に属する人たちのことです。モーセの律法以外に、膨大な数の規則(福音書は「言い伝え」と呼んでいます)を作って、民衆に守るよう教えていました。

一方のサドカイ人とは、サドカイ派に属する人たちです。サドカイ派には、祭司や貴族階級の人たちが属していました。サドカイ人は、モーセ五書(創世記から申命記まで)にのみ権威を置いていました。彼らは現世主義者・物質主義者で、天使や悪霊など目に見えないものや、死後のいのちや死後のさばきなどは信じていませんでした。

パリサイ人とサドカイ人は神学的に対立していましたが、イエスさま憎しでは一致していました。イエスさまは、パリサイ派やサドカイ派の教えを受け入れようとせず、それどころか彼らのことを、神に逆らう罪人だと非難しておられたからです。
そんな彼らがやってきて、しるしを見せろといいました。しるしとは、救い主だということを証明するような奇跡のことです。自分のことを救い主だと信じてほしいなら、もっとすごい奇跡を見せてみろというわけです。
時のしるしを見分けられない者たち
「イエスは彼らに答えられた。『夕方になると、あなたがたは「夕焼けだから晴れる」と言い、朝には「朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ」と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか」(2-3節)。

イエスさまは彼らに言いました。「あなた方は空模様を見分けられるのに、時のしるしを見分けることができない」と。

イエスさまがおっしゃっているのは、「わたし、イエスが救い主だというしるしは、これまで充分に示されてきた。それなのにあなた方は信じようとしない。それはしるしをしるしとして見分ける知恵がないからだ」、ということです。

神さまは、当時のイスラエルに対してどんなしるしを示してこられたでしょうか。

(1) バプテスマのヨハネの証言
ヨハネは、イエスさまこそ救い主だと証言しました。ヨハネを預言者だと信じるなら、当然イエスさまを救い主だと受け入れるはずです。

(2) イエスが行なった数多くの奇跡
イエスさまは、これまで数多くの奇跡を行なってきました。

その中には、ユダヤの律法学者たちが「この種の奇跡は、救い主しか行なうことができない」と教えていた奇跡も含まれました。たとえば、ツァラアトという特別な皮膚病のいやしや、悪霊の影響で耳が聞こえずしゃべることができなくなっている人のいやしです。

ですから、当然イエスさまを救い主だと信じなければならないはずです。

(3) 実現した預言の数々
旧約聖書の中には、救い主に関する預言がたくさんあります。どこで生まれるか、いつ活動を開始するか、どんな活動をするかなどです。そのいくつかはすでに実現しています。であれば、イエスさまこそ聖書が登場を約束してきた救い主だと認められるはずです。
ところが、パリサイ人もサドカイ人も、自分たちを非難するイエスさまのことを救い主だとは認めたくありません。ですから、すでに示されたさまざまな証拠を無視して、新しい証拠を出せと迫ったのです。
悪い、姦淫の時代へのしるし
「悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません』。こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた」(4節)。

イエスさまは、紀元1世紀のイスラエルのことを、「悪い、姦淫の時代」と呼びました。聖書は、偶像礼拝のことをよく姦淫にたとえています。神さまではないものを神のように信頼して使えるのが偶像礼拝です。

パリサイ派の人たちが神さま以上に大切にしていたのは、見栄です。彼らは、人々からほめられたいと強く願っていました。そこで、わざわざ人前で祈りや施しなどの良い行ないを行ないました。

サドカイ派の人たちが神さま以上に大切にしていたのは、お金です。彼らは死後のいのちのことは計算に入れず、今生きている間にお金をたくさん手に入れて贅沢な暮らしをすることを求めていました。また政治権力と結びついて、国の中で影響力を発揮することを目指していました。

そんな彼らはイエスさまにさらなるしるしを求めました。しかし、イエスさまは「ヨナのしるし」以外のしるしはもう与えられないとおっしゃいました。

ヨナは、旧約聖書に出てくる預言者です。ヨナ書には、彼のことが詳しく記されています。
  1. 神さまはヨナに、ニネベ(イスラエルのずっと北にあるアッシリアの都)に行って、罪の悔い改めを迫るよう命じました。
  2. ヨナはそれに逆らってタルシシュ(スペイン)に向かう舟に乗りました。
  3. ヨナを戒めるために大嵐が起こり、彼が乗った船が沈みそうになります。それがヨナのせいだと知った船員たちは、嵐を鎮めるためにヨナを海に投げ込みました。
  4. 大きな魚がヨナを飲み込みました。魚の体内でヨナが神さまに感謝の祈りをささげると、3日後に魚はヨナを陸地に吐き出しました。
  5. 神さまは、再びヨナにニネベに赴いて預言するようお命じになりました。今回、ヨナは素直に応答します。すると、ニネベの王も民もみんな悔い改め、その結果ニネベに対する神さまのさばきが取り消されました。
  6. ヨナは、選民であるイスラエル以外の人々に神さまがあわれみを示されたこと、しかもそれがイスラエルにとって潜在的な脅威であったアッシリアの人々が救われたことが気に入らず、不機嫌になります。
  7. ヨナは、神さまがみこころを変えてニネベを滅ぼさないか期待し、町の外から眺めていました。すると、神さまはトウゴマを1日で生長させ、ヨナが日陰で涼むことができるようにしました。
  8. そのトウゴマが1日で枯れてしまったため、ヨナは再び不機嫌になります。
  9. 神さまは、ヨナがトウゴマを惜しむ以上に、ニネベの人々や家畜のいのちを惜しんでいることを示されました。
イエスさまがおっしゃったヨナのしるしとは、ヨナが魚の腹の中で3日間過ごし、その後地上に戻ってきたようにたように、イエスさまも死んで3日目に復活なさるということです。

イスラエルの国が公式にイエスさまのことを救い主ではないと決定して以来、基本的にイエスさまは人前で大々的に奇跡を行なわなくなりました。残されたしるしは、ご自分の復活だけだとイエスさまは宣言なさいます。

弟子たちへの教訓

ガリラヤ湖東岸に渡る
「さて、向こう岸に渡ったとき、弟子たちはパンを持って来るのを忘れてしまっていた」(5節)。

イエスさまは、パリサイ人やサドカイ人たちから離れて、ガリラヤ湖の東側に渡っていきました。ここは異邦人が住む地域です。

通常、教師の食事を用意するのは弟子の役割でした。しかし、イエスさまが急に移動なさったためでしょう、弟子たちはパンを用意しないままでした。
パン種に注意せよ
「イエスは彼らに言われた。『パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい』」(6節)。

パン種とは、参考資料にも書いたとおり、パンを焼く前に発酵した粉の一部を取り分けておいたものです。翌朝の分の粉をこねる際、その日の朝取り分けていたパン種を混ぜ込むと、中にいるイースト菌の作用で粉全体が発酵して膨らみます。

このため、パン種はよく「小さなものが全体に影響を与えるもの」のたとえに用いられました。特に、些細な罪を放置していると、グループ全体が堕落してしまうことのたとえです。

イエスさまは、パリサイ人やサドカイ人のパン種に用心するよう弟子たちにおっしゃいました。これは、パリサイ人やサドカイ人の間違った教えの悪影響を受けないようにという戒めです。

パリサイ人は見栄ばかり追求し、サドカイ人は現世主義・物質主義に陥っていました。イエスさまは、弟子たちがこれらの間違った生き方に毒されないよう願って、このようなことをおっしゃったのです。
弟子たちの議論
「すると彼らは『私たちがパンを持って来なかったからだ』と言って、自分たちの間で議論を始めた」(7節)。

ところが、いつものように弟子たちはイエスさまの教えを理解できません。自分たちがパンを持ってこなかったことを指摘なさったのだろうかと、的外れな話し合いを始めました。
イエスの叱責
「イエスはそれに気がついて言われた。『信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。まだ分からないのですか。五つのパンを五千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。七つのパンを四千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。わたしが言ったのはパンのことではないと、どうして分からないのですか。パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい』」(8-11節)。

イエスさまは、パンがないことを問題にしているわけではないと、弟子たちを叱責なさいました。そして、五千人の給食と、つい先日行なわれた四千人の給食の奇跡のことを思い出させます。あの奇跡によって群衆が満腹になった後、それぞれ12のカゴと7つのカゴがいっぱいになりました。

たとえパンがなくても、必要ならばイエスさまはパンを用意してくださいます。弟子たちは、イエスさまのお力やその教えをまだまだ理解できないでいます。

弟子たちが本当にイエスさまの力や教えについて理解できるのは、イエスさまが十字架にかかり、復活し、昇天なさって、聖霊なる神さまが弟子たちに下ってこられて彼らを満たしてからです。
たとえの意味を理解した弟子たち
「そのとき彼らは、用心するようにとイエスが言われたのはパン種ではなく、パリサイ人たちやサドカイ人たちの教えであることを悟った」(12節)。

まだまだ未完成な弟子たちですが、それでもイエスさまがおっしゃることを理解しました。すなわち、ここで言われているパン種とは、パリサイ人やサドカイ人の教えのことであって、その悪影響を受けないようにせよという戒めが語られたのだということです。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.悪影響を与えるものを避けよう

パリサイ人のパン種を避けよう

パリサイ人たちは見栄を重視しました。そして、自分たちが作ったさまざまな戒めを守れない民衆を見下して、自分たちはいかに立派なことだろうかと自己満足に陥っていました。

また、聖霊さまに満たされる前のイエスさまの弟子たちも、ともすれば弟子の中で誰が一番偉いだろうか、神の国が実現したら誰がどんな地位に就けるだろうかというようなことばかり気にしがちでした。

私はインターネットで聖書のメッセージやショートエッセイを毎週投稿していますが、そのせいか時々他の教会の人から相談のメールをいただくことがあります。

その中に、よく次のような相談があります。「自分が通っている教会に、聖書を使ってやたらに自分のことを責めてくる人がいて、つらくて教会に通いたくなくなってしまった」、という訴えです。
もちろん、教会は互いにきよい生き方を目指し、励まし合い教え合う共同体です。場合によっては、間違いを犯している人にそのことを指摘することが必要なときがあります。聖書もそのことを教えています。

「兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」(ガラテヤ6:1)。

しかし、自分が立派な人間だということを証明するために他人を責めると、柔和さを失ってしまいます。そして、ただ相手の自信を削ぎ落とし、みじめにさせるだけになってしまうでしょう。

私たちも、気をつけていないと見栄にとらわれ、他の人を見下すような態度を取ってしまう恐れがあります。私たちはパリサイ人のパン種、見栄の悪影響を受けないよういつも自分自信を見守る必要がありますね。

サドカイ人のパン種を避けよう

サドカイ人たちは現世主義・物質主義に陥っていました。彼らは死んだ後のことは考えず、今が良ければいいという刹那的な生き方をしていました。

しかし、聖書は地上の人生だけが人生ではないことを教えています。死んだ後も人は永遠に存在し続けます。そして、その永遠の人生の質は、生きている今何を信じ、どのように生きるかにかかっています。

イエスさまはおっしゃいました。「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません」(マタイ6:19-20)。

アスリートは、苦しいトレーニングを続けます。音楽家は、退屈で単調な基礎練習を繰り返します。受験生は、遊びなどの楽しみを抑えて、勉強に時間を掛けます。それは、今この時の楽しみを手放したとしても、その先に素晴らしい未来が待っていることを知っているからです。

私たちは長期計画で人生を考えなければなりません。永遠に続く人生のために、今しなければならないことは何か考えましょう。

罪のパン種を避けよう

イスラエルでは、パン種はよく罪の象徴として用いられてきました。たとえば、使徒パウロは手紙の中で次のように語っています。

「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか」(第1コリント5:6-8)。

先週、メンバーさんの一人がイスラエルの種なしパン(マッツァー)を持って来てくださいました。マッツァーはパン種を用いないで焼いたパンで、発酵していないためにクラッカーのような形と味がします。

実はイスラエルの7つの例祭は、イエスさまによる救いを象徴しています。過越の祭りと、その翌日から7日間行なわれる種なしパンの祭りでは、マッツァーを食べることになっています。これは、十字架につけられた救い主イエスさまには罪がないこと、そしてイエスさまを信じた私たちの罪が赦されて取り除かれたことを象徴しています。

罪とは、神さまの存在や尊厳を無視して、自分勝手な生き方をすることです。私たちは罪を離れ、きよい生き方を目指していく必要があります。日々の生活の中から、また私たちの心の中から、罪のパン種を取り除き、取り除き続けましょう。
一歩進んで
しかし、私たちはさらに一歩進んだ生き方を目指しましょう。私たちは、大好きな人が嫌がることはしたくないだけでなく、その人が喜ぶことをしたいと願うものです。
神さまを愛する私たちは、神さまが悲しまれる罪を避けるのはもちろん、むしろ神さまが喜ばれる生き方は何か考え、それを実践していきましょう。
愛されていることをいつも自覚しよう
私たちが天の父なる神さまへの愛、イエスさまへの愛、聖霊さまへの愛を深めるため、自分が神さまにどれほど愛されているかをいつも思い浮かべ、感謝しましょう。

神さまは預言者ヨナに、ご自分がどれほどニネベの人たちのことを大切に思っているか教えました。そして、その愛は私たちにも注がれています。神さまは、私たちを罪の故に滅ぼすことを喜ばず、イエスさまが身代わりに十字架にかかって苦しむことによって、私たちの罪が赦されるようにしてくださいました。

私たちは神さまに愛されています。だからこそ私たちも神さまを愛し、罪のパン種を取り除くばかりか、神さまが喜ばれる生き方を学び、それを実践したいと願うのです。

この一週間も、父なる神さま、イエスさま、聖霊さまを意識し、三位一体の神さまと共に生活しましょう。

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