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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

フェニキアの女

聖書の女性シリーズ24

マタイによる福音書15章21節〜28節

(2021年12月26日)

フェニキアの女はユダヤ人ではなく異邦人ですが、イエス・キリストによって病気の娘をいやしてもらいました。彼女の態度から祈りの極意についてお話しします。

礼拝メッセージ音声

参考資料

21節の「そこ」とは、ガリラヤ湖畔のカペナウムのことです。この頃、イエスさまの言動を監視するためにエルサレムからパリサイ人や律法学者が来ていましたが、イエスさまは彼らの偽善的な教えや行動を批判したため、ますます彼らに憎まれるようになりました。

21節の「ツロ・シドン」は今のレバノンに当たるフェニキア地方の町々で、イスラエルから見ると北西の地中海沿岸地域にありました。カペナウムからはツロが40キロ、シドンが45キロほど離れています。

22節に「カナン人の女」とありますが、マルコ7:26にはより詳しく「彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであった」と解説されています。

22節の「ダビデの子」とは、救い主の称号の一つです。救い主はダビデの子孫の中から生まれるという、旧約聖書の預言から来ています(第2サムエル7:12-13、イザヤ9:7など)。

イントロダクション

今回取り上げるのは、フェニキアという外国に住む異邦人、ユダヤ人ではない民族の女性です。この女性は、悪霊につかれて苦しむ娘をイエスさまにいやしていただきました。今日は彼女から祈りの極意を教わりましょう。

1.フェニキアの女の娘のいやし

叫ぶ女

21 イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。

この頃イエスさまはガリラヤのカペナウムという町に住み、そこを拠点にして活動しておられました。そこからツロとシドンの地方に行かれたというわけですが、そこは地中海沿岸の地域で、カペナウムからは40〜45キロほど離れています。

22 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。

この女性は、マルコによる福音書によると人種的にはギリシア人で、生まれがフェニキア地方なので、パレスチナ全域を指すカナンの名で呼ばれています。つまり彼女は異邦人(ユダヤ人以外の民族)ですが、イエスさまのことを「主」と呼び、また「ダビデの子」と呼んでいます。

「主」という呼びかけは神さまや救い主にも用いられましたが、目上の男性にも使われました(たとえばヨハネ9:36。いやされた盲人は、この時点では目の前の人が誰か知りません)。しかし、「ダビデの子」という称号は救い主に対して用いられるものです。旧約聖書には、救い主がダビデの子孫から生まれるという預言があるからです。

マタイ12章の時点で、イスラエルの国が公にイエスさまのことを救い主ではないと決定していたという話は以前しました。ユダヤ人の多くはイエスさまを救い主だと認めなかったのに、外国人だった女性、しかもかつてイスラエル中に異教礼拝をはびこらせたイゼベル王妃を生み出した地域の女性が、イエスさまを救い主と認めているというのは驚きです。

ところが、イエスさまの反応は非常に冷たいものでした。

冷たいイエス

23a しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。

完全無視です。かつていじめを体験したという方の話を聴きました。暴言や暴力を受けたり持ち物にいたずらされたりするのもつらかったけれど、最もつらかったのは無視されることだったということでした。暴言・暴力もいたずらも、少なくとも相手の存在は認めています。しかし、無視というのは存在そのものを否定する行為です。

23b 弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」

弟子たちはこの女性をあわれんだわけではありません。この女性が叫びながらついてくるので、うるさくて仕方なかったのです。

この「叫ぶ」と訳されている言葉は14:26にも使われています。弟子たちだけで湖の上に船を漕いでいたとき、イエスさまが歩いて近寄ってこられるのを見て、幽霊と勘違いした弟子たちが叫び声を上げました。そういう切羽詰まったときの叫び声です。女性はずーっと叫びながらついてくるのですから、どんなにか騒々しかったことでしょうか。
イスラエルの家の失われた羊たち
24 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」

「イスラエルの家」とはユダヤ民族のことです。その中の「失われた羊たち」というのは、神さまから心が離れてしまったユダヤ人たち、罪を赦され救われる必要があるユダヤ人のことです。救い主である自分はその人たちのために来たのであって、あなたがた異邦人のためではない、とも取れる言いっぷりですね。

人類の救いについて、聖書を読むと次のことが分かります。
  1. 救いとは罪が赦されて、神さまとの親しい関係が回復することです。
  2. 神さまはあらゆる民族も差別することなく救いに導きたいと願っておられます。
  3. 全人類を救いに導くため、神さまはアブラハムという一人の人物を選び、彼とその子イサク、孫のヤコブ、そしてヤコブから出たユダヤ民族を用いようと計画なさいました。
  4. 世界の救いの器となるため、神さまはユダヤ民族を大いに祝福すると約束なさいました。
  5. それはユダヤ人だけが神さまから祝福されるためではなく、神さまとユダヤ民族の関係を見た他の民族の人々が、まことの神さまを知り、まことの神さまと親しくなりたいと願い、どうしたらそうなれるかユダヤ人に教えを請うようになるためです。
  6. ですから、ユダヤ民族自体が神さまから離れて自分勝手な生き方をしたのでは、神さまの救いの計画が進みません。ですが、結局ユダヤ人の多くは、まことの神さまから心が離れてしまいました。表面的には宗教に熱心ですが、その心は偽善的でした。
  7. そこで神さまはまずユダヤ民族を回復することを最優先にさせようとなさいました。そのため、多くの預言者たちが遣わされ、ついに御子であるイエスさまが来られたというわけです。
イエスさまがおっしゃった「「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」という言葉はそのことを表わしています。イエスさまが十二弟子たちを伝道旅行に遣わしたときも、異邦人やサマリヤ人の所に行ってはいけないと釘を刺されました(10:5)。

異邦人に神さまの救いのメッセージが宣べ伝えられるようになるのは、イエスさまが十字架にかかり、復活し、天にお帰りになった後です。その場合も、新しい町に着いた弟子たちはまずユダヤ人の会堂を探してそこで宣べ伝え、ユダヤ人に拒否されてから異邦人伝道を行ないました。まずユダヤ人、それから異邦人というのが、神さまがお定めになった順番です。

それにしたって、たとえ異邦人であったとしても、目の前にこんなに苦しんでいる人がいるのですから、イエスさまももうちょっと融通を利かせてくださってもいいのにと思いますね。実際、イエスさまは異邦人であるローマ軍の百人隊長のしもべをいやしたり、ゲラサ人の男性から悪霊を追い出してやったりしました。なのになぜこのときは無視したり突っぱねたりなさったのでしょうか。何かイエスさまなりのもくろみがありそうですね。
あきらめない女
25 しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」

この女性はイエスさまの冷たい態度にあきらめたりしませんでした。今度は前に回り込んでひれ伏してお願いしました。

26 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」

確かに子どもたちのために用意した食べ物を、その子たちから取り上げてペットに与えることはしません。ただ、このたとえの子どもたちというのはユダヤ人、子犬というのがこの女性のことだということは明白です。

私がこの女性なら、さすがに侮辱されたと頭にきて、捨て台詞をかまして帰ってしまうところでしょう。それでもこの女性はあきらめません。

賞賛された女

27 しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」

女性の返答はとてもウィットに富んでいます。そして、とても信仰的でした。

まず彼女は神さまの救いの計画、祝福の順番を認めています。そして、イエスさまの現在の使命は、ユダヤ人に救いをもたらすことだということも認めています。彼女は自分が神さまの祝福を受けることを、当然の権利だとは思っていないのです。

しかし、だからといって自分は神さまから絶対に祝福を受けられないとは考えませんでした。だから彼女は願い続けました。

そして彼女は、異邦人である自分は、ユダヤ人に対する神さまの祝福と同じ祝福を求めているわけではないと語っています。そして、「ほんのパンくずのような小さな恵みでいいのです。それでもうちの娘は必ず助かるのです」と語っています。

わざわざしもべのベッドサイドに来て手を置かなくても、遠く離れた場所から「治れ」と命じるだけで必ずしもべは治ると語った、あの百人隊長と同じようなものすごい信仰ですね。

28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。

イエスさまは百人隊長のことを「イスラエルの中にもこんな信仰は見たことがない」とほめましたが、同様の信仰を持っていたこの女性のことも賞賛なさいました。
イエスの冷たさの理由
イエスさまがこの女性に一見冷たい態度を取られたのは、彼女の信仰の素晴らしさを明らかにして、それを同行していた弟子たちに見せるためでした。マタイ12章でイスラエルが国としてイエスさまを拒否してから、イエスさまの活動の目的が変わりました。

以前はできるだけたくさんのユダヤ人に、ご自分が救い主だということを宣伝することが目的でした。しかし、マタイ12章以降は、イエスさまを救い主と信じたごく一部のユダヤ人、弟子と呼ばれている一尾をと訓練することが目的に変わりました。

イエスさまが十字架にかかり、復活し、天にお帰りになると、弟子たちは他のユダヤ人に、そして異邦人に伝道するようになります。その彼らに、イエスさまが求めておられる信仰はこういうものだよと示そうとなさったのです。

ではここから、同じくイエスさまの弟子である私たちは、どんな祈りの極意を学べるでしょうか。

2.フェニキアの女に学ぶ祈り

必死に祈る

この女性は、弟子たちが嵐の船の中で、「幽霊が来た!」と叫んだときと同じように叫びながら、イエスさまに娘のいやしを求めました。といっても、別にできるだけ大声で祈れば祈りが聞かれるというわけではありません。

彼女が必死になってイエスさまに願ったのは、娘に対する愛情の故でした。そして、なんとしても娘をいやしてもらわなければという強い願いの故でした。彼女にとってこのリクエストは、聞かれればうれしいけれど、聞かれないならまあそれでもいいかというような、どうでもいいものではありませんでした。

もちろん、私たちが最善だと思って願ったとしても、全知全能である神さまはもっとすばらしい別の道を用意しておられるかもしれません。「もしその場合には神さまがくださるものを喜んで受け取ります」という姿勢は大切です。

しかし、そのことと「かなえられてもかなえられなくても、どっちでもいいです」という態度とはまったく違います。神さまが別の計画をお持ちだと言うことがはっきりするまでは、私たちはかなえられてもかなえられなくてもどっちでもいいという態度ではなく、真剣に祈り続けなければなりません。

大切なことは大声で祈ることではなく、必死に真剣に祈るということです。来年、私たちはますます必死に真剣に祈りを捧げる一年としましょう。

あきらめないで祈る

イエスさまの冷たい態度にもかかわらず、この女性はあきらめずにお願いし続けました。そしてとうとう願いを聞いていただきました。

イエスさまが主で私たちがしもべなのであって、その逆ではありません。ですから、イエスさまは私たちの祈りをいつも必ずその通りかなえなければならないわけではありません。ですから、私たちの願いを退ける場合もあります。

ただし、願いがかなわなかったことがはっきりしないうちは、どんなに時間がかかったとしてもその祈りが聞かれなかったということにはなりません。ならば、私たちはあきらめないで祈り続けましょう。この女性があきらめないで願い続けたように。

この話をお読みください。
「アルプスの少女ハイジ」といえば、昭和を代表する名作アニメの一つですが、原作をお読みになったことはありますか? そこに、こんなエピソードが載っています。

ハイジはクララの相手をするために、アルムからフランクフルトのお屋敷に連れて来られます。そこで初めて白パンを口にします。ハイジは、いつも硬い黒パンばかり食べているペーターのおばあさんに、ふわふわの白パンを食べさせてあげたいと思いました。そこで、白パンを持って屋敷を抜け出そうとするのですが、失敗してしましました。

それを知った大奥さま(クララのおばあさん)は、「つらいとき、困ったときは、神さまにお祈りしなさい」とハイジに言いました。ハイジは真剣にお祈りしますが、いつまでたっても状況が変わらないので、やがて祈るのをやめてしまいます。しかし大奥さまは「神さまは私たちよりもっといい計画をお持ちなのだから、途中でやめてはだめ」とハイジを諭しました。

やがてホームシックのため夢遊病にかかってしまったハイジは、やっとアルムの山に帰ることができました。すると、ハイジ宛に郵便が届きます。そこには、今までのハイジの働きに対する感謝として、クララのお父さんから贈られた大金が入っていました。ハイジは言いました。「これでペーターのおばあさんに白パンを買ってあげられるわ。しかも何年分も! あの時、お祈りをやめなくてよかった!」

ハイジは神さまに感謝の祈りをささげ、そのままの姿勢で眠ってしまいました。頑固者で村人たちと仲が悪く、何年も礼拝に参加していなかったおじいさんは、その姿に悔い改め、翌週ハイジと一緒に礼拝に出かけました。そして、村人たちとも和解します。神さまが下さったのは、白パンだけではなかったのですね。

そうです。神さまは、あなたよりも良い計画をお持ちです。ですから、あきらめないで。
(当サイト「ショートエッセイ」より)

神の恵みに信頼して祈る

この女性は、異邦人である自分が神さまに祝福されるのは、当然の権利ではないと分かっていました。しかし、それでも神さまがイエスさまを通して自分と娘をあわれんでくださると信じました。それは聖書の神さまは恵みの神だと信じていたからです。

恵みとは、私たちに対する神さまの愛を、私たちが増やしたり減らしたりできないということ、神さまはとにかく私たちを愛し祝福してくださるということです。救い、罪が赦され神さまとの親しい関係が回復するのは、私たちの行ないではなく神さまからの一方的なプレゼントです。

そもそもユダヤ人が神さまに選ばれ祝福されるのも、神さまからの恵みです。神さまが選んだアブラハムも、その子イサクも、孫のヤコブも、12人の曾孫たちも、みんな不完全で繰り返し失敗し罪を犯しました。それでも神さまは彼らを選び続け、赦し続け、祝福し続けました。

聖書の神さまは恵みの神です。神さまが私やあなたの祈りを聞いてくださり、たとえ願い通りにしなくても必ずもっとすばらしいものを与えてくださるのは、当然の権利ではなく恵みなのだということをいつも覚えていましょう。

そして、イエスさまは神さまの恵みをご自身の地上生涯で示してくださいました。神さまに対して完全に誠実ではない私たち、失敗し罪を犯してしまうことがある私たち、そんな私たちの祈りを神さまが聞いてくださるのは、私たちの罪、私たちの不完全さの罰を、イエスさまが身代わりに引き受けてくださったからです。

イエスさまは私たちの罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られましたが、3日目に復活なさいました。そして今も生きておられ、私たちと天の父なる神さまとを結びつけてくださっています。
特赦と記録抹消
「獄中からの讃美」という本を書いたマーリン・キャロザース牧師は、第二次世界大戦中は陸軍空挺部隊の兵士でした。しかし素行が悪く、基地を無断で抜け出して、盗んだ車を乗り回したり、銀行強盗を企てたりしました。そのため逮捕され、懲役5年の判決を受けます。しかし、陸軍に戻ることを条件に刑の執行を一時停止され、最前線に送られることになりました。

やがて戦争が終わると、彼は祖父母に教会に連れて行かれました。そして、そこでイエス・キリストと出会い、クリスチャンとなったのでした。彼はこれまでの人生を悔い改め、新しいきよい生き方を始めました。

しかし、まだ3年間刑期が残っています。3年間は定期的に地方判事の下に出頭して、保護監察を受け続けなければなりません。ところが、ある日判事が驚くべきことを言いました。それは、トルーマン大統領の特赦によって、彼の過去の犯罪が一切合切赦されて、政府の記録からも完全に抹消されたというニュースです。判事は言いました。「だから、君が国家公務員になりたいと言っても、その資格があることになる」

後にキャロザース師は牧師となり、やがて陸軍のチャプレンになることを神さまに示されました。身分としては国家公務員ですから、もし特赦を受けていなければそんなことは不可能です。

大統領がキャロザース師に特赦を与えたのは、彼が兵士として戦場で華々しい戦果を挙げたからです。つまり、彼の行ないによって赦されました。しかし、私たちは私たちの行ないによって赦されたわけではありません。それはイエスさまのおかげです。

私たちの罪は完全に赦され、天国の記録からも完全に抹消されました。ですから私たちは堂々と神さまにどんな祈りも捧げることができます。フェニキアの女性は自分には資格がないなどと臆さず、イエスさまに娘のいやしを願い続けました。私たちもまた、天の神さまが恵みの神だということを信じ続け、大胆に祈りましょう。

来年、私たちが神さまの恵みをさらにさらに味わうことができる一年間でありますように。

あなた自身への適用ガイド

  • フェニキアの女性のように必死で祈るということに関して、あなたはどんなことを考えたり感じたりしましたか?
  • 今、あなたが特に神さまに祈っているリクエストは何ですか? それについてどれくらいの期間祈ってきましたか?
  • 3年以上かかって祈りが聞かれたということがありましたか?
  • 祈ったとおりにはならなかったけれど、よりすばらしい別のものが与えられたということがありましたか?
  • 祈りがかなえられなかったことで、その後かえって祝福を味わったということがありましたか?
  • 最近、どのように神さまの恵みを実感しましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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