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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

変貌

イエス・キリストの生涯シリーズ40

マルコによる福音書9章1節〜8節

(2023年7月30日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

2節の「高い山」は、ガリラヤ湖の北方32キロにあるヘルモン山(標高2814m)。

(画像引用:Wikipedia
4節の「エリヤ」は、紀元前9世紀の北王国イスラエルで活躍した預言者。異教礼拝を国中に広めたアハブ王・イゼベル王妃と戦いながら、さまざまな奇跡を行ないました。
「モーセ」は、紀元前15世紀にイスラエルをエジプトから脱出させ約束の地まで導いたリーダーで、神さまがユダヤ人に守るよう命じた律法(モーセの律法)をシナイ山で授かりました。なお、出エジプトの時期を紀元前13世紀とする説もあります(詳しくはこちらの記事参照)。

5節の「幕屋」は、新共同訳では「仮小屋」。秋に行なわれる「仮庵の祭り」で作られる仮の住まいのことです。この祭りは、出エジプトの時にイスラエルの人々が40年間荒野でテント生活をしていたことを記念しています(レビ記23:34-43)。

イントロダクション

今回の話は、ペテロが弟子たちを代表して信仰告白をし、イエスさまがご自分の死と復活について教え始めたというエピソードの続きです。3人の弟子たちの前で、イエスさまが栄光に輝く姿に変わり、突然現れた2人の人物と話をし始めました。

ここから、私たちに対する神さまの救いのご計画について学びます。それによって、私たちが過去も、今も、そして未来も、神さまのしっかりとしたご計画の中で救われ、生かされていることを学びましょう。そして、たとえ問題の中にあっても、希望をいただきましょう。

1.ヘルモン山での出来事

特定の弟子への約束

死を味わわない人たち
「またイエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます』」(1節)。

「神の国」とは、救い主が世の終わりの時代に地上に実現する理想的な王国、いわゆる千年王国のことです。救い主を信じて従うユダヤ人や異邦人がここに招き入れられ、千年間に渡って祝福に満ちた生活を送ることができます。

そして、千年が終わると今の宇宙は消え去って新しい宇宙、「新しい天と新しい地」が創造され、神の国にいた人たちはそこに移り住んで、もっと素晴らしい生活を永遠に送ることができます。

福音書の時代には、まだ新しい天と新しい地についての預言が与えられていませんでした。ですからユダヤ人たちは神の国に入れられることが救いのゴールだと考えていました。そんな弟子たちに、「この中のある人たちは、死ぬ前に神の国が到来しているのを見る」とおっしゃいました。きっと弟子たちは興奮したことでしょう。

しかし、いまだに神の国は実現していません。そして、当時の弟子たちはみんな死んでしまいました。では、「神の国が力を持って到来している」とはどういう意味なのでしょうか。それは、今回イエスさまが山の上で姿が変わったことを指しています。

イエスさまが地上にお生まれになり、公の活動を開始なさったとき、イエスさまもバプテスマのヨハネも「神の国は近づいた」と言いました。神の国は完成していませんが、すでに実現が始まっています。そのことを目に見える形で弟子たちに示されたのが、山の上での今回の出来事です。

イエスの変貌

ヘルモン山への登山
「それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった」(2節)。

6日目に、イエスさまは3人の弟子を連れて山に登られました。これは位置的に考えて、またわざわざ「高い山」と呼ばれていることから考えて、イスラエルの北にあるヘルモン山のことだと考えられています。最も高いところの標高は2814mですから山頂まで登ったわけではなく、ちょっと登ったあたりで今回の出来事が起こったと思われます。
すると、イエスさまの姿が突然変わりました。
イエスの姿
「その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった」(3節)。

姿が変わったイエスさまの衣が白く輝きます。布を漂白する職人がどんなにがんばっても実現できないほど、真っ白です。

この場にいた使徒ヨハネは、後にこう書いています。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」(ヨハネ1:14)。

イエスさまは、三位一体の神の第二位格である子なる神です。神が人となって地上に生まれたのがイエスさまです。イエスさまが地上に現れたとき、神としての栄光を隠してお生まれになりました。その栄光が、ここで目に見える形で明らかになりました。
エリヤとモーセとの会話
「また、エリヤがモーセとともに彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた」(4節)。

2人の人物が現れました。エリヤとモーセです。2人とも旧約聖書の時代の人です。

モーセは、当時エジプトの奴隷状態だったイスラエルを神さまが解放してくださったときのリーダーです。出エジプトの40年後、約束の地に入る直前に亡くなっています。

エリヤは、アハブ王が治めていた北王国イスラエルで活動した預言者で、多くの奇跡を行ないました。この人は死ぬことなく、生きたまま天に引き上げられました。
エリヤとモーセは、姿の変わったイエスさまと話をしました。その内容はルカの福音書に書かれています。(モーセとエリヤが)「栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。」(ルカ9:31)。

すなわち、この先イエスさまが十字架にかかって亡くなることについて話していたというのです。

ペテロの提案

3つの幕屋
「ペテロがイエスに言った。『先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ』」(5節)。

ここでペテロが口を挟みます。ペテロは、イエスさま・モーセ・エリヤのためにそれぞれ幕屋を建てましょうと申し出ました。

ペテロがこんなことを突然言い始めたのはなぜでしょうか。その時の状況があまりにも素晴らしいので、ずっとそこに住みたいと考えたからでしょうか。

しかし、6節には弟子たちが恐れに満たされていたことが書かれています。また、イエスさまたちのための住まいを作ったとして、弟子たち3人の分も作らないとずっとそこに住むことはできません。またここで言う「幕屋」とは、参考資料にも書いたとおり仮小屋であって、ずっと住むための家ではありません。

この「幕屋」は、7日間続く仮庵の祭りの間、ユダヤの人々が仮住まいするための小屋です。

(画像引用:英語版Wikipedia
ここでペテロが仮小屋を作ろうと言ったのは、いよいよ神の国が実現したと考えたからです。そして、神の国に関して旧約聖書には次のような預言があります。

「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の【主】である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る」(ゼカリヤ14:16)。

「エルサレムに攻めてきたすべての民」とは、ユダヤ人以外のあらゆる国の人々ということです。世の終わりに、「大患難時代」と呼ばれる7年間の苦難の時代があります。この時代、サタンに仕える反キリストが世界を支配し、ユダヤ人やイエスさまを信じる異邦人を迫害します。

さらに反キリストはユダヤ人を根絶やしにしようとして、世界中の国々から軍隊を出させてエルサレムに攻めてきます。しかし、一部の異邦人は反キリストではなく救い主イエスさまを信じて従い、ユダヤ人を助けようとします。

反キリストによるユダヤ人抹殺計画がいよいよ実現しそうになったその時、生き残ったユダヤ人たちはイエスさまこそ救い主だということを悟り、悔い改めて「主よ来てください」と祈ります。すると、イエスさまがその祈りに応えて天からくだってこられます。いわゆる再臨です。

再臨なさったイエスさまは、反キリストと彼に従う異邦人たちを倒してくださいます。しかし、イエスさまを信じてユダヤ人を助けていた一部の異邦人は生き残り、再臨のイエスさまが地上に実現する神の国に住むことができます。ゼカリヤが預言している「生き残った者」とはこの人たちのことです。

この生き残った人たちは仮庵の祭りを祝うため、毎年エルサレムにやってきます。ですから、仮庵の祭りは神の国の実現と関係があると、ユダヤ人たちは考えていました。ペテロは、イエスさまが栄光に輝く姿に変えられ、しかもすでにこの世にいないはずのエリヤとモーセも栄光の姿で現れたのを見て、神の国がとうとう実現したと誤解しました。だったら仮庵の祭りのための準備をしようと考えたのでしょう。
ペテロの誤解と弟子たちの恐れ
「ペテロは、何を言ったらよいのか分からなかったのである。彼らは恐怖に打たれていた」(6節)。

「何を言ったらよいか分からなかった」というのは、ペテロは誤解に基づいて幕屋を3つ作ると発言したということです。

ペテロが、仮庵の祭りが救い主による神の国の実現を表していると考えたのは正しい理解です。しかし、仮庵の祭りの前に、過越の祭りがあることをペテロは忘れています。過越の祭りは、イエスさまが十字架にかかって人類の罪の赦しを実現することを表しています。
  • 実は、イスラエルの7つの例祭は、預言的にはイエスさまによる救いのプロセスを表しています。詳しくはこちらの資料をご覧ください。
神の国が実現する前に、人類の罪の問題が処理されなければなりません。罪のあるままでは神の国に入ることができず、神さまのさばきを受けて滅ぼされる側になってしまいます。ですから、イエスさまはこれから十字架にかかって死に、人類の身代わりに罪の呪いを引き受けようとしていました。エリヤとモーセはそのことについてイエスさまと話をしていました。

しかし、ペテロたちは救い主であるイエスさまが殺されるはずないと思っていました。先週学びましたが、ペテロは素晴らしい信仰告白をしたのに、イエスさまが十字架と復活の話を始めると、脇に呼んで「そんなことが起こるはずがない」といさめました。

ですから、この時のペテロも、イエスさまが死ぬだなんて不景気な話を聞きたくなくて、つい口を挟んでしまったのかもしれません。
父なる神の語りかけ
「そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け』」(7節)。

雲、炎、光は、神さまがそこにいらっしゃることを目に見える形で表現なさる際、よく一緒に現れます。神さまは雲の中から語りかけ、イエスさまの言うことを聞けとおっしゃいました。

イエスさまたちの会話を止めて口を挟んだペテロでしたが、逆に父なる神さまによって口を封じられたのです。
変貌の終了
「彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、もはやだれも見えなかった」(8節)。

あたりを覆っていた雲が晴れると、エリヤもモーセもおらず、イエスさまもいつもの姿に戻っておられました。こうしてイエスさまと3人の弟子たちはヘルモン山を降りていきました。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.私たちは神の国に招かれている

神の国に入るための条件

将来実現する神の国(千年王国)に入れられて、さらに新しい天と新しい地に移住して永遠に祝福されるためには、まず罪の問題が解決されなければなりません。

罪とは、神さまの存在を認めなかったり、そのすばらしさを値引いたりして、神さまに逆らうことです。「神なんかいらない。私が願うとおりに祝福してくれる神なら認めてやってもいいけれど、私が従わなきゃならない神ならいらない。私は自分のやりたいように生きる」という自己中心。これが罪の本質です。

神さまはとてつもなくきよくて正しいお方ですから、ほんの少しでも罪があると、その人は神の国に入ることができません。罪のない人だけが、神の国に入ることができます。

しかし、我々人類は自分で罪の問題を解決することはできません。どれほど哲学を極めても、どれほど心理学を学んでも、どれほどお金を儲けても、どれほど善行を積んでも、罪がなくなるわけではありません。

何とも嫌な事実ですが、まず自分の力では罪の問題をどうしようもないということを認めることが、神の国に入る第一歩です。

すでに与えられている救い

自分自身では罪の問題を解決できない私たちのために、神さまの方が救いの条件を満たしてくださいました。それは、一方的に罪を赦すという方法です。

しかし、神さまが正義の神である以上、罪を無かったことにはできません。罪に対しては罰を下さなければ正義が成り立ちません。そこで、救い主であるイエスさまが十字架にかかって血を流し、命をささげることによって、本来私たちが受けなければならないはずの罪の罰を、イエスさまが全部身代わりとして引き受けてくださいました。

そして、イエスさまがこの自分の罪を赦すために十字架にかけられたこと、そして死んで葬られたけれど3日目に復活なさったことを、「これは真実だ」と信じ受け入れるだけで、本当に私たちの罪は赦されます。それどころか神さまの子どもとしていただき、永遠に祝福される権利が与えられます。

ここにいる私たちは、みんなイエスさまの十字架と復活を信じました。そして、罪を赦され、将来実現する神の国の市民権を手に入れています。そのことをいつも思い起こし、感謝しましょう。
今は収穫の時
さて、イスラエルの7つの祭りは、イエスさまによる救いのプロセスを表していると申し上げました。すでに春の祭りが象徴する4つの出来事は実現しています。すなわち、十字架、罪の赦し、復活、そして聖霊降臨と教会の誕生です。

秋の3つの祭りは、世の終わりに実現することを表しています。教会の携挙、大患難時代の到来とユダヤ人の国家的回心、そして神の国の実現です。

そして、春と秋の間、すなわち夏は祭りがありません。これは今の教会時代を表しています。イスラエルで夏は収穫シーズンです。イエスさまはおっしゃいました。「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」(ヨハネ4:35)。

私たちはすでに救われました。永遠に安泰です。しかし、まだイエスさまによる救いを受け取っていない人たちが、この地上にはたくさんいます。すでに救いを受け取った私たちは、他の誰かから救い主イエスさまを紹介されて信じました。今度は私たちが、まだ救いを受け取っていない人たちに救い主イエスさまを紹介しましょう。

3種類の住民

弟子たちはイエスさま以外にモーセとエリヤを見ました。モーセは死んで神さまの元に迎え入れられた人であり、エリヤは生きたまま天に引き上げられた人です。そして、弟子たちは生身の人間です。

神の国が実現したとき、そこに招かれる人たちには3種類があります。その3種類の人は、それぞれモーセ、エリヤ、そして弟子たちが象徴しています。
  1. モーセ……死んで復活し、神の国に入る人たち
  2. エリヤ……生きたまま携挙され、栄光の体(復活の体)を与えられて、その後イエスさまと共に地上に戻ってきて神の国に入る人たち
  3. 弟子たち……大患難時代を生き延びて、神の国に入る人たち
私たちクリスチャンは、1番か2番の可能性があります。クリスチャンは、決して大患難時代を経験することがありません。というのも、大患難が始まる前に、「携挙」という出来事が起こるからです。

時期は分かりませんが、ある日あるとき天で角笛が吹き鳴らされます。すると、2つの出来事が起こります。
  1. すでに死んでしまったクリスチャンが復活し、栄光の体が与えられ、空高く引き上げられます。
  2. その時まだ生きていたクリスチャンにも栄光の体が与えられ、空高く引き上げられます。
そして、イエスさまが迎えに来られ、一緒に天のパラダイスに入れられます。天に招かれたクリスチャンたちは、イエスさまが再臨なさるときに一緒に地上に戻ってきて、神の国に入ります。
神さまは、私たちを永遠に祝福するおつもりです。そして、そのための計画をバッチリと立てておられます。その計画は、今も着々と進行中です。地上ではさまざまな問題が起こり、私たちは悩み苦しむことがあります。しかし、最後は大勝利で終わることをいつも覚えていましょう。そして、救いの計画が実現していくのをワクワクしながら見守っていましょう。

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