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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

変貌山のふもと

イエス・キリストの生涯シリーズ41

マルコによる福音書9章14節〜27節

(2023年8月6日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

今回の舞台は、イエスさまが3人の弟子たちと共に登り、栄光の姿に変えられたヘルモン山のふもとです。この山は、ガリラヤ湖の北方32キロにあり、頂上の標高は2814mです。

(画像引用:Wikipedia
14節の「律法学者」は、モーセの律法を研究する学者。イエスさまの時代になると、律法以外に膨大な数の規則を作り上げ、これらを守るようユダヤ人に教えていました。彼らのほとんどはイエスさまを救い主だとは認めませんでした。

17節の「口をきけなくする霊」は、取りついた人をしゃべれないようにするだけでなく耳も聞こえなくする悪霊です(→25節)。律法学者たちは、この種の悪霊は救い主(メシア、キリスト)しか追い出すことができないと教えていました。

イントロダクション

先週、イエスさまがヘルモン山の上で栄光の姿に変わり、大昔の人物であるモーセとエリアが現れてイエスさまと十字架の死について話をしたというエピソードについて学びました(こちらの記事をお読みください)。今回の話は、イエスさまが同行した3人の弟子たちと共に山のふもとに降りてこられたときの話です。

私たち教会は、イエスさまの体にたとえられています。私たちはイエスさまがなさったような働きを、代わりにこの地上で行なうことが期待されていますし、またそうすることができると約束されています。この箇所から、私たちがイエスさまの弟子として影響力のある働きをするために必要な心構えを教えていただきましょう。

1.悪霊の追い出し

イエスの問いかけ

弟子たちと律法学者たちの議論
「さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた」(14節)。

イエスさまと3人の弟子たち(すなわちペテロ、ヤコブ、ヨハネ)が山のふもとに降りてくると、残る9人の弟子たちが群衆に取り囲まれていました。そして、ユダヤの宗教的指導者である律法学者たちが彼らと何か話しているのが見えました。
この頃、律法学者たちはイエスさまのことを救い主だと認めず、それどころか自分たちの戒律を無視する罪人として攻撃していました。ですから、このたびも肯定的な話し合いだとはとても考えられません。きっと弟子たちの行動に難癖を付けて、師匠であるイエスさまを攻撃するきっかけにしようとしているに違いありません。
イエスから群衆への質問
「群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。イエスは彼らに、『あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか』とお尋ねになった」(15-16節)。

イエスさまは群衆に、弟子たちと律法学者たちの議論について尋ねました。
父親の回答
「すると群衆の一人が答えた。『先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした』」(17-18節)。

群衆の中から1人の人が出てきて、自分の息子が悪霊に取りつかれてひどい目にあってきたこと、しかし、弟子たちに悪霊追い出しを頼んだのに彼らが失敗したということを語りました。

数ヶ月前、弟子たちはイエスさまから、病気をいやしたり悪霊を追い出したりする力を授かりました。そして、2人1組で伝道旅行に出かけ、実際にいやしや悪霊追い出しを経験しました(マルコ6:6-13など)。ところが、今回はうまくいきませんでした。

当時、イエスさまや弟子たち以外にも悪霊を追い出す働きをする宗教家がいました。彼らは、まず悪霊に取りつかれた人に話しかけ、悪霊の名前を聞き出します。それから、その名前を呼んで「○○よ、出て行け」と命じて追い出していました。

ところが、悪霊に取りつかれて息子の父親は、この悪霊のことを「口をきけなくする霊」と呼んでいます。この種の悪霊は、口をきけなくするだけでなく耳も聞こえなくしました(25節)。ところが、耳も聞こえず口もきけないのでは、名前を聞き出すことができません。ですから、当時の律法学者たちは、「口をきけなくする悪霊は、救い主しか追い出せない」と教えていました。

実際、イエスさまの弟子たちが追い出そうとチャレンジしたのにうまくいかなかったため、弟子たちは律法学者たちから「それ見たことか」と責められていたと思われます。律法学者たちは、それどころか、弟子たちに権威を授けたというイエスさまのことも偽救い主呼ばわりして罵っていたに違いありません。
イエスの嘆きと命令
「イエスは彼らに言われた。『ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい』」(19節)。

イエスさまは、その当時の時代のことを、不信仰な時代と呼ばれました。そして、いつまでその時代の人たちに我慢しなければならないのかと嘆かれました。つまり、その時代の人たちの不信仰を嘆かれたのです。

この嘆きの言葉は、具体的には誰に向けられたものでしょうか。後ほどこの点について解説します。

イエスさまは、悪霊に取りつかれた子どもを連れてくるようおっしゃいました。
悪霊の抵抗
「そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った」(20節)。

すると悪霊が反応しました。取りついた子どもを引きつけさせ、転げ回らせます。悪霊は、イエスさまが自分を追い出すだけの権威をお持ちだということを知っていました。ですから、イエスさまを恐れ、追い出されまいとして抵抗したのです。

息子のいやし

父親の願い
「イエスは父親にお尋ねになった。『この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか』。父親は答えた。『幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください』」(21-22節)。

イエスさまは、息子はいつ頃から悪霊に苦しめられているのかとその父親に尋ねました。すると、子どもが小さい頃からだと父親は答えます。そして、「できることなら、助けてください」と願いました。
イエスの叱責
「イエスは言われた。『できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです』」(23節)。

イエスさまは、父親の「おできになるなら」という言葉に反応なさいました。この言葉は、「できるかもしれないし、できないかもしれない」という、中途半端な信仰を表しています。イエスさまは、この父親がご自分の権威を信じ切っていないことを指摘され、イエスさまは必ずあのやっかいな悪霊を追い出すことができると信じるよう促されました。
父親の叫び
するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。『信じます。不信仰な私をお助けください』」(24節)。

イエスさまの叱責を聞いて、父親は2つのことを叫びました。
  1. 「イエスさまが悪霊を必ず追い出せると信じます」という信仰告白。
  2. しかし、自分は不信仰な人間だから、完全な信仰を持つことができるようイエスさまが助けてくださるようにという願い。
悪霊に対する宣告
「イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな」(25節)。

イエスさまは悪霊に対して、出て行くようお命じになりました。しかも、二度と戻ってはいけないと。
息子のいやし
「すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは『この子は死んでしまった』と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった」(26-27節)。

悪霊は、抵抗も空しくその子を離れていかざるを得ませんでした。最後に、その子を激しく引きつけさせましたが、イエスさまがその子を立ち上がらせてくださいました。律法学者たちが救い主しか追い出せないと教えていたやっかいな悪霊を、イエスさまはいとも簡単に追い出されました。

弟子たちの失敗を利用して、イエスさまを非難しようとしていた律法学者たちにとっては、かえってイエスさまが救い主だということを人々に再確認させてしまう、何とも皮肉な結果になってしまいました。

弟子への教訓

弟子たちが失敗した理由
この後、弟子たちがイエスさまに、どうして自分たちには悪霊を追い出せなかったのでしょうかと尋ねました。マルコの福音書には次のように書かれています。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません」(マルコ9:21)。

一方、平行記事のマタイの福音書には次のように書かれています。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません」(マタイ17:20)。
19節で、イエスさまは当時の時代の不信仰について嘆かれました。ここから分かることは、それが特に弟子たちに向けての嘆きだったということです。
弟子たちへの期待外れ
イエスさまが十字架にかかって死に、復活してその後天にお帰りになるまで、すでに1年を切っています。イエスさまが天にお帰りになってからは、弟子たちがイエスさまの体として神さまの救いの働きを引き継がなければなりません。ところが、肝心の弟子たちの信仰はさっぱり成長していませんでした。

元々できないことができなかったからといって、それを責めるイエスさまではありません。先ほどお話ししたとおり、弟子たちにはすでに病気をいやしたり悪霊を追い出したりする力がイエスさまから与えられていました。

たとえ律法学者たちが「この種の悪霊は救い主しか追い出せない」と教えていたようなやっかいな悪霊であったとしても、救い主であるイエスさまから権威を授かった彼らには追い出せたはずなのです。

ところが、このたび弟子たちは悪霊を追い出せませんでした。その原因は彼らの神さまに対する不信仰です。具体的には2つの可能性があります。
  1. 口をきけなくする悪霊は救い主しか追い出せないと言われていたため、自分たちも無理かもしれないと思いながら追い出そうとしていた可能性。
  2. 過去の成功体験に慢心して、神さまに依り頼むことをせず、自分の力によって悪霊と戦おうとした可能性。
いずれにしても、自分たちの奉仕の力は神さまが与えてくださるものだという信仰を、この時の弟子たちは失っていました。そして、自分の力でチャレンジしようとして失敗したのです。そのことをイエスさまは指摘し、弟子たちのていたらくを嘆かれました。
それでも期待し続けるイエス
しかし、イエスさまは弟子たちがなかなか成長しないからといって、彼らを見放して破門したりなさいませんでした。これ以降も、イエスさまは忍耐深く弟子たちを教え続けました。

イエスさまが逮捕されたとき、男の弟子たちはみんなイエスさまを見捨てて逃げ出しましたし、ペテロに至っては「イエスなんて奴のことは知らない」と3度も言ってしまいました。

また、イエスさまが復活して女性の弟子たちに会って話をしたのに、男の弟子たちはそのことを信じようとしませんでした。トマスなど、「この指をイエスさまの体につけられた釘や槍の傷痕にこの指を差し入れなければ、復活なんか信じない」と言い放ちます。

それでもイエスさまは弟子たちを見放しません。彼らを赦し、助け主である聖霊さまを受けるようにとおっしゃって彼らを祝福なさいました。
その後、イエスさまの教えを知的にも、また実践的にもあまり理解できなかった弟子たちは、聖霊さまの助けによって大化けしました。そして、彼らを通して多くの人々が救いに導かれ、成長し、イエスさまのお働きを地上で行ないました。そして、その働きはその後約2千年に渡って受け継がれ、この教会、すなわち私や皆さんにも継承されています。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.自分の能力や経験ではなく、神に依り頼もう

できると信じ、宣言しよう

「おできになるなら」という言葉が不信仰から出ていることをイエスさまによって指摘された父親は、すぐに「信じます」と宣言しました。イエスさまは、神が人となってこられた救い主です。そして、聖書の神さまは全知全能であって、何でも行なうことができます。

そして、イエスさまを信じて従う私たちクリスチャンの群れ、すなわち教会は、イエスさまの体と呼ばれています。私たちもまた、イエスさまのような働きを行なうことができます。

聖書はそれを約束しています。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです」(ヨハネ14:12)。

「わたしが父のもとにいくから」というのは、イエスさまと交代して、聖霊なる神さまが弟子たちのところに来られ、彼らを満たして「聖霊の賜物」と呼ばれる特別な奉仕の能力を授けてくださるからです。その中には、超自然的な力も含まれています。

聖霊さまは、初代のクリスチャンだけでなく、現代の私たちも満たし、賜物を授けてくださっています。私たちは弱くて不完全ですが、イエスさまのような働きを行なうことができます。

それどころか「さらに大きなわざを行う」と約束されています。神さまとしてのご性質を封印し、限界のある人として地上を歩まれた頃のイエスさまは、一箇所にしか存在できず、その力は専らユダヤ人に対して行使されました。しかし、キリストの体である教会は、今や世界中に存在し、あちこちで神さまの働きが展開されています。

イエスさまの恵みの福音を信じて救われた皆さんは、キリストの体である教会の一部です。皆さんにもまた、イエスさまからの力が与えられています。

この話をお読みください。
今はもうそういう競技はなくなりましたが、以前は1マイル走という陸上競技があったそうです。1マイルは1609メートルです。

1923年、フィンランドのパーヴォ・ヌルミ選手が、1マイル4分10秒3という世界新記録をマークしました。当時、この記録を破ることはもう不可能だと評されました。そして、1マイル4分は「レンガの壁」と呼ばれ、「それを下回ることは人間の身体能力を超えることだから、誰であっても不可能だ」と言われるようになりました。事実、その後長い間4分の壁どころか、ヌルミ選手の記録を破る選手さえ現れませんでした。

ところが、31年後の1954年、英国オックスフォード大学のロジャー・バニスター医学生が、トレーニングに科学的手法を持ち込み、自ら3分59秒4という大記録を打ち立てました。すると、そのわずか46日後には、オーストラリアのジョン・ランディ選手が、3分58秒0という記録を出してしまいます。その後、1年のうちに37人が4分を切り、さらにその翌年にはなんと300人以上が4分を切りました。

この話は、人間がいかに固定観念や思い込みに縛られやすいかを表すエピソードとしてよく用いられます。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
イエスさまは私たちに力を与えてくださっています。ですから、いろいろな問題にぶつかって心が萎えてしまいそうになっても、必ずそれを乗り越えることができると信じましょう。そして、あの父親のように、口に出して「信じます」と宣言しましょう。

いつも祈ろう

といっても、「積極的なことを考え、口にしていれば、必ず願いがかなう」ということを申し上げているわけではありません。このような考えは「引き寄せの法則」とか「積極思考」とか呼ばれていて、元々はキリスト教の異端をルーツとしています。

神さまへの祈りを忘れ、自分の力で悪霊と戦おうとした弟子たちは失敗しました。私たちも神さまを離れてしまっていては、神さまのわざを行なうことができません。イエスさまも次のようにおっしゃいました。

「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」(ヨハネ15:4-5)。

悪霊につかれた子の父親は、「信じます」と宣言した後、「不信仰な私をお助けください」と叫びました。イエスさまを信じる信仰もまた、聖霊さまによって与えられます。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(第1コリント12:3)。

いつも祈りましょう。神さまが私たちにイエスさまを信じる力を与えてくださいますように、そして、イエスさまのわざを私たちが地上で行なうことができるよう助けてくださいますように、と。

失敗してもやり直そう

弟子たちは不信仰に陥って失敗しました。その後も、失敗し続けました。しかし、それでもイエスさまは彼らを見放さず、教え続け、訓練し続けました。

同様に、イエスさまはいったん救いに導いた私たちのことを、決して見放すことをなさいません。そのことを信じましょう。

この話をお読みください。
シンガポールで活躍しておられる、牧師であり心理学者であるジョセフ・オザワ先生の話を聞きました。

ある夜、オザワ先生の夢の中に、神さまが現れたそうです。先生は思わずひれ伏し、こう叫びました。「ごめんなさい!」

すると、神さまは先生にこうおっしゃいました。「あなたは、大切なことを一つ忘れてきたね」。

オザワ先生は、やらなければと思いながらできなかったあることを思い出しました。そして、「申し訳ありません。あのことですね」と言うと、神さまは「そんなことではない」とお答えになりました。

「それでは、あのこと?」「違う」「それでは、このこと?」「違う」……。オザワ先生は、思いつく限りの罪や失敗を並べ立てましたが、神さまは「そんなことではない」とおっしゃいます。

「では、私が忘れてきたこととはいったい何なのですか?」と尋ねると、神さまはこうお答えになりました。「あなたは、私の愛を受け取ることを忘れてきたね」。

罪を悔い改めることは大切なことです。しかし、それは私たちの罪が赦され、神さまにそのままの姿で愛されているという前提で行なわなければならないことです。もしかしたら、私たちも神さまの愛を受け取ることを、どこかに忘れてきてはいなかったでしょうか。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
私たちが信じる神さまは正義の神です。しかし、同時に愛と赦しの神でもいらっしゃいます。それを決して忘れないようにしましょう。

私たちは失敗することがあります。というか、しょっちゅう失敗します。それでも、私たちは神さまに愛されており、イエスさまは何度でもやり直しさせてくださいます。そして、聖霊さまは根気強く私たちを助け、内側から作り変えて成長させてくださいます。

失敗したなと気づいたら、すぐに悔い改めて、再び神さまに信頼し直し、従い直しましょう。何度でも、何度でも。

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