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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

弟子に求められる態度

イエス・キリストの生涯シリーズ45

ルカによる福音書9章51節〜62節

(2023年9月3日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

51節の「天に上げられる日が近づいて来たころ」は、紀元29年の秋です。翌年の春にイエスさまは十字架にかかり、復活し、昇天なさいます。この時、イエスさま一行は仮庵の祭りを祝うためにエルサレムに向かっておられました。

62節の「鋤」は、畑を耕すためのスコップのような農具です。ここで語られている鋤は、牛などに引かせる大型のもの(犂)です。画像はこちらをご覧ください。

イントロダクション

今回は、イエスさまが弟子に求める態度について学びます。2人の弟子、そして3人の弟子候補生に対して、イエスさまはどんな指導をしておられるでしょうか。

1.弟子と弟子候補生

ヤコブとヨハネ

都登り
「さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた」(51節)。

参考資料にも書きましたが、時は紀元29年の秋。ユダヤの例祭である仮庵の祭りが間もなく始まろうとしていました。モーセの律法によると、7つの例祭のうちの3つ、すなわち過越の祭り、七週の祭り(ペンテコステ)、そして仮庵の祭りには、ユダヤ人は神殿に詣でて礼拝することになっていました。

イエスさま一家は貧しかったのですが、父ヨセフの時代から、三大祭りにエルサレム神殿で礼拝することを忠実に行なっていたようです。

すると、ヨハネ7:2-10によると、イエスさまの弟たちがやってきて「エルサレムに行って自分の働きを人々に見せなさい」と言います。この頃、エルサレムのあるユダヤ地方では、イエスさまは多くの人に拒否されていました。だから、仮庵の祭りで大々的に奇跡を見せつけて、自分が救い主だということを示せばいいじゃないかというのです。

といっても、弟たちはイエスさまが救い主だと信じていたわけではありません。「もし自分を救い主だと主張するのなら、そうしたらいいじゃないか」という皮肉です。彼らが信仰を持つのは、イエスさまが復活なさった後です(第1コリント15:7)。

イエスさまは弟たちの提案を拒否して、「自分はそんなことのために祭りを祝いなどに行かない。自分たちだけで行け」と突き放します。しかし、後でこっそりとエルサレムに向かって出発なさいました。自分を宣伝するためでなく、純粋に祭りを祝うためです。もちろん、いつも行動を共にしている十二弟子もその旅に同行します。
サマリア到着
「そして、ご自分の前に使いを送り出された。彼らは行ってサマリア人の村に入り、イエスのために備えをした」(52節)。

北のガリラヤ地方と南のユダヤ地方の間には、サマリア地方があります。ここにはユダヤ人ではなくサマリア人が住んでいました。ユダヤ人とサマリア人は大変仲が悪かったので、通常ユダヤ人がガリラヤとユダヤを行き来する際には、東のヨルダン川の方に迂回するルートを取りました。

しかし、イエスさまはそのようなことには無頓着でした。以前も、エルサレムからガリラヤ地方に向かう際、わざわざサマリアをお通りになり、スカルという町の井戸の傍らで、一人の女性と対話なさいました。この時、すっかり人生が作り変えられた女性によって、町中の人たちがイエスさまのところにやってきて、イエスさまのことを救い主だと信じました(ヨハネ4章)。

ですから弟子たちは、きっとこのたびもサマリア人たちがイエスさまを歓迎してくれるだろうと考えていたことでしょう。では、実際にはどうだったでしょうか。
サマリア人の拒否
「しかし、イエスが御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリア人はイエスを受け入れなかった」(53節)。

サマリア人たちはイエスさまを歓迎しませんでした。その理由は、イエスさまが御顔をエルサレムに向けて進んでおられたからだと聖書は説明しています。
イエスさまの公の活動は、もう3年に及びます。サマリア人はユダヤ人とあまり交流がないとは言え、ガリラヤ地方で行なわれているイエスさまのさまざまな驚くべき奇跡については耳にしていたことでしょう。ですから、ユダヤ人であるイエスさまのことは好きになれなくとも、奇跡は体験したいと思っていたはずです。

ところが、イエスさまの関心はエルサレムでの祭りでした。期待通りに奇跡を行なってくれないイエスさまに対して、おそらくサマリア人たちは幻滅して拒否したのでしょう。
ヤコブとヨハネの怒り
「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。『主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか』」(54節)。

イエスさまを受け入れなかったサマリア人たちに対して、弟子であるヤコブとヨハネの兄弟が激しい怒りを覚えました。

イエスさまは何人かの弟子にあだ名を付けておられます。ヤコブとヨハネにはボアネルゲというあだ名をお付けになりました。これは「雷の子」という意味です。2人が激しい気性の持ち主だったことが推察されます。

この時も、ヤコブとヨハネの短気な性質が遺憾なく発揮されます。怒りを覚えた2人は、「天から火を下して、あいつらを焼き滅ぼしましょうか」と言い放ちます。

少し前、イエスさまがヘルモン山の上で栄光の姿に変わられたことがありました。その時、モーセと預言者エリヤが現れてイエスさまと話をしています。ヤコブとヨハネ、そしてペテロの3人はその場所にいて、一部始終を目撃しました。もしかしたら、ヤコブたちはその時のことを思い出したのかもしれません。

預言者エリヤは、異教礼拝をイスラエルに広めたアハブ王の後継者であるアハズヤ王を批判したことで、命を狙われました。そして、自分を捕らえるために遣わされてきた50人の兵士たちを、天から火を下して焼き殺してしまいました。それが2度起こっています。自分たちも同じようにしようと2人は語っているのです。
イエスの叱責
「しかし、イエスは振り向いて二人を叱られた」(55節)。

イエスさまはヤコブとヨハネを叱られました。なぜでしょうか。

エリヤはアハズヤに命を狙われていました。彼が倒れれば、異教を広める王に対抗して、イスラエルの人々に向かってまことの信仰に立ち返るよう訴える人物がいなくなります。ですから、神さまはエリヤが火を下して身を守ることをお認めになりました。

しかし、ヤコブとヨハネは命を狙われていたわけではありません。彼らが怒ったのは、「イエスさまとイエスさまに従う自分たちは偉い存在なのに、そんな自分たちを軽く扱うなんて!」というふうに、プライドを傷つけられたからです。

ヤコブとヨハネ、そして他の10人の弟子たちは、自分たちこそ神の国の中央政府で大臣クラスの地位に就けると思っていました。また、そんな自分たちの中で誰が一番偉い地位に就けるだろうかということばかり気にしていました。イエスさまはそんな彼らの傲慢を、これまで何度も戒めてこられました。
別の村へ
「そして一行は別の村に行った」(56節)

イエスさまは、拒否された際の行動について、すでに弟子たちに教えておられます。12人を2人1組でイスラエル中に派遣して伝道させた際、ある町が弟子たちを受け入れなかった場合には、足の塵を払ってその町を離れるよう指示なさいました。町の人たちと言い争ったり復讐したりしないで、淡々と次の町に行けということです。
イエスさまはご自分でもそれを実践なさいました。

弟子候補生その1

弟子入りの申し出
「彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。『あなたがどこに行かれても、私はついて行きます』」(57節)。

イエスさま一行は、やがてサマリアを離れてユダヤに入りました。すると1人の人がイエスさまのところにやってきました。

平行記事を見ると、この人は律法学者です(マタイ8:19)。この頃、律法学者を始めとする宗教的指導者たちのほとんどは、イエスさまを救い主だと認めず、それどころか国を混乱させる異端者として命を狙う者までいました。それなのにこの人は、イエスさまに弟子入りしたいというのですから、非常に珍しい存在です。

では、イエスさまはどうお答えになったでしょうか。
イエスの答え
「イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません』」(58節)。

ここで「枕する」と訳されている言葉は、次の箇所にも使われています。「イエスは酸いぶどう酒を受けると、『完了した』と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった」(ヨハネ19:30)。ここの「頭を垂れて」です。

神の子であるイエスさま、神の国の王であるイエスさま。しかし、その生活は王宮での安楽なものではありません。イエスさまは、野宿を繰り返しながらあちこちを旅なさいました。そして、ようやく枕できたのは十字架の上です。そんなイエスさまについていくということは、弟子たちも同じ生活をすることになります。

イエスさまのこの答えは、「私についてくるとあなたは言うが、それは決して快適な旅ではないよ。その覚悟があって弟子入りを願うのかね?」というものです。

弟子候補生その2

イエスの呼びかけとそれに対する返答
「イエスは別の人に、『わたしに従って来なさい』と言われた。しかし、その人は言った。『まず行って、父を葬ることをお許しください』」(59節)。

このたびは、イエスさまの方から声をおかけになりました。するとその人は、まず父を葬らせてほしいと願いました。
古代イスラエルでは、父親が死んだ場合には長男が喪主として葬儀を取り仕切りました。そして、1年間喪に服します。ですから、父親を葬った後にイエスさまに従うのは、少なくとも1年後ということになります。

しかも、この人の父親は亡くなったと書かれていません。もしかしたら、今は元気に暮らしているのかもしれません。もしそうなら、イエスさまに従うのはずっと先の話です。
イエスの命令
「イエスは彼に言われた。『死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい』」(60節)。

死人という言葉が2回出てきます。前の死人は、霊的な死人、すなわちイエスさまを信じていない人です。後の死人は肉体的な死人、つまり普通の意味の死人です。死人を葬らせるのは、未信者に任せて、あなたは私と共に伝道しなさいとイエスさまはおっしゃっています。

といっても、これは家族の葬儀なんかどうでもいいという意味ではありません。優先順位を考えなさい、そして最も優先すべきことを優先しなさいということです。

この時から約半年後にイエスさまは十字架にかかられます。そして、復活した後天にお帰りになります。生身のイエスさまから話を聴いたり、そのみわざを目撃したり、直接訓練を受けたりする時間はもうほとんど残されていません。

また、イスラエルの国は公式にイエスさまのことを救い主ではないと決定して拒否しました。そこで、その時代のイスラエルに対して神さまからのさばきが下ろうとしていました。具体的には、ローマ帝国がエルサレムの町と神殿を破壊して、多くのユダヤ人が殺されてしまいます。それが紀元70年ですから、この時から41年後です。長いようですが、あっという間に時は過ぎていきます。

つまり、イスラエルの人たちにとって、あの時代は非常に切羽詰まった状態にあったということです。

ですから、家族のことも大切ですが、この場合には今すぐイエスさまについてきて、一緒に神の国のメッセージを宣べ伝えることが、最も優先すべきことだよとイエスさまはこの人におっしゃっています。

弟子候補生その3

まず家族に別れを
「また、別の人が言った。『主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください』」(61節)。

3番目の人は、1番目の人と違ってイエスさまに従うと苦労も伴うかもしれないことを覚悟しています。

しかし、その前に家族に別れのあいさつをしたいと願いました。2番目の人と場合と違って、あいさつだけならあまり時間を取らないはずです。これはもっともな願いではないでしょうか。
鋤に手をかけたなら
「すると、イエスは彼に言われた。『鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません』」(62節)。

鋤とは、家畜に引かせて硬い土地を耕すための農具です。これが発明されたことで、収穫量は増大しました。しかし、鋤は扱いがとても難しいそうです。刃の入りが浅くては耕せませんし、深すぎると動かなくなってしまいます。

皆さんは、運動場に白線を引いたことがありますか? 自分がまっすぐ線を引けているか気にして後ろを振り返っていると、かえって線が曲がってしまうものです。
それと同じように、鋤もまっすぐ前を向いて扱わないと、耕したところがグニャグニャと曲がってしまって、うまく畝を作ることができません。いったん鋤で耕し始めたら、よそ見をしないで前を向いて進んでいかなければならないのです。

もちろん、イエスさまは農業のやり方を教えておられるわけではありません。これはたとえです。イエスさまは、3番目の弟子候補生に向かって、あいさつしないですぐに従ってきなさいとおっしゃっています。

預言者エリヤが後継者となるエリシャを弟子に加える際は、エリシャが家族と別れのあいさつをすることを許可しています。それなのになぜ、イエスさまはこの人が別れのあいさつに行くことをお止めになったのでしょうか。

この人が家族に別れのあいさつをしたいと願ったのは、おそらく家族に自分の働きを認めてもらい、応援してもらいたいという気持ちからでしょう。それはもっともです。しかし、家族がイエスさまを信じていなければ、おそらく理解されないし、それどころか全力で止められることでしょう。場合によっては、それで心が揺れてしまい、イエスさまに従うことをあきらめてしまう恐れもあります。

ここでイエスさまが教えておられるのは、「イエスさまに従うか、それともそれ以外を選ぶかというような二者択一が迫られている場合には、どちらも手に入れようと欲張らないで、イエスに従う方を選びなさい」ということです。

2.弟子に求められる態度

では、イエスさまが弟子である私たちに求めておられる態度をまとめてみましょう。まずは3人の弟子候補生へのイエスさまの答えから見ていき、最後にヤコブとヨハネへの指導を取り上げます。

覚悟

イエスさまを信じて罪を赦され、天の父なる神さまの子どもにしていただけるというのは、何にも優る祝福です。全知全能である神さまと親しい関係にあるのですから、私たちの人生は何があっても、何がなくても大丈夫です。しかも、永遠に。

ただ、それは私たちの人生にまったく問題がやってこないということではありません。イエスさまを信じても問題がやってきます。むしろ、イエスさまに忠実に従うために、周りの人からいじめられたり、この世で損をしてしまったりすることがあります。

また、いつも申し上げていることですが、このように礼拝式に出席するにも、皆さんはさまざまな犠牲を払ってこられました。たとえば、もう少し寝ていたいとか、買い物に行きたいとか、暑い中外を出歩きたくないとかいう思いを捨てなければ、こうして皆さんはここに来ることができなかったのです。
  • 教会のサイトでこのメッセージを読んでおられる方も、決して短くない時間を犠牲にしておられます。
最初の弟子候補生へのイエスさまの指導は、イエスさまに従うに当たって犠牲を覚悟しなさいと教えています。

しかも、聖書は私たちがただ苦しみに耐えるだけではないとも教えています。困難の中でも、それでもイエスさまを信頼し続け、そのみこころに従い続ける人に対して、神さまはさまざまな祝福の約束を与えてくださっています。その例を挙げてみましょう。
性質が円熟していく
「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:3-5)。
問題が祝福の源になる
「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。
神の国(千年王国)で報酬を受ける
「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします」(第1ペテロ1:6-7)。
約束を信じるからこそ、私たちはたとえ苦しみが待っているとしてもイエスさまに従うことを選びます。聖霊なる神さまが、私たちにその覚悟を与えてくださいますように。またその覚悟を最後の時まで全うできるための忍耐力を与えてくださいますように。

優先順位

家族を大切にすることは重要です。葬儀もないがしろにできません。仕事も大切ですし、友だちづきあいも大事です。

しかし、私たちに与えられている資源、すなわち時間や体力や財産には限りがあります。自分に与えられている資源を効果的に使い、本当に価値ある人生を送るために、私たちは優先順位の高い働きは何か賢く見極め、そこに一点集中しなければなりません。

もちろん、クリスチャンは伝道にのみ集中すべきで、趣味やレジャーに時間を費やしてはいけないとか、5時間以上寝てはいけないとか、おしゃれを楽しんではいけないとか、そういったことを申し上げているわけではありません。異端やカルトの教会ならそういうことを教えて信徒を支配するでしょうが、聖書はそんなことは教えていません。

むしろ、次のように言われています。

「もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、『つかむな、味わうな、さわるな』といった定めに縛られるのですか。これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです」(コロサイ2:20-23)。

ボアネルゲ(雷の子)の1人である使徒ヨハネは、年を取ってからは好々爺になったようです。あるとき、ヨハネが雀と遊んでいたら、たまたま訪問してきた猟師の青年がそれを咎めました。使徒たるもの、遊ぶ暇があったら、伝道とか善行とかそういったことに時間を使えばいいのにというわけです。

するとヨハネは答えました。「君の弓は、使わないときにはつるを外して緩めてあるね? 張りっぱなし弓は、いざというときかえって役に立たなくなるからだ。人間も同じだよ」。

クリスチャンは遊んではいけないのではありません。遊ぶこと、休むこと、食べることもまた、クリスチャンにとって必要なことなのです。その時その時、今の最優先事項は何だろうか。それを考え、正しく選択しましょう。

聖霊なる神さまが、現在の最優先事項が何か教えてくださいますように。そして、それを私たちが正しく選択できるよう助けてくださいますように。

集中

イエスさまに従うことを選ぶか、それ以外を選ぶかという二者択一が迫られる場面があります。その際には、イエスさまに従う方を選びましょう。

もちろん、二者択一を迫られていない場面では、何を選ぶかは自由です。むしろ、クリスチャンだからといって、家族を大切にしないとか、仕事や勉強をないがしろにするとかいうのは間違いです。

しかし、時にはイエスさまか家族か、イエスさまか仕事か、イエスさまか名誉かというようなギリギリの選択を迫られる場合もあります。その際には、イエスさまに従う決断を押し通さなければなりません。たとえ、それで家族を悲しませたり、仕事で不利になったり、悪評を招くことになったとしてもです。

二者択一を迫られた際、聖霊さまが私たちを助けて、イエスさまに従う方を選ぶ勇気を与えてくださいますように。

寛容

ヤコブとヨハネに対するイエスさまの指導は、私たちが傲慢に陥りやすいことを示し、それを戒めています。

傲慢は怒りを引き起こしやすい心の状態です。傲慢な人は、自分が他人からどんな扱いを受けるかに敏感です。そして、「他人は自分に仕えるしもべだ」くらいに思っていて、自分が願ったとおりに行動するのが当たり前だと思い込んでいます。ですから、自分が願ったような対応をしてもらえないと、相手に対して罰を与えたくなって怒り狂うのです。

むしろ、私たちに求められているのは他の人に対する寛容です。使徒パウロは、コロサイ教会の人たちについて次のように祈りました。「神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように」(コロサイ1:11)。

そして、私たちが他の人に寛容でいられるのは、私たち自身が神さまの寛容さ、神さまのあわれみ深さを体験して救われたからです。
前回のメッセージで、「ある人が王さまに1万タラント(労働者が6千万日働いて稼げるお金)の借金をしていたが、王さまに返済を待ってくれるよう泣きついたら、 すべて棒引きにしてもらった。しかし、その人は友だちの100デナリ(100日分の給料)の借金を赦さなかった」というイエスさまの例話を取り上げました。このたとえは、自分がどれほどの罪を神さまから赦され、どれほどのあわれみを受けたかを自覚することが、他の人を赦す原動力になるよということを教えています。

犠牲をものともしない信仰、優先度の高い行動を正しく選択できる信仰、そしてギリギリの選択を迫られてもイエスさまに従う方を選ぶ信仰はすばらしいものです。しかし、そういう信仰を持っていることを誇り、他の人を見下したり、排除したりするならば、イエスさまは悲しまれます。

聖霊さまが、私たちに対する神さまの愛、神さまの寛容さをもっともっと教えてくださることによって、私たちの内側に謙遜さを育ててくださいますように。そして、他の人に対して寛容に、柔和に、あわれみ深く接することができるよう整えてくださいますように。

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