(2023年9月10日)
礼拝メッセージ音声
参考資料
仮庵の祭りを祝うため、イエスさまと弟子たちがエルサレムに到着した後のエピソードです。
順番では、姦淫の現場で捕らえられた女性を巡るエピソードを取り上げるべきところです。しかし、昨年の1月に語っていますので、今回は割愛します。イエスさまは、神殿で人々にメッセージを語られました。
33節の「アブラハム」はユダヤ人の始祖。なお、アブラハムの子孫すべてがユダヤ人なのではありません。ユダヤ人は、アブラハムの子イサクの子ヤコブの子孫を指します。
イントロダクション
今回は、イエスさまを救い主だと信じた人たちに対して、イエスさまが語られた言葉を取り上げます。結果として、この人たちは本当にはイエスさまを信じていなかったということが明らかになってしまいます。
ここから、私たちがまことの弟子として心がけるべきことを教わりましょう。それによって、イエスさまが約束しておられる自由な人生を手に入れましょう。
1.信じた人たちとの対話
真理はあなた方を自由にする
信じた人たち
「イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた」(30節)。
姦淫の現場で捕らえられた女性のエピソードが終わってからも、イエスさまは神殿に留まって人々にメッセージを語られました。それを聴いた人たちは、イエスさまのことを救い主だと信じました。
しかし、12節~20節のやり取りを見ると、ユダヤの人々がイエスさまの語っていることを本当には理解していないことが分かります。
聖書が教える救い主は、確かに神の敵を討ち滅ぼして、地上に理想的な王国、神の国(天の御国、千年王国)を打ち立てます。しかし、その前に人間の罪の問題を処理なさいます。神さまは完全に聖く正しいお方ですから、罪とは相容れません。ですから、罪があるままでは、神さまの敵として滅ぼされる側になってしまいます。
ところが、祭司たちを中心とするサドカイ派の人たちは、死後のさばきを信じていませんでした。また、民衆を教えていたパリサイ派の人たちは、ユダヤ人として生まれただけで神の国に入る権利があると教えていました。つまり、当時のユダヤ人の多くは、自分たちが赦されなければならない罪人だとは思っていなかったのです。
彼らは、ローマ帝国から自分たちを独立させてくれる救い主、政治的な解放者を求めていて、イエスさまのことをそういう存在として信じたに過ぎません。そのことが、この後のやり取りでも明らかになっていきます。
本当の弟子
「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です」(31節)。
イエスさまは、本当の弟子ならばイエスさまのことばに留まるはずだとおっしゃっています。イエスさまのことばにとどまるとは、イエスさまのみことばを信じ続けるという意味です。
真理は自由を与える
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします』」(32節)。
イエスさまのみことばは私たちに真理を教えます。そして、真理を知った人は自由になるとイエスさまは約束なさいました。
罪の奴隷
自分たちは奴隷じゃない
「彼らはイエスに答えた。『私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか』」(33節)。
これから自由になるということは、今は奴隷状態にあるということが前提となっています。そこに人々は抵抗を示しました。自分たちは奴隷じゃないというのです。しかし、これは嘘っぱちです。
かつてイスラエルはエジプトの奴隷状態でした。また、約束の地に戻ってきてからも、アッシリアやバビロンによって滅ぼされ、多くの民が外国に連れて行かれました(アッシリア捕囚、バビロン捕囚)。その後はペルシャの支配下に入り、さらにマケドニアのアレキサンダー大王やその後継者たちの支配を受けます。そして、福音書時代はローマ帝国によって支配されています。
しかも、ここでイエスさまが問題にしている奴隷状態は、物理的なものや政治的なものではありません。それが次に語られます。
罪の奴隷
「イエスは彼らに答えられた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」(34節)。
イエスさまが問題にしておられる奴隷状態は、罪の奴隷状態です。使徒パウロは手紙の中で次のように語っています。
「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです」(ローマ7:15)。
「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです」(ローマ7:18)。
「私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:23-24)。
罪の奴隷状態は、依存症に似たところがあります。たとえばアルコール依存症の人の多くは、自分は病気ではないと思っています。そして、お酒のためにさまざまなトラブルが起こっても「ちょっと飲み過ぎただけ」と考えます。やめようと思えばいつでもお酒をやめられると思っているのです。
自分には助けが必要だということを認めないと、いつまでも治療を受けようとしません。そして、やがて手遅れになるほど体を壊したり、家庭が修復不可能になるまで破壊されてしまったりします。
罪の奴隷状態に陥っている人は、自分たちは自由に振る舞っていると思っています。イエスさまと話をした人たちも、自分たちは奴隷じゃないと言い張りました。しかし、実際には罪の性質に振り回されているだけで、本当には不自由です。
子が自由にする
「奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです」(35-36節)。
息子はいつも父親と共にいます。そして、父の働きを手伝います。イエスさまの父とは神さまのことです。
人の罪を赦し、罪の奴隷状態から解放することができるのは神さまだけです。罪は神さまを否定し、神さまの尊厳を値引き、神さまに逆らうことだからです。そして、父なる神さまといつも共にいる子なる神であるイエスさまは、父なる神さまの働きを手伝って人々を罪の奴隷状態から解放することができます。私たちはイエスさまによって、本当に自由な生き方を手に入れることができるのです。
しかし、当時のユダヤ人の多くは、自分たちに罪の問題があることを認めようとしませんでした。その結果、罪を赦す救い主など必要とせず、自分が罪を赦すために来たとおっしゃるイエスさまのことも拒否しようとしています。
イエスのことばが入っていない
「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです」(37節)。
イエスさまは、ユダヤ人が肉体的にはアブラハムの子孫だということは認めています。しかし、アブラハムは神さまの約束のみことばを信じて受け入れたのに、彼らの多くはイエスさまのみことばを信じ受け入れようとせず、それどころか命を狙っています。
あなたがたの父
「わたしは父のもとで見たことを話しています。あなたがたは、あなたがたの父から聞いたことを行っています』。彼らはイエスに答えて言った。『私たちの父はアブラハムです』。イエスは彼らに言われた。『あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです』」(38-39節)。
アブラハムは、神さまの約束のみことばを聴いてそれを信じました。しかし、アブラハムと違って、福音書時代の人たちはイエスさまを聖書が教えているとおりの救い主だとは信じません。子どもは父を見習った行動をするものだから、あなたたちの霊的な父親はアブラハムじゃなくてサタン(悪魔)だというのが、イエスさまが語っておられることです。
そして、そのことを認めて悔い改め、イエスさまのことを罪から救ってくださるお方として信じなさいとイエスさまは勧めておられます。
神性宣言
その後も、しばらくイエスさまと信じたという人たちとの対話が続きます。イエスさまは、人々が自分の罪を認めて悔い改め、罪からの救い主としてご自分を信じることを願って語りかけるのですが、人々は自分たちが侮辱されていると感じ、反発していきます。
挙げ句にイエスさまのことを「やっぱりあなたは悪霊に取りつかれている」と言い捨てます。
そんな彼らに対して、イエスさまは次のように語られました。
アブラハムの喜び
「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです」(56節)。
イエスさまは、人々が自分たちの父と呼んでいるアブラハムが、自分イエスが救い主として地上にやってくる日が来ることを神さまに示され、それを楽しみにしていたと語りました。
あなた方がアブラハムの子孫なら、アブラハムと同じようにこのイエスのことを信じなければならないはずだとイエスさまはおっしゃっています。
アブラハムを見た?
「そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか」(57節)。
ところが、人々はイエスさまの言葉尻を捉えて質問します。大昔のアブラハムのことを、目の前で見たかのような言いっぷりを非難します。この時のイエスさまの年齢は、33歳頃でした。それなのにそんなことを言うなんてちゃんちゃらおかしいというわけです。
わたしはある
「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです」(58節)。
イエスさまは、彼らの言葉尻を捉えた非難に対して、驚くべき切り返しをなさいました。新共同訳の方が日本語としてすっきりしているので、そちらも紹介しておきます。
「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(新共同訳)。
「わたしはある」とは、出エジプトの際、神さまがモーセに自己紹介なさったときに語られた言葉です。
「わたしは『わたしはある』という者である」(出エジプト記3:14)。
つまり、イエスさまの58節の言葉は、ご自分のことを神であると宣言したことになります。少なくとも、ユダヤ人たちはそのように解釈します。
ユダヤ人の反応
「すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた」(59節)。
イエスさまは、三位一体の神の第二位格、子なる神でいらっしゃいます。そんなイエスさまが「わたしはある」と宣言なさるのは当然のことです。しかし、聴いていた人たちはイエスさまのことを神が人となって来られた救い主ではなく、ただの人間だとみなしています。
ただの人間が自分のことを神だと主張するならば、それは冒涜罪です。モーセの律法では死刑に値する重罪でした。そこで人々は石を投げてイエスさまを殺そうとしました。
救い主は、仮庵の祭りの時に石打ちの刑で死ぬわけにはいきません。過越の祭りの時に十字架にかかって死ななければならないというのが神さまのご計画だからです。そこで、神さまはイエスさまの命を守られました。イエスさまは難を逃れ、神殿を離れていかれました。
こういうわけで、イエスさまを救い主だと信じたはずの人たちでしたが、実は聖書が教えるとおりの救い主だと信じたわけではないということが明らかになってしまいました。
ここから、私たちがまことの弟子として自由な生き方を手に入れるため、いつも心がけるべきことを教えていただきましょう。
2.まことの弟子の特徴
自分が不自由だと認めること
人間には完全な自由は与えられていません。たとえば、どんなに自由だといっても、神さまが定めた物理法則(たとえば万有引力の法則など)には縛られていますね。ですから、2階の窓から飛び出せば、地球の中心に向かって引き寄せられ、落ちて怪我をしてしまうでしょう。
鳥や飛行機は自由に空を飛んでいるように見えますが、それは物理法則に逆らっているからでなく、法則に従った行動をしているからです。
私たち人間は、神さまのしもべとして生きるか、サタンのしもべ(すなわち罪の奴隷)として生きるかのどちらかです。
そして、神さまから自由になろうとして好き勝手に生きることは、私たちをかえって縛り付けてしまいます。
この話をお読みください。
高校生の男の子(Aくんと呼ぶことにしましょう)と話をしました。彼には最近つきあい始めた女の子(B子ちゃんと呼ぶことにしましょう)がいます。
Aくんから見て、B子ちゃんはとても素直でいい子です。いろんな友だちに聞いても、、B子ちゃんはとても優しい子だということでした。
ところが、B子ちゃんには一つ問題がありました。友人の一人がこう警告しました。「あいつ、かっこいい男を見ると、すぐに気持ちがそっちに移っちゃうんだ」。前の彼氏ともそれが原因で別れたのだとか。それで、Aくん、いつ浮気されるかと戦々恐々としている……そんな話でした。
女の子が誰かとつき合っているときに、他の誰を好きになろうと、それは自由というものです。そんなことをしちゃいけないという法律があるわけではありません。しかし、あの高校生の話を聞きながら、際限のない自由は、本当は不自由な生活をもたらすんじゃないかと思いました。実際、そのようにして壊れていく家庭の何と多いことでしょう。
昔、アルコール依存症専門医の講演を聴きました。その先生がおっしゃるには、依存症の患者さんが「自分は依存症だ」と認めたら、それだけで治療の8割は完了しているとおっしゃいました。
本当に自由な生き方を手に入れるために、私たちはまず自分には罪の問題があることを認めなければなりません。それはつらいことですが、それが自由な人生を歩むために必要不可欠なことです。
罪は神さまに逆らって、その存在を否定したりそのすばらしさを値引いたりすることですから、罪を犯すと神さまとの関係がおかしくなってしまいます。その結果、神さまが約束してくださっているさまざまな祝福を充分に味わえなくなってしまいます。そして、不自由な生き方に陥ってしまうのです。
ですから、自分が神さまの喜ばれないことを考えたり行なったりしていたことに気づいたら、すぐにそれを認めて神さまに告白しましょう。
赦されていることを信じ続けること
私たちはすでに、イエスさまが自分の罪を赦すために十字架にかけられたこと、そして死んで葬られ、3日目に復活なさったことを信じました。その結果、過去の罪も、現在の罪も、未来の罪もすべて完全に赦されています。
ですから、私たちが自分の罪を認めて神さまに告白しただけで、神さまは直ちにそれを赦し、私たちを罪からきよめてくださいます。その結果、神さまとの親しい関係を回復してくださり、約束された祝福が充分注がれる状態に引き戻されるのです。それが聖書の約束です。
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(第1ヨハネ1:9)。
十字架と復活以外に、罪の奴隷状態から自由にされるための条件はありません。罪が赦されるために、イエスさまの支払ってくださった犠牲以外の償いは必要ありません。赦されるために、良い行ないをする必要はないし、献金する必要はないし、出家して修行する必要もありません。私たちはすでに赦され、愛されていることをいつも確認しましょう。
イエスが喜ばれる生き方を目指すこと
この前仕事で幼稚園を訪問したら、ある子どもが一生懸命折り紙を折っていました。形がいびつで何を作っているよく分からなかったので尋ねてみると、「ママの誕生日だからお花をあげるの」と言います。「ママのこと、大好きなんだね」と尋ねると、「うん! ママ優しいの」と答えてくれました。客観的にはお花には見えませんでしたが、きっとママはあの子がプレゼンとしてくれたお花を喜んで受け取ってくれたことでしょう。
人は愛されると、自分を愛してくれた人に喜んでもらおうとします。逆に悲しませるようなことはしたくないと思うようになります。
私たちが赦されるために良い行ないは必要ありません。しかし、赦されて神さまとの親しい交わりを回復して喜んでいる人は、自分も神さまを愛し、神さまに喜ばれる生き方がしたいと願うようになります。そして、それを実践しようとします。
今回登場した人たちは、自分たちが期待する救い主のイメージをイエスさまに押しつけようとしました。そして、実際にはイメージ通りでないことが分かって幻滅し、イエスさまの元から離れてしまいました。彼らはイエスさまのしもべとしてイエスさまのみことばを聞いて守ることを拒否して、罪の奴隷で居続けることを選んでしまったのです。
しかし、私たち本物の弟子はそうであってはなりません。私たちの欲望をイエスさまに押しつけるのではなく、イエスさまの語られるみことばを聴き、イエスさまのみこころを知って、それを実行することを目指しましょう。そうすることによって、私たちは罪の力からだんだんと自由になっていき、心の解放を体験することができます。