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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

生まれつきの盲人のいやし

イエス・キリストの生涯シリーズ47

ヨハネによる福音書9章1節〜7節

(2023年9月17日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

紀元29年秋、イエスさま一行が仮庵の祭りを祝うためにエルサレムに来たときのエピソードです。7日間続く祭りは終わりましたが(7:37と8:2参照)、まだイエスさまはエルサレムに留まっておられます。

7節の「シロアムの池」は、エルサレム神殿から、南に坂道を10分ほど下った場所にあった池です。

(画像引用:たけさんのイスラエル紀行

イントロダクション

今回は、生まれつき目の見えない人をイエスさまがいやされたというエピソードを取り上げます。

神さまは、私たち一人一人に特別な計画をお持ちです。しかもそれはのろいの計画ではなく祝福の計画です。神さまは私たちの人生を通して、素晴らしいことをこの地上で成し遂げようとしてくださっています。それを実際に私たちが味わうために必要なことを、今回の記事から教えていただきましょう。

1.盲人のいやし

誰の罪のせいか

盲人に目を留めるイエス
「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった」(1節)。

7日間続く仮庵の祭りが終わりました。しかし、イエスさまはまだエルサレムに留まり、神殿で人々を教えておられました。そして、神殿を出たところで一人の盲人をご覧になりました。

今は目の見えない方たちもさまざまな仕事に就いています。しかし、この当時は体に障がいがあると働き口を見つけるのが難しく、ほとんどの場合物乞いをして生活しなければなりませんでした。この人も人通りの多いその場所で物乞いをしていました(8節参照)。
弟子たちの質問
「弟子たちはイエスに尋ねた。『先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか』」(2節)。

弟子たちは、この人の目が生まれつき見えない理由を知りたがりました。彼らはこの人自身が罪を犯したから、あるいは親が罪を犯したから、神さまからの罰としてこうなったのだと考えています。

日本語には「親の因果が子に報い」という言葉があります。聖書の中にも、「あなたの神、【主】であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エジプト記20:5-6)。

ですから、弟子たちが「この人の目が見えないのは、親が悪いことをした報いかもしれない」と考えたのは理解できなくもありません。しかし、この人は中途失明ではなく生まれつき目が見えません。それなのに、この人が罪を犯したから罰として目が見えなくなったという考えは、私たちにはちょっと理解できません。

実は当時のユダヤでは、生まれる前の子どもはお母さんのおなかの中で罪を犯すことがあると考えられていました。パリサイ人たちは次のように教えていました。
  • 生まれる前の子どもには、正しい性質と悪い性質がすでに同居している。
  • ほとんどの子は正しい性質が優っているが、たまに悪い性質の方が強い子どもがいる。
  • 悪い性質が優った子は、母親を憎むようになる。
  • 体内で子どもが成長すると、おなかの中から母親を蹴るようになるが、悪い性質が優った子は、母親への憎しみをこめて蹴り上げる。
  • これは「父母を敬え」というモーセの律法に違反する行為だから、神のさばきが下ってその子は生まれつき目が見えなくなる。
  • 中途失明の場合には神の恵みによっていやされることがあるが、生まれつきの盲人の場合には神ののろいを受けているためいやされることはなく、ただ救い主だけがいやすことができる。
聖書には、そのようなことは書かれていません。しかし、パリサイ人たちがそのように教えていたので、多くの民衆も、そして弟子たちも、もしかしたらこの人が母親のおなかの中で罪を犯したからこのような障がいを抱えて生まれたのかもしれないと考えたのです。

それにしても、弟子たちがこんな言葉を本人がいるところで話したのは、デリカシーに欠ける行為だと言わざるを得ません。目の見えない人は、それをカバーするために他の感覚が敏感になるといわれていますから、きっとこの人には弟子たちの言葉が聞こえたはずです。

これまで何度もこの人は、他の人たちから「親の罪のせいか、それともお前自身の罪のせいか、とにかくお前は神に呪われているのだ」と言われてきたことでしょう。何度も経験しているから痛み・悲しみに慣れるということはありません。きっと弟子たちの軽率な言葉に、この人は深く傷つき、悲しい思いをしたに違いありません。

神のわざが現れるため

イエスの答え
「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」(3節)。

イエスさまは、AでもなくBでもない第三の答えを語られました。それは「神のわざが現れるため」という理由です。これはいったいどういう意味でしょうか。3つのポイントを挙げておきます。

(1) この人は神に呪われているわけではない。

イエスさまは、罪の結果としてこの人が目の見えない状態で生まれたのではないとおっしゃっています。つまり、この人は神さまに呪われて失明しているわけではないということです。

人類の先祖であるアダムが罪を犯した結果、人もこの世の被造物も元の素晴らしい状態を失ってしまいました。そして、人と人、人と自然界の関係もおかしくなってしまいました(創世記3章)。今、さまざまな災害、疫病、飢饉、戦争、人間関係の問題などで人間が苦しむのは、広い意味では人間の罪のせいです。

また聖書の中には、個別の罪を犯した結果神さまからさばかれて、死んでしまったり苦しみに遭ったりした人たちがたくさん登場します。たとえば、以前王さまシリーズで取り上げたウジヤ王は、晩年になって傲慢になりました。そして、祭司しか行なってはならないと聖書が教えている、神殿で香をたくという行為をしようとします。その結果、神さまのさばきが下って、ウジヤはツァラートという重い病気にかかってしまいました。

しかし、人が苦しみに遭うのは、すべて個別の罪に対する神さまからのさばきであると言うことはできません。この盲人の場合には罪の結果ではない、神に呪われているわけではないとイエスさまはおっしゃっています。

(2) この人の人生に、神は祝福の計画を立てておられる。

「神のわざが現れる」ということは、神さまがこの人の人生を通して、ものすごいことをしてくださるということです。神さまは行き当たりばったりに行動なさる方ではありません。永遠の昔から、この人を選び、この人を通してどのような素晴らしいことをなさるか、ちゃんと計画しておられます。

しかも「神のわざ」という言葉は、原文のギリシア語では複数形が使われています。この後この人はイエスさまによって目を開かれ、見えるようにしていただきます。しかし、それで祝福は終わりではありません。この後も、神さまはこの人を通して地上で素晴らしいことを行なってくださるのです。

(3) その計画が実現するために、この人は失明した状態で生まれなければならなかった。

そして、この人を通して素晴らしいことが地上で行なわれるために、この人は目が見えない状態で生まれ、その後も今に至るまで目が見えない状態でい続ける必要がありました。

人間には、これはいらないもの、じゃまなもの、不幸のタネのように思えてるものでも、神さまの祝福のご計画には、なくてならないパーツなのです。

この盲人の耳に聞こえてきたイエスさまの宣言は、これまで聞かされてきた言葉とはまったく異なりました。そして、この人の心に大きな希望を生み出したことでしょう。
昼のうちに行なうべし
「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます」(4節)。

イエスさまがここでおっしゃっている夜とは、イエスさまが十字架にかけられて亡くなることを表しています。そして昼は、十字架以前のことです。

イエスさまは十字架にかかって亡くなりますが、3日目に復活をなさいます。しかし、その後は弟子たちの前にしか姿を現わしません。そして、復活後40日経つと天にお帰りになります。ですから、一般の民衆に対して話をなさる機会は、もうわずかしか残されていません。実際、十字架の死はこの時から約半年後に迫っていました。

イエスさまは、自分はこの残された短い時間を無駄にせず、天の父なる神さまからまさかされた働きを遂行するとおっしゃっています。

しかもイエスさまは「わたしは」ではなく「わたしたちは」とおっしゃっています。神さまに任された働きをする人物の中には、イエスさま以外に弟子たちも含まれます。そして、今はまだイエスさまを信じていませんが、この目の見えない人もやがてイエスさまを信じて救われ、イエスさまや他の弟子たちと共に働くようになります。
わたしが世の光
「わたしが世にいる間は、わたしが世の光です』」(5節)。

8章で、イエスさまは次のように語られました。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」(8:12)。

昼の間にイエスさまが行なうよう天の父なる神さまから命ぜられたのは、人を罪から救い出して、永遠のいのちを与える働きです。

シロアムの池で洗え

泥を目に塗る
「イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って」(6節)、

これまで何度も見てきたように、イエスさまは言葉一つで病気や障がいをいやしたり、悪霊を追い出したりなさってきました。ですから、ここでも「見えるようになれ」とお命じになれば事は済みます。しかし、このときのイエスさまは、私たち日本人の感覚からは「ちょっと汚いな」と思うような方法を採用なさいました。
ユダヤの律法学者たちは、モーセの律法以外に膨大な数の規則を作り上げていました。これを福音書は「言い伝え」と呼んでいます(聖書の研究者たちは「口伝律法」と呼びます)。パリサイ人は、この口伝律法を積極的に守り、一般民衆にも教えてこれを守るよう命じていました。

その口伝律法によると、安息日に人をいやしてはいけません。特に、唾で泥を作ってそれを目に塗って目をいやす行為はNGです。イエスさまがこの盲人をいやしたのは安息日でした。しかも口伝律法が禁じている方法でいやされました。つまり、イエスさまは律法学者・パリサイ人たちを刺激するようなことをわざわざ行なったということです。

そして案の定、律法学者・パリサイ人たちの反発を招きますが、これについては次回のメッセージで取り上げます。
イエスの命令
「『行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい』と言われた」(7節)。

シロアムの池とは、エルサレムの中にある池です。イエスさまと盲人が対話していた場所からだと、10分ほど坂道を下ったところにあります。
盲人の応答
「そこで、彼は行って洗った」(7節)。

さらりと書いてありますが、この時点ではまだこの人は目が見えないままです。目が見える人なら10分程度の距離であっても、この人は30分くらいかかったかもしれません。

目の泥を洗い流すなら、手近なところで水を汲んで洗ってもいいかもしれません。しかし、イエスさまはシロアムの池で洗えとおっしゃったのですから、この人は忠実にその命令に従いました。
結果
「すると、見えるようになり、帰って行った」(7節)。

イエスさまのおっしゃったとおりのことを行なったこの人は、目が開かれて見えるようになりました。他の人々はそのことで大変驚きます。なにしろ、パリサイ人たちが「生まれつきの盲人はいやされない。いやせるのは救い主しかいない」と教えていたのですから。

こうして、この人の人生に神さまが計画しておられた素晴らしいことが、いよいよ本格的に花開き始めました。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちも私たちのために用意されている神のわざを実現するために、何を心がければいいのでしょうか。

2.いやされた盲人に学ぼう

誰かのせい・何かのせいにするのをやめよう

2節の弟子たちの言葉は、因果応報の考え方に基づいています。すなわち、「我々が不幸な目に遭うのは、自分か先祖が悪いことをした報いである」という考えです。

我々日本人にも、このような因果応報の考え方が染みついています。そして、何か問題が起こると、いったい誰が(何が)悪かったのかと犯人捜しを始めるのです。

そして、たいてい問題を抱えている本人が犯人にされるのではないでしょうか。曰く、
  • お酒がやめられないのは、あなたの意志が弱いからです。
  • 家庭不和は、あなたの祈りが足りないせいです。
  • 家計が苦しいのは、ちゃんと献金していないからです。
  • 子どもが学校に行かないのは、親であるあなたの愛情不足が原因です。
イエスさまは因果論のすべてを否定しているわけではありません。聖書も「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)と教えています。計画を立てること、優先順位を確立すること、地道に努力すること、悪ではなく善を行なうことの大切さを、イエスさまも聖書も繰り返し教えています。

しかし、問題のすべてが罪の結果である、神さまに呪われているせいであると極端に捉えるのは間違いだとイエスさまは指摘しておられます。

もしも神さまが罪や問題行動の結果として誰かに苦しみを与えるとしたら、それは悔い改めに導き、神さまとの親しい関係を回復するためです。その場合には、因果関係がはっきり理解できます。因果関係がはっきりしないのに、何でもかんでも誰かのせいにするのは間違いです。
因果論の問題点
因果論に基づく犯人捜しの困った点は、問題を持っている本人に何の解決も与えないことが多いし、それどころかかえって傷つけることが多いということです。今回登場した目の見えない人も、弟子たちや町の人たちの心ない言葉にどれほど傷つけられたことでしょうか。

また、他の誰かのせいにしても、問題はほぼ解決しません。それどころか怨みの気持ちが自分の心をむしばんだり、人間関係を悪化させたりするだけになることがほとんどです。
神は赦し、祝福する
あなたは、今、つらい状況に置かれていませんか? そして、それを自分のせいにしたり、自分が神さまに呪われていると考えたりして、余計に苦しんでこられませんでしたか?

問題が起こったときには、誰かのせいにしたり何かのせいにしたりするのはやめましょう。それよりもこれからどのように対処するかを考えた方が、よっぽど生産的です。

希望を持とう

イエスさまは、この人が目の見えない状態で生まれたのは、罪の呪いではなく、神さまのみわざが現れるためだと宣言なさいました。神さまはこの人を愛しており、その人生に特別な計画をお持ちです。

それと同様に、あなたも神さまに愛されています。そして、あなたの人生を通して神さまは素晴らしいことをしようと計画していらっしゃいます。その計画が実現するために、この苦しみは必要不可欠のものだと信じましょう。

たとえ罪の結果として招いた苦しみだったとしても、それは神さまに呪われてのことではなく、むしろ神さまに愛されているためです。悔い改めによって、神さまとの関係が再びつながって、祝福が流れ込むようになるからです。

ですから、苦しみに遭ったときには、自分が神さまに愛されているのだということ、そして自分の人生を通して自分や他の人に神さまのすばらしさが明らかになるため、この苦しみはどうしても必要なものだということを宣言しましょう。
問題+神さま=祝福
神さまは、あなたの長所や成功していることを通しても素晴しいことをなさいますが、短所や弱点に見えるところ、失敗とか思えないことを通しても素晴しいことをなさいます。「問題+神さま=祝福」なのです。

ペテロはイエスさまを3度も知らないと言いました。パウロはイエスさまを憎み、教会を迫害していました。しかし、それぞれにイエスさまに赦されました。そのときのことを語る彼らの証しは、多くの人々を慰め、励ましてきました。

星野富弘さんやヘレン・ケラーは、体の障がいはいやされませんでした。しかし、障がいにも関わらず、いやむしろ障がいを通して、多くの人々を慰め励ましてこられました。

あなたにも傷がありますか? 弱さがありますか? 問題がありますか? イエスさまは、そんな問題を通して、神さまのわざを現そうとしてくださろうとしています。それを信じましょう。

神のわざに参加しよう

目が見えない障害は、神さまのわざが現れるためだとイエスさまから聞いたこの盲人は、イエスさまが「シロアムの池に行って洗え」とおっしゃった命令を忠実に実行しました。もしもこの人が命令に従わなかったらいやされることはなかったでしょう。この人はイエスさまの命令を実行することを通して、神のわざが現れるプロセスに参加したのです。

問題に遭ったときには、すでに申し上げたようにいたずらに犯人捜しをするのではなく、この問題のただ中で自分がどのように振る舞うことを神さまが望んでおられるか、祈りながら考えましょう。そして、神さまがさまざまな方法でそれを教えてくださったなら、それを忠実に実行しましょう。それこそ問題が祝福の種になるための秘訣です。

神さまは、特に聖書の言葉によってご自身の考えを私たちに教えてくださいます。いつも聖書に親しみ、神さまのみこころを学びましょう。そして問題があってもなくても、それを忠実に実行しましょう。

たとえば、聖書は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい」(第1テサロニケ5:16-18)と命じています。ですから、問題がやってきたときには「なぜこんな問題が起こることをお許しになったのですか?」「なぜすぐに助けてくださらないのですか?」などと神さまに文句を言う代わりに、「理由はまだ分かりませんが、この問題は祝福の種だと信じます。問題を与えてくださってありがとうございます」と感謝しましょう。
皆さんは問題のまっただ中にいらっしゃいますか? 神さまがその苦しみから一刻も早く抜け出させてくださいますように。そして、祝福のためにせっかく与えられた苦しみなのですから、本当に祝福の種だったということをはっきりと味わわせてくださいますように。

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