本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

生まれつきの盲人の救い

イエス・キリストの生涯シリーズ48

ヨハネによる福音書9章35節〜41節

(2023年9月24日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

生まれつきの盲人をイエスさまがいやした後のエピソードです。

40節の「パリサイ人」は、ユダヤの宗教的グループの一つ「パリサイ派」に属する人。伝統を重んじ、聖書に書いていないような戒律まで作って守り、また民衆にもそれを守るよう教えていました。イエスさまの言動が、彼らの伝統や神学に相容れないことが多かったので、多くのパリサイ人はイエスさまに対して敵対的でした。

イントロダクション

祝福の源であるイエスさまと関係が結ばれ、その関係が強固になっていくに従って、私たちの人生は祝福に満ちあふれていきます。

生まれつき目が見えず、イエスさまによっていやされた人は、イエスさまが救い主であることを知り、イエスさまとの関係がさらに強くなりました。ところが、聖書の学者たち、宗教的な指導者たちは、イエスさまとの関係を深めるチャンスをふいにしてしまいました。

私たちは、イエスさまと良い関係を持ち、それをさらに育てることができます。その秘訣は何でしょうか。生まれつきの盲人がいやされた後のエピソードからそれを学びましょう。

1.いやしの後のエピソード

パリサイ人による尋問

驚いた人々(8-12節)
前回のメッセージで学んだように、イエスさまは生まれつきの盲人の目を開かれました。この人がいやされたことを知った人たちは大変驚きます。そして、どのようにしていやされたのか尋ねました。

この人がイエスさまと出会ったのは、神殿を出たあたりです。イエスさまは、唾を吐いて泥を作り、それをこの人のまぶたに塗ってから、「シロアムの池にいって洗いなさい」とおっしゃいました。そして、この人が言われたとおりにするといやしが起こりました。
ですから、いやしが起こったときにイエスさまはそこにいませんでした。そこで、人々が「目を開いてくれた人はどこにいるのか」と尋ねると、この人は知らないと答えました。
パリサイ人の元へ(13節)
すると、人々はこの人をパリサイ人のところに連れて行きました。

というのも、パリサイ人たちは次のように教えていたからです。曰く、「中途失明の人をいやすのは誰でも可能性がある。しかし、生まれつき目の見えない人は神に呪われているから、そういう人ををいやすことができるのは救い主だけだ」と。
  • 聖書は、生まれつきの盲人が格別に神さまに呪われているとは教えていません。
  • むしろ、イエスさまは「この人が盲目に生まれついたのは、誰かが罪を犯したせいではなく、神のわざが現れるためだ」とおっしゃって、そのような考えを否定なさいました。また、ヨブ記も苦しみと罪を安易に結びつけることの間違いを指摘しています。
  • ただ、パリサイ人たちがそう教えていたということです。
そんな生まれつきの盲人をいやしたのですから、パリサイ人の教えの通りならイエスという人は救い主のはずです。ユダヤ人が待ち焦がれていた救い主がとうとう現れたのです。これは素晴らしい知らせのはずでした。

ところが、一方でパリサイ人たちは「ナザレのイエスはキリストではない」と明言していました。これはいったいどう考えたらいいのでしょうか。人々は理解ができず、パリサイ人たちに判断を仰ごうとしたのでしょう。
パリサイ人による尋問1(14-23節)
さて、このいやしが行なわれたのは安息日でした。パリサイ人たちは、安息日にはいやしを行なってはならないと教えていました。いやしはモーセの律法で安息日に禁じられていた労働に当たるからだという理屈です。もちろん、モーセの律法自体はそんなことを教えていませんでしたが、パリサイ人たちの長い伝統の中でそういう規則が作り上げられていたのです。

イエスさまは、パリサイ人たちの規則をまったく無視したり、彼らのことを偽善者呼ばわりしたりしていました。そこで、イエスさまのことを救い主だなんて信じたくありません。ところが、まさに自分たちが「この種のいやしは救い主しか行なえない」と教えていたいやしをイエスさまが行なったのですから、これは困ったことになりました。

そこで、パリサイ人たちはいやされた人だけでなくその両親まで呼び出して、この人は生まれつき目が見えなかったわけではなく、中途失明だった可能性をさぐります。中途失明をいやしたのであれば、救い主の証拠にはなりません。

ところが両親は、確かに我が子は生まれつき目が見えなかったと証言しました。
パリサイ人による尋問2(24-29節)
「そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ」。彼は答えた。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」(24-25節)

パリサイ人たちは、「イエスは罪人だから、生まれつきの盲人をいやせるはずがない」という前提で尋問を続けます。ですから、いやされた人との議論はまったくかみ合いません。
除名処分(30-34節)
何度も同じことを尋ねられて、いやされた人はだんだん苛立ってきました。そして、「なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか」(27節)などと挑発的な発言をしました。

さらにはパリサイ人たちに向かって、「あの方が神さまから使わされたことを認めようとしないとは驚きです」とまで言い放ちました。

これに怒ったパリサイ人たちは、この人を外に追い出してしまいました。これはユダヤ教の共同体から除名処分にしたということです。この人は、神殿や会堂で神さまを礼拝することができなくなってしまいました。

元盲人の救い

そして、今回ご一緒に交読した箇所です。
人の子を信じますか
「イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。『あなたは人の子を信じますか』」(35節)。

人の子とは救い主のことです。イエスさまは、いやされた人を見つけ出すと、救い主が現れたなら信じるかとイエスさまは尋ねました。
その人はどなたか
「その人は答えた。『主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか』(36節)。

この人がイエスさまと最初に話をしたとき、この人はイエスさまの顔を見ることができませんでした。そして目が開いたとき、そこにイエスさまはいませんでした。ですから、この人は自分をいやしてくださった方の顔を知りません。

つまり、自分をいやしてくださったのが救い主だということは知っていても、その方が誰なのかはまだ知らないということです。そこで、「その人はどなたなのですか」と尋ねています。
救い主宣言
「イエスは彼に言われた。『あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です』」(37節)

イエスさまは、この自分こそ救い主だと宣言なさいました。
信仰告白と礼拝
「彼は『主よ、信じます』と言って、イエスを礼拝した」(38節)。

ユダヤ人は、ただの人間を礼拝することは決してありません。イエスさまを礼拝したということは、この人がイエスさまのことを人となられた神、救い主だと信じたということです。
この人は肉体的な目を開いていただいただけでなく、霊的な目も開かれました。そして罪を赦され、救われ、神さまの子どもとされました。その後は、きっとイエスさまと行動を共にするようになったことでしょう。

あなたがたの罪は残る

さばきのために来た
「そこで、イエスは言われた。『わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです』」(39節)。

イエスさまは、自分はさばきのために来たとおっしゃいました。さばきとは裁判のことですが、裁判では人を罪ありか罪なしか判定します。イエスさまも人間を罪ありか罪なしかの2つに分けます。

「目の見えない者」とは、自分が霊的に盲目であると自覚している人のことです。すなわち、自分は神さまによって救われる必要があると自覚している人です。そういう人は霊的に見える者、すなわち罪を赦されて救われる人になります。

一方、後半の「見える者」とは、自分に罪の赦しが必要だと自覚していない人です。そういう人は霊的に見えないままで、罪の赦しを受け取ることができません。
パリサイ人たちの問い
「パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。『私たちも盲目なのですか』」(40節)。

そこにパリサイ人たちがいました。「私たちも盲目なのか」というのは、「そうではない」という答えを期待した質問です。

パリサイ人たちは、ユダヤ人として生まれた人はそれだけですでに救われていて、将来救い主が地上に造る王国、神の国(天の御国、千年王国)に必ず入れると信じていました。まして、自分たちパリサイ人は他のユダヤ人以上に正しく、神さまに愛されていると自負しています。ですから、そんな自分たちが霊的に盲目だということなどあり得ないと彼らは主張したいのです。
見えると言っているから罪が残る
「イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります」(41節)。

自分が罪の赦しを必要としている罪人だと認めようとしないパリサイ人たちに向かって、イエスさまは「だからあなた方の罪は残る」とおっしゃいました。自分の罪を認めなければ、救い主による罪の赦しを求めようとしないからです。

では、以上の箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

2.私たちもイエスに霊の目を開いてもらえる

見えると言わない

見えると思うと求めようとしない
「自分は見える」と思えば、それ以上見ようとしません。「知っている」と思えば、それ以上知ろうとしません。「分かっている」と思えば、それ以上考えようとしません。すると、そこに置かれている祝福の種を見つけ損ねてしまうかもしれません。

日本のカウンセリング会の重鎮だった河合隼雄先生は、生前、相談室に入る前に必ずある儀式をなさったそうです。それは、ご自分に向かって「人の心のことなんて分からない」と、何度も唱えるということです。

もちろん、人の心が分からなければカウンセリングは成り立ちません。これは、「分かったつもりになるなよ」という自戒の言葉だったのだろうと思います。

人の心は分からない。だから、分かったつもりにならない。「この人はこういう人だ」「こういう原因でこうなっているんだ」と決めつけない。そして、分からないと思うから、もっと聴こうとします。その結果、人の気持ちがよく分かるようになる。そのような姿勢で取り組まれたからこそ、河合先生はすばらしいカウンセラーとして活躍なさったのでしょう。

「分かっているのにできない」「分かっているのにやめられない」とよく聞きます。しかし、本当は分かっていないからできないし、やめられないのです。たとえば、
  • それをやらなければならない、やめなければならないとは、本気では思っていないのかもしれません。
  • 無意識に、「そんなのやりたくない」「やめたくない」と思っているのかもしれません。
  • それを実行するための方法を知らないから、できない、やめられないのかもしれません。
しかし、「ああ、自分は分かっていると思ってきたけれど、本当にはまだ分かっていなかったんだ。だから、できなかったんだ。やめられなかったんだ」と認めるなら、そこから良い循環が始まります。
罪についても同じ
自分には罪の性質があって、自分の力では神さまに喜ばれる生き方ができない。そう自覚するならば、人はイエスさまによる一方的な赦しを求めるようになります。そして、本当に罪を赦され、神さまとの関係を回復され、神さまの子どもとして大いに祝福されるようになります。

すでに救いをいただいた後も、私たちは神さま抜きで生きていけるようになるわけではありません。罪を自覚するたびにそれを認め、神さまに告白して赦しを確認しましょう。そして、聖霊さまが私たちを作り変え、成長させてくださるようお願いし続けましょう。

何が見えていないか自覚する

自分の罪の問題
自分は霊的な目が塞がれていたと自覚することが、祝福された人生の第一歩です。では、いったい私たちには何が見えていないのでしょうか。すでに申し上げたように、自分に罪の問題があるという事実です。

そして、ここではさらに2つのものに焦点を合わせたいと思います。
神さまの姿
目の見えない人たちが、初めてゾウに出会って、それを触りながら説明するというたとえ話を聞いたことがありますか? Aさんは鼻に触り「ゾウとは、ヘビの仲間だ」と言います。Bさんは足に触り「ゾウとは、太い柱である」、Cさんは腹に触り「壁のような存在だ」、Dさんは象牙に触り「大きな貝のようなものだ」と言います。

目の見える人は、目の見えない人たちが、ゾウの一部しか理解しないで説明しているんだなと気づきます。では目が見えている人は、ゾウのすべてを理解できているのでしょうか。いいえ、ゾウのすべてを理解している人なんて誰もいません。

神さまについても同じです。 私たちは、父なる神さま・イエスさま・聖霊さまのことを知っているつもりかもしれません。しかし、実際にはほとんど知っていません。どんなに信仰生活が長くても、どんなに立派な神学校で学んだとしても、私たちの小さな頭の中に、偉大な神さまを収めきることは不可能です。

私たちは、限られた知識や経験から、神さまとはこういう方、イエスさまとはこういう方というイメージを持ちます。しかし、そのイメージは、必ず不完全なものなんだということを知っておく必要があります。

本当の神さまは、あなたが考えているよりも、もっと力強いのです。もっと頭がいいのです。もっと寛容なのです。もっと気前がいいのです。

なぜクリスチャンは聖書を読み、祈り、こうして集まって礼拝したり交わったりしなければならないのでしょうか? それは、私たちは神さまの完全な姿を知らないので、聖書や祈りや集会や交わりを通じて、常にイメージを修正し続けていく必要があるからです。

神さまの完全な姿、本来の姿を知るのは天国に行って直接お目にかかってからです。この地上では、私たちの頭の中のイメージを、神さまの本来の姿にちょっとでも近づくよう情報をアップデートしていきましょう。神さまイメージが修正されればされるほど、私たちはより慰められ、より励まされ、より勇気をいただき、より大きな奇跡を期待できるようになります。

私たちは、神さまの完全な姿を知らないのだということを認めましょう。
自分自身の姿
また、私たちは自分自身のこともよく知りません。私たちは自分自身に対して、「自分はこういう人間である」というイメージを持っていますが、神さまイメージと同じく、セルフイメージもまた、不完全でゆがんでいます。

「みにくいアヒルの子」という童話をご存じでしょう。
主人公のひな鳥は、羽が灰色でみにくすぎると、他のアヒルたちからいじめられていました。そして、自分自身も自分は出来損ないなんだと自信をなくしていました。しかし、彼はアヒルではなく、白鳥の子でした。灰色の羽がやがて美しい白い羽に生え替わるだけでなく、その翼は大空を自由に舞う力を持っていました。

しかし、彼はみにくいアヒルの子から白鳥になったわけではありません。卵の頃から一度たりとも白鳥でなかったときはありません。ずーっと白鳥でした。白い羽を持ち、大空を舞う可能性をずっと持っていたのです。しかし、「お前はみにくいアヒルの子だ」「出来損ないだ」と言われ続け、自分の本当の姿を知らなかったのでした。もしも、水面に映る自分の姿に気づくことがなければ、自分はみにくいアヒルだと思ったまま、一度も大空に舞い上がることなく一生を終えたかもしれません。

あなたも、もしかしたら、小さいときからの家族や友だち、学校や社会とのふれあいの中で、自分に対して間違ったイメージを持っているかもしれません。

神さまは本当の私たちのことをご存じです。イエスさまによって罪を赦され、救われた人は、神さまの子どもとなりました。神さまの子どもであるあなたは、自分が考えているよりも、もっと大切な存在なのです。もっと能力があるのです。もっと力があるのです。もっと可能性に満ちているのです。もっと輝いているのです。

私たちは、自分の本当の姿も知らないのだということを認めましょう。

神に助けを求める

神さまのことを最もよく知っておられるのは神さまご自身です。また、私たち人間は神さまによって創造されましたから、私たちのことを一番よく知っておられるのも神さまです。

ですから、神さまにお願いしましょう。「自分はまだまだ本当の神さまのことを知らないし、自分のことも分かっていません。教えてください。私に罪の問題があることを教えてください。そして、イエスさまが罪の問題を解決してくださり、聖霊さまが私たちを成長させてくださるのだということを教えてください」と。
今週も、イエスさまが私たちの霊の目を開いてくださり、神さまからの祝福を充分に味わうことができるようにしてくださいますように。

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com