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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

72人の弟子の派遣

イエス・キリストの生涯シリーズ50

ルカによる福音書10章17節〜24節

(2023年10月8日)

72人の弟子を派遣したイエス・キリストは、彼らが帰ってくると本当に喜ぶべき事について語りました。

礼拝メッセージ音声

参考資料

17節の72人はイエスさまの弟子で、2人一組でイスラエル各地に遣わされました。使わされた先は、今後イエスさまが行こうとしていらっしゃった町や場所です(1節)。

このとき派遣された弟子の人数については、「70人」とする写本と「72人」とする写本があり、どちらの写本も同じように有力です。新改訳第3版・リビングバイブル・現代訳では70人の方を採用していますが、新改訳2017では72人に改められました。口語訳や新共同訳も72人の方を採用しています。
  • 聖書の原典(聖書記者が書いた元々の原稿)は残っていません。原典を元にコピーが作られ、コピーされたものをさらにコピーしていってあちこちに配付します。そして、これらのコピーが現在たくさん残っています(これらを写本と言います)。手書きでコピーするため書き損じや説明のための加筆などが発生するので、写本ごとに微妙な違いがあります。そこで膨大な数の写本を比較し、原典の内容を特定しようとする学問があります(聖書批評学)。70人と72人のどちらが原典と同じかについてはまだ決着が付いていません。

イントロダクション

喜びは素晴らしいものです。今日は、私たちが特に喜ぶべきものを教えていただきましょう。それを知ることによって、私たちの人生がますます輝きに満ちたものになりますように。

1.派遣された弟子の帰還

帰ってきた弟子たちとイエスの対話

72人の派遣
以前、イエスさまは十二使徒を選んで、イスラエルの各地に宣教旅行に派遣なさいました(6月11日の記事で取り上げています)。

そしてこの前の箇所に、イエスさまが十二使徒以外の弟子の中から72人を選んで、2人一組で宣教旅行に派遣したということが書かれています。弟子たちが遣わされたのは、これからイエスさまが訪問しようとしておられた町や場所です(1節)。

彼らが遣わされた場所で行なうよう命ぜられていたのは2つです。
  • 病人をいやすこと。
  • 神の国が近くなったと宣言すること。
神の国が近くなったというのは、神の国の王、すなわち救い主が現れたからです。そして、弟子たちはただの人間ですが、救い主であるイエスさまから奇跡を行なう力を授けられました。ですから、いやしを行なうことによって、弟子たちが語っていることが本当だということを証明するのです。

こうして、72人は各地に出かけていきました。
成果報告
「さて、七十二人が喜んで帰って来て言った。『主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します』」(17節)。

72人が帰ってきました。そして成果報告をします。彼らは興奮していました。病気をいやすことができたどころか、やっかいな悪霊たちを追い出すことさえできたからです。

かつて天使の頭だったサタンは、傲慢になって神さまに成り代わろうとして反逆しました。そのときサタンに味方した天使のなれの果てが悪霊たちです。実数は分かりませんが、全天使のうち1/3がサタンに従ったようです(黙示録12:4)。

福音書の時代は、ほかの時代と比べて悪霊たちの活動が活発になっていました。ある学者たちは、救い主であるイエスさまが誕生したので、対抗策としてサタンが世界中の悪霊たちをイスラエルの地に集めてきたからではないかと考えています。

悪霊たちは、人間を誘惑して罪に誘うだけでなく、時には人間に取りついて苦しめます。聖書を見ると、悪霊に取りつかれた人には次のような現象や症状が起こっています。
  • 目が見えなくなったり、聞こえなくなったりする。
  • ひどいうつ状態や錯乱状態に陥る。
  • 知るはずのないことを言い当てる(占い)。
  • 自分の身を傷つけたり、自殺しようとしたりする。
  • 他人に対して非常に攻撃的になる。
  • 獣のように吠える。
  • 人間業とは思えない怪力を発揮する。
  • 裸で過ごしたり墓場に住んだりするなど社会性が喪失する。
もちろん、肉体的な病気や事故などでも見えなくなったり聞こえなくなったりしますし、精神的な病気でひどい精神状態になったり異常な行動を取ったりすることもあります。しかし、悪霊に取りつかれた人の言動は、肉体や精神の病気では説明が付かないほどの異常さです。

悪霊が人から追い出されると、そのような異常な症状や行動は消えて無くなります。72人の弟子たちは、イエスさまがいつもやっておられるように、悪霊に向かってその人から出て行くよう命じました。すると悪霊たちがたちどころに出て行って、苦しんでいた人が解放されたのです。そのことを弟子たちは喜びながら報告しました。
サタン敗北の預言
「イエスは彼らに言われた。『サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしは見ました」(18節)。

イエスさまは、悪霊たちの親玉である悪魔(サタン)が天から落ちるのを見たとおっしゃいました。実はこれが現実に起こるのは未来の話です。世の終わりにイエスさまが再臨なさいますが、その直前に7年間の大患難時代があります。大患難が始まって3年半が経過したとき、次のような出来事が起こると預言されています。

「さて、天に戦いが起こって、ミカエルとその御使いたちは竜と戦った。竜とその使いたちも戦ったが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた」(黙示録12:7-9)。

そしてさらに3年半後、サタンは再臨なさったイエスさまによって捕らえられて千年間封印され、その後ゲヘナという永遠の苦しみの場所に落とされてしまいます。

これらが起こるのは将来のことです。しかし、神さまのみことばである聖書に預言として記されているということは、これは必ず起こることです。サタンの敗北はすでに決定しています。
権威の授与
「確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません」(19節)。

イエスさまは、神の敵であるサタンに最終的に勝利なさいます。そのイエスさまから権威を授けられたので、72人の弟子たちは悪霊を追い出すことができました。彼らは自分たちが悪霊を追い出すことができたと喜びましたが、その力はイエスさまから与えられたものです。
喜ぶべきこと
「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい』」(20節)。

イエスさまは、悪霊たちを屈服させることよりも、もっと喜ぶべきことがあるとおっしゃいました。それは、弟子たちの名前が天に書き記されていることです。これは、弟子たちが神さまによって救われていることを意味します。

将来イエスさまによって地上に理想的な王国、神の国(天の御国)が実現するという話は、これまで何度もお話ししてきました。イエスさまの十字架と復活を信じたクリスチャン、また旧約時代の信者たち、あるいは大患難時代にイエスさまを信じた人たちが復活して神の国に入ります。

この神の国は千年間続くので、千年王国とも呼ばれています。では千年経ったらどうなるのでしょうか。今の宇宙は消えて無くなり、「新しい天と新しい地」と呼ばれる新しい宇宙が創造されます。そこは千年王国よりもさらに素晴らしい場所です。

そして、新しい天地が創造される前に、まずサタンや悪霊たちに対するさばきが行なわれ、永遠の苦しみの場所であるゲヘナに落とされます(黙示録20:10)。

それから、白い御座のさばきと呼ばれる、人間に対するさばきが行なわれます。いわゆる最後の審判です。ここで生きている間の行ないに応じてさばきが言い渡され、有罪判決を受けた人はサタンや悪霊たちもいるゲヘナに落とされることになります(黙示録20:12-16)。
と聞くと恐ろしげな感じがします。しかし、聖書には次のように書かれています。「いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた」(黙示録20:15)。逆に言えば、いのちの書に名前が記されている人は、決して白い御座のさばきで有罪判決を受けることがありません。イエスさまの十字架の血潮によって、すべての罪が赦されているからです。

さらに、新しい天と新しい地にある都について、次のようにも書かれています。「しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである」(黙示録21:27)。

イエスさまがおっしゃった「名が天に書き記されている」というのは、その人が神さまによって救いをいただいていて、将来千年王国や新しい宇宙に住むことができる資格を持っているということです。そちらの方が、悪霊が言うことを聞くなどということよりはるかに素晴らしいとイエスさまはおっしゃいます。

イエスの祈り

幼子に現わされた救いの秘密
「ちょうどそのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした」(21節)。

イエスさまは聖霊に導かれるままに祈られました。まず天の父なる神さまへの賛美です。

それからイエスさまは祈られました。これらのこと、すなわち弟子たちの名前が天に記されており、敵であるサタンや悪霊たちは彼らに対抗できないという事実は、知恵ある人や賢い人たちではなく幼子に示された、と。

ここで言う「知恵ある者や賢い者」とは、具体的にはパリサイ人や律法学者たちのことです。彼らは自分たちの知恵により頼んで神さまやその教えを発見しようと努めていました。しかし、結果として真理を手に入れることができていません。

神さまに関する真理は、神さま御自身が教えてくださいます。これを啓示と言います。真理は人間の知恵によって発見するものではなく、神さまのみことばを聞くことによって手に入れることができます。

イエスさまがおっしゃる「幼子」とは、聖書の専門教育は受けていないけれど、神さまのみことばを素直に聞き、素直に受け取る人たちのことです。彼らは神さまや救いに関する真理を手に入れることができました。
子が定めた者たち
「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。子がだれであるかは、父のほかはだれも知りません。また父がだれであるかは、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかは、だれも知りません』」(22節)。

神さまや救いに関する知識を得ることができるのは、イエスさまがそうしようと定めた者だけです。

救いは、私たち人間が信じることによってもたらされます。その一方で、救われるのは神さまがあらかじめお決めになった者たちだけです。何か矛盾しているように聞こえますが、聖書はその両方を教えています。

そして、神さまが救われる人をあらかじめ決めておられるという教えは、私たちに安心感を与えます。救いは確かなものであって、私たちの気の迷いで信じたわけじゃないということ、また救いが途中で取り消しになるわけでもないということを保証するからです。

イエス・キリストの十字架と復活を信じた人の名前は、天のいのちの書に記されています。あなたが十字架と復活を信じたのなら、あなたの救いは確かです。

弟子たちへの内緒話

幸いなこと
「それからイエスは、弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「『あなたがたが見ているものを見る目は幸いです。あなたがたに言います。多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たいと願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けませんでした』」(23-24節)。

「あなたがたが見ているものを見る目は幸いである」とは、「あなたがた弟子たちは幸いだ」という意味ですね。

弟子たちが見ているものとは、救い主が現れて地上を歩き、神の国について語り、さまざまな奇跡を行なっていることです。

旧約時代の人たちは、神さまが見せてくださる幻によってそれを知ることができたり、その幻について預言者が語る言葉によって知ることができたりしただけです。しかし、弟子たちは実際に目の当たりにしています。だからこそ幸いなのです。それもまた、悪霊が追い出せたなどということよりも、ずっとずっと素晴らしいことです。

では、ここから何を学ぶことができるでしょうか。

2.自分が救われていることを喜ぼう

悪霊に勝利する力を得ていること

悪魔に対する間違った態度
C・S・ルイスというキリスト教の学者また作家が、悪魔に対する間違った2つの態度について述べています。
  1. 悪魔の存在を無視すること
  2. 悪魔に過度な関心を示すこと
福音書の時代と違って、今はそれほど悪霊の働きは顕著ではありません。特に先進国においては、悪霊に取りつかれた人を目撃することはかなり稀な経験でしょう。ただ、今も悪魔や悪霊は確かに存在していて、人を罪に誘惑しようとしてあの手この手で攻撃してきます。

特に悪魔たちがよく用いるのは、素晴らしいものを用いて最も素晴らしいものから目をそらすというやり方です。たとえばお金自体は良いものです。お金がないといろいろ不便です。そのお金が手に入るよと誘惑して、不正な行動を取らせようとしたり、家族をないがしろにさせようとしたりするのです。

ですから、悪魔や悪霊の存在を気にしないのは良くありません。

しかし、逆に悪魔に関心を持ちすぎるのも間違いです。特にオカルトや占い、まじないの類いに手を出してしまうと、悪霊たちがより自由自在に働くようになりますから、絶対に手を出してはいけません。
悪魔に勝つことができる
逆に悪魔や悪霊を恐れすぎる必要はありません。悪魔や悪霊は元天使で私たちよりはるかに賢く、はるかに力がありますが、聖霊さまは全知全能の神ですから、悪魔や悪霊よりもはるかに優れておられます。その聖霊さまが私たちクリスチャンの内に住んでいてくださるのですから。

そこで聖書は約束しています。「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(ヤコブ4:7)。

そして、聖書は悪魔を攻撃する武器である御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさいと命じています(エペソ6:17)。
神さまのみことばである聖書に記された約束を信じ、また聖書に書かれている命令に従って行動しようと努めることが、悪魔に立ち向かう方法です。そうするならば、必ず悪魔や悪霊に勝利することができます。その力がイエスさまから与えられているからです。

将来への保証が与えられていること

人生は死んだ後も続く
この話をお読みください。
若者と老人とが渡し船で出会いました。若者は老人に言いました。「僕は商売について学んでいます」。

すると、老人は言いました。「それはすばらしい。で、君はそれで何をするつもりなのかな?」

若者は得意げに「事業を興します」と答えました。

「そのあとは?」
「金をためます。そして、年をとって引退したら、その金で楽しみます」。
「そのあとは?」
「うーん、いつか死ぬでしょうね」。

老人はさらに続けました。「なるほど。で、そのあとはどうするね?」

若者は絶句してしまいました。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
私たちの人生は死んで終わりではありません。死後の人生についても計画に入れておかなければなりません。
死んで終わりではないから人生には意味がある
さらにこの話をお読みください。
尊敬するK牧師は、非常に頭の良い方です。高校時代によく勉強し、東京大学に入学なさいました。しかも、奨学金をもらえるほど優秀な成績で。しかし、やがてこんなことを考えるようになりました。

「人はやがて死ぬ。立派な生き方をしても、犯罪者として生きても、結局は死ぬ。だったら、何のために人は生きるのか。人生なんて意味がない。結局のところ、人は生まれてから死ぬまでの間、暇つぶしをしているに過ぎない。これが生きるということなんだ」。

そして、その信念通り、毎日暇つぶしをするようになりました。すなわち、パチンコ屋に入り浸り、上がっては落ち、上がっては落ちする金属の玉を、日がな一日眺めて過ごしたのです。奨学金も、ほとんどパチンコ代に消えていきました。

しかし、やがてK先生は、キリストと出会います。そして、人は死ぬけれど、死が人生の終わりではないということを知ります。私たちには永遠のいのちが与えられていて、生前行なったことはすべて報われるのだということを知ります。神さまによって愛されている私たちの人生に、無駄なこと、無意味なことなど何もないということを知ります。

こうして、K先生は、クリスチャンとなり、牧師となられました。あの、パチンコにはまっていた虚無的な表情はどこへやら、柔和で生き生きとした顔で、人々に人生の喜びを伝えておられます。

イエスさまを信じる者にとって、死は終わりではありません。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
イエス・キリストの十字架と復活を信じた私や皆さんには、死後のいのちが約束されています。しかもそのいのちは、苦しみと絶望に終わるものではありません。

死んだ後に行く待合室であるパラダイスは、平安に満ちた休息の場所です。そこではまだ肉体はなくて、魂だけの状態です。

その後復活して肉体が与えられると、千年王国に招かれます。そこでは、生きている間に行なった良い行ないに対して報いが与えられます。どんなに目立たなくても、どんなに些細でも、必ず神さまに憶えられていて報われます。また、ワクワクするような働きの場が与えられます。千年もありますから、アブラハム、モーセ、ダビデといった有名人にも直接会う機会があるかもしれません。

そして、その後招かれる新しい天と新しい地では、永遠に続く祝福を味わうことができます。地上で流した涙を補ってあまりある喜びが満ちた世界です。

イエス・キリストを信じた私たちを、そんな世界が待ってます。だからこそ今この時を、希望を持って堂々と生きていくことができます。誰にもほめられたり認められたりしなくても、一時的に損をしたとしても、神さまが喜ばれる行ないをすることができるのです。

私たちには死後の人生が与えられているということ、しかも祝福が約束されているということを忘れないでいましょう。

神との交わりを味わえること

神の声を聞くことができる
イエスさまは弟子たちに向かって、あなたたちは幸いだとおっしゃいました。旧約時代の信者たちが体験できなかった、イエスさまを直接見ることができるという祝福を味わっているからです。

今、イエスさまは天にお帰りになったので、私たちは直接イエスさまを見ることができません。しかし、聖霊なる神さまが私たちの内に住んでいてくださります。そして、聖霊さまを通して父なる神さまやイエスさまとも親しく交わることができます。

私たちがイエスさまのお名前によって祈るとき、神さまはその祈りに返事をしてくださいます。天地万物の主、この大宇宙の支配者であられるお方が、この私の個人的な祈りを聞いて、心に語りかけてくださるという祝福が私たちには与えられているのです。
聞こうと意識しよう
昔、預言者エリヤが1人で戦うことに疲れ果ててシナイ山に登ったとき、神さまから「わたしはイスラエルの中にバアルに膝をかがめず、口づけしなかった七千人を残している」という励ましを受けました。その前に大風や地震や火(おそらく落雷)が起こりましたが、そういったうるさいものの中に神さまはおられませんでした。その後響いてきたかすかな声の中に神さまはいらっしゃったのです。

祈りの中で響く神さまの声は、ほとんどの場合か細く小さいものです。心の耳を澄ませ、意識して聞こうとしなければ聞こえてきません。しかし、そうするならば必ず神さまは語りかけてくださいます。

色々願い事をすることは良いことです。しかし、私たちは口を閉じ、心を静めて、じっと神さまの語りかけを待つ時間も祈りの中で持つようにしましょう。
みことばについて聞こう
といっても、何か神秘的な体験を求めるのではありません。何を聞こうとするのか、何を黙想するのかといえば、神さまに関する聖書の言葉についてです。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです」(ローマ10:17)。

日々の生活の中で、聖書を読み、その箇所について静かに黙想しましょう。神さまがこのみことばを通して何を私たちに知ってほしいと思っておられるのか。何をしてほしいと思っておられるのか。そして、今抱えているさまざまな悩みや問題について、この聖書の箇所からどんな約束や保証を得ることができるのか。

それによって、神さまがますます私たちにとって近い存在になります。

私たちの黙想の祈り、傾聴の祈りが今週も大いに祝福されますように。そして、ますます神さまとの交わりを楽しむことができますように。

連絡先

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