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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

良いサマリア人のたとえと真実の愛

イエス・キリストの生涯シリーズ51

ルカによる福音書10章25節〜37節

(2023年10月15日)

良いサマリア人のたとえ」は、についてイエス・キリストが語ったたとえ話です。

礼拝メッセージ音声

参考資料

25節の「律法の専門家」とは、律法学者のこと。

27節の2つの命令は、申命記6:5とレビ記19:18に書かれています。

30節の「エリコ」は、エルサレムの東北東約26キロにあった町。エリコの方がエルサレムより低い場所にあり、高低差は約900mです。
32節の「レビ人」は、祭司に仕えて彼らの仕事を助ける人たちです。祭司もレビ人も、十二族長の一人レビの子孫(レビ族)ですが、祭司になれるのはモーセの兄アロンの子孫に限られます。

33節の「サマリア人」は、北のガリラヤ地方と南のユダヤ地方の間の地域に住む民族です。イスラエルの北王国がアッシリア帝国に滅ぼされたとき、多くの民が捕囚され、他の地域から異民族が移住させられます。そして、北王国の地に残されたユダヤ人と外から移住してきた異民族が雑婚し、その結果生まれたのがサマリア人です。歴史的な経緯から、福音書時代のサマリア人とユダヤ人は、大変仲が良くありませんでした。

35節の「デナリ」は、ローマ帝国の支配地域で使われていた銀貨。1デナリは、労働者の日当に相当します。

イントロダクション

今回は、イエスさまが語られたたとえ話を取り上げます。「放蕩息子のたとえ」と並んで非常に有名な「良いサマリア人のたとえ」です。テーマは愛。愛について神さまは私たちに何を教えてくださっているでしょうか。

1.律法学者とイエスの対話

律法学者との問答

律法学者の問いかけ
「さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。『先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか』」(25節)。

律法の専門家とは、律法学者のことです。元々はモーセの律法を研究し、その意味を分かりやすく解説して人々に守るよう教える人たちでした。ネヘミヤ記8章に登場するエズラたちがその代表格です。しかし、その後長い年月がたつ中で彼らの研究は変質し、膨大な数の新しい決まり事(言い伝え)を作っていました。

彼らの作り出した言い伝えは、かえってモーセの律法の教えをないがしろにしていました。そこで、イエスさまは言い伝えを無視したり、律法学者たちを偽善者呼ばわりして責めたりしておられました。律法学者たちも、イエスさまを憎み、「あいつは救い主ではない」と主張する人がほとんどでした。

そんな律法学者の一人がイエスさまに質問します。純粋に真理を知りたくて質問したわけではありません。「イエスを試そうとして」と書かれているとおり、イエスさまの律法に対する知識を明らかにしてやろう、さらに言えばイエスさまの無知を暴き出して批判の種にしてやろうと考えてのことです。

その質問とは、「永遠のいのちを受け継ぐために何をしたらいいか」という問いでした。永遠のいのちとは、神さまとの親しい交わりを手に入れている状態です。特に当時のユダヤ人にとっては、永遠のいのちを受け継ぐとは、救い主が地上に実現する神の国(天の御国)に入ることを指します。
イエスの反問
「イエスは彼に言われた。『律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか』」(26節)。

ユダヤの教師は、生徒の質問に質問を返すことによって教えようとします。ここでもイエスさまはその手を使われました。
律法学者の答え
「すると彼は答えた。『「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」、また「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」とあります』」(27節)。

律法に関する質問に答えられなければ、逆に学者の方が恥をかくことになります。モーセの律法の中の2つの命令を挙げて返答しました。これは申命記6:5とレビ記19:18に書かれている命令で、613あると言われるモーセの律法の要約だと考えられていました。
イエスの命令
「イエスは言われた。『あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます』」(28節)。

イエスさまは律法学者の答えを「正しい」と認めました。イエスさまはほかの箇所でも、あの2つの命令がモーセの律法の要約であると教えておられます(マタイ22:40)。

それからイエスさまは、「永遠のいのちを得たいなら、その2つの命令を実行しなさい」と命じました。ただし、イエスさまは行ないによる救いを認めておられるわけではありません。昔も今も、人は信仰によって救われます。

「アブラムは【主】を信じた。それで、それが彼の義と認められた」(創世記15:6)。

「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です」(エペソ2:8)。

今の私たちは、「この自分の罪を赦すためにイエス・キリストは十字架にかかった。そして死んで葬られ、3日目に復活した」と信じることによって救われます(第1コリント15:1-8)。そして福音書時代の人たちは、イエスさまはまだ十字架にかかっておられませんから、イエスさまが神の国の王、すなわち救い主だと信じる信仰によって人は救われました。

それなのに、ここでイエスさまは「実行しなさい。そうすれば永遠のいのちを得る」と語られます。まるで行ないによって救われるかのようなことをおっしゃっているのはなぜでしょうか。

それは、人は自分の正しさによっては救われないということをこの学者に知ってほしかったからです。神さまが救いの条件として行ないを要求されるとしたら、その行ないは完璧でなければなりません。人は神さまが要求するような完璧な正しさを持つことができません。

であれば、自分の正しさによって救われないことになります。救われるとしたら、神さまのあわれみ、すなわち神さまから一方に罪を赦していただき、受け入れていただくしか道はありません。そのことをイエスさまはこの人に知ってほしかったのです。

実際にこの2つの命令を実行しようとすると、自分が神さまの要求水準に達していないことを思い知らされます。その結果、自分の罪を認め悔い改めて、イエスさまを救い主だと認める信仰による救いを体験してほしい。イエスさまはそう願われました。
律法学者の抵抗
「しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣人とはだれですか』」(29節)。

イエスさまの願いも空しく、この律法学者は自分の不完全さを認めて悔い改める代わりに、自分は正しいということを示そうとしました。そして、自分の隣人とは誰かと質問しました。イエスさまが具体的に「こういう人のことだ。その人たちを愛するのだ」と答えれば、「自分は愛している」と返答するつもりだったのでしょう。

良いサマリア人のたとえ

旅人の災難
「イエスは答えられた。『ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った」(30節)。

ある旅人がエルサレムからエリコに向かっていました。この人についてはっきり書かれてはいませんが、ユダヤの律法学者に対して語られたたとえ話ですから、ユダヤ人でしょう。

すると、この旅人が旅の途中で追い剥ぎに襲われてしまいます。荷物や着物を取られただけでなく、殴られて半殺しの目にあってしまいました。
スルーする祭司とレビ人
「たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った」(31-32節)。

幸いなことに、半殺しの目にあった旅人は祭司に発見されました。ところが祭司は彼を助けず、そのまま通り過ぎていきました。次にそこを通りかかったレビ人、祭司を助ける仕事をしている人も同じでした。
怪我人をあわれむサマリア人
「ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った」(33節)。

3人目がそこを通りかかります。その人は半殺しにされて放置された旅人のことをかわいそうに思いました。

その人がサマリア人だったというのが、このたとえ話のミソです。サマリア人については、参考資料に書いたとおりです。そして、歴史的な経緯からユダヤ人とサマリア人は仲が良くありませんでした。いわば敵同士です。

そんなサマリア人にとって、ユダヤ人が死にかけているのは「ざまあみろ」という感じのはずですが、なんとこのサマリア人はユダヤ人を哀れに思い、助けようとします。具体的に何をしたのかが次に語られます。
サマリア人がしたこと
「そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います』」(34-35節)。

サマリア人は旅人をその場で応急処置すると、宿屋に連れて行って介抱しました。自分も旅を続けなければならないので、翌朝には宿屋を出て行きましたが、後のことを宿屋の主人に託しました。そのための手間賃もしっかり支払い、それで足りない場合には帰りに支払うとまで言っています。

たとえのまとめ

イエスの問いかけ
「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか』」(36節)。

29節の律法学者の質問をもう一度見てみましょう。彼は「誰がこの私の隣人なのか」と尋ねています。視点が自分になっていますね。しかしイエスさまは「誰があの死にかけた旅人の隣人になったのか」とお尋ねになりました。この場合は助けを必要としている旅人の視点で語られています。

別の言い方をすると、律法学者の質問は「私の愛を受けるのにふさわしい人は誰か」という質問をしました。それに対してイエスさまは、「そこに助けを必要とする人がすでにいる。その人を実際に愛するのは誰か」と尋ねておられます。
同じようにせよ
「彼は言った。『その人にあわれみ深い行いをした人です』。するとイエスは言われた。『あなたも行って、同じようにしなさい』」(37節)。

律法学者はサマリア人が嫌いなので、「サマリア人です」とは答えたくなかったのでしょう。このような答え方をしています。それに対してイエスさまは、「あなたも行って、同じようにしなさい」とおっしゃいました。

つまり、「誰が自分の愛を受けるにふさわしいか」などと言わず、助けを必要としている人がいるなら具体的に親切な行動をせよということです。

イエスさまがこのたとえを語られた意図は、律法学者に自分の不完全さを認めさせ、謙遜に神さまのあわれみを求める信仰を持たせたいということです。

その後この律法学者はどのような反応を示したのでしょうか。自分の不完全さを認め、その罪の赦しを神さまに求め、赦しを与える救い主としてイエスさまのことを受け入れてほしいところですね。しかし、残念ながらその後のことは聖書に書かれていません。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.神の愛を味わい、人を愛そう

人を愛そう

イエスさまは、モーセの律法が「神を全身全霊で愛すること」と「隣人を自分自身のように愛すること」の2つの命令に要約できるということをお認めになりました。

イエスさまが十字架にかかられたとき、モーセの律法は廃棄されて無効となりました。しかし、その後書かれた使徒たちの手紙でも隣人愛の大切さを教えています。

「もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です」(ヤコブ2:8)。

サマリア人のたとえは、私たちに本当の愛がどんなものか教えてくれています。それは、
  1. 相手を選ばない愛
  2. 犠牲を払う愛
  3. 実際に行動する愛
です。私たちもそのような愛で、助けを必要としている人に手を差し伸べましょう。できないことをすることは求められていません。自分にできるやり方で、愛を実践しましょう。

神の愛を味わおう

モーセの律法のもう一つの柱は、神さまへの愛です。神さまを愛するようにという命令も人への愛と同様、モーセの律法が廃棄された後も人が神さまを愛することは当然のこととして取り扱われています。「主を愛さない者はみな、のろわれよ」(第1コリント16:22)。

隣人愛は、具体的に行動に表すことが大切だと申し上げました。神さまへの愛も同じです。聖書には次のように書かれています。「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません」(第1ヨハネ5:3)。

神さまの命令を守ろうとすると、何かの犠牲を覚悟しなければならないかもしれません。命をかけなければならない事態に陥ることは稀であったとしても、時間をささげたり体力をささげたりちょっとしたお金をささげたりする必要が出てくるかもしれません。あるいは「やりたくない」という自分の気持ちを犠牲にしなければならないかも知れません。

それでも私たちは、神さまの命令を守ろうと努めましょう。
まず神からの愛を体験する
とはいえ、イエスさまが良いサマリア人のたとえを語られたのは、人は自分の正しい行ないによって救われるということを示すためではありません。律法学者に自分の不完全さを認めさせ、謙遜に神さまのあわれみと罪の赦しを求めてほしいと願われたからです。

私たちが神さまの命令を真剣に、そして完全に守ろうとすると、私たちは壁にぶつかります。命令を守り切れないことを思い知らされ、自分自身の弱さ、不完全さに気づかされるのです。そうして、一方的に注がれている神さまの愛、恵みの愛、赦しの愛に触れることができるようになります。

神さまの愛を知りたければ、聖書の命令を一生懸命守ることです。 そして、私たちも神さまからの一方的な赦しを味わいましょう。
愛が原動力となる
神さまへの愛は、自分自身が神さまから愛され、あわれみを受け、選ばれ、一方的に赦されたという喜びから生まれます。そして、その喜びは隣人愛の原動力にもなります。

「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(第1ヨハネ4:19)。

「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します」(第1ヨハネ5:1)。


この話をお読みください。
Eさんは荒れた学生時代を過ごしました。いつもイライラしていて、あちこちで暴力沙汰を起こしていました。親に愛されていないという思いが、彼を投げやりな生き方にさせたようです。もちろん、親は彼を愛していたのでしょう。しかし、彼にはそれが分かりませんでした。

あるクリスマスイブの夜。繁華街を1人でぶらついていたEさんの耳に、賛美歌を歌う声が届きました。近くの教会の人たちがキャロリングをしていたのです。その美しいハーモニーに、かさついた心が潤うような感覚を覚えたEさんは、思わず立ち止まって歌声に耳を傾けました。

そして、「この後、教会でクリスマスのキャンドルライトサービスを行ないます」という案内に従い、Eさんは集会に参加しました。そして、そこで驚くべき話を聞きます。「神さまは、あなたを愛しておられます」と、講壇から牧師が語ったのです。

聖書のことなんて何も分からない。イエス・キリストなんて実在するとも思っていなかった。それでも、「あなたは愛されている」という言葉がEさんの心を貫きました。その日、Eさんはイエスさまを信じてクリスチャンになりました。そう、神さまの愛する子どもという新しい身分を手に入れたのでした。

神さまに愛されているという喜びは、Eさんの生き方を180度変えました。暴力行為、不法行為は影を潜め、代わりに地域のボランティア活動にいそしむようになりました。教会の人に紹介されて、定職にも就きました。そして、かつてのワル仲間たちを次々と教会に引っ張ってくるようになりました。

人は変わることができます。そして、変わり続けます。私たちは古い生き方から解放されるのです。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
きみは愛されるため生まれた」というゴスペルソングがあります。私たちは神さまに愛されるため造られ、この世に誕生しました。

聖書を読んで、また祈りの中で神さまの語りかけを聞くことによって、自分がどれほど神さまに大切にされているかいつも教えていただきましょう。そうするとき、私たちは神さまを愛し人を愛することができるようになっていきます。

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