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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

パンを求める友人のたとえと祈り

イエス・キリストの生涯シリーズ52

ルカによる福音書11章5節〜13節

(2023年10月22日)

祈りについて「パンを求める友人のたとえ」を通してイエス・キリストが教えていることを解説します。

礼拝メッセージ音声

参考資料

順番としては、マルタとマリアの家でのエピソードがきます。しかし、聖書の女性シリーズの中で取り上げていますので、今回はパスします。ご興味のある方は2022年1月9日1月23日のメッセージをご覧ください。

1-4節はいわゆる「主の祈り」で、かつて山上の説教(山上の垂訓)の中でもイエスさまが教えておられます(マタイ6:9-15)。

9-12節もほぼ同様の話が山上の説教で語られています(マタイ7:7-11)。ただし、12節の卵とサソリは、山上の説教ではパンと石の組み合わせです。また13節は山上の説教にはありません。

イントロダクション

今回のテーマは「祈り」です。
イエス・キリストの恵みの福音を信じたとき、私たちは救われて永遠のいのちを手に入れました。私たちのすべての罪が赦されて、神さまとの敵対関係がなくなり、親子としての親しい交わりが始まりました。

いわば神さまと仲良しになった私たちは、神さまとお話しすることができるようになりました。それが祈りです。たとえつらいとき、苦しいとき、孤独なときがあったとしても、いつでも全知全能の神さまと直接お話しすることができるというのはなんと素晴らしい特権でしょうか。

今回の箇所から、イエスさまが祈りについて何を教えてくださっているか見ていきましょう。

1.祈りについての教え

しつこい要求

前の話
弟子の1人がイエスさまにあるお願いをしました。

「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください』」(1節)。

このヨハネは、バプテスマのヨハネのことです。イエスさまはこの願いを聞き入れ、いわゆる主の祈りを教えました。

この主の祈りは、山上の説教でも人々に語られました。山上の説教は紀元28年の春か夏の時期に語られ、今回のエピソードは紀元29年の終わり頃です。今回祈りを教えて欲しいと言った弟子は、山上の説教の後に弟子に加わったため知らなかったのでしょう。
友だちへの願い
「また、イエスはこう言われた。『あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』」(5-6節)。

イエスさまはたとえ話を始めました。この話の主人公の家に、夜遅く旅人が訪ねてきました。

旅人をもてなすというのは、中東では非常に重要なマナーでした。しかも、その旅人はたとえ話の主人公の友だちです。これはぜひ食事を出してもてなしたいところです。ところが、いかんせんパンをすべて食べきってしまっていて、友だちに振る舞うことができません。

そこで、この主人公は同じ町に住む別の友だちのところに行きました。そして、パンを貸してくれるよう願いました。
友だちの拒絶
「すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない』」(7節)。

5節に書かれているように、時はすでに真夜中です。戸締まりをし、すでに眠っていたところでした。これから起き出して身支度をし、パンを用意して差し出すのは面倒です。そこで、パンを求められた友人は、最初この願いを断りました。
結末
「あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう」(8節)。

イエスさまは、最終的にはこの友人はパンを主人公に貸すだろうとおっしゃいます。その理由は主人公への友情のためではありません。主人公があまりにもしつこく求めるからです。このままだと眠れないし、せっかく眠ってくれた子どもたちは起きてしまうし、ご近所さんたちにも迷惑がかかります。

たとえの解説

求め探したたけ
「ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます」(10節)。

イエスさまはこのたとえ話の解説として、3つの命令を語られました。これらの命令には現在形が使われています。ギリシア語の現在命令形は、1回限りではなく繰り返し行ないなさいというニュアンスがあります。

ですから、より正確に訳すなら「求め続けなさい」「探し続けなさい」「たたき続けなさい」です。

そうするなら手に入れ、見いだし、開かれます。すなわち、祈りがかなえられますよとイエスさまはおっしゃいました。

与えられるもの

人間の親が子にしないこと
「あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか」(11-12節)。

イエスさまは、人間の親が子どもに対してしないことを語られました。それは、子どもが魚や卵が欲しいと言ったとき、そのかわりに蛇やサソリを与えることです。

食事の時間にお菓子が食べたいと子どもが言ったときには、多くの親は「ダメ」と言ってちゃんとした食事を差し出すことでしょう。しかし、それは子どもを愛していないからではなく、子どもを愛しているからです。すなわち、そうすることが子どもの健康のために良いと判断したからです。

しかし、さすがに蛇やサソリを食べさせようとする親はいないでしょう。
天の父がなさること
「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます』」(13節)。

最後にイエスさまは、人間の親と天の父なる神さまを対比なさいました。人間の親で悪人と呼ばれる人であっても、子どもには良いものを与えます。だったら天の父なる神さまが祈り求める人に悪いものを与えないどころか、良いものを与えるに決まっています。

人間の親は子どもを愛していますが、天の父なる神さまは私たち人間のことをそれ以上に深く愛してくださってるからです。

では、天の父なる神さまが人間に与えてくださるものは何でしょうか。イエスさまは聖霊さまだとおっしゃいます。聖霊さまは三位一体の神さまです。
聖霊の働き
聖霊さまは人の救いのために働かれます。まず人間に罪があることを自覚させ、悔い改めさせ、神さまの赦しを求めるよう導かれます。そして恵みの福音を信じるよう、すなわち自分の罪を赦すためにイエスさまが十字架にかかり、死んで葬られたけれど3日目に復活なさったという聖書の主張を真実だと受け入れるよう導かれます。

それだけではありません。聖霊さまは救われた信者といつも共にいてくださいます。そして、
  • 信者の内側をきよめ、神さまの命令を守る意欲や力を与えて、イエスさまに似た人格になるよう日々成長させてくださいます。
  • 聖霊の賜物と呼ばれるさまざまな奉仕の力を一人ひとりのクリスチャンに与えます。人によっては奇跡を行なう力も与えてくださいます。そのようにして、教会全体が協力して素晴らしい働きをすることができるようにしてくださいます。
  • 聖書の意味を説き明かしたり心に語りかけたりして神さまのみこころを教え、信者の人生が正しい方向に進むよう導きます。
  • 慰めを与えてくださいます。
  • 愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった良い性質、すなわち御霊の実を与えてくださいます。
  • 信者と共に父なる神さまに祈ってくださり、言葉にならない思いを代弁なさいます。
  • 救い主イエスさまについて証しする力、すなわち伝道する力を与えます。
聖霊が与えられるとは?
私たちが福音を信じて救われたその瞬間、聖霊さまは私たちの内に入ってこられ、私たちと一つになってくださいます。これを「聖霊のバプテスマ」と呼びます。これは1回限りの体験です。

そして、それ以降ずっと私たちのうちに住んでくださいます。これが「聖霊の内住」です。これは救われて以降ずっと継続している体験です。

ただし、聖霊のバプテスマや内住は、私たちが特に祈り求めなくても実現します。今回の箇所でイエスさまがおっしゃっているのは、いわゆる「聖霊の満たし」のことです。
聖霊に満たされるとは?
「聖霊に満たされる」とは、私たちの生活のあらゆる領域を聖霊さまが支配しておられる状態になることです。

たとえば聖霊さまは信者の内側を清めて成長させようとなさいますが、聖霊さまは紳士ですから、私たちの許可なく私たちの人生を造り変えようとはなさいません。

「仕事のことだけは口出ししないでください」とか、「あの人を赦すかどうかについては私の自由にさせてください」というふうに聖霊さまの行動に制限を与えてしまうと、私たちは変化・成長のチャンスを失ってしまいます。また、先ほど触れたような聖霊さまのその他の働きまで制限してしまうことになります。

それではせっかく神さまが私たちの人生に用意してくださっているさまざまな祝福のプレゼントを、受け取り損ねることになります。もったいないですね。

私たちが神さまに「聖霊さまで満たしてください」と祈るとき、それは「私のうちで自由にお働きください」と願うことと一緒です。聖霊さまが私たちの人生に満ち満ちてくださると、私たちはダイナミックなクリスチャン生活を送ることができるようになります。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.祈りについて知らなければならないこと

あきらめないで祈り続けよう

今回の、パンを借りにいった人のたとえ話は、祈ったことがなかなかかなえられないからといってあきらめてしまうことなく、祈り続けることの大切さを教えています。

とはいえ、祈りがいつも祈ったとおりにかなえられるかといえば、そんなことはありません。いくら子どもを愛している親でも、子どものためにならないと思えば願いをかなえたりしません。それと同じように、神さまも時に「ダメ」とおっしゃって私たちの願いを退ける場合があります。

聖書の中に次のような約束があります。「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です」(第1ヨハネ5:14)。

「神のみこころに従って願うなら」という部分を、新共同訳では「神の御心に適うことをわたしたちが願うなら」と訳しています。かみさまのみこころに沿った祈りは必ずかなえられるけれど、みこころに反した祈りはかなえられないということです。

神さまは聖書や祈りなどを通して、私たちにみこころ、すなわちご自分の目的や願いを教えてくださいます。明らかに聖書の教えに反するなど、みこころではないということを神さまが示してくださったなら、すっぱりとあきらめましょう。

しかし、みこころに反しているかどうか分からない段階では、今回のたとえ話が教えているとおり、どれだけ待たされても私たちはあきらめないで祈り続けましょう。私たちは今すぐ祈りがかなえられることがベストだと思って祈り求めますが、全知全能の神さまは最も良いタイミングをご存じなのです。

神の愛に信頼して祈ろう

聖書の中のたとえ話を読むときには、全体として何を伝えたいのかというところに注目しましょう。そして、たとえ話に出てくる一つ一つの要素に意味を見いだそうとしてはいけません。

たとえば今回のたとえ話。8節に「この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう」と書かれています。

すると「神さまは、本当は私たちの祈りに応えるのが面倒だと感じておられるのかなぁ」などと受け取ってしまうかもしれません。しかし、決してそんなことはありません。13節でイエスさまは人間の親の子どもへの愛情について述べた後、「それならなおのこと」と神さまについて語っています。

神さまは私たちを子どもとして愛し、最も良いものを与えたいと願っておられます。祈りに対して時に「ダメ」とおっしゃったり長いこと実現を待たせたりなさるのも、私たちを大切に思ってくださっているからです。
信仰の戦い
若い頃、新興宗教に入信しておられる方に議論をふっかけられたことがあります。その方は、元々はキリスト教会に通っておられたそうです。本当に福音を信じておられたかどうかは分かりませんが、ご自分では「自分はクリスチャンだった」とおっしゃっていました。

しかし、すぐに教会に行かなくなったとのこと。それは、祈っても願いが聞かれなかったから。一方、新興宗教に入信したらその願いがかなったというわけです。そして、キリスト教の愛の神なんか存在しないのだと。

それに対して自分がどんなふうに反論したかは、残念ながら思い出せません。当時はクリスチャンになりたてだったので上手に対応できなかったかもしれませんが、今だったらその人に次のように言うことでしょう。

「なるほど、あなたにとっての聖書の神とは、天のお父さんではなく、また私たちがお仕えすべきご主人さまでもなく、何でもあなたの言うことを聞く奴隷なんですね? 残念ながらそれは聖書が教える神ではありません。あなたはご自分が勝手に思い描いた神に、勝手に期待して勝手に幻滅なさったということです。それでは聖書の神が存在しない根拠にはなりませんね」と。

サタン(悪魔)やその配下である悪霊たちは、私たちと神さまとの親密な仲を引き裂こうとしています。その戦術の一つが祈りを使って神さまの愛を疑わせることです。神さまは私たちを深く愛しておられるが故に、願いを退けたり実現まで長いこと待たせたりなさいます。それなのに、サタンは「ほら、神がお前を愛しているなんて嘘っぱちだ」という「嘘」を私たちの心に植え付けようとします。
祈りが願ったとおりにならなかったとき、あるいはなかなかかなえられないとき、神さまへの愛を疑うような思いがわき上がっても、それに自分の身を任せてはいけません。それは悪魔のささやきです。「私は神さまが私のことを愛しておられ、最高のものを最高のタイミングで与えてくださると信じる!」と宣言しましょう。

聖霊の満たしを祈り求めよう

今回のイエスさまの話の結論をもう一度確認しましょう。13節です。天の父なる神さまは私たちに良いものを与えてくださいます。その良いものとは何か。イエスさまは聖霊さまだとおっしゃっています。

愛に満ちた神さまは、私たちが聖霊さまを与えてくださいと祈り求めると、必ずそれをかなえてくださいます。

では、どのようにして聖霊さまの満たしを求めればいいのでしょうか。
(1) 悔い改め
まずは悔い改めです。

罪を悔い改めないでいると、神さまとの関係がおかしくなり、せっかくの祈りが神さまに届かなくなってしまいます。「見よ。【主】の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:1-2)。

いったん告白した罪はすでに赦されていますから、改めて赦しを求める必要はありません。しかし、まだ告白していない罪があるなら、すぐに告白して赦しを求めましょう。

また、これから祈ろうとしている願いの背後に、自分の欲望を満たしたいとか、人より優れた人間だと思われたいとか、ほめられたいとかいう貪欲や傲慢や虚栄がないかもチェックしましょう。これらは罪ですから、思い当たるなら悔い改めが必要です。

そして赦しを受け取りましょう。
(2) 約束の確認
次に聖書の約束を再確認します。先ほども触れましたが、神さまのみこころにかなう祈りは必ずかなえられます。

聖書は「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)と命じています。神さまが命じていらっしゃるということは、私たちが聖霊さまに満たされることはみこころです。ですから「満たしてください」と祈ったら必ずかなえられます。
(3) 祈り
そしてその約束に基づいて祈ります。「聖霊さまで満たしてください。私の人生のすべてをご自由になさってください」と。
(4) 信仰
祈ったらすでに満たされています。と言うのも、次のように約束されているからです。「私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。」(第1ヨハネ5:15)。

ですから、約束に基づいて聖霊さまの満たしを求めたなら、すでに聖霊さまに満たされています。人によっては何も感じないかもしれません。それでも満たされています。それを信じましょう。
(5) 継続
聖霊のバプテスマは救われた時1回限りの体験です。しかし、聖霊の満たしは生涯繰り返し継続的に体験すべきことです。

罪を自覚するごとに、また聖霊さまの助けが必要だと感じるたびごとに、いや意識するたびごとに、これまで紹介したプロセスを踏んで聖霊さまが満たしてくださるよう祈り求めましょう。

今週も、あなたが聖霊さまに満たされて、聖書が約束しているダイナミックなクリスチャン生活を体験することができますように。

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