本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

人への恐れ

イエス・キリストの生涯シリーズ53

ルカによる福音書12章1節〜12節

(2023年10月29日)

人への恐れを抱いてしまう私たちに対して、イエス・キリストはどんな励ましを与えているでしょうか。

礼拝メッセージ音声

参考資料

1節の「パン種」は、パンを焼くときに残しておいたパン生地の一部。夜に翌朝分のパン生地を作る際、生地にパン種を混ぜておくとパン種の中にいるイースト菌の作用で発酵します。一家の主婦はこれを繰り返しながら毎日パン作りをしました。

5節の「ゲヘナ」は、最終的なさばきによって有罪となった人間や、サタンと悪霊、反キリストと偽預言者が送られる苦しみの場所です。「火の池」とも表現されます(黙示録20:10-15)。

6節の「アサリオン」(アス)は、ローマ帝国やその属国で流通していた銅貨。福音書時代は、1アサリオン=1/16デナリ(1デナリは労働者の日当に相当)。今の日本だと500円玉といった感覚でしょうか。

イントロダクション

今回のテーマは「恐れ」です。私たちは、しなければならないことやしたいと思っていることを実際に実行しようとしたとき、他の人からひどいことを言われたりされたりするのではないかと恐れて躊躇してしまうことがあります。

そんな私たちに対して今回の箇所は何を教え、励ましてくれているでしょうか。まずは今回イエスさまが弟子たちに語られた言葉をていねいに見ていきましょう。

1.弟子への励まし

パリサイ人のパン種

偽善に気をつけよ
「そうしているうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに話し始められた。『パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい」(1節)。

イエスさまは、集まった群衆を前にして弟子たちに向かって語られました。それは、パリサイ人の偽善に注意するようにという警告です。

偽善という言葉は、元々は俳優がさまざまな仮面を付けて役を演じることを表しています。そこから転じて、表面的には立派で敬虔な様子を見せながら、内面は自己中心的で不信仰な状態を指す言葉になりました。
この話の直前、イエスさまはあるパリサイ人の家に食事に招かれました。その席で、パリサイ人や律法学者たちの偽善を痛烈に批判しておられます。
  • 「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています」(11:39)。
  • 「わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている」(11:42)。
  • 「わざわいだ、パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、広場であいさつされることが好きだ」(11:43)。
  • 「わざわいだ。おまえたちは人目につかない墓のようで、人々は、その上を歩いても気がつかない」(11:44)。
  • 「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない」(11:46)。
  • 「わざわいだ。おまえたちは預言者たちの墓を建てているが、彼らを殺したのは、おまえたちの先祖だ」(11:47)。
  • 「わざわいだ、律法の専門家たち。おまえたちは知識の鍵を取り上げて、自分は入らず、入ろうとする人々を妨げたのだ」(11:52)。
その流れでイエスさまは弟子たちに、パリサイ人たちが陥っているような偽善に注意するようにとおっしゃいました。
隠しても明らかになる
「おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはありません」(2節)。

どんなに仮面を被って立派な信仰者を演じても、人は欺けても全知全能の神さまにはお見通しです。そして、世の終わりのさばきの時にははっきりと内面の問題点が明らかにされます。
弟子たちの言葉も明らかになる
「ですから、あなたがたが暗闇で言ったことが、みな明るみで聞かれ、奥の部屋で耳にささやいたことが、屋上で言い広められるのです」(3節)。

隠れていたものが必ず明らかになるというのは、偽善だけではありません。弟子たちが福音、すなわち救いのメッセージを宣べ伝える場合も、たくさんの人たちにその声が届けられることになるとイエスさまはおっしゃいます。

今は弟子たちの言葉に耳を傾ける人は少ないかもしれません。しかし、やがてイエスさまが復活して天にお帰りになり、代わりに聖霊さまがいらっしゃって弟子たちの内に住むようになります。すると弟子たちは大勢の人たちに福音を宣べ伝え、その結果たくさんの人たちがイエスさまの十字架と復活を信じて救われるようになります。

力ある神の愛

恐れるな
「わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません」(4節)。

やがてイエスさまに変わって福音宣教を担う弟子たちに向かって、イエスさまは恐れるなとおっしゃいました。何を恐れるなというのでしょう。それは他の人たちからの攻撃、迫害です。

イエスさまがパリサイ人や律法学者たちを痛烈に批判したために、パリサイ人たちは激しい怒りをあらわにしていました。そして、イエスさまに対して質問攻めを始めます。イエスさまから失言を引き出して、攻撃の材料にするためです(11:53-54)。

そのあまりの剣幕に弟子たちは恐れを抱いていたのかもしれません。何しろパリサイ人・律法学者は国家権力につながる指導者です。そんな彼らに睨まれるのは恐ろしいことでしょう。

実際、イエスさまが復活して天にお帰りになった後、弟子たちが伝道を始めるとユダヤやローマの指導者たちは彼らをひどく迫害し始めました。

しかし、彼らができるのはせいぜい肉体の命を奪うことだけです。どんな権力者も、悪魔でさえも、クリスチャンから永遠のいのちを取り上げることはできません。
  • クリスチャンは、たとえ死んでもその魂は天のパラダイスという平安や慰めに満ちた場所に引き上げられます。
  • それからしばらくして復活して新しい肉体が与えられ、イエスさまが地上に再臨なさってから建設なさる理想的な王国、愛と平和と正義の国、千年王国(神の国、天の御国)に招き入れられて幸せに過ごします。
  • さらにその千年後、新しく創造された新しい宇宙(新しい天と新しい地)にある新しいエルサレムに住みます。そこは千年王国よりももっともっと素晴らしい場所です。
だから迫害を恐れるなとイエスさまはおっしゃいます。
恐れなければならない方
「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい」(5節)。

本当に恐しいのは人間の迫害者ではありません。死んだ後に永遠の刑罰、永遠に続く苦しみを与えることができる方です。すなわち聖書の神さまです。
神は慈愛に満ちている
「五羽の雀が、二アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、多くの雀よりも価値があるのです」(6-7節)。

永遠の刑罰などというと恐ろしい感じがします。しかし私たちクリスチャンは、神さまの罰を恐れてビクビクする必要はありません。なぜなら、聖書の神さまは正義であると共に愛にあふれたお方だからです。

そのことをイエスさまは売られている雀のたとえと髪の毛のたとえで説明なさいました。

5羽の雀が2アサリオンで売られているとイエスさまはおっしゃいました。ところがマタイ10:29では「二羽の雀は一アサリオンで売られている」とおっしゃっています。ということは、5羽買うと1羽おまけに付けてもらえるということです。

そんな値段も付けてもらえないような雀でも、神さまは決して忘れることがありません。
また、人間の髪の毛は平均10万本、多い人では12万本もあるそうです。それほどたくさんある髪の毛の中の1本も、神さまが見過ごしになさることはありません。

まして雀より価値のある弟子たちが、神さまに見捨てられたり忘れ去られたりすることなど決してありません。だから指導者たちによる迫害なんか恐れなくていいと、イエスさまは弟子たちを励まされました。

聖霊の守り

天の法廷
「あなたがたに言います。だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます」(8-9節)。

これは天の法廷のイメージです。裁判官は天の父なる神さまで、イエスさまが弁護人です。また天使たちが傍聴しています。

先ほどイエスさまは、聖書の神さまは人を永遠の滅びの場所であるゲヘナに送ることができるとおっしゃいました。また、神さまは人を永遠の祝福の場所である新しい天地に送ることもできます。人がそのどちらに送られるのかを審理するのがこの天の法廷です。

ここには2種類の人々がいます。
  1. 人々の前でイエスさまを認める人……イエスさまを救い主として信じた人のこと
  2. 人々の前でイエスさまを認めない人……イエスさまを救い主だと信じなかった人のこと
前者のことをイエスさまは「知っている」とおっしゃいます。これは、その人がイエスさまの十字架と復活を信じて罪が赦されているということを意味します。だから、その人は永遠の祝福を味わうことができます。

一方後者のことをイエスさまは「知らない」とおっしゃいます。これは、その人が最期までイエスさまの十字架と復活を信じなかったため、罪の赦しを受け取っていないことを意味します。だから、その人は自分の罪の報いを受けて、永遠の苦しみを味わい続けることになります。

イエスさまがこの話を出したのは、すでにイエスさまのことを信じた弟子たちも、迫害を恐れて「イエスなんか知らない」と言ったら救いを取り消すぞと脅すためではありません。

イエスさまが8-9節を語られたのは、弟子たちの救いが確かであるということを示して、「だから死を恐れることなく福音を語り続けよう」と励ますためです。

聖霊を冒涜する罪
「人の子を悪く言う者はだれでも赦されます。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されません」(10節)。

人の子、すなわちイエスさまのことを悪く言っても、その人が悔い改めてイエスさまを信じるなら赦されます。また、クリスチャンになった後、迫害を恐れたり人目を気にしたりしてイエスさまのことを悪く言ったり隠したりするようなことがあっても、決して救いが取り消しになることはありません。イエスさまを信じたとき、すでにすべての罪が赦されているからです。

使徒パウロはイエスさまを憎み、教会を迫害した人でした。しかし、彼は後にイエスさまを信じて赦しを受け取り、新しい人生をスタートさせました。

使徒ペテロは「お前もイエスの弟子だろう」と詰め寄られて、恐れのあまり9節のように「あんな奴知らない」と3度も言ってしまいました。しかし、ペテロは赦されました。そして、再び弟子としての働きを再開しています。

人の罪は赦されます。どんな罪も赦されます。例外は「聖霊を冒涜する罪」だけです。聖霊を冒涜するという言葉は、マタイ12:31やマルコ3:29にも登場します。そこを読むと、この言葉の意味は「イエスさまを救い主だと認めないこと」だと分かります。イエスさまを信じないということは神さまによる罪の赦しを受け取らないということです。だから、罪は残り続けます。

しかし、イエス・キリストを信じたなら、すなわち「この自分の罪を赦すためにイエスさまは十字架にかけられた。そして死んで葬られ、3日目に復活なさった」と信じるなら、すべての罪は赦されます。
何を言うか心配するな
「また、人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてよいのです」(11節)。

弟子たちがイエスさまの代理として福音を語り始めると、捕まって権力者たちの前に引き出されて取り調べを受けたり裁判に欠けられたりすることがあるでしょう。しかし、そんなときにどんなふうに弁明しようか、あらかじめ心配しなくていいとイエスさまはおっしゃいました。

それはなぜでしょうか?
聖霊の助け
「言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです』」(12節)。

私たちクリスチャンの内に住んでおられる聖霊なる神さまが、その場その場で必要な言葉、語るべき言葉を教えてくださいます。だから、どんなふうにしゃべろうかと心配しなくてかまわないのです。
これもまた、迫害を恐れないでイエスさまから人類へのメッセージを語り続けなさいという励ましの言葉です。

では、ここから今の私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.人を恐れなくてよい

私たちは人を恐れることがある

パリサイ人たちは他の人たちの目を気にして、本心とは異なる良い姿を人に見せようとしました。それは偽善だとイエスさまは非難なさいました。しかし、逆に人の目を気にして、本心とは異なる悪い姿を人に見せてしまうこともあり得ます。
ペテロのケース
イエスさまが天にお帰りになり、聖霊さまが降って教会が誕生したとき、教会のメンバーはみんなユダヤ人でした。しかし、そこに異邦人が加わるようになると、ある神学的な問題が生じます。異邦人もユダヤ人と同じように、イエスさまの十字架と復活を信じるだけで救われるのか、それとも割礼を受けてユダヤ人のようになる必要もあるのかということです。

というのも、モーセの律法はユダヤ人と異邦人との交流を厳しく戒めていたからです。それは、異邦人の異教的な風習がユダヤ人の信仰に悪影響を及ぼさないようにするためです。異邦人が聖書の神さまを信じ、神殿や会堂で礼拝したり祭りに参加したりするためには、ユダヤ人と同じように割礼を受けてモーセの律法を守った生活をしなければなりませんでした。

しかし、イエスさまが十字架にかけられたときにモーセの律法は役目を終えて廃棄されました(エペソ2:11-22参照)。ですから、今はユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンは自由に交わることができます。

ところが、教会指導者の中には割礼は必要だと主張する人たちがいて、割礼を受けていない異邦人信者と一緒に食事をすることも嫌っていました。使徒ペテロは異邦人クリスチャンと自由に交わり、一緒に食事をしていたのですが、そんな人たちの目を気にしてだんだんと異邦人クリスチャンとの交わりを控えるようになりました。

そこで使徒パウロはペテロのそのような姿勢を非難しました。そして、ペテロの行動のことを「本心を偽った行動」と呼んでいます(ガラテヤ2:13)。それは人目を気にして別の自分を演じることであって、パリサイ人や律法学者たちの偽善と同じです。
人目というプレッシャー
私たちクリスチャンが聖書の教えを実践しようとすると、この世の人たちとは異なるライフスタイルを送ることになります。

たとえば、以前は職場や地域の仲間同士でそこにいない人の悪口を言って鬱憤を晴らしていたとします。しかし、クリスチャンはそんなことをすべきでないと考えて、もう噂話には加わるまいと決めました。ところが、「あなたもそう思うでしょう?」などと仲間から話を振られたらどうでしょうか。

もしかしたら、自分もみんなと話を合わせて悪口を言わなければならないというプレッシャーを感じるかもしれません。みんなと同じように振る舞わないと場を白けさせ、今度は自分がよそで悪く言われてしまうかも知れないと考えるからです。その結果、自分では「これは正しくないのになぁ」と思いながら、良くない行動を取ってしまうかもしれません。

他にも、
  • 職場でみんながやっているちょっとした不正行為を自分だけがやめるのは、かなり勇気が必要なときがあります。
  • 友だちに「自分はクリスチャンになった」と告白すると、何を言われるか分からないと考えて躊躇してしまうことがあります。
  • 家で食前の祈りをささげているように、外のレストランや社員食堂でも祈ってから食べようとすると、他の人の目を気にして祈らないで食べたくなってしまうことがあるかもしれません。
現代の日本に住んでいると、迫害のために命を危険にさらすという場面に遭遇することは非常に稀です。しかし、今申し上げたような些細な場面で、私たちは他の人の目を恐れて不自由な精神状態に陥ってしまったり、実際に「正しいことがしたい」という本心とは異なる行動をしてしまったりすることがあります。

もちろん、礼儀に反することをしたり悪いことをしたりして人から責められるのは自業自得です。しかし、聖書が勧めているような正しいことを行なおうとしたときも、私たちは他の人の目を恐れてしまうことがあるのです。これを実行したら、何かひどいことが起こるのではないかと不安になってしまうからです。

皆さんは最近そんなプレッシャーを感じたことがありましたか? もしも感じることがあるのなら、それは自分が人を恐れているせいだということを自覚しましょう。

神の守りを信じて恐れを手放そう

聖書アプリで「恐れるな」あるいは「恐れてはならない」という言葉を検索してみました。すると、ほとんどの場合その理由について聖書は次のように述べています。「神さまはあなたの味方であり、あなたと共にいてあなたを助けてくれるから」。

人の目を恐れてついつい本心を偽った行動に走りたくなってしまう私たちに対して、イエスさまは「あなたをこよなく愛しておられる神さまが、必ずあなたを守ってくださるから大丈夫だ。だから人を恐れないで神さまが喜ばれる行動をしよう」と励ましてくださっています。
死後の祝福
私たちは「これを実行したらどんなひどいことが起こるだろうか」と心配して躊躇してしまいます。しかし、実際には命まで取られることはありません。仮にキリスト教がご禁制となり、この日本でもクリスチャンだとバレたら死刑という時代がやってきたとしても、私たちの永遠のいのちは誰も取り去ることができません。

たとえ地上では報われず、苦しいことばかり続くような人生であったとしても、死後の人生の幸福は保証されています。むしろ、苦しみを乗り越えてそれでも神さまが喜ばれる行ないをする人のことを、神さまは決して忘れたりなさいません。

そして、復活後に招かれる千年王国で必ず報いを与えてくださいます。千年王国に住めるだけでもたいした祝福なのですが、プラスαのごほうびまでいただけるということです。
聖霊の導き
そして、私たちクリスチャンの新しい生き方に対して、他の人があれこれ批判してきたとしても、私たちの内側に住んでくださっている聖霊さまがどんなふうに受け答えしたらいいか教えてくださいます。

また、聖霊さまは私たちの内面に働きかけて勇気を与え、人への恐れを克服させてくださいます。ですから、私たちは恐れる必要がありません。

この話をお読みください。
A子さんは、不登校のお子さんを抱える主婦です。子育てについてご主人と話し合いたいと思うのですが、ご主人は「話すことなんて何もない。原因はお前だ。お前が甘やかすからだ。だいたい、お前が教会に行くようになって、愛だの受容だの、甘いことを言うようになったから、こんなふうになったんだ。お前が教会に行くのをやめたら、子育てについての話を聞いてやらんでもない」と、とりつく島もありません。

ご主人の「あれしろ」「これしろ」という、まるで人を奴隷のように扱う無茶な要求や、A子さんの人格を全否定するようなひどい侮辱に対して、A子さんは何も言い返しませんでした。聖書で「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)と言われているような、主体的・積極的な無抵抗ではなく、ただ怖かったのです。

友人には、「あなたの恐怖心がお子さんに伝染して、学校でのストレスに立ち向かっていこうとする気力を奪っているのです」と指摘されてしまいました。「大人のあなたが逃げているのに、子どもに逃げるなと言っても、説得力がないでしょう」と。

立ち向かうとは、別にけんかをすることではない。無茶な要求に対して「できません」「やりたくありません」と言う。侮辱し始めたら、「そんな言葉は聞きたくない」と言って席を外す。それだけのこと。

たとえ「お前なんか離婚だ」と脅されたとしても、肉体的暴力はふるわれていなくてもこの状況は立派な(?)DVである。だから、離婚の際はたんまりと慰謝料を取ることができる。そもそも、一人では何もできない夫に、本当に離婚する勇気なんかあるものか。

しかし、そんなふうに言う友人の言葉について頭では理解できていても、A子さんはどうしても恐怖に足がすくんでしまうのです。

A子さんは自問しました。どうして、自分は夫の暴言から自分のことを守ってやれないのだろう。子どものことも守ってやれないのだろう。そして祈りの中で、神さまの知恵を求めました。すると、「見捨てられたくない」という、自分の心の声が聞こえてきました。

ご主人の無茶な要求に従うのも、侮辱されても抗議しないのも、そうやって奴隷のようにかしずくことで、ご主人から見捨てられないようにしていたのだと。あの足がすくむような恐怖は、ご主人の暴力に対する恐怖ではなく、見捨てられるかもしれないということへの恐怖だったのだと。さらに、イエスさまの声が聞こえてきました。「わたしがついているではないか。わたしは決してあなたを見捨てないよ」。

「よし」と、A子さんは腹をくくりました。「離婚されてもいい。まだ教会に通っているけど、子どものことについて話を聞いてもらおう」と決心したのです。そして、ご主人を捕まえて、「最後まで話を聞いて欲しい。いつも『お前のせいだ』と、私一人に責任を押しつけられるけれど、私は一人では子育てできない。協力して子どもに関わって欲しい。だから、話を聞いて欲しいの」と、きっぱりと捨て身で要求したのです。

すると、いつも「お前が悪い」「俺は知らん」と怒鳴って席を立ってしまうご主人が、真剣に最後まで話を聞いてくれました。そして、対話の終わりには、一緒に協力してお子さんに関わっていくことを約束してくれたのでした。

(当サイト「ショートエッセイ」より)

失敗してもやり直そう

そうは言っても、私たちは未完成です。ついつい人を恐れて神さまが喜ばれる行動を取れないことがあったり、むしろ神さまが喜ばれない行動をしてしまったりすることがあります。

ペテロは人を恐れました。そして、3度もイエスさまのことを知らないと言いました。また、一時的に異邦人クリスチャンとの交わりを控えるような行動を取ってしまいました。しかし、イエスさまはそんなペテロのことを見捨てませんでした。鶏の鳴き声やパウロからの指摘によって自分の問題点を示されたペテロは悔い改めました。そして、正しい生き方に戻りました。

私たちも失敗します。しかし、それによって神さまの愛が私たちから取り去られ、救いが取り消しになることは決してありません。悪魔でさえも私や皆さんから永遠のいのちを取り去ることはできないのです。

「ああ、また人を恐れて偽りの行動をしてしまった」。 そのことに気づいたらすぐに悔い改めて再出発しましょう。

今週も、神さまが人に対する恐れを乗り越える勇気を私たちに与えてくださいますように。

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com